2015年

 

春(はる・Spring)

 

近江不忍(あふみのしのばず・Oumino Sinobazu)

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二月四日

 

   春立てど服一枚もまだ脱げず 不忍

 

 初案は「春立つと聞けば服一枚を脱いでみる」とだらだらとした言葉が浮び、次に「春立つと服一枚を脱ぐ散歩」となつてから最終案となつた。

 四日となつて冬も終り、つひに立春となつた。

 この句はその儘で、何の解説も不要だらう。

 

   春  立てど     服   一 枚 も まだ脱げず

 はるたてど  ふくいちまいも まだぬげず

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 お馴染みの俳譜を示せば、かうである。

 

 註)「†は四分音符・ζは四分休符 」の代用である。

 

 

二月五日

 

   年頃も過ぎし娘の春や日照雨かな 不忍

 

 初案は「年頃も過ぎし娘(むすめ)や春日照雨(はるそばへ)」であつたが、下五句の「春日照雨」が熟(こな)れてゐないので改めた。

 木曜日は店が休みなので、折角の休日だからと店のお客さんの經營してゐるカラオケ喫茶へ行つて、歌でも歌はうと出かける事にした。

 それが午後三時前の事だつたが、表に出ると雨が降つてゐた。

 その雨は目的地に著くまで降つたり止んだりしながら、さうかうしてゐる内に陽が照つてきて、「狐の嫁入」状態になつてゐた。

 『日照雨』とは「狐の嫁入」の別稱であるが、さういへば長女は四十歳も近いといふのに獨身である事に思ひを致した。

 この句の中句の「春や」は三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))となる。

 

   年 頃  も   過ぎし娘の   春 や  日照雨かな

 としごろも   すぎしこの はるや そばへかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 註)「†は四分音符・ζは四分休符 」の代用である。

 

 

二月六日

 

   散歩する堤に春は見出せず 不忍

 

 

 一九一三年(大正二年)に作詞が吉丸一昌、作曲が中田章で發表された日本の唱歌に『早春賦』といふ作品がある。

 この詞は、

 

   春は名のみの 風の寒さや

   谷の鶯 歌は思えど

   時にあらずと 声も立てず

 

 と實(じつ)に見事なものであるが、これも文語である事が表現に深みを與(あた)へてゐるやうに思へる。

 この曲は莫差特(モオツアルト・1756-1791)の『春への憧れ K.596』とよく似てゐる事でも有名であるが、また森繁久彌(1913-2009)の作詞・作曲による『知床旅情』も、『早春賦』が『春への憧れ』の子供だとすれば、この曲は孫のやうな存在であると言へるだらう。

 調べて見ると、この詞は長野懸の安曇野附近の早春の情景に觸發(しよくはつ)されたものだといふが、題名は「早春に賦す」といふ意味で「賦」とは漢詩を作る事を指す。

 例によつて俳譜を示せば、

 

    散 歩する   堤 に  春  は 見 出せず

 さんぽする  つつみにはるは みいだせず

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ事になるが、中句の「堤に」といふ四音と「春は」の三音による七音は、

 「♪♪♪♪♪♪†」

 このやうな音型になり、「春は」の「は」に四分音符(†(代用))を與へる事で、

 「春は堤に」

 といふ「三音・四音」の場合の、

 「γ♪♪♪♪♪♪♪」

 といふ音型の場合のやうに、八分音符(♪)で停滯する事なく下五句へ流れて行くのではなく、その結果がどうなのかを考へる時間の餘裕を與へられるのである。

 これは『發句拍子(リズム)論』でも述べた事であるが、與謝蕪村(1716-1784)の、

 

    春 の  海    ひねもすのたり のたりかな

 はるのうみ  ひねもすのたり のたりかな

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ句でも同じで、これが「ひねもすのたり」の「り」に四分音符を與へた「四音・三音」ではなく、

 「のたりひねもす」

 といふ「三音・四音」にすると、

 

 のたりひねもす

γ♪♪♪♪♪♪♪

 

 このやうに「す」が八分音符となつて、下五句へすんなりと流れてしまひ、四分音符の場合のやうに「のたり」とした感は殺がれてしまふのである。

 

 

二月七日

 

   鳥は枝に實は木になくて春淺し 不忍

 

 日中に陽射しがあると少しは寒さが和らぐやうに感ぜられるが、昨日も述べたやうにそれでも春とは名ばかりで、關西では彼岸になるまでは暖かくはならない。

 この句の上句の「鳥は枝に」といふ六音の「鳥は」は三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))にする事で、四分の四拍子の三小節として解決される。

 俳譜を示しておかう。

 

 

    鳥 は 枝 に   實は木になくて   春 淺 し

 とりは えだに   みはきになくて はるあさし

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

二月八日

 

   日暮れ待つ風卷く聲が春を呼ぶ 不忍 

 

 夕方の四時過ぎに自宅へ風呂に入る爲に歸宅した。

 その後で店に戻らうとした時、空の上で激しく風が渦卷く音がして、それは店に著くまで聞えた。

 まだまだ寒さは續きさうである。

 この句は「五音・七音・五音」の十七文字といふ基本形で、それも中句の最後の「が」が四分音符(†)となる、

 C♪♪♪♪♪♪†┃

 といふ「四音・三音」の音型である。

 俳譜を示せばかうなる。

 

 日暮れ待つ    風  卷く  聲  が   春  を呼ぶ

 ひぐれまつ  かぜまくこゑが はるをよぶ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

二月九日

 

   化かされて狸の嫁入地にぞ消ゆ

 

 晝(ひる)過ぎになつて店の外で、晴れてゐるのに雪が降つてゐのが見えた。

 かういふのを『狸の嫁入』といふさうである。

 嚴密には晴れた日に雨が降るのを『狐の嫁入』といふが、これは辭書(じしよ)にも記載されてゐる。

 『狸の嫁入』がない所を見ると、俗説として世間の一部に知られてゐるだけといふ事なのであらう。

 『狐の嫁入』は「日照雨(そばへ)」とか「日照雨(ひでりあめ)」、または「天氣雨」といふが、別に人氣のない夜に狐火が幾つも連なつて、嫁入行列の提灯のやうな光が見える怪異現象を指しす場合もあり、これは恐らく蜃氣樓現象の一種ではないかと考へられてゐる。

 『狸の嫁入』は、一般的には「風花」とか「雪時雨・俄雪」若しくは「天氣雪」ともいふが、いづれにしてもちらちらと降りながら地面に落ち、と同時に消えてしまふ樣は果敢無くて積るやうな雪ではない。

 如何にも狸にでも化かされたやうな白晝夢(はくちうむ)のやうである。

 この句の中句は「八音」で、十八文字の字餘りであるが、「三音」の言葉のない「四音・四音」なので、問題なく四分の四拍子の三小節の發句となる。

 俳譜を示さう。

 

