八月七日

 

   昨日を過ぎて明けてや今日は秋の雨 不忍

 

 きのふをすぎて  あけてやけふは あきのあめ

♪♪♪♪♪♪♪γ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 暦の上ではもう夏が終つて立秋になつたとは言へ、今日から秋だといはれても心が追ひついて行けない。

 そればかりか夏が置いて行つた暑さは依然として我が身にふりかかつて來る。

 この感じを『殘暑』とはうまく言つたものだとつくづく感心してしまふ。

 

 

八月八日

 

   都會には野分する場もなき風雨かな 不忍

 

 とくわいには  のわき するばもなき ふううかな

C♪  ♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪ ♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ 

 

 夏から秋にかけては颱風の季節であるが、歳時記では秋の季語となつてゐて、古くは『野分(のわき・のわけ)』ともいつて二百十日頃の野の草を吹き分ける強い風を指して趣があつた。

 けれども野原そのものが都會からは消え失せてしまつてゐる。

 この句は「五音・九音・五音」の十九文字であり「五音」は定型の音型であるが、先に示した俳譜以外に、中句のみを「野分」が三音の音型の「γ♪♪♪(八分休符(γ)+八分音符(♪三つ)」で二拍とし、「する場も」までが全て八分音符(♪)の二拍で四拍子と置いて、殘りの「なき(♪♪)」は三小節目に跨つてしまふといふ方法も提示する事が出來る。

 全句の俳譜を示せば、

 

 とくわいには   のわきするばも なき ふううかな

C♪  ♪ ♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪ ♪♪♪♪†┃

 

 といふ事になり、最後の三小節目は本來ならば一小節目と同じ音型になる筈だが、この場合は中句の「なき(♪♪)」が三小節目にはみ出して來たので、四分休符 (ζ)がなくなつてしまつた。四分音符(†)に延長記號を配して置く。

 

 

八月九日

 

   生樣のとてもは遠き西鶴忌 不忍

 

 いきざまは  とてもはとほき さいかくき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃ 

 

 浮世草紙の方が壓倒的に知られてゐる井原西鶴(1642-1693)は、それ以前には宗因の門下で談林風を學び、矢數(やかず)俳諧で一晝夜(いつちうや)に二萬三千五百句を詠んだといふ記録を立てて阿蘭陀流とも稱された。

 遠く及ばぬ人の餘りに多くを知るばかりである。

 

 

八月十日

 

   異國から顏出して揃ふ盆歸り 不忍

 

 いこくから  かほ だして そろふ ぼんがへり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃ 

 

 初めは「東京から顏出して揃ふ家族かな」であつたが季語がない。

 そこで推敲した結果がこれである。

四人姉弟の次男が「二、三日だけだけれど」と言つて三年振りに東京から歸つて來た。

 家族全員が揃ふのは久しぶりの事で、これから後何囘こんな時間が持てるやら……。

 

 この句の中句は八音の字餘りだが、

 

 かほだしてそろふ

 ♪♪♪♪♪♪♪♪

 

 といふ八音の音型ではなく、「出して」の八分音符(♪)が三つで一拍となる三連符(♪♪♪)となる。

 といふのも「揃ふ」の「ふ」に一拍(†)を與(あた)へたいからで、さうする事で餘情を讀み手に傳へる事が出來るからである事はいふまでもない。

 

 それ以外の上五句と下五句は通常の音型となり、全句の俳譜を示せば、

「C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃」

 となる。

 「†」は四分音符の代用で、「ζ」は四分休符の代用であるが、せめて電腦(コンピユウタア)はこれぐらゐの記號は常備しておいて欲しいものである。

 不便な事この上ない。

 

 

八月十一日

 

   秋晴れて雲の都より旅客機が 不忍 

 

 初めは「湧上る雲の都より飛行機が」であつたが無季だつたので推敲した。

 颱風の影響もあつて雨が續いたが、明るく晴れた日が漸く來たので墓參(まゐ)りに出かけた。

 水曜日から盆休みで妻の實家の美作へ行くので、その前に濟ませておかうと思つたからである。

 

 湧上る雲から出し拔けに飛行機が現れたが、まるで雲の中に都があつて、そこの乘客を運んで來るかのやうにふはりと靜止してでもゐるかのやうに緩(ゆつく)りと移動して、やがて伊丹の空港(正式には大阪空港)に向けて消えて行つた。

下五句の「が」で終止したので平句の體(てい)となつてしまつた。

 

 

八月十二日

 

   寄道に混みあふ車や里歸り 不忍

 よりみちに  こみあふくるまや さとがへり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃ 

 

 初めは「寄道に道路混みあふ里歸り」であつたが「道」の重なりが氣になつて推敲した。

 お盆に妻の實家へ歸るやうになつて三十九年にもなるが、その多くは店が終つた朝の五時過ぎに車を走らせてゐたので、盆も正月も車の澁滯とは無縁であつた。

 今囘は寄道があつたので……。

 

 といふのも、以前から立寄らうと思つてゐたマイミクのお菓子屋さんへ、今度こそ行つて見ようと思つたのでゆつくり目の八時に大坂を出たのが間違ひで、到著したのが十二時前といふ事で、なんとそれよりも遠い美作への所要時間の倍になる四時間もかかつてしまつた。

 けれどもモオニングの旨さで報はれた。

 

 この句は中句が八音の字餘りで「寄道に混みあふ車里歸り」とすれば字餘りにならずに濟んだのだが、「車里」とすると讀み辛く餘情もないので「や」といふ切字を配したのである。この八音は「車」を一拍とする三連符(♪♪♪)の「♪♪♪♪ ♪♪♪ †」といふ音型も考へられて、それは間違ひとは言へないだらう。

 

 けれども「混みあふ車や」といふ八音は、單純に、

 「♪♪♪♪♪♪♪♪」

 としても問題は解決されてゐて、この方が自然で良いだらう。

 俳譜の全句を示せば、

「C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃」

となり、「†」は四分音符の代用。「ζ」は四分休符 の代用である。

 

 

八月十三日

 

   堰き切つた聲もほどなき殘り蝉 不忍 

 

 山々に圍まれた田園風景の廣がる妻の實家の美作で恒例のお盆を過ごしてゐると何處かから蝉の聲が聞えた。

 季節外れだから全山蟬の聲といふのではなく孤獨に堪へ兼ねたやうに單獨で鳴いてゐる。

 いふまでもなく『殘り蝉』は筆者の造語である。せみは正字を使ひたい。

 

 

八月十四日

 

   曾孫まで傳へたきもの花火かな 不忍 

 

 妻の實家で兄夫婦の子供や孫、筆者の子供の孫まで集まつて、夕食後に都會では考へも及ばないやうな前庭で花火を樂しんだ。

 それぞれの孫が遊ぶ姿を曾孫(ひまご)として見つめる妻の母親のお婆ちゃんがゐて、さう言へば筆者も子供の頃にさうやつて遊んだ事を思ひ出した。

 

 

八月十五日

 

   雨に寢て起きれば秋の雨の中 不忍 

 

 各地域は盆踊りの時期だといふのに雨で中止が續いてゐる。

朝方は曇つてゐただけだつたのに午後になつたら雨が降り出した。

 近くの小學校の盆踊りは開催されるのだらうかと確認に行くと順延だといふ。

 明日も雨だといふのに大丈夫だらうかと心配になる。

 

 

八月十六日

 

   輪になつて踊り終へれば蟲の聲 不忍 

 

 前日の雨で順延になつた盆踊りが今日の晴天で開催され、無事撮影も終了した。

別の學校(がくかう)では昨日の雨にも負けずに体育館で開催してゐたので、日曜日に行く約束だつたが入替へて撮影する事にして、どちらも顏を立てて依頼された撮影をする事が出來た。

 

 

八月十七日

 

   川の面に雲を流すや秋の風 不忍 

 

今日は天竺川添ひにある墓へ出かけたが、まだまだ暑さは殘つてゐるものの、空の澄み方や雲の形、川縁(かはべり)から吹く風などに秋の氣配が確實に宿つてゐるのを感じる。

數箇月に及ぶ護岸工事も終つて水の濁りも消え、清々しい氣持で堤を歩いて行つた。

 

 

八月十八日

 

影を蹈むしんと光は秋の中 不忍 

 

今日も今日とて庄内の驛に向つて天竺川の坂を上つて堤を歩けば、煌(きらめ)く陽射しは暑さを教へはするが、己が影に我が身を背負はせて坂道を行くと、額にうつすらと汗はかくものの、光の降り注ぎ方に夏のぎらぎらしたものはもう認められなかつた。

 

 

八月十九日

 

   濁世とや見えぬもの見る秋の風 不忍 

 

『濁世(ぢよくせ)』とは讀んで字の如く「濁り穢(けが)れた世」といふ意味で、別に『末世』ともいふ佛教用語であるが、道義の廢(すた)れた時代、『澆季(げうき)』とも『季世(きせい)』ともいふ。

實體(じつたい) の見えない秋でさへ感じ取れるのだから況して浮世だつて……。

 

この句、能(よ)く讀んでみると、藤原敏行(ふぢはらのとしゆき・?-907)の

「秋來ぬと目にはさやかに見えねどもかぜのおとにぞおどろかれぬる」

といふ歌の『本歌取』になつてゐる事に氣がついた。

思ひもかけぬことであつたが、それだけ心に殘る和歌であるといふ事なのであらう。

 

 

八月二十日

 

   甲子とはいふらん今日の秋の夜 不忍 

 