 化かされて   狸 の  嫁 入   地にぞ消ゆ

 ばかされて  たぬきのよめいり ちにぞきゆ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

二月十日

 

   底冷えの闇夜に春を隱しけり 不忍

 

 初案は「春淺く底冷えのする月夜かな」であつたが深夜に月がなかつたので、「春淺く底冷え殘す闇夜かな」へと變化(へんくわ)し、更に「底冷えの春を隱すや夜の闇」から最終案となつた。

 ジンジンする程に寒い闇夜の中に春は隱れてゐる。

 この句の中句は、

 「♪♪♪♪♪♪†」

 といふ「四音・三音」から成つてゐて、この最後の「を」に四分音符(†)の一拍を與(あた)へる事で、何があるのかといふ結論を知りたくなる音型であると言へる。

 俳譜を示しておかう。

 

    底 冷えの    闇  夜に  春  を   隱 しけり

 そこびえの  やみよにはるを かくしけり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

 

二月十一日

 

福といふ残材やある初午祭 uvs150212-002

 

   福といふ善哉やある初午祭 不忍

 

 占ひや宗教的意味としてではなく、季語の一環として愛用の高島易斷の暦によれば、十一日は二月の最初の午の日で『初午(はつうま)』といふ稻荷神社の祭であり、初午詣或いは福詣として參詣(さんけい)する人が訪れる日である。

 舊暦(きうれき)で行ふ場合は三月となり、これを雜節の一つとする事もある。

 『古事記』では「宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)」と言はれ、『日本書紀』では「倉稻魂命(ウカノミタマノミコト)」と記され、

 「これ稻の靈(みたま)なり。世にウカノミタマといふ」

 と説明されてゐて、伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)の子として産まれた素戔嗚(須佐之男・スサノヲ)が櫛名田比賣(クシナダヒメ)の次に娶った神大市比賣(カムオホイチヒメ)との子である女神とされてゐ、伊奈利山へ降りた日が七一一(和銅四)年で、この日が初午であつた事から全國で稻荷社を祀り、「お稻荷さん」として廣く信仰されてゐる。

 また、この日を蚕や「牛・馬」の祭日とする風習もあり、江戸時代には子供が寺子屋へ入門したとも言はれる。

 「初午いなり」と言ひ、稻荷壽司を供へる風習もあるさうだが、近所にある服部天神宮では、參拜者に『福ぜんざい』と稱(しよう)するものを振舞つてゐる。

 

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 この句の初案は「福といふ名の善哉やある初午祭」と中句「九音」と下句「六音」の字餘りであつたが、「名の」の二文字を省略した。

 發句は端折(はしよ)りの藝術であると言へる。

 下句の「六音」である「初午祭」は、問題なく解決されるものであるからその俳譜を示さう。

 

    福 といふ   善  哉  やある  初 午 祭

 ふくといふ  ぜんざいやある はつうまさい

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪♪♪(†)ζ┃

 

 

二月十二日

 

   如月の寒さ和らぐ夜の雨 不忍

 

 木曜日は休日(きうじつ)で、今囘も箕面の「109シネマ」で『ミュータント・タートルズ』を觀て來た。

 その歸りの七時頃に阪急オアシス小曽根店に夕餉の食材を求めに立寄つたら、いきなり激しい雨に見舞はれた。

 日中は滅多矢鱈と寒かつたが、雨でそれが和らいだやうに感じられた。

 中句は「三音・四音」の、

 「Cγ♪♪♪♪♪♪♪┃」

 といふ音型で、俳譜を示せばかうなる。

 

   如 月  の      寒 さ   和 らぐ    夜 の  雨

 

 きさらぎの   さむさやはらぐ よるのあめ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

二月十三日

 

   眠られぬ庚申の春や店の守 不忍

 

 十三日の今日は、干支(えと)の一つで組合せの五十七番目に當(あた)る『庚申(かうしん・かのえさる)』の日だと暦にある。

 十干(じつかん)の第七の「庚(かう・かのえ)」は、十二支(じふにし)の第九の「申(さる)」と同じく陽の金で、この日は金氣が天地に充滿する爲に人の心が冷酷に成り易いとされ、また、『庚申信仰』といふものも傳はつてゐる。

 それは「上尸(じやうし)・中尸・下尸」の三種類があると説く道教の「三尸説(さんしせつ)」があり、人間が生れ落ちると體内にゐて、それが宿主からの解放を求めて六十日に一度巡つて來る『庚申』の日に拔出して、人間の壽命を縮めさせるのだといふ。

 そこで『庚申』の夜は眠らないといふ風習が行はれ、一人よりも大勢で夜明しをするやうにして、江戸時代になつてから地域に庚申講と呼ばれる集まりで會場を決め、庚申待をする行事となつたやうである。

 更に、男女同衾しないとか結婚を禁止するとか、この日結ばれて出來た子供は盗人の癖があるといふ俗説まであつたりする。

 一説に、「申待(さるまち)」から「日吉(ひえ)山王信仰」とも習合して猿を神の使ひとして扱はれ、猿田彦神とも結びついてゐて、青面金剛像や庚申塔には「見猿・言は猿・聞か猿」の三猿が描かれたさうである。

 『青面金剛』は、南方熊楠(1867-1941)によれば印度の那羅延天(ヴイシユヌ)神が轉化したものだといふ。

 因みに、『庚申』の日は帝釋天の縁日でもあり、『フウテンの寅さん』で有名な柴又帝釋天では、江戸期の改修工事中に「帝釋天の板本尊」が發見されたのが『庚申』の日であつたといふことから、庚申信仰が人口に膾炙したのだとも言はれてゐる。

 この句は「五音・八音・五音」の十八文字で、中句が「八音」の字餘りとなつてゐるが、三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))を使はなくても、四分の四拍子の三小節として解決出來る。

 俳譜を示しておかう。

 

    眠 られぬ    庚 申  の  春  や   店 の  守

 ねむられぬ  かうしんのはるや みせのもり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 余は普段より深夜の仕事なれば、寢ないのは『庚申』の夜ばかりに限らざるなり。

 幸ひなる事に寒き深夜に若き客有りて、藝術談義に花を咲かせたり。

 因みに『中七句』は、

C♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃

 

 といふ音型も考えられる。

 

 

二月十四日

 

   贈るのはチヨコにはあらじ温し手ぞ 不忍

 

 日本では、女性が男性に對して巧克力(チヨコレエト)を親愛の情を込めた「義理チヨコ」や、愛情の告白として贈る「本命チヨコ」だつたりする『バレンタイン』の日が今日であつた。