この句の中句の「今日」は「けふ」と表記したかつたが、讀み難(にく)いので諦めた。高島易斷によれば今日は「甲子(かふし)の日」で甲が木性、子が水性で相生(水生木)の關係にあり、干支の組合せの一番目である事から「甲子の日」は吉日とされてゐる。

 

「甲子」は「きのえね」とも言ひ、「子(ね)」を鼠と結びつけて大黒天の使者と看做(みな)して、甲子祭(大黒天祭)が行はれ、この日は甲子待(かふしまち)と言つて子の刻(二十三時頃)まで起きて、「大豆・黒豆・二股大根」を供へて大黒天を祀る習はしがあるといふ事が調べて始めて知つた。

 

抑々(そもそも)甲子(きのえね・かふし)は干支の組合せの一番目に當り、この前が癸亥(みづのとゐ)で次は乙丑(きのとうし)である。

辛酉(かのととり)の年が王朝交代の年で、その四年後の「甲子」の年に徳を備えた人に天命が下される「革令」の年、則(すなは)ち「甲子革令」といつて變亂の多い年とされる。

 

三國志で有名な一八四年の中國後漢の末期に起つた「黄巾の亂」の切掛けを作つた太平道の教祖である張角(?-184)が、

「蒼天已に死す。黄天當(まさ)に立つべし。歳は甲子に有り。天下大吉ならん」

といふ文章を標語(スロオガン)として、この中の「甲子」の字を洛陽の城門や州郡の役所に書いて造反を訴へた。

 

平安時代以降、日本ではこの年によく改元が行はれたのはその造叛を防ぐ目的で、例へば天武系の王統が斷絶した後に即位した天智系の光仁天皇から桓武天皇が大友皇子を殺害して皇位を繼承したが、王統交代を強く意識して長岡京に遷都したとも言はれてゐる。

明治になつて一世一元を基本として在位中の改元が廢止された。

 

また、新撰組から分派して粛清された伊東大藏は元治元年(1864)の甲子の年に肖(あやか)つて伊東甲子太郎(かしたろう・きねたろう)と改名したし、大正十三年(1924年)にその年の干支から兵庫懸西宮市に作られた野球場を「甲子園(かふしゑん)大運動場(現阪神甲子園球場)」と命名されたのは有名である。

 

 

八月二十一日

 

   ぬけがらの元はいづこや道の蝉 不忍 

 

病院に出かけようと店の裏口から外に出ると、下水の溝の根際(ねき)に蟬の屍骸(しがい)が仰向けに横たはつてゐた。暦の上では夏も終り、いつの間にか蟬の聲も聞かれなくなつたが、まだ暑さも殘る路上にその姿を見て、黯然とした我が身の行くすゑを慮(おもんぱか)つた。

 

 

八月二十二日

 

   群れもせぬとんぼ來りて羽休め 不忍 

 

中央環状線の濱交叉點の手前を横道にそれると老人施設があつて、その前に田圃が廣がつてゐる。

店に行く時はいつも喧騷な表通りを避けて、長閑な氣分を味はつてゐる。

「群れもせぬ」は群れる事が出來ない時世なのかも知れない。

敢て「蜻蛉」とは表記しなかつた。

 

 

八月二十三日

 

   降つて止むけふ秋口の雨模様 不忍 

 

薄暗い朝に店を閉めると今日は降るんだらうなと思つたが、それから眠つて十時頃に目を覺ますと雨が降つてゐた。

この儀式のやうな雨を見て、あゝかうやつて秋を迎へるんだなといふ感を強くした。今日は一日中降つたり止んだりを繰返して終へた。

 

 

八月二十四日

 

   氣紛れな天とつきあふや秋出水 不忍 

 

この所の天候のぐずり具合がひどくて、斷續的な雨による出水やそれが原因による土石流などの土砂災害が頻發してゐる。

『秋出水』とは集中豪雨や颱風の爲の洪水などを指すが、『出水』といへば梅雨時期の豪雨による洪水の事で夏の季語となる。

多くの犠牲者に心が悼む。

 

 

八月二十六日

 

   浮世草秋に頼らん己巳 不忍 

 

初め上句を『浮草の若しくは根無し草』と置き「何かと頼る己巳(つちのとみ)」と詠んだのだが、これらは春の季語なので諦め、また無季を回避する爲に秋とした。

筆者は宗教には與(くみ)しないが、寄邊なき身の不安に思はず頼るものを求め、神佛に縋つたりするのは諒解出來る。

 

勿論「浮世草」は筆者の造語で、かういふ表現は獨り善(よ)がりになつて餘り感心出來ないのだが止むを得なかつた。

高島易斷の暦によれば八月二十六日は己巳(つちのとみ・きし)の日で、これは干支(えと)の一つで干支は『兄(え)弟(と)』の意であるが、その汲み合せの六番目に當り、辯才天(べんざいてん)の縁日である。

 

辯才天は七福神中で唯一の女性であり、琵琶を彈く妖艷な姿が有名である。

別に辯財天とも表記されたりする所から「福徳・諸芸能上達」の神として信仰されてゐる。その元を辿れば印度(ヒンドウ)教の水の神サラスヴアテイは梵天(プラフマア)の妻(娘とも)とされてゐ、辯舌の神(ヴアチ)と同一視され豊穣と辯舌を司るやうになつたといふ。

 

神道では市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と同一視され、佛教では観世音菩薩の化身だとも考へられてゐる辯才天は、先にも述べたやうに「辯舌・學門・音樂(水の流れる音からの聯想)」の神であるが、日本では中世になり財と福の神としての性格が加はり、才を財と置き換へて「辯財天」と表記するやうになつた。

 

日本の辯才天信仰は奈良時代からといふが、單體で祀られるようになつたのは中世からの事で、諸外国の神が混淆(こんかう)した七福神の一神として數へる場合は、財と福を齎(もたら)す女神として扱はれてゐる。

因みに、後の六人は「惠比壽(日本)・布袋・福祿壽(中國)・壽老人・大黒天・毘沙門天(印度)」である。

 

 

八月二十七日

 

   あれほどの暑さもやがて夜は秋 不忍 

 

日中はまだまだ空の色や雲の流れぐらゐしか秋の氣配を感じられないけれども、今日は夜になつてなんだか風などに過ごし易さを手に入れたやうな氣になつた。

木曜日は休日だけれども義母の手術で梅田の病院に行かなければならないので、家に自轉車を取に行つた。

 

 

八月二十八日

 

   窓に落ちて張りついたのは秋や雨 不忍 

 

初めは「しとしとと窓にはりつける雨や秋」と詠み、次に「雨窓に張りつける秋しとしとと」と推敲したがなほ納得出來なかつた。

といふのも自轉車を諦めて車で病院へ行く破目にした雨が、まるで秋を張りつかせるやうにしとしとと降つてゐたと言ひたかつたからである。

 

 

八月二十九日

 

   頬にぽつり追ひ立てられて宿る秋 不忍 

 

昨日の木曜日が店の定休日だつたので、金曜日は夕方まで自宅で盆踊りのビデオン編輯に明け暮れてゐた。

ふたつの場所を撮影したので一日二日では完成出來ない。

これで五件の盆踊りの編輯を手掛けた事になる。

完成を目前に店に行く途中に雨が降り出したので雨宿り。

 

 

八月三十日

 

   星空や人影絶えて秋の聲 不忍 

 

初案は「人影が途絶えて夜空に秋の聲」であつたが改めた。深夜になつて人通りが途絶えると、こんな都會の幹線道路の輔道(ほだう)脇の草むらにも夜空の大氣を震はすやうに蟲が鳴いてゐる。

古代より人類の時間から彼等の時間へと移行する瞬間は少なくなつたとは言へ……。

 

 

八月三十一日

 

   世に何をやり忘れたか殘り蝉 不忍 

 

日曜日にソフトボオルの試合の撮影を依頼されて出かけたが、試合は午前と午後の二囘とも負けて、特に二囘戰は大差であつた。

試合場所の第七中學校の運動場の校舎の中庭に季節外れの蝉がいきなり鳴きだした。

何をやり殘したのか解らないが決してそれを未練といふ勿(なか)れ。

 

 

九月一日

 

   病院に見舞ひのたびに秋の雨 不忍 

 

初案は「病院に見舞ひの空は秋の雨」であつたが、病院に見舞ひの度に雨が降つてゐる。

我等が夫婦は雨男や雨女といふ譯でもないのに逆にこちらが雨に見舞はれてゐる。

秋の雨は「秋雨・秋霖・秋黴雨(あきついり)・秋時雨」などといふ季語があつて、それぞれ調べると面白い。

 

 

九月二日

 

   しみじみと人絶えて吐息や夜半の秋 不忍 

 

今日は夜の十二時過ぎまで店が賑はつてゐたが、そのお客樣達が退けるとパタリと客足が途絶え、みゆきちやんも休憩に入つて獨りぽつねんと客席の一角に身を置いて、パソコンで映像の編輯(へんしふ)とDVDの作成に取掛る。

勿論この句作もさうである。

 

この句の中句の「絶えて」と「吐息」は三連符(♪♪♪)で、それは四分音符(†)と同價なのだが、符号がないので短劍符で代用してゐて、その理由は出來得る限り「や」といふ切字に四分音符を與(あた)へたいからである。

俳譜を示さう。

「C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ †┃♪♪♪♪†ζ┃」

 

 

九月三日

 

   堤防に陽射しも白き秋の色 不忍 

 