 それは戰前に來日した外國人の一部から始まり、日本社會に定著(ていちやく)したのは一九七〇年代後半頃からであつたといふが、歐米でも戀人や親しい人にチヨコレエトを贈る場合もあるにはあるが、それは決して限定されたものではなく、ケエキやネクタイなどといつた樣々なものがあつて、女性から男性へチヨコレエトを贈るといふ形は、日本獨自のものであるといふ。

 けれども、この習慣(しふくわん)の發端は、節分に卷壽司を惠方に向つて默つて食べるといふのが、海苔の製造關係者の發案であるといふのと同じで、製菓會社によるものであると考へられるのは、至極当然の歸結ではないかと思はれる。

 その證據(しようこ)とでも言へるやうに、バレンタインデイの返禮として男性から女性へ贈る『マシユマロデイ』を開始したり、『ホワイトデイ』として「ホワイトチヨコレエト」を贈るといふ習慣を定著(ていちやく)させた事でも伺ひ知る事が出來るだらう。

 因みに、友人に贈るのが「義理チヨコ」、女性同士で贈る「友チヨコ」、男性が女性に「逆チヨコ」として贈るかと思へば、自分が自分に贈つて食べる「自己チヨコ」などというものがあるさうである。

 この句の初案は「贈るのはチヨコにはあらじ春温し」であつたが、「温し」が春の季語なので季重なりとなつてしまふので改めた。

 辭書(じしよ)によれば、「温し」は一四九八(明應七)年の『漢和法式(かんなはふしき)』といふ連歌書に初出だといふから、隨分歴史的な言葉であると言へる。

 序(つい)でに言へば、冬は「寒し」、春は「暖か(温し)」、夏は「暑し」、秋は「冷やか」といふ季感がある。

 例によつて俳譜を示す

 

   贈  るのは  チヨコにはあらじ  

 おくるのは  チヨコにはあらじ 

C♪♪♪♪†ζ┃ ♪ ♪♪♪♪♪†┃

 

               温 し手ぞ

             ぬくしてぞ

             ♪♪♪♪†ζ┃

 

 手が冷たい人は心が温かいといふが、それぢやあ手が温かいと心が冷たいのかと言へば、さうとばかりも言へない筈で、要は心に温もりを感じたといふ事を「温し手ぞ」と詠んでみたのである。

 

 

二月十五日

 

   何もない事を知りたり涅槃講 不忍

 

 高島易斷の暦によれば、二月十五日は『涅槃會(ねはんゑ)』だとある。

 涅槃とは「ニルヴアナ(nirvana)」の譯語で迷ひのなくなつた境地を指し、輪廻轉生(りんゑてんしやう)から解放された事を意味するが、大抵は釋迦が亡くなつたといふ意味で用ゐられる場合が多いやうである。

 であるから、釋迦の生れ變りだといふ人がゐるが、それは有得ない事なのである。

 涅槃講や涅槃忌とも稱(しよう)される『涅槃會』は、明治以前は釋迦の入滅の日として陰暦二月十五日に法要されてゐるが、實際には入滅した月日は不明であり、新暦になつてからは三月十五日に行はれる場合もある。

 この日は、釋迦が娑羅双樹の下で涅槃の際に、頭を北にして西を向き右脇を下にした姿で横臥して、周圍(しうゐ)に十大弟子や諸菩薩、また天部や獣畜、蟲類などまでが歎き悲しむ樣を描いた涅槃圖を掲げて『佛遺教經』を讀誦する。

 『涅槃會』が季語として扱はれるやうになつたのは、里村紹巴(さとむらぜうは・1525-1602)が連歌の進行を重んじた『連歌至宝抄』の連歌論書を著した中にあると辭書(じしよ)に記載されてゐる。

 里村紹巴は奈良の生れで戰國時代の連歌師であるが、三條西公條や織田信長、明智光秀、豐臣秀吉、三好長慶・細川幽齊・島津義久・最上義光などの武將とも交流があり、小瀬甫庵の『信長記』によれば足利義昭を奉じて上洛した際、連歌師里村  紹巴が扇二本を信長に献じた際に詠んだ句に、

 

   二  本 手に入る  今日の 悦 び  紹巴

  にほんてにいる  けふのよろこび

Cγ♪♪♪♪♪♪♪┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃

 

 舞ひ  遊  ぶ  千世 万 代の  扇 にて 信長

 まひあそぶ  ちよよろづよの あふぎにて

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 と二本は日本の掛言葉の句に附句したとか、「愛宕百韻」に明智光秀が参加した、

 

 ときは  今       天  が  下 しる  五 月 哉  光秀

 ときはいま   あめがしたしる さつきかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ發句に、

 

    水   上  まさる     庭  の  夏   山  行祐

 みなかみまさる   にはのなつやま

C♪♪♪♪♪♪†┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃

 

 と脇を附け、續けて三句を、

 

   花  落つる     池  の  流  れを せきとめて 紹巴

 はなおつる   いけのながれを せきとめて

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 と里村紹巴が詠んだ。

 この發句は光秀が美濃土岐氏の一族である所から、「土岐氏が今天下を取る時」であるといふ決意を表明したものだといふ有名な話があつて、「本能寺の變」後に豐臣秀吉に疑はれて難を受けたが、辛くも逃れる事が出來たと言はれてゐる。

 話が逸(そ)れてしまつたが、涅槃とは程遠い凡俗の身には、結局、一生は煙のやうに現れて消えてしまふものだから、「空」といふ虚ろなものものでしかないやうに思はれる。

 俳譜を示さう。

 

    何  もない     事 を知りたり 涅  槃 講

 なにもない   ことをしりたり ねはんかう

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

關聯記事

 

『空』と『無』に就いて

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1343474641&owner_id=25109385

 

 

二月十六日

 

  陽が降つて   土手の河  原 に   春  きらり 不忍

 ひがふつて   どてのかはらに はるきらり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 このところ三日に上げず、『TUTAYA』でDVDを借りて愉しんでゐる。

 その爲には庄内驛の方まで足を延ばさなければならず、さうすると庄内と豐南町の間を横切つてゐる天竺川を越さねばならない。

 豐南町はこの西側にある天竺川と東にある高川とに挾まれた處にあり、このいづれの川も天井川で、土地よりも高い場所に川が流れてゐる。

 數十年も前には大雨でも降らうものなら、床下浸水は免(まぬか)れない地域であつたが、今では下水も完備され、殆どが水洗便所となつてゐる。

 それ以前は汲取式だつたので、堤防から水が溢れて浸水すると、水が引いた後には保健所から衛生の爲にと藥を撒布(さんぷ)しに來るのが常だつた。

 ついこの間も兩河川の工事があつて、高川などは後二年は堤防の車輛(しやりやう)の通行止めとなつてゐる。

 天竺川の工事は數箇月で終了し、綺麗になつた堤防を歩いてゐると、今日は思ひの外に暖かく、ダウンジヤケツトを脱ぐ程であつた。

 陽に照らされた堤防と川が煌いて、春に包まれてゐるやうだつた。

 