『秋の色』とは「秋色・秋光・秋望」とも言ひ、「秋景色則ち秋の風色の事である」と辭書(じしよ)にはあり、和歌では紅葉や黄葉等の具體的な色を心象(イメエヂ)してゐたが、俳諧では終章的で「秋色」も和歌では月光、俳諧では秋の陽の明るさの風光を愛でた季語となつてゐる。

 

 

九月四日

 

   リハビリの應援に行く日照雨 不忍 

 

今日も今日とて入院中の義母を見舞ふとリハビリをしてゐた。

筆者の四番目に當る義母は小學校の時にリウマチが發症し、手足の指が曲がるといふ不自由をかかへたまま七十八歳まで暮してきた。

それが手術で左足を直し、今度は右足である。またも雨だが今日は晴れてゐる。

 

殘夢 その六(op.30) 

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   リハビリの應援や秋の日照雨 不忍 

 

大きな顏をしてしらばつくれてゐましたが、先の句は無季でしたので改めます。

 

 

九月五日

 

   胸に重き足取秋の曇り空 不忍 

 

今朝方、昨日に續いてすごい量の雨が降つたので、今日一日は雨かなと思つたら何とか持直したものの、それでも秋の爽やかさは何處にもなく、むしむしと汗ばむやうな暑さが身を包んでどんよりとした空が廣がつてゐた。

夕方になつて西の空から光が射して救はれたやうな氣がした。

 

 

九月六日

 

   この雨が二日の後の月の爲 不忍 

 

天候は今日も捗々(はかばか)しくはなく、それでも雨は路面を濕(しめ)らせる程度で、當然(たうぜん)の如く空に月は見えなかつた。

今年は八月八日が十五夜であるが、この調子だと『雨月』か『無月』といふことにもなり兼ねないので、せめてこの雨がその豫防線にでもなればと思ふ。

 

 

九月七日

 

   孫の手が月に差出せば叢雲に 不忍 

 

兔角この世は「好事魔多し」といふが、それと同じ意味で「月に叢雲(むらくも)花に風」ともいふ。

今日は夕食に息子夫婦と孫が來て、旺盛な食慾を見せてゐたが、歸り際に東の空に綺麗な月があつた。

孫がそれを見つけて手を差伸べると雲にかかつて消えて行かうとした。

 

 

九月八日

 

   名月や社の森を白くして 不忍 

 

初案は「白き月の社の森の白さかな」であつた。

今日は仲秋の名月則ち十五夜で、別に芋名月ともいふ。

店のすぐ側に長島住吉神社がある。

その一角は今でも鎭守の森を保つてゐる。

月は自ら光を放つてはゐない。

それが森を白く照らしてゐる、まるで守りでもするかのやうに……。

 

レスピイギ 『リュウトの爲の古風な舞曲とアリア』から「Italiana」

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「社」は「やしろ」と讀んで下さい。

 

 

九月九日

 

   いさよふて見えつ隱れつ雲の月 不忍 

 

今日は十六夜の月で晝間(ひるま)は同じやうにはれてゐたのだが、夜は昨日ほどではなく雲が多くて、月が見え隱れして殘念な觀月となつた。

中世以降は「いざよふ」となつた「いさよふ」は出ようとして若しくは沒しようとして躊躇(ためら)ふといふ意味である。

 

 

九月十日

 

   たちまちに闇に雷雨や月いづこ 不忍 

 

今日は陰暦の八月十七日でこの日の月を『立待月』といふが、天候は到頭(たうとう)雷雨となつて稻光さへ闇を切り裂いた。

剰(あまつさ)へ池田では短時間大雨注意報が發令され、息子夫婦と孫がゐるので心配したが、電話で大丈夫の事と聯絡があつた。

全國を大雨が襲ふ。

 

 

九月十一日

 

   いつのまにやゝ缺けながら居待月 

 

陰暦の十八日は『居待月』といふが、昨日の『立待月』に比して坐つて待つてゐる内に月が昇る事から呼ばれたものである。

枕詞としては「あかし(明かし・明石)」にかかるといふが、差詰め、

「ゐまちづき明石にあらね膝抱へ 不忍」

とでもいふところであらうか。

 

 

九月十二日

 

   うとうととここぞとばかり寢待月 不忍 

 

月の出の順に『立待月・居待月』と來て、時刻が遅くなつて寢て待つので『寢待月』といふ陰暦十九日の月の事であるが、店の二階で夜の休憩をとつてゐたら轉寝をしてしまつて、内線で忙しいからと呼び出されてので飛び起きると窓から月が見えた。

慌てて店に降りた。

 

 

九月十三日

 

   更待の月見一人りや缺け茶碗 不忍 

 

夜中に客が退(ひ)けて一緒に表へ見送りに出ると、月が氣持良く病院のビルの棟の上にかかつてゐた。

片附けて洗ひ物をしてゐたら、滿月を過ぎた今日の月のやうに缺けてしまつた。

『更待月』とは陰暦の寢待月の翌夜の二十日の月の事を指し、單に『ふけまち』ともいふ。

 

 

九月十四日

 

   誰も見ぬもはや衛星としての月 不忍 

 

觀月の會(ゑ)も終つてはや何々の月と言はれなくなると、もはや興味は外に移つてしまふのか、誰もそれについて語る事はなくなるやうだ。

忘れるといふ事で人は生きて行けるのだが、歴史に名を留めた人々の背後には、忘れ去られた人々の墓標さへ殘つてはゐない。

 

この句の中句は八音の字餘りで、「もはや」が三音だから八分休符(γ)と八分音符(♪)の三つ、それと「衛」が八分音符(♪)二つ、さらに「星と」が三連符(♪♪♪)で四拍となる。

俳譜を示せば、

「C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃」

となる。

「†(四分音符)・ζ(四分休符)」の代用。

 

 

九月十五日

 

   けふの日に敬はれるものもなき秋の風 不忍 

 

莫差特(モオツアルト・1756-1791)のやうに早逝すると決めつけてゐて、結婚さへ出來ないものと考へてゐた。

それが馬齡を重ねて祝はれる日が來るとは筆者自身思つてもみなかつた。

今日は敬老の日で祝日法で昭和二十三年の第二條によつてゐる。

 

この句の中句は十一音もあつて字餘りとしても例の少ない長さで、「ものも」だけを三連符(♪♪♪)にすると三小節目に「なき(♪♪)」が侵入して來て、四分休符(ζ)を排除して仕舞ふ事になり、「風」の「ぜ」の四分音符(†)に延長記號(フエルマアタ)をつける事で補はなければならなくなる。

 

俳譜を示せば、

「C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪ ♪♪♪♪†┃」

このやうになるが、「敬はれるものも」までの九音を三連符(♪♪♪)で詠めば、三拍となり、「なき(♪♪)」の一拍とで四拍子となる。

「C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃」

これがその俳譜である。

 

九、「中句十一音」以上の『字餘り』に就いて『發句拍子論』より

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九月十六日

 

   身を隱すものなきや月は下弦かな 不忍 

 

高島易斷によれば今日は『下弦』とあり、太陰暦では下旬に現れる月の事で、新月から次の新月までに弦月は二囘あり、一つ目を「上弦の月」、二つ目を「下弦の月」と言ふ。恥多き我が身は隱して置きたいものばかりであるが、愚かにも「頭隱して尻隠さず」である。

 

因みに、上弦と下弦を比較すると上弦の方が僅かに明るいさうであるが、この句の中句は八音の字餘りで、「♪♪♪♪♪♪♪♪」とする方法もあるが、「や」か「は」に餘情を入れたいので、それも切字の「や」にそれをするのが常套だが、この場合は下五句への配慮から「は」にそれをしたいと思ふ。

 

その爲には「ものや」を三連符(♪♪♪)にする事で、このやうに「♪♪ ♪♪♪ ♪♪†」となり、「は」に四分音符(†)を與(あた)へる事が出來る。

その全句の俳譜を示せば「C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃」となる。

 

六、「中句八音」の『字餘り』に就いて 第六章『字餘り』の『拍子』に就いて

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九月十七日

 

   白なれど清楚爽やか百日紅 不忍 

 

初案は「白なれど清楚保つや百日紅」で「白なれど涼も新たや百日紅」となつてかういふ句姿となつた。

百日紅(さるすべり)はその名の如く幹の皮が滑らかで猿も手を燒くといふ意味で「さるなめり」ともいふが、花の時期が長いので「ひゃくじつこう」とも言はれてゐる。

 

また花の色としては「桃・紅・紅紫・白」などがあり、「桃・紅紫」は措くとして「紅」は百日紅で問題はなくても、「白」はどうなのかと言へば「白さるすべり」とか「百日白(ひやくじつはく)」といふ言葉があるのだが、ここではさういつてしまへば興醒めで、折角の仕掛けも臺(だい)無しになること請合ひである。

 

調べると、別に「猿辷り」といふ言葉があつて、これは「邊の第二線から第一線へ桂馬に辷り込んで相手の地を減らす事」といふ圍碁(ゐご)の用語であるが、桂馬とは「一つ石から一間(小桂馬)または二間(大桂馬)隔てて斜めにずらして石を打つ事」で、斜めに飛ぶといふ類似はあるが將棋のそれとは關係はない。

 

 

九月十八日

 

   寢轉べば海にただよふや秋の雲 不忍 

 

初案は「寢轉べば空の海行く秋の雲」であつたが、すらすらと流れてしまふのが氣になつたので推敲した。

今日は店が休みだつたので繼母の病院へ見舞ひに行つた。

その後で家族で映畫(えいぐわ)を觀てから一日の行事は終つた。

箕面の空の雲が何とも言へず美しかつた。

 

 

九月十九日

 

   灰色の空降りてくる秋の暮 不忍 

 

今日一日は秋らしい空を見る事もなく、どんよりとした灰色に覆(おほ)はれた大氣につつまれて身體(からだ)の芯まで染まつてしまひ、その水底に心まで沈んでゐるやうな重い氣分であつた。

さうしてそれが天候以外に大きな理由のない事も憂鬱にさせてしまふのである。

 

 

九月二〇日

 

   曇り空の重さを他所に曼珠沙華 不忍 

 

初案は「曇り空を輕く受けるか曼珠沙華」であつたが改めた。

昨日に續いて曇り空の天候である。

店の裏通りに黄色に赤い色が斑(まだら)になつた曼珠沙華が二輪だけ咲いてゐて思はず立止つた。

彼岸花・死人花・天蓋花・幽靈花・捨子花・狐花と別名の多い花である。

 

 

九月二十一日

 

   刷いたやうな雲みづうみに浮ぶ秋 不忍 

 

初案は「刷(は)いたやうな雲いくつある秋の空」で、この儘だと「それがどうした」といふ程度の出來でしかなく、それではと「刷いたやうな雲湖に浮びけり」とするも季語がない。

かくて「取合せ」の末に季語を配して句が確定する事となつたのである。

 

 

九月二十二日

 

   陽射し強く白帝いづこ雲の影 不忍 

 

『白帝』とは西方の神の事で五行説の白を西則ち秋に宛(あ)てる處からいふ言葉であるが、別に「白秋・素秋・三秋・九秋・金秋」ともいふと辭書(じしよ)にある。

今日は弟が滋賀から入院してゐる繼母(はは)を見舞ひに來たので同行したが、汗ばむほど暑かつた。

 

この句の上句は六音の字餘りで、「陽射し」を三連符(♪♪♪)=四分音符(†)と、「強」を八分音符(♪)二つの四分音符(†)と、「く」に四分音符(†)を與(あた)へてから四分休符 (ζ)を配して、全句を例の俳譜で示せば、

「C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃」

となる。「†・ζ」は代用です。

 

 

九月二十三日

 

   體感は秋を分けると言はれても 不忍 

 

秋分(しうぶん)とは舊暦(きうれき)の八月にあり、二十四節氣の第十六で晝(ひる)と夜の長さが等しくなると言はれるが、定氣法で太陽が秋分點(てん)を通過した瞬間の太陽黄經が百八十度となつた時で、天文學ではその瞬間とし、それが起る日を秋分日と呼ぶ。

 

この秋分は「晝と夜の長さが同じ」になるといはれるが、實際は晝の方が若干長い

さうである。

また「秋分の日」は國民の祝日の一つで一九四八年(昭和二十三年)に公布・施行・制定されたが、元は一八七八年(明治十一年)の『 秋季皇靈祭』から續いたものである。

 

さうしてこの日は雜節の一つである「彼岸の中日」でもあり、この七日間に行ふ佛事を彼岸會(ひがんゑ)といふが、これは浄土思想が色濃く感ぜられる。

また單に彼岸と言へば發句では春の季語となり、秋は「秋彼岸」といふ。

因みに、西洋占星術では、秋分を天秤坐の始まりだとあつた。

 

 

九月二十四日

 

   傘を杖手に訪ね巡るや秋の花 不忍 

 

初案は「傘を手に出かけて秋の花巡り」であつた。

花といへば春の季語で華やかな感があるが、秋の花も風情があつて良いものである。

ただ秋の花といふと「菊」の異稱(いしよう)でもあるから注意が必要で、句意から類推して讀取つて鑑賞しなければならない。

人は自身の何たるかを探し求める旅を、花を訪ね巡るやうに生涯し續けるのであらう。

 

 

九月二十五日

 

   人は寢ても星空のもと蟲は鳴く 不忍 

 

木曜日は店が休みなので朝から妻の實家の美作へ出かけた。

中國縱貫の作東で降りて十五分ぐらゐの山奧にあるので大坂からおよそ二時間ほどのドライブである。

夜の七時頃に歸路に著いたのだが田舎の夜は早くも寢る準備。

それでも空の下、蟲は命を謳歌するやうに鳴く。

 

 

九月二十六日

 

   通院の列に臍噛む秋の暮 不忍 

 

初めに「行列の中で臍噛む通院の」と短歌の上句のやうな形になつてしまつたので推敲した。

休日に妻の實家の美作へ歸省したのだが、一箇月ごとにもらふ藥が二日ほど前に切れてしまつて、金曜日になつて病院に行くと行列が出來てゐた。

診察は五分もないもに待つのは長い。

 

 

九月二十七日

 

   道端の猫にはぐれし狗尾草 不忍 

 

『狗尾草』とは「ゑのこぐさ・ゑのころぐさ」と讀み、一般には「猫じやらし」として知られてゐるので、初案は「道端の猫にはぐれし猫じやらし」であつたが、「猫」の二重(ダブ)るのが氣になつたので改めた。

人は時宜に適はなければ、友なく連合ひなく生業も虚しきもの歟(か)。

 

 

九月二十八日

 

   山吼えて愛でるつもりの木染月 不忍 

 

『木染月(濃染月・こそめづき)』とは陰暦の八月の異稱(いしよう)で、樹木の紅葉する月といふ意味であるが、御嶽山の噴火で三十二人もの方が重傷で意識不明も多數であるとの事。

自然の猛威の前では風流も何もあつたものではないが、人事を扱ふと宜しくはないといふ一句。

 

何故良くないかといふと人事は古びるからで、このやうな災害や事件はその時代やその瞬間にその場にゐたとか、同じ空氣を吸つてゐたといふ當事者の意識が句を味はふ上でかかせない要件となる事が多いからである。

言ふまでもなく、芭蕉の句だとて同じ時代に生きてゐた方がもつとよく理解出來た筈である。

 

もつと言へば、芭蕉と生活を共にした方が、その句をより理解出來たであらう事は容易に納得されるであらう。

それが適は無いであらう事は充分に承知してしてゐるからこそ、短詩形には普遍性といふものが必要となるのである。

人事はその意味合ひが薄くなるので、どちらかと言へば「川柳」の領域である。

 

 

九月二十九日

 

   繼母の部屋へ見舞ふつもりが貰ふ梨 不忍 

 

初案は「行くごとに見舞ふつもりで勵(はげ)まされ」であつたが、あまりに抽象的な言葉ばかりなので改めた。

本當は毎日でも見舞ひに行きたいのだが、朝の五時まで營業してゐるので晝(ひる)は睡眠をとらなければならず、それでも三日に一度は行くが元氣をもらふやうな氣がする。

 

 

九月三十日

 

   いつの間に陽の落ちかかる秋の色 不忍 

 

秋の夕暮は釣瓶落しと言はれるが、本當(ほんたう)にいつの間にこんなに早く日が暮れるのかといふほど暗くなつてしまふ。

我が身に振返れば己が齡(よはひ)もこんな風に暮かかつてゐる事に唖然としてしまふ。

光陰矢の如しといふが、年々、いや日々その思ひが強くなる。

 

 

十月一日

 

   今朝からは旅の初めや神無月 不忍 

 

こんにちでは新暦の十月の異稱(いしよう)として用ゐられてゐるが、嘗ては陰暦の十月の事で新暦との差は一箇月弱あつて、季感としても違ひがあるばかりでなく、抑々「神無月」は冬の季語なのである。

この日、各地域の神々が出雲大社に集まり、この地方だけ「神有月」といふ。

 

 

十月二日

 

   渇愛をしめらすほどや秋の雨 不忍 

 

人は渇すると水を欲しがるやうに五欲に愛著する。五欲とは「財・色・飲食・名譽・睡眠」に對し「眼・耳・鼻・舌・身」の五境(色・聲・香・味・觸)といふ五官の感覺的欲望も意味する。繼母の見舞ひに行きながら人はまだ生きられると病院へ通ふのだらうと考へる。

渇愛をしめらすほどや秋の雨 不忍 『渇愛』とは佛教用語で渇すると水を欲しがるやうに人が五欲に愛著する事を言ひ、「財・色・飲食・名譽・睡眠」に對し「眼・耳・鼻・舌・身」の五境(色・聲・香・味・觸)といふ五官の感覺的欲望も意味する。

小雨降る中を繼母の見舞ひに行きながら、人はまだ生きられると病院へ通ふのだらうかと考へる。

 

 

十月三日

 

   ひがさして道さし示す母よ秋 不忍 

 

初めは「ひがさして道行く人の後ろ」とか「子を連れて」と中句を弄(いぢ)り、「ひがさして道さし示す母の指」と置くも秋の季語を提示出來てゐず、斯(か)くは推敲した。

陽が射した輔道(ほだう)を母親が子供に彼方を指差して道を教へてゐる姿が目に止つた。

 

それは迷子にならないやうにといふのも勿論だが、人としての根源的なある可き姿を見失はないやうにといふ親心でもあらうか。

しかし、この抹香臭い説教染みた句も「陽が射して」と「日傘して」といふ掛詞(かけことば)の技巧だけが目立つただけといふものでしかない。

 

糅(か)てて加へて、唐突に「秋」と體言で止めなければならなかつたのは季語がなかつたからではなく、「日傘」が夏の季語だからで、この句が夏に詠まれれば問題はなかつたのだが、生憎いまは秋である。

さうして天氣の良い日にだからか、日傘を差した母親が子供を守りでもするかのやうに歩いてゐたのである。

 