 

二月十七日

 

   雨  降れど    眠  れぬ  春  の   甲  子の日 不忍

 あめふれど  ねむれぬはるの かふしのひ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 『甲子(かふし)』とは「きのえね・かつし」とも讀み、干支(えと)の組合せの第一番目で陰陽五行では、十干の甲は「陽の木」で十二支の子は「陽の水」で相生となつてゐて、この日は吉日とされてゐる。

 また、子を鼠と結びつけて大黒天の使者として大黒天祭(甲子祭)が行はれ、子の刻まで起きて「大豆・黒豆・二股大根」を供へて大黒天を祀る「甲子待(かつしまち)」をしたといふ。

 調べると、西暦年を六十で割つて四が餘る年が甲子の年となるとあり、この年は變亂(へんらん)の多い年とされ、日本では平安時代以降この年にはよく改元が行はれてそれを防がうとしたとある。

 明治以降は一世一元の詔により在位中の改元が廢止されたが、それまでは事ある毎に改元や遷都といふ形で難を逃れようとした。

 似たやうな話としては、新選組参謀で後に離脱して御陵衛士盟主になり、その爲に暗殺された伊東大藏(1835-1867)は、一八六四(元治元年)の甲子の年に肖(あやか)つて甲子太郎(かしたらう)と改名したといふし、一九二四(大正十三年)に兵庫懸西宮市に作られた野球場も、その年の干支から「甲子園」と命名されてゐる。

 更に、松浦静山(まつらせいざん・1760-1841)の随筆集『甲子夜話』は甲子日に書き始めた事によると言ひ、古くは一八四年の中國後漢の末期に起つた「黄巾の亂」で、

 「蒼天已死 黃天當立 在甲子 天下大吉」

 といふ漢の解體の契機ともなつた檄文にもあるのは有名な逸話である。

 筆者はといふとそれ程の大それたものもなく、雨の降る人通りの絶えた道路を店の中から眺めながら、一句とその梗概を書いてゐる。

 

 

 

二月十八日

 

   きらきらと陽に纏 はりし春日照雨  不忍

 

 きらきらと  ひにまとはりし はるそばへ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 『日照雨(そばへ)』とは「戲雨」とも書き、「狐の嫁入」の事であり、陽が照つてゐるのに雨が降る状態を指すが、ある所にだけ降つてゐる雨や、通り雨といふ意味、また私雨(わたくしあめ)ともいふ。

 更に、村時雨ともいふと辭書(じしよ)にあるが、これだと冬の季語として扱はれる事になる。

 家に風呂を浴びに歸る途中に、湧上る黒い雲から雨がパラついたので、途中にある行きつけの喫茶『コパン』で雨宿りをした。

 どうせ通り雨だと考へたので、珈琲でも飮んでゐる間に止むだらうと氣樂にかまへてゐた。

 暫くすると天氣が晴れて、雨が降つてゐるのに雲間から陽が射して來たのが入口の硝子戸からその樣子が見られた。

 春らしさを迎へるのに相應(ふさは)しい光景である。

 案の定、珈琲を飮み終へる頃には雨は上がつてゐた。

 

 

二月十九日

 

   もうすでに幾度かやある雨水かな  不忍

 

 もうすでに  いくどかやある うすいかな

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 『雨水(うすい)』は二十四節氣の第二番目で、この日から次の節氣の『啓蟄(けいちつ)』前日までを指すが、意味としては立春になつて初めて雨が降る事をいふ。

 けれども、立春からこの日まで都合よく雨が降らないといふ事は有得ない。

 幸ひといふか、この日も微かではあるが雨が降つてゐた。

 

 

二月二十日

 

 

   遠 くとも聞けば 匂はん梅便り   不忍

 

 とほくとも   きけばにほはん うめだより

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 高島易斷の暦によれば、今日から三月三十日まで「水戸の梅まつり」ださうである。

 奈良時代より以前に「花」といへば櫻ではなく梅であつたといふが、今では花見としては櫻の方が一等拔きん出てゐる。

 學名「ウメ(梅・Prunus mume・Japanese apricot(英)」は、「バラ科サクラ屬」の落葉喬木で、花芽は桃と異なつて一節につき一箇で開花時の華やかさには缺ける感は否めない。

 七十二候の芒種末候では「梅子黄(梅の實(み)黄ばむ)」とある。

 因みに、平安京御所の紫宸殿(ししんでん)の前の「左近の櫻」と「右近の橘」も當初(たうしよ)は、櫻ではなく梅であつたといふ。

 梅と言へば菅原道眞(845-903)が浮び、

 

   こちふかばにほひおこせよ梅 の 花

   あるじなしとて春をわするな

 

 こちふかば   にほひおこせよ うめのはな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

  

 ある じなしとて  はるをわするな

γ♪♪♪♪♪♪♪┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃

 

 と『拾遺和歌集』にあるが、別に、

 

   東風吹かば 匂 ひおこせよ 梅 の 花

   主なしとて春な忘れそ

 

 こちふかば   にほひおこせよ うめのはな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

   

 あるじなしとて  はるなわすれそ

γ♪♪♪♪♪♪♪┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃

 

 と『大鏡』にはあつて下句に若干の差異があり、それは「春をわするな」と「春な忘れそ」の違ひで、いづれも意味の上では同じである。

 「な…そ」は「な」の下につく動詞を「そ」で禁止する係助詞の類(たぐひ)で、筆者はこちらの方が和歌らしいやうに思はれる。

 名所として、

「梅は岡本、櫻は吉野、蜜柑紀の國、栗丹波」

 といはれ、兵庫懸の岡本梅林は羽柴秀吉も來訪した記録があるといふ。

 ただ、注意をしなければならないのは、青梅には青酸が含まれてゐるので、天日干しの熱やアルコオルとか鹽分(えんぶん)で毒性を低下させてから飮食する事に留意しなければならないやうである。

 

 

 

 

 

二月二十一日

 

鉢植ゑの梅黄色くて夜の雨 002

 

   鉢 植ゑの梅黄色くて夜の雨   不忍

 

 はちうゑの  うめきいろくて よるのあめ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 辭書(じしよ)によれば「梅」は、

 『好文木(かうぶんぼく)・花の兄(はなのえ)・春告草(はるつげぐさ)・木の花(このはな)・初名草(はつなぐさ)・香散見草(かざみぐさ)・風待草(かぜまちぐさ)・匂草(にほひぐさ)』

 などといふ別名があつて、古くは中國から漢方藥(烏梅(うばい))として傳來(でんらい)したと言はれてゐる。

 「梅」の語源には諸説あるが、中国語の「梅(マイ(mei・呉音))」から轉じて、鼻音の前に輕く「m」をつけて「ムマイmmei 」となり、軈(やが)て「むめ(Mume)」から「む(Mu)」が「ンメ(nme)」に移行して、話し易い言葉として「m」や「n」が脱落する事で「ウメ(ume)」へと變化(へんくわ)したものと思はれる。

 二年前に月ヶ瀬に梅見に出かけた時、店先で鉢植ゑの梅を購入した。

夜になつて降り出した雨の中、それが我が店の横で咲いてゐるのを見つけて、思はず店の前に移動させた。

 咲いてみて解つたのだが、花の色は白ではなく黄色だつた。

 

 

二月二十二日

 

   鴉鳴き降るを教へたるや春の雨 不忍

 

 午後の二時過ぎに雨雲の覆ふ空の下を、「ツタヤ」へDVDを借りに出かけた時、天竺川の堤防を歩きながら橋を渡りかけようとしたら、黒い雲を突拔けるやうな電柱の高處(たかみ)から、地を這ふやうな異樣な鴉の聲が響いて來て、さうかと思ふといきなり冷たい小さな雫が顏に當(あた)つた。

 雨が降り出したのだ。

 まるで鴉の聲を契機にでもしたかのやうに……。

 この句の中句は九音で全句「十九文字」の字餘りであり、上句と下句は通常の音型であるが、中句の「降るを」は「γ♪♪♪」といふ八分休符(γ)から八分音符(♪)三つによる二拍となつて、後の「教へたるや」は三連符(♪♪♪=†)が二つの二拍とで四拍子となる事で、發句の四分の四拍子の三小節といふ音型が完成されるのである。

 但し、「たるや」の「や」に延長記號(フエルマアタ)をつける氣分が必要であらう。

 『三册子(さんざうし)』によれば「春の雨」は「春雨」と區別されてゐて、芭蕉の頃には「春の雨」は正月から二月の初めのものとして詠み、「春雨」は二月末から用ゐられてゐたといふ。

 暗い心象(イメエヂ)のある雨ではあるが、春に降る雨には何處となく明るさが感ぜられる。

 俳譜を示しておかう。

 

  鴉  鳴き     降るを   教 へ たるや    春  の 雨

 からすなき   ふるを をしへ たるや はるのあめ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 

二月二十三日

 

   二の午に行く人なにを忘れ物   不忍

 

 にのうまに  ゆくひとなにを わすれもの

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 「二の午」とは、二月の午の日の稻荷(いなり)の『初午』を「一の午」として、その日に參詣(さんけい)出來なかつた時に、それに準じた次の午の日に詣(まう)でる縁日を言ふが、その月に更に午の日がある時には「三の午」となる。

 「二の午」は『初午』の日に行かれなかつた時に出かけるといふが、いづれにも參(まゐ)る場合もあるやうだ。

 けれども、古例によれば初午以外は武家に多く、町家には大方『初午』に執り行ふと辭書(じしよ)にある。

 二月は小の月の中でも最も日數の少ない日で、その爲には月の初めに『初午』がなければ、「二の午」までが精々で「三の午」にまで到達しない。

 地球が太陽の周りを廻る周期を基に、一年を三六五日として四年ごとに閏年を置き、その年の二月末に一日を加へて三六六日とすると考へて作られた暦法で、帝王の奚瑟爾(カエサル・前100-前44頃)によつて紀元前四十五年に實施(じつし)され、初期の由利由私(ユリウス)暦での月の長さは、規則的に一箇月おきに大の月と小の月が配置されてゐた。

 さうであるのに二月が閏月以外が二十八日になつたのは、七月生れのカエサルがその名をとつて「Julius」と呼ばせ、彼の死後に皇帝の亞吉士都(アウグストウス・前63-後14)は、八月の名稱を自分の名の「Augustus」に變更し、その日數を二月から奪つたからである。

 しかも、その理由が自分の名をつけた八月がカエサルの七月よりも日數が少なくなる事を嫌つたからだといふからふるつてゐる。

 暦で人名が月の名となつて殘つたのは、結局七月の「Julius(Iulius)」と八月の「Augustus」だけで、多くの羅馬皇帝が月に自分の名をつけようと改名したが、その本人が死去するとすぐに元に戻されたといふ。

 因みに、「詣(まう)でる」の「う」は「詣(まゐ)る」の活用から考察すれば「ワ行」背ある事が理解されるだらう。

 また、奚瑟爾とは居里歐(ヂユリアス)・獅挫(シイザア)の事で、人名に對して何故漢字で表記をするかといふと、知つておく事に知らないよりも意義を見出せると考へるからである。

 俳譜を見れば解るやうに、中句は「四音・三音」の音型である。

 人は現世の幸福を願つて樣々な事をするが、どれだけ神頼みをしても忘れ物をしたやうな氣がして滿足は出來ないものである。

 

 

     關聯記事

 

幸福に就いて

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二月二十四日

 

   霾るやそれでなくても見えぬ 果   不忍

 

 つちふるや   それでなくても みえぬはて

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 『霾(つちふる)』は、大正時代の終り頃に季語として注目されるやうになつたといふが、松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)の俳諧『奧の細道』の尿前の關で、

 「雲端につちふる心地して」

 とあるやうに、古くから知られた言葉であつた。

 それはまだ草木の生え揃はない大陸から、蒙古(モンゴル)や中國の黄土地帶で舞上がつた「黄塵萬丈」といはれる砂塵が、春の季節風によつて齎(もたら)されて日本にまで屆く現象で、俗に「黄沙(くわうさ)といはれるものである。

 『霾(つちふる)』は「土降る」とも表記するが、別に、

 「霾(ばい)・霾天(ばいてん)・霾晦(よなぐもり)・蒙古風・つちかぜ・つちぐもり・よなぼこり・胡沙(こさ)來る・胡沙荒(こさあ)る」

 とも言はれてゐる。

 誰でも未來が見通せる譯のものではなく、先行きに不安を抱くのは唯一人間だけの特質であらう。

 未來は兔も角、現實である今の世界でさへ黄沙によつて視界が遮(さへぎ)られてしまふなんて……夕方の報道(ニユウス)を見ながら、そんな事に思ひを致す春の初めの一日であつた。

 

 

二月二十五日

 

   はや濟ませ舊七草といはれても  不忍

 

 はやすませ  きうななくさと いはれても

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は高島易斷の暦を見てゐて『舊七草(きうななくさ)』とあつので、「舊七草といふけれど」と上五句を缺(か)いたものが浮んだ。