この「日傘」といふ季語であるが、「蝉」だとか「螢」などに比べて季節を氣にせずに度外視して使ふ事が可能で、それは「日傘」ばかりではなく秋の季語である「爽やか」などもさうで、このやうな季感の搖れがあつたり、結社によつても差があるといふから、季語を決定するに當つては吟味が必要ではなからうか。

 

 

十月四日

 

   空もうつろに見るものもなき長き夜 不忍 

 

初めは下五句を「夜長かな」とおいたが却下した。

十八號の颱風が近づいてゐる所爲(せゐ)か、いつもに増して深夜の人や車の通りが疎(まば)らである。

「運動遊技(スポオツ)の秋」とか「讀書の秋」とか「天高く馬肥ゆる秋」といふけれども、筆者には物思ひの秋である。

 

 

十月五日

 

   一陣の風が來たりて秋の雨 不忍 

 

事が起きる時は何か前兆といふか豫兆があるものである。

天気豫報の颱風などは人工衛星によつてその位置や風速なども可成(かなり)正確に知る事で對應(たいおう)出來るやうになつたが、人の未來はさう一筋縄では行かない。

當るも八卦で實(まこと)に足元が覺束ない事この上ない。

 

 

十月六日

 

   吹飛ばす風を氣にせぬ秋の雲 不忍 

 

初めは「吹飛ばす風が殘りて秋の空」から「吹飛ばす風追ひつけぬ秋の雲」と風に飛ばされる秋の雲のやうに心定まらずに逢著した結果である。

繼母の入院してゐる病院へ見舞ひに行つた時の情景で、昨日の颱風が通り過ぎた後の空が、まだ荒れ模様だが美しかつた。 

 

   東に月を遊ばす日暮れ前 不忍 

 

初案は「日も暮れず月を遊ばす東(ひむがし)に」と詠むも、これでは短歌の上句の體(てい)で、下句として「殘る雲間に青空を見る」とでも續けなければ納まりがつかなくなつてしまふので改めた。

夕方といつてもまだ三時ぐらゐの明るさで、白い月が場違ひな感じであつた。

 

   見逃したその救ひとや後の月 不忍 

 

初案は「とり逃してもやり直したやうな後の月」であつたが、何だかもたもたしてゐるので止めた。

今日は舊暦(きうれき)の九月十三日で十五夜を中秋の名月と呼ぶのに對して、十三夜は「後の月(のちのつき)」と云ひ、別に「豆名月・栗名月」ともふと辭書(じしよ)にある。

 

「十三夜」は「十五夜」についで美しい月で、古くから宮中で宴を催して月を觀賞する風習があつたといふ。

月見の十五夜は中國から傳はつたが、十三夜は日本固有の風習だといふ。

一般に十五夜に月見をしたら同じ場所で十三夜にも月見をし、十五夜だけだと「片月見」と言つて忌み嫌はれてゐるといふ。

 

 

九月七日

 

   何がなしこころ騷がす夕月夜 不忍 

 

初案は「急かされて忘れ物したやうな夕月夜」と心定まらず、更に「忘れ物心騷がすや夕月夜」から決定句となつた。

夕月夜とは「ゆふづきよ・ゆふづくよ」と讀み、月が出てゐる夕暮れの事を指すが、その頃は明方が闇となるので暁闇(あかときやみ)にかかる枕詞ともある。

 

 

十月八日

 

   紅葉の時期は外れて伊吹山 不忍 

 

我妻の幸ちやんが「ベルウナ」の會員の『伊吹山』への旅行無料招待券が當(あた)り、同伴者は七千九百圓で隨行出來るとの事で、早速妻と筆者と長女の三人で、それも水曜日だつたので木曜日の休日を振替へにして出かけた。

紅葉を愛でる旅だといふのに二週間は早かつた。

 

初案は「紅葉の狩り不調なり伊吹山」と詠んだが、次に「整はぬ紅葉や琵琶湖見下ろす伊吹山」と字餘りとなり、結局無難な所へと落著いた。

 

 

   鹿も鳴け琵琶湖に山の紅葉なく 不忍 

 

初めは「紅葉いづこ琵琶湖に映せと鹿の鳴く」であつたが、この句はいづれも架空の句で鹿などは何處にも存在せず、從つて鳴き聲を聞く事など叶う可くもなかつた。

ただ、紅葉を見たいと願ふ氣持が強く、それが筆者の中で鹿さへも鳴く事となつたのである。

 

 紅葉なき山より高き山櫻 031

   紅葉なき山より高き秋櫻 不忍 

 

初案は「山の色をおさへて搖れる秋櫻(あきざくら)」であつた。

抑へ氣味の句よりも「たけ高き」を以(もつ)て良としたのである。

バス旅行の間、行き過ぎる山々に紅葉(こうえふ)はなく、それよりも道端のそこここにある色とりどりの秋櫻(コスモス)の花が可憐に搖れてゐた。

 

 

   山間に柿守見えず雲に風 不忍 

 

秋の風物であり味覺でもある柿が、田舎の屋敷の庭や山の中腹で實(み)も撓(たわわ)に生(な)つてゐる。

屋敷ならばともかく山の柿に對しても守をする人が見えないのは、それ專門の果物農家ではないからであらうが、山の頂に風に流れる雲があつた。

註)山間(やまあひ)と讀んで下さい。

 

行く道や蹈みつぶされし 041

   行く道や蹈みつぶされし栗の毬 不忍 

 

関ヶ原の「ウオオランド」で晝食(ちうしよく)を濟ませた後に、コスモス園があつたので歩いて行くと入口に栗林があつて、地面に隨分と落ちてゐたが、人の往來(ゆきき)が多い所爲(せゐ)か眞面(まとも)な形をした栗の毬(いが)はなかつた。

昔ならば草鞋だつたのに。

 

 戴きに秋 uvs141016-002

   頂に秋繚乱の花の宴 不忍 

 

伊吹山を訪れたのはこれで二度目である。

一度目は四月であつたが、氣候はまだ寒くて雲が琵琶湖から湧上るやうに山頂に上つて來るのが印象的だつた。

伊吹山のハイウエイの通行は四月二十日に開始され、十一月三十日に閉鎖となる。

あとは夏に來たいものである。

 

 根にあるも uvs141016-001

   根にあるも見せはせぬ色とりかぶと 不忍 

 

初案は「根の毒を見せぬ紫鳥兜」であつたが、語り過ぎを戒めてかうなつた。

芭蕉に倣つて「言ひおほせてなにかある」である。

草鳥頭(とりかぶと)の花の色は桔梗のやうに紫で美しいが、その根に「アコニチン」といふジテルペン系アルカロイドの毒を隱してゐる。

 

 

   紫香樂へ立寄る旅も秋の暮 不忍 

 

初めは「信樂の旅の終りや秋の暮」であつたが改めた。

伊吹山から關が原、最後に信樂へと向つて、そこを旅の最後としたが、午後も四時を過ぎてゐて、山に日も沈み、夕燒だけが僅かに空を赤く染めてゐた。

表記は「信樂」よりも「紫香樂(しがらき)」の方が浪漫的である。

 

奈良時代に聖武天皇が近江國甲賀郡(現在の滋賀懸甲賀市)に營んだ離宮で、後に甲賀宮(こうかのみや)とも呼ばれて都となつた地であるが、正倉院文書に「信樂宮」としたものが三件あり、「紫香樂」と表記したものが全く無いさうで、續日本紀が編纂された時の修辞の可能性が考へられるといふ。

また七四四年(天平十六年)に宮名が「信樂宮(續日本紀では「紫香樂宮」)」から「甲賀宮」へと變化(へんくわ)してゐるとの事である。。

 

 

   赤き月と夕日追ひたり旅の果 不忍 

 

初案は「夕燒と月追ひかける旅じまひ」と詠み、次に「月蝕と夕日追ひたり旅の果」と詠んでから最終案となつた。

夕方の五時前になつて大坂へとバスは向つたが、最初に高速道路は混んでゐたが、今日が皆既日蝕だと氣がついて赤い月を見つけて大坂まで話が彈(はづ)んだ。

 

 

十月九日

 

   どれがそれか名のみ知りてぞ雁渡る 不忍 

 

八日は皆既日蝕(につしよく)だつたが「寒露」でもあつた。

寒露とは二十四節氣の第十七番目で露が冷氣によつて凍りさうになる頃とあり、雁などの冬鳥が渡つて來るといふが、鷺だとかや鶴ほど、あれがそれだといふ理解が出來てゐる譯ではない。

況して都會では……。

 

 

十月十日

 

   とこしなへに咲くものはなし秋の暮 不忍 

 

「とこしなへ」とは形容動詞で「常しなへ・長しなへ」或いは「永久」とも書き、「常しへ」と同じ意味である。

毎日一句を詠むと決めたものの、いつも今日はもう駄目かも知れないと思ひながら作句をしてゐる。

今日はいきなり上五句が天惠のやうに浮んで句となつたが、

 

   とこしなへに咲く花はなし秋の暮 不忍

 

と改作しておかうと思ふ。

 

 

十月十一日

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   孫のゐるその擽つたさや運動会 不忍 

 

二歳になる長男の子供が哺育(ほいく)園で運動會だといふので、眠たい目を擦りながら出かけた。

血の繋がつた何代か先の存在に何だか擽(くすぐ)つたいものを感じながら、朝の九時から十時過ぎまで不思議な氣分で眺めてゐた。

 

 

十月十二日

祭太鼓や uvs141013-001

 