 『七草』は「七種」とも表記し、一月七日(人日の節句)の朝餉に七種類の野菜が入つた粥を食べる風習の事であるが、本來の「七草」は秋の七草を指し、小正月(一月一五日)のものは「七種」と書くといはれてゐる。

 『枕草子』に、

 「七日の若菜を人の六日にもて騒ぎ」

 とあるやうに、七種の行事は「子(ね)の日の遊び」とも稱され、正月最初の子の日に野原に出て若菜を摘む「若菜摘み」といふ風習があつたが、それが形骸化してしまつたものであらう。

 邪氣を拂(はら)つて萬病を除く呪術的な意味を含んで食べる「七草粥」は、冬に不足しがちな榮養を補つたり胃を休める効能とも相俟つて、未(いま)だに續けられてはゐる。

 中國の六朝時代の『荊楚歳時記』に、人日(人を殺さない日)である舊暦(きうれき)一月七日に、「七種菜羹」という七種類の野菜を入れた羹(あつもの)を食べて無病を祈る習慣が記載されてゐて、それが日本文化に取入れられたものと思はれる。

 『七草』の種類は諸説あり、現在の七種は一三六二年頃に書かれた『源氏物語』の注釈書である『河海抄(かかいせう)』に、

   芹  薺      御 行  繁 縷    佛  の座

 せりなづな   ごぎやうはこべら ほとけ のざ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪  ♪ ♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

   菘   蘿 蔔    こ れぞ  七  種  作者不詳

  すずなすすしろ  こ れぞななくさ

Cγ♪♪♪♪♪♪♪┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃

 

 が初見とされるといふ。

 人は生きて行くのに基準を設ける方が安心するのか、四季折々の行事や風景から感興を得て、身を處するよすがとしてゐるのではなからうか。

 

 

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 18、七草考・『日本語で一番大事なもの(中央文庫)』大野晋 丸谷才一 摂取本(セツシボン)

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二月二十六日

 

   池も木も山さへけぶる雨や春   不忍

 

 いけもきも  やまさへけぶる あめやはる

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 今日は生憎の雨で店が休みだつたので、「109シネマズ箕面」で『アメリカン・スナイパア』を觀て來た。

 途中で服部緑地を通りかかると、周りの景色が一幅の墨繪を見るやうに、しかも灰色のやうな薄い墨の色で視界が覆はれてゐて、この春とも思へない陰鬱な風景が氣に入つてゐた。

 「けぶる」は「煙る・烟る」とも書き、現在は「けむる」といふ表現の方が一般的となつてゐる。

 

 今日はもう一句。

 

   一  切を念 佛にして良忍忌  不忍

 

 いつさいを  ねんぶつにして りやうにんき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃ ♪ ♪♪♪†ζ┃

 

 この日は良忍(りやうにん・1073-1132)の亡くなつた日である。

 良忍は尾張國知多郡の秦氏の出自で、平安時代後期の天台宗の僧で融通念佛宗の開祖であり、謚號(しがう)を聖應大師と言つた。

 阿弥陀佛の示現を受けて、「一人の念佛が萬人の念佛に通じる」といふ立場を取り、『融通念佛』を唱へて稱名念佛で淨土に生まれると説いた。

 この世の一切を唯ひとつのものに假託(かたく)した生き樣は、それなりに「さもあらんかな」と思ふ事があるものである。

 『春の鳥』に關しては、国木田獨歩(1871-1908)の作品を思ひ浮べてしまつた。

 

 

二月二十七日

 

   求めるは雲に消えゆく春 の 鳥    不忍

 

 もとめるは   くもにきえゆく はるのとり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「求め行く鳥きらめいて春の雲」で、中句は「三音・四音」ではなく「四音・三音」なので「♪♪♪♪♪♪†」といふ音型になるが、もたもたした感があるので推敲した。

 午後になつて店に出勤する時、表通りを避けて田圃の廣がつてゐる裏道を歩いて行くと、どんよりとした灰色の空に黒い雲が居坐つてゐて、白い鳥がその中へ消えて行つた。

 そんな高い所にある雲に鳥が飛んで行けるものか。

 もしかしたら飛行機かも知れないが、一瞬だつたので確認が出來なかつた。

 筆者としては、さうあつて欲しいといふ願ひの方が優つたのである。

 

 

二月二十八日

 

   瞑すれば居ながらにして春の山   不忍

 

 めいすれば  ゐながらにして はるのやま

C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 夜中になつて客のゐない店に一人でゐると、半袖で行動が出來る。

 寒さはこの儘で屋外に出たとしても、それ程のものではない。

 さうして誰もゐない事を良い事に、梅や桃とか櫻などの咲いてゐる山へ鑑賞出來ればと思ひを馳せる。

 今年は數年振りに吉野へでも出かけようか。

 店を終へた朝の五時過ぎに車を走らせて、通行可能な九時までに山門を通り拔け山頂へと向ひ、奧千本から上千本へと左右や眼下に廣がる全山が櫻となつた吉野を下つて行く。

 中千本にある駐車場から櫻を散策し、花の嵐の中に佇む。

 豫約(よやく)で電話が鳴つて現實に戻されるまで、そんな景色を思ひ浮べて見る。

 瞑想でもするかのやうにして……。

 

 

三月一日

 

 

   叶ふなら登 れば花 の雲も下   不忍

 

 かなふなら  のぼればはなの くももした

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は『信じつつ登れば雲は下にあり』で、決意さへあれば願ひは叶ふといふ抹香臭い主張の句であつたが、これでは季語もなく、思ひばかり先行したものとなつてしまつてゐる。

 そこで中七句と下五句を『登れば春の雲は下』としたけれども、上五句の『信じつつ』が餘りに觀念的だと思はれるので推敲した。

 勿論、『叶ふなら』だつて相當(さうたう)に觀念的ではあるが、筆者にすればこちらに方が許されるやうに感ぜられ、と同時に、これらはいづれも中七句が「四音・三音(♪♪♪♪♪♪†)」といふ音型である。

 さうして、これまた空想の句となつてしまつてゐる。

 但し、これは前回と同樣に本當に空想の句であると言へるだらう。 

 因みに、『花の雲』とは櫻の花が咲き連なつてゐる樣を雲に見立てた表現であるが、十年程前に行つた小高い丘陵に滿亂(まんらん)と咲き亂(みだ)れる高遠の櫻を思ひ出した。

 

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十五、空想の句の視點に就いて 『發句雑記』より

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三月二日

 

   獨り來て雨にながむる梅の宿   不忍

 

 ひとりきて   あめにながむる うめのやど

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 三箇月に一囘の細胞檢診が先週の金曜日の十一時の豫約(よやく)だつたのに、木曜日の休日(きうじつ)に寢過してしまつたので、日を改めてもらふ事になつた。

 それで月曜日の晝(ひる)前に、お詫びがてらお好み燒を手土産にして、次の檢診を豫約(よやく)しに行つた。

 その途中、俄(にはか)に雨が降り出して、といつても小雨程度のものであつたが、傘を持つて來なかつた事を後悔しなければならない破目に陷(おちい)るかも知れないと思つた。

 そんな事を考へながら天竺川の堤防を歩いてゐると、土手の坂の半ば邊(あた)りに見事な梅が咲いてゐるのが目に止まつた。

 下まで降りて、雨宿りでもするかのやうにして梅を傘變りにして暫し眺めてゐた。

 『梅の宿』といふからには、何處かの鄙(ひな)びた旅籠(はたご)にでも泊つて、連合ひとも過さずに一人で和室の客間から、そぼ降る小雨に濡れる庭に咲くひと本の梅に見とれてゐる、といふ景色を思ひ浮べさうなものであるが、さうではない。

 かうして、いつも讀者の想像を裏切るやうな句作に手を染めてしまふ。

 檢診は明日の火曜日の十一時となつた。

 

 

三月三日

 

   お裾分けにあられをそつと雛の客   不忍

 

 おすそ わけに  あられをそつと ひなのきやく

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪ ♪ †ζ┃

 

 初めは上五句を「つきだしに」と詠んだが、直ぐに「小鉢に」と思ひ浮んだが字足らずで、「御茶請(おちやう)けに」と變化(へんくわ)させて見る。

 それでも氣に入らず、「心より」とするも態とらしさ甚だしくて、「點心の」とするはそれは「おやつ」といふ意味であるが、これでも納得出來ずに上句六音の字餘りであり、「お裾」を三連符(♪♪♪=†)にする事で「♪♪♪ ♪♪†」といふ音型の最終案となつた。

 細胞檢診の通院から店に戻ると、丁度、晝(ひる)になつてゐて、店の客席のひとつを占領して雛祭の爲の豪華な食事が用意されてゐた。

 かういつた行事に關してはみゆきちやんと長女が熱心で、何かといつては集まつてそれなりの時を過ごすのが常である。

 結局、御來店のお客樣にも節分の時の豆と同じやうに、あられを振舞つて雛祭を共に祝つてもらふ事にしてゐるのである。

 

 

三月四日

 

   雛開けて殘りて濕氣るあられかな   不忍

 

 ひなあけて  のこりてしける あられかな

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 雛祭の翌日は、これといつた行事がない。

 勢(いきほ)ひ、その日の天候や花とか鳥などの自然の景物に頼つて句を詠む事になるのだが、それもさう都合よく見當らない場合もあつたりして、苦し紛れにかういつたもので御茶を濁したりする。

 宴(うたげ)の後の味氣なさを感じて仕舞ふ。

 雛祭が終つた夜中に、長女からこんな電子郵便(メエル)が來たと、みゆきちゃんから聞かされた。

 

   雛祭おネエ言葉で參 加する   臨海

 

 ひなまつり   おねえことばで さんかする

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 女を祝ふ祭りであるから、一緒に食事をするのならば男は女言葉で食卓を圍まなければならないといふ句意であらうが、俳味といふ部分では滑稽味が備はつてゐるといへるだらう。

 出來不出來は兔も角としても……。

 

 

三月五日

 

   問ふてみん行方はいづこ春の道   不忍

 

 とふてみん  ゆくへはいづこ はるのみち

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 定休日の木曜日だから、今囘も映畫(えいぐわ)に行かうかと思つたけれども、偶(たま)には家で緩(ゆつく)りするのも良いかなと思つて、外出を一切控へる事にした。

 さう思つて店でひと眠りしてから自宅への歸り道を、それも表通りではなく田圃のある裏道を歩いて行く。

 薄曇りの空からは時折小雨がぱらついて、昨日に比べて一入(ひとしほ)身に沁む寒さは春には程遠く、天が重くのしかかる。

 人生の目的が榮達や事業に成功するといふ立身出世などではなく、生かされてゐる道程を愉しみ終(を)へる事を第一と出來得れば、惱みなど何程の事があるだらうか。

 人は何處(いづこ)から何處へ向ふの歟(か)。

 ただ解る事は、この道を行けば恐らく夏に到るといふ事だけである。

 

 

三月六日

 

   啓蟄の命ふたたび地に躍る 不忍

 

  啓 蟄 の    命 ふたたび 地に 躍 る

 けいちつの   いのちふたたび ちにおどる

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案の下五句は「息吹くかな」であつたが、觀念的だつたので改めた。

 『啓蟄(けいちつ)』とは二十四節氣の第三で、「啓」は「開く」といふ意味、「蟄」は「蟲などが土中に隱れ閉ぢ籠る」事を表し、「冬籠の蟲が這い出る(広辞苑)」といふ春の季語でもある。

 調べると、日本以外の漢字文化圏では『驚蟄(けいちつ)』と書き、日本でも時にさう書く場合があるといふ。

 それは漢王朝六代皇帝の景帝の諱が「啓」だつたので、避諱して意味が似てゐる「驚」の字で代用したからだと言はれてゐ、二十四節氣の名稱の内で日本と中國で異なるのはこれだけであるとの事。

 またこれに良く似た、『恋はデジヤ・ブ(原題:Groundhog Day、1993年2月12日全米公開)』で有名な「グラウンドホツグデイ」といふものが亞米利加(アメリカ)にあり、これは當然(たうぜん)移民によつて歐羅巴(エウロツパ)から傳へられたものである。

 固(もと)より、冬籠は死んでゐた譯ではないので生き返つたとは言へないが、眠つてゐた動植物が一齊(いつせい)に目覺めるといふ事を覺醒(かくせい)するいふ意味において、「命ふたたび」としても可笑(をか)しくはないだらうと考へた次第である。

 この命ある地球の狂亂(きやうらん)を體現(たいげん)したやうな『啓蟄』には、史特拉文斯基(ストラヴインスキイ・1882-1971)の『春の祭典』が最もよく似合ひ、巫女などによる巫術(シヤマニズム)的なものさへ感ぜられはしまひか。

 

 

三月七日

 

   ずぶ濡れの服や降りしく都市の雨 不忍

 

 ずぶぬれの   ふくやふりしく としのあめ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「ずぶ濡れの服や都にも降りし雨」であつた。

 句の心象(イメエヂ)としては、仏蘭西の象徴派詩人の魏崙(ヴエルレエヌ1844-1896)の、

 

  巷 に 雨 の 降るごとく

 ちまたにあめの ふるごとく

C♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 わが 心 にも  涙 ふる

 わがこころにも なみだふる

 ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 を思ひ浮べてゐた。

 これは堀口大學(1892-1981)の飜譯であるが、

 