   祭太鼓や鎭守の森を突き拔けて 不忍 

 

初案は「社より太鼓は高し秋祭」であつたが、中句にない「音」といふ言葉を讀み手に依存しすぎてゐるやうに感ぜられたので改めたが、推敲後の句だと「音」がなくてもそれと理解出來るだらうと思ふ。

颱風が来る前に何とか無事に終(を)へられたが、まさに全ての神事を終了して後片付けの時になつて、ぽつりと雨が降り出した。

 

 

十月十三日

一切を 001 

 

   一切を御破算にする體育の日 不忍 

 

今日は颱風が來るといふので連休の最後だが運動會などの催し物は中止となり、各商店も早々と店を閉めてゐた。

だが、我が『お好み燒 味幸』はものともせずに朝五時まで營業である。

しかし、他所樣(よそさま)に比べて颱風といふ割には大坂は、といふか豐中地區は大した事はなかつた。

確かに風はいつもより強く、雨も降りはしたが、有難い事に大きな被害もなく夜の十一時頃に通過してしまつた。

むしろ、他所の店が閉つてゐるので、客足はいつもより多いぐらゐである。

 

日本の國民の祝日の一つである「体育の日」は、祝日法で「昭和二十三年七月二十日法律第一七八號(第二條)」によれば、「スポオツに親しみ、健康な心身を培(つちか)ふ」事を趣旨としてゐるが、一九六六年(昭和四十一年)に一九六四年(昭和三十九年)の東京オリンピツクの開會式が行はれた十月十日を祝日としたが、二〇〇〇年(平成十二年)からは「ハツピイマンデイ制度」の適用により、十月の第二月曜日といふ變遷を經て今日をむかへてゐる。

 

ところで、この句を電腦(コンピユウタア)で打込む時、「御破算」は「ごわさん」とすると「御和算」となり、「ごはさん」としなければかうはならない。

語中の「は」は「わ」と讀むのが原則である。

けれども、例外的に「氣配(けはひ)」は「けはい」と讀んでゐるが、昔は「けわい」と讀んでゐたといふ。

また「體育」も、恐らく多くの人が口にするであらう或いはさう聞える「たいく」ではなく、「たいいく」と文字盤(キイボオド)を叩かなければ反映しない。

しかも、廣辭苑の第六版には驚くべき事に「體育會・體育館」はあるが、「體育祭」は記載されてゐないのである。

 

 

十月十四日

 

つれづれに夜なべの 001

 

   つれづれに夜なべのごとく句を作る 不忍 

 

騷がしかつた昨日とは打つて變はつて今日は靜かな夜で、颱風は客足さへも運び去つてしまつたのではないかと思はれる程である。

平穩な日よりも颱風で荒れてゐる方が人の出入りが多いなんて、なんと皮肉な事であらうか。

つい眠氣に壓(お)されてさうになるのを怺(こら)へて、歳時記などを見ながら句作に集中しようとするのだが、どうにもならない。

その擧句がこの爲體(ていたらく)である。

 

 

 

十月十五日

 

   まづ皮膚に秋氣あたるや山と空 不忍 

 

もう殘暑といふ譯でもないだらうに、いつまでも秋らしい氣候が見えずに暑さが續いてゐたが、遉(さすが)に颱風十九號の過ぎてからは一氣に肌に冷氣が押寄せて來た。

けれども目に見える秋の氣配よりも、さうして肌に感じるといふよりかは皮膚といふ方が、しつくりとくる氣がするのである。

 

 

 

十月十六日

 

   樂の音に草臥れもせず患者待つ 不忍 

 

「草臥れ」は「くたびれ」と讀み、松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)に、

「草臥(くたびれ)て宿かる比(ころ)や藤の花」

といふ句のその「草臥れ」であるが、店が休みだつたので繼母の入院した病院へ見舞ひに行つた。

病院の立體駐車場は乘用車型(タイプ)の高さしか入庫出來ないので、背の高い筆者のワゴン車は駐車出來ないから、いつも別の場所にある私營の駐車場に乘入れてゐるのだが、いつも滿車に近いので止められるといふ保證がなく、三囘に一囘といふ割合ひで運良く駐車出來るといふ鹽梅(あんばい)である。

そんな時は、筆者だけが車で待機して見舞ひをする妻の歸りを待つてゐる。

その間は、韓徳爾(ヘンデル・1685-1759)の歌劇(オペラ)や聖譚曲(オラトリオ)を聽いて待つてゐるのだが、生憎な事に妻も機能回復訓練(リハビリ)をしてゐる繼母の歸りを待つてゐて、車に戻るのが遲れたのだと見舞ひから歸つて來た妻から聞かされた。

 

 

 

十月十七日

 

   半袖を長袖にする夜寒かな 不忍

 

「秋の夜寒に心細きを」

と宇津保物語にあり、

「病雁の夜寒に落ちて旅寢かな」

と松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)も詠んでゐるが、一人で店番をしてゐると空氣が冷たく感ぜられる。

所で、この「夜寒」であるが、こんにちでは秋の季語となつてゐて、それでいふと芭蕉の句は「雁」と「夜寒」で季重なりとなつてしまふ。

更に蕉門十哲の一人の森川許六(もりかはきよりく・1656-1715)に、

「落雁の聲のかさなる夜寒かな」

といふ師への獻辭(オマアヂユ)ともいふ可き句を殘してゐるし、

「椎の實の板屋を走る夜寒かな」

といふ江戸中期の俳人の加藤曉臺(かとうけうたい・1732-1792)の句もあり、

「落雁・夜寒」

「椎の實(み)・夜寒」

といづれも季重なりとなつてゐる。

しかし、正岡子規(1867-1902)以降の句にはそれがない。

例へば、

「家近く夜寒の橋を渡りけり 高浜虚子(1874-1959)」

「鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな 室生犀星(1889-1962)」

などがあるが、これから推察するに、「夜寒」は明治になつてから秋の季語として受容れられたのではないかと考へられまいか。

但し、これはこの句を作つた時の思ひつきなので、もう少し調べなければ決定する事は出來ないが……。

 

 

 

十月十八日

 

   木や草が搖れて爽籟なにの音 不忍

 

「爽籟(さうらい)」とは爽やかな風の響きの事で、「籟」とは三つの穴のある笛の音を意味して、別に「松籟(しようらい)」といふ松を吹き拔ける風の音を表現する言葉もある。

天竺川の堤防を歩いてゐると大氣が爽やかに肌に觸れるものの、それとはつきり解るやうな風が吹いて來る譯ではない。

それほど穏やかな天候であるが、時折、木や草叢(くさむら)が搖れる幽かな音が風の存在を報せてくれる。

けれども、それは草や木の葉の擦れる音であつて、果して風の音と言つて良いものか。

 

 

十月十九日

 

   この空にいつからとなし秋の雲 不忍

 

天竺川を漫(そぞ)ろ歩いてゐると、今日も綺麗に晴れた空が續き、青い空が白い雲によつて一層青く感ぜられ、高くそして遠くに孤として存在する自身を自覺する。

一年を通じて雲は季節が變る度に、

「春の雲・夏の雲・秋の雲・冬の雲」

その時の季節の名が冠せられる。

不思議な氣がするが能(よ)く考へると納得はする。

深夜に巴哈(バツハ・1685-1750)の『音樂の捧げもの』を聽きながらこれを書いてゐる。

 

 

 

十月二十日

 

秋雨の空や退院か光見ゆ 不忍

 

初めは「灰色の空や退院か光見ゆ」であつたが、季語がないので「秋雨や退院間近か雲切れぬ」とするも、元の句の「灰色」を「秋雨」とする事で手を打つた。

入院してゐる繼母(はは)の見舞ひに行つたが、なんだか雨の日が多いやうに思はれて、見てゐると妻などは氣分が重さうに感ぜられる。

けれども駐車場が滿杯だつたので、DVDで韓徳爾(ヘンデル・1685-1759))の『Dixt Dominus』を鑑賞しながら待つてゐたら、妻が歸つて來て、

「早ければ一週間以内に退院かも知れない」

と朗報を傳へた。

 

 

 

十月二十一日

 

   秋にまだ咲けと願ふや造り花 不忍

 

いつの間にか十月も下旬となつた。

十一月七日が立冬だからもう晩秋といつてもいい季節で、そろそろ冬の支度を備へ始める頃である。

近頃の病院はお見舞ひに花を持つて行つたりはしないやうで、花瓶なども常備されてはゐない。

退院も間近いといふのに、せめて手入れの手間が省ける造花でも思ひ立つ。

 

 

十月二十二日

 

   新舊の時代火祭りともに見ず 不忍

 

當初(たうしよ)は「新舊(しんきう)の時代火祭り京にあり」であつたが、「ともに」を一緒にといふ意味と、「どちらも」まだ見た事はないといふ掛詞(かけことば)としたが、いづれにしても大した句ではない。

不振(スランプ)か。

京都三大祭りのひとつである『時代祭』は平安神宮を據點(きよてん)とし、他のふたつの祭りに比べて成立年代が新しく明治二十二年である。

それに對して、五月に下鴨神社(賀茂御祖神社)と上賀茂神社(賀茂別雷神社)で行はれる葵祭(賀茂祭)は、石清水八幡宮の南祭に對して北祭とも言はれ、平安時代に祭りといへば葵祭の事を指してゐて、王朝風俗の傳統を殘してゐるといふ。

七月に八坂神社で催されるもう一方の祇園祭は庶民の祭りといはれ、明治までは「祇園御靈會(御靈會)」と呼ばれてゐたと言ひ、八六九年の御靈會が祇園祭の起源とされてゐて、山鉾巡行や宵山が中心となつてゐる。

さうして京都三大奇祭のひとつに數へられてゐる鞍馬の火祭は、九四〇年に當時(たうじ)頻發した大地震や爭ひが相次ぎ、それを沈める爲に鴨川に生えてゐる葦を篝火として點燈(てんとう)したのを始まりとする左京區の由岐神社の祭りである。

どちらも電視臺(テレビ)の報道(ニユウス)で見た事があるだけで、唯一、遙か昔に「祇園祭」を見た記憶があるだけである。

これらの祭りはこんにちでは觀光化された感があるが、地元の人にとつてはそれぞれの地域にある祭となんら變るものではないものと思はれる。 

因みに詳細は省くが、後二つの京都奇祭は今宮神社の「鎮花祭(やすらひ祭)」と太秦の「牛祭」とあるが、調べて見ると別に宇治の「暗闇祭(懸祭り)」との説もあつたが、いづれが正しいかは不明であつた。

 

 

十月二十三日

 

   ただよひし音しづかなり秋日和 不忍

 

初めは「漂ひし音も靜かに秋日和」であつたが改めた。

朝の五時に店を終へてから食事を濟ませ、二階で輕く睡眠をとつて家に歸る。

その途中で圖書館にCDを返却し、それから喫茶「コパン」でモオニングを食べる。

そこで一齣(ひとくさり)映畫談義をしてから店を出た。

中環の「濱」の交叉點を渡つてゐた時、よく考へれば行交(ゆきか)ふ自動車の音で五月蠅(うるさ)いと思ふ筈なのに、さうは感じない事に氣がついた。

さういへば、日は穩やかに青空の下を漂ふかのやうに照らし、風の音も聞かれない。

こんなに氣持の良い日は滅多にないといふのに、その事に全く氣にも止めてゐなかつた。

それといふのもパソコンを入れた鞄を背負ひ、手には手でそれらの細々(こまごま)とした付属品を入れた手提げの袋を持ち、その上に二宮金次郎よろしく圖書館で借りた『敗戰と聖林(ハリウツド)』といふ本を讀みながら歩いてゐたから、折角の秋日和に氣がいかなかつたのである。

本を讀む時間は、こんな事でもしないとなかなかとれないのである。

 

 

青空を背景にして 006

十月二十四日

 

   青空を背景にしてすべて秋 不忍

 

當初(たうしよ)は「青だけを背景にして家は秋」であつたが意味が解り辛いので改めた。

今日は三箇月檢診で病院へ行かなければならなかつたので、朝十時過ぎに自宅から内環通りに出たら、雲ひとつない青空の中に、街全體がまるで合成技法(クロマキイ)の爲に撮影でもされたかのやうに眼前に廣がつてゐた。

少しばかり脇道に逸(そ)れて思はず撮影したが、檢診は十時からだつたのに十一時からだと勘違ひをしてしまつて、病院に著くなりさう言はれて平謝りであつた。

 

 

 

十月二十五日

 

   暮れて行く秋頂きの枝の先 不忍

 

初案は「迫りくる秋頂きの枝の先」で、晩秋となつて秋の終りといふか冬が迫つてくるといふやうな氣分を上五句の「迫りくる」に込めたのだが、空廻りをしてゐる氣がして改めた。

けれども、これだと單に秋の夕暮を意味する「秋の暮」だか、それとも秋の終りの頃を意味する「暮の秋」だか、曖昧な句となつてしまつたのは否めない。

後は讀者の心に任せて見ようと思ひ到つた。

 

 

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十月二十六日

 

   應援(おうゑん)の聲(こゑ)渦卷いて秋高し 不忍

 

日曜日は高川地區の市民體育祭だつた。

例によつて撮影に出かけたが、運動場に幾つもの天幕(テント)があつて、そこに各町内會の人が別れて坐つてゐた。

汗ばむほど天氣が良くて盛況な體育祭(たいいくさい)だつた。

 

 

   創世の豪雨の友や稻つるび 不忍

 

初めは「終末より創世なるか雨の秋」で、次に「創世の豪雨の如き夜の秋」あつたが改めた。

あれだけ晴れてゐたのに夜になつて急に雨が降り出して、それも竝大抵なものではなく何時間にも及び、深夜の二時頃まで止む樣子を見せず、まるで地球創世の時にはこんな風な雨が何週間も降り續いたのではあるまいかと思へる程だつたので思ひ通りの表現に迷つた。

よく「バケツをひつくり返したやうな」といふが、それならばなんといふ事もないが、この雨ばかりはすごい勢ひで「瀑布の如き」とでもいふやうな代物であつた。

剰(あまつさ)へ雷も夜空を走り廻つてゐて、「稻つるび」まで暗闇に屈折した放電現象の金色を描いてゐた。

「つるび」は交尾・交接の事で、稻妻の語源と同じで稻の結實期に多いからさういふと辭書(じしよ)にある。

 

 

 

十月二十七日

 

   咀(か)むやうに血と肉に秋の讀書かな 不忍

 

この日から十一月九日までの二週間を『讀書の日』だと高島易斷の暦にあつた。

取立ててこの間だけ讀書をしなければならないといふものでもないが、普段にさういふ習慣のない人の爲には有効な週間なのかも知れない。

初めは、

「本を讀むしゆうかんに醉(よ)ふ夜長かな」

と詠んだが、「しゆうかん」は「週間」と「習慣」を掛詞(かけことば)の基本として平假名(ひらがな)表記としたものの、字音假名遣だと「週間」は「しうかん」で「習慣」は「しふくわん」と紅玉(ルビ)を振られるので諦めて、

「週間が習慣になる讀書秋」

と詠んでみたがどれも氣に入らず、このやうな結果となつた。

「咀(か)む」は、「噛む」の「噛」の「歯」が正字の「齒」の「噛」がなく、あつても環境依存文字だつたので、「咀嚼(そしやく)」の意味のある「咀」を使ふ事とした。

 

 

十月二十八日

 

   三日月や請はれもせずに蟲の鳴く 不忍

 

初案は、

「やりきれず何に鳴くとや蟲と峨眉」

であつたが「峨眉」が三日月の異稱(いしよう)である事を傳(つた)へづらいと考へて、

「やりきれず何に鳴くとや蟲と月」

とするも「月」では三日月とは言へず、考へあぐねた末(すゑ)に決定稿となつた。

仕入れの商品を三十年以上も購入してゐた業者が亥子谷の大規模店(スウパア)から他の地域へ移店したので、それまでは毎囘配達してもらふのは氣の毒だと二週間に一囘は出向いてゐたのだが、移轉してからといふもの配達をして下さつてゐて、この四箇月ほど亥子谷へ行く用事はなくなつてしまつたから、久し振りに行きつけの喫茶店へ出かける事にした。

それから箕面の映畫館へ『イコライザー』を觀に行つた。

六時過ぎに店に歸つたのだが、美しい三日月が空にかかつてゐて草叢からか細い蟲の聲が聞えた。

 

 

 

十月二十九日

 

   七變化や雲間にきらめくは秋の果 不忍

 

『七變化』は紫陽花(あぢさゐ)の異名でもあるが、和名として『ランタナ』の事を『七變化』といふと辭書(じしよ)にあつた。

このランタナ(Lantana)は學名を(Lantana camara)と言ひ、花は「赤・橙・黄・白」などの色をつけ、それが次第に變化(へんくわ)する事に由來するが、中南米原産のクマツヅラ科の常緑小低木で歸化植物として定著(ていちやく)してゐ、世界の侵略的外來種の「最惡(ワアスト)百」に選定されるといふ嬉しくない評價を得てゐる。

花は多數の小花からなる散形花序をつけ、開花後は時間と共に花の色が變るので、同一花序でも外側と内側では花色が異なり、開花時期が紫陽花と重なる上に葉の形も似てゐるが、紫陽花とは別種で全體的に小さくて花の色は鮮やかである。

果實(くわじつ)は黒い液果で哺乳類には有毒だが、鳥類には無毒らしく種子を散布するといふ。

また、葉は表面がざらついてゐて莖は斷面が四角で細かい棘が密生してゐる。

さうして、六月から十一月までといふ長い期間に渡つて花を愉しむ事が出來る。

實はこの花の名は隨分と不明で、近所の人や出かけた時に偶々(たまたま)見かけたら通りすがりの人に尋ねたりするのだが、誰も答へてはもらへず、糅(か)てて加へて、NHKの『心旅』で俳優の火野正平氏が自轉車による旅の途中でこの花を見つけて、

「この花は可憐で好きなんだけど、なんていふ名前か知らないんだよね」

と、これまた不明の儘であつた。

ところが、信號機の根際(ねき)に咲いてゐる件(くだん)の花の横で青になるのを待つてゐると、以前から顏見知りの御婦人がゐたのでダメもとで聞いたところ、意外にも、

「ランタン」

だとご教授願へた。

それで漸くこの花の名前が解つたといふ次第である。

 

 

 

十月三十日

 

   澄む秋に雲も人さへも染まりけり 不忍

 

今日の空は雲ひとつなく、すつきりと澄み渡つた青い色が果てしなく續いてゐた。

よく吸ひ込まれさうな青空といふ使ひ古された陳腐な表現があるが、今囘は臆面もなくそれを拜借しようと試みたものの、形式の中にうまく納まり切らなかつたので諦めて、それに變るものとして「染まる」を使ふ事とした。

しかし、それ程の出來ではなく、がつかりしてゐるといふところである。

 

 

この雨で 015

十月三十一日

 

   この雨で十月最後をしのぶ夜や 不忍

 

 

「九月盡(くぐわつじん)」といふ言葉がある。

ただしこの「九月」は陰暦の事で、俳諧で秋の終りを惜しんでいふ季語であるが、現在だと「十月盡」とでもいふ可きかも知れない。

夕方の五時過ぎに自宅から店に向ふ途中に、ぽつりぽつりと雨が降り出した。

雨はそのまま夜中になつても降り續(つづ)いてゐる。

これでは朔日(ついたち)も一日中(いちにちぢゆう)雨なんだらう。

雨は好きだから問題はないのだが、さういふ人は少ないのだらうか、あまり嬉しさうにしてゐる姿は見られない。

今年もあと二箇月である。

 

 

十一月一日

 

   霜月の初めや雨の降るゆふべ 不忍

 

高島易斷の暦によれば、「燈臺(とうだい)」と「計量」の記念日ださうである。

これがなければ全く知る事のなかつた記念日である。

世の中が、人類の世紀が續けば續く程これらの知らない事が増えて行く。

だからと言つて月日は流れの勢ひを留める事なく、はや十一月である。

昨日と同じ雨の一日だといふのに……。

 

 

 

十一月二日

 

   あかあかと日は極まるや白秋忌 不忍

 

二日の今日は北原白秋(1885-1942)が鬼籍に入つた日である。

白秋の作品は「詩・童謡・短歌」を多く殘したが、他に「松島音頭・ちゃっきり節」等の民謠も人口に膾炙(くわいしや)してゐる。

以前、筆者は福岡の柳川にある白秋の生家を訪れた事があつて、その時は水郷の町の美しさを堪能させてもらつた。

藝術家としての彼の人生は御多分に洩れず、太宰治(1909-1948)のやうに派手な女性問題を起し、都合三囘の結婚をするものの初回目が隣家の女性と戀に落ちたが、その女性は夫と別居中の人妻だつた。

二人は夫から姦通罪で告訴されて拘置され、後に和解が成立して無事に結婚が出來たが白秋の名聲は地に堕ち、やがて父母と妻との折合ひいがうまくいかず、結局離婚してしまふ。

つづいて同業の詩人の女性と結婚するが家計は困窮し、妻が胸を病むといふ不幸にみまはれ、金錢的な悶著(トラブル)から行方をくらまし、白秋がそれを不貞と疑ふ事で離婚に到る。

やがて三度目の結婚で落著く事になる。

この句は白秋を偲んで、

   「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕」

からの引用であるが、

   「あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風」

といふ松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)の句も蹈まへたものである。

「白秋」とは五行説で白を秋に配するもので、秋の異稱(いしよう)であるが、彼の享年は五十七歳で、筆者よりも若くして亡くなつたゐる。

 

 

 

十一月三日

 

   聽きて讀む巴哈に龍之介文化の日 不忍

 

 ききてよむ  バツハにりゅうのすけ ぶんかのひ

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今日は『文化の日』である。

こんな日だからといつて改めて文化的な事をしようとするのも愚かなものであるが、さりとて何もせぬのも大人氣ない。

夜になつて冷込んで來て客足も遠退(とほの)いたので、巴哈(バツハ・1685-1750)の『ゴオルドベルク變奏曲(へんそうきよく)』でも聽きながら、芥川龍之介(1892-1927)の短篇集でも讀んでみる。

日本の國民の祝日のひとつである『文化の日』は、

「自由と平和を愛し、文化をすすめる」

といふ事を趣旨としてはゐるが、一九四六年に日本國憲法が公布された日だつたので、參議院側は十一月三日を『憲法記念日』とする事を主張したが、GHQの介入でストツプをかけられ、衆議院が五月三日を『憲法記念日』とする事に同意されてしまふといふ紆餘曲折を經てこんにちに到つてゐる。

ただ、この『文化の日』が多くの祝日がさうであるやうに皇室との關聯があつて、一九一一年までは『天長節』と言ひ、その後『明治節』として明治天皇の誕生日による休日となつてゐた。

この日は皇居で文化勲章の親授式が行はれるが、これと「國民榮譽賞」とは税金の使ひ方としてはどうなのかと思つたりする。

さうして、この事はいつでも天皇を擔(かつ)ぎ出せるやうにといふ意圖(いと)を感じるのは筆者の杞憂だらうか。

 

   隱されたものは問はずや文化の日 不忍

 

 かくされた   ものはとはずや ぶんかのひ

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十一月四日

 

   暮れなづむ東に月や夜を待つ 不忍

 

 くれなづむ  ひがしにつきや よるをまつ

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初案は「暮れなずむ東の空に白き月」と詠むも、この句は正岡子規(1867-1902)のいふ「寫生(しやせい)の句」といふ可きもので、和歌の體(てい)にて、

 

   暮れ泥(なづ)む東の空に月白く

   かかりてけふも君おもふ里

 

 くれなづむ  ひがしのそらに つきしろく

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 かかりてけふも きみおもふさと

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とでも詠まねば納まらぬやうな氣がする。

それほど舌足らずな作品を寫生句は導き易くなつてゐるやうな氣がする。

 

 

 

十一月五日

 

   引いてまた滿ちてや後の十三夜 不忍

 

 ひいてまた  みちてやのちの じふさんや

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この句までに迷ひに迷つて「復活の」と上句を詠み、「蘇(よみがへ)りたる」とも詠み替へ、「再生の人待つ後の十三夜」と詠んで見たものの、結局は先の句となる。

愛用の高島易斷の暦には十月二十四日の所に「舊暦(きうれき)九月小」といふ記述があり、十一月五日を舊暦の「九月十三日」としてゐる。

この暦には表記されてゐないが、今日は『後の十三夜(じふさんや)』で「奇蹟(きせき)の月(ミラクルムウン)」と言はれてゐる日である。

舊暦の八月十五日を「中秋の名月(十五夜)」と言ひ、九月十三日は「後の月(十三夜)」として古來より「お月見」を愉しんで來た。

さうして、現在の太陽暦だと一年を三六五日としてゐて四年に一度は二月二十八日に一日を追加して二十九日のように閏日を入れて調整してゐるが、太陰暦の舊暦では一年が約三五四日だつたので、閏日では間に合はなくて閏月を三年に一度入れて、一年を1箇月増やして十三箇月にする事で暦と季節を調整してゐた。

けれども、閏月は閏日のやうに二月を二十九日するといふやうに決つた月を増やす譯ではなく、月の周期にあわせて挿入される月が變るのであるが、今年の二〇一四年は百七十一年振りに舊暦の九月と十月の間に「閏九月」が設けられる年に當る爲に九月十三日が二囘も生ずる事となり、「後の月」とも言はれる「十三夜」が二度ある事となつて、これを「後の十三夜」と呼ばれてゐるのである。

前囘の閏九月は一八四三年といふから天保十四年の事で、江戸時代末期の徳川家慶(1793-1853)将軍がゐた頃で、黒船が來る十年前の事となる。

今日は生憎の曇り空で、雲間に見えつ隱れつしてぼんやりとしか見えないが、それでも夜中の一時頃には綺麗な月が空にあつた。

二時を過ぎると完全に雲に隠れて、小雨さへ降り出した。

 

   見えつ隱れつ雲居に後の十三夜 不忍

 

 みえつかくれつ  くもゐにのちの じふさんや

C♪♪♪ ♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

十一月六日

 

 

   風に搖れ紅葉光りて池に住む 不忍

 

 かぜにゆれ   もみぢひかりて いけにすむ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

今日は店が休みなので妻と二人で神戸市立森林植物園へ紅葉狩りに出かけた。

紅葉はまだまだであつたが、それでも園内にある長谷池まで足を延ばすと部分部分に鮮やかな紅葉が見られた。

今日は朝から曇り空で六甲山頂は時々小雨まで降り出したが、夕方になるとすつかり晴間が見えた。

 

 

   雲は風に從へど月は動じざる 不忍

 

 くもは かぜに  した がへど つきは どうじざる

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

薄暗くなつた五時過ぎに今日一泊するホテルに著いたが、麻耶山頂は風が強く、樹木の搖れや流れる雲の速さにそれがよく解る。

フロントで手續きをして部屋に入室する頃にはすつかり暗くなつてゐて、勢ひよく流れて行く雲の間から月が顏を覗かせてゐる。

 

 

   内と外をあまさず照らす月夜かな 不忍

 

 うちと そとを  あまさずてらす つきよかな

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

昨日の『後の十三夜』に續いて、今日の月も美しい色と形を見せてゐる。

下界を隈なく照らす月は心の中までも炙り出してしまふ。

それほど冴え渡つた月が中空にある。

 

 

つれあひと uvs141107-001

 

   つれあひと月ありて山の麻耶の宿 不忍

 

 つれあひと  つき ありて やまの まやのやど

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

初め下五句を「麻耶の夜」と詠んだが、「月」と「夜」が諄(くど)く感ぜられたので改めた。

言葉を選ぶといふ行爲(かうゐ)が句作の醍醐味であり、如何に言葉を重複させないやうにするかが短詩形の要諦であらうかと思はれる。

今年の十一月で結婚して四十年を迎へたので、四人の子供達が旅行を贈物(プレゼント)してくれた。

それで神戸の麻耶山にある『オテル・ド・麻耶』で一泊する爲に、遠乘り(ドライヴ)がてら森林植物園に寄つてホテルに來たのである。


 

 

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