  都 に 雨 の 降るごとく

 みやこにあめの ふるごとく

C♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 わが 心 にも  涙 ふる

 わがこころにも なみだふる

 ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ鈴木信太郎(1895-1970)の譯の方が、筆者は好みである。

 といふのも、

 

 いかなるゆゑに わが 心

 いかなるゆゑに わがこころ

C♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

  かくも 惱 むか 知らぬこそ

  かくもなやむか しらぬこそ

 γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

  惱 みのうちの  なやみなれ

 なやみのうちの なやみなれ

 ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 といふ最後の成句(フレエズ)に惹かれるからである。

 土曜日はお客さんに連れられてカラオケ喫茶へ行つて來た。

雨脚は可成ひどくて乘合自動車(タクシイ)で出かけたものの、『葉みんぐばーど』といふ店は表通りから奥まつた住宅の中にあつて、こんな場所で大丈夫かな思つたが、筆者の心配を他所に半分の席は埋つてゐた。

 雨だといふのにである……。

 豪華な舞臺(ステエヂ)があり、三十人は集客出來ようかといふ廣さがある事に驚いてしまつたが、別けても美人のママには感心すること頻りであつた。

 店には二時間近くゐたが、歸る時も雨は降つてゐた。

 結局、この日は一日中雨だつた。

 

 

三月八日

 

ちらほらと咲き染むや風に 007

 

   ちらほらと咲き初むや風に櫻搖れ 不忍

 

 ちらほらと  さき そむや かぜに さくらゆれ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪ †┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 この句は中句の「初むや」が三連符(♪♪♪)となつてゐる。

 晝(ひる)過ぎに『TSUTAYA』へ行く途中に近所の公園を通りかかると、梅の花が咲く少し離れた處に、もう櫻が咲いてゐた。

 他の場所では見かけないから、この木だけが勘違ひをしたのだらうか。

 長女にいふと梅ではないかといふのだが、その違ひぐらゐは解るので、そこまでいふのならば行つてみれば納得する筈だと應(こた)へた。

 今日はまた寒さがぶり返して、こんな時にといふ感が強かつたが、一足先に櫻を觀賞出來た幸運に、しばしその場で彳(たたず)んでゐた。

 

 

 

三月九日

 

   悲しみを雨に流せれば夜や春 不忍

 

 かなしみを   あめに ながせ れば よるやはる

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 冷込みが身に堪へる程の寒さである。

 それは昨夜から降り出した雨も一役買つてゐるに違ひない。

 中句の「流せ」が三連符(♪♪♪)になる事で四拍子が保たれて、發句らしさが形成されてゐる。

 ただ、句意は十九世紀以降に廣まつた言はれる感傷主義(センチメンタリズム)に毒されてゐるのかも知れない。

 春は……まだ身體的には見えない。

 

 

三月十日

 

   降ると見せる雲用意して春の雪 不忍

 

 ふると みせる  くもようい して はるのゆき

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 關西は昔から「お水取」が濟まないと暖かくならないと言はれてゐる。

 豐中の豐南町でも一時的ではあつたが、午前中に白いものがちらついた。

 青空に黒い雲が現れて、強い風と共に霙とも雪ともつかない淡いものが降つてゐた。

 今年は何年か振りに、十二日の「お水取」に出かけようかと思つた。

 その日が丁度、木曜日で店が休みだから……。

 

 

三月十一日

    

   地に觸れて命はかなき名殘り雪 不忍

 

 ちにふれて  いのちはかなき なごりゆき

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「地に觸れることさへもなき名殘り雪」であつた。

 今日は昨日と同じやうな底冷えのする天候で、青空と黒い雲からの雪がちらついてゐた。

 命の芽吹く季節である筈の春なのに、唯一つ雪だけは淡く消え行く運命にある。

 

 

三月十二日

 

色よりも酸い噛み締めて梅うどん 022

    

   色よりも酸い嚼み締めて梅うどん 不忍

 

 いろよりも  すいかみしめて うめうどん

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 今日は奈良の『お水取』へ行かずに、大阪天滿宮へ梅を觀に行つた。

 生憎の寒さで人出も疎(まば)らであつたが、『繁昌亭』の前には美しい女性のモデルがゐて、撮影を敢行してゐた。

 實(じつ)は梅が二百本の大阪天滿宮へ行くのなら、四百本もあるといふ京都の北野天滿宮行く可きだといふ長女の主張があつたのだが、それでは奈良に行く時間がなくなつてしまふといふ筆者の主張に、それならとみゆきちやんが「大阪天滿宮へ行く決定をしたのである。

 寒さは嚴しくて、電車ではなく自動車で出かけたのだが、三時過ぎに到着(たうちやく)してから出店で「梅うどん」を家族四人で食べた。

 萬博の「梅うどん」には饂飩(うどん)にも梅を練込んだ商品であつたが、こちらのは大きな梅が一箇入つてゐて、饂飩はふつうのものだつた。

 梅も思つたほど多くはなかつたが、數匹の鶯がそれを慕つて飛んで來てゐたのに遭遇したのは見つけものだつた。

 045

 今日はもう一句あつて、先程も述べた『お水取』へ行かれなかつたにも拘はらず、もし出かけたらと思つて一句ものにしてゐたのである。

 詠んだ場所は、豐南町の喫茶『こぱん』で珈琲を飮んでゐた時であつた。

 曰(いは)く、

 

   繼續が旨にはあらじお水取 不忍

 

 けいぞくが  むねにはあらじ おみづとり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 かういふ前以(まへもつ)て作つて用意をしてある句を『孕み句』といふが、美味い事をいつたものだと思ふ。

 芥川龍之介(1892-1927)の『河童(『阿呆の言葉』より)』に、

 「我々の生活に必要な思想は、三千年前に盡きたかもしれない.我々は唯古い薪に、新しい炎を加へるだけであらう」

 といふ名言がある。

 總(すべ)ての行爲(かうゐ)は、ある目的があつてそれを續けるのだが、繼續する事が目的となつてしまふ場合がある。

 勿論、繼續される事によつて生み出されるものもない譯ではない。

 因みに、東大寺修二会は七五二年(天平勝寶四年)に始められ、現在まで一度も途絶えることなく傳へられてゐるとの事である。

 

 

三月十三日

 

また今年も生長らへて釘煮かな 002

 

   また今年も生長らへて釘煮かな 不忍

 

 また ことし も  いきながらへて くぬぎかな

C♪♪ ♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 この時期になると次女の婿の實家(じつか)から玉筋魚(いかなご)の『釘煮』が送られて來る。

 今年も律儀に送られて來たのでご飯にかけて食べたり、お客樣の麥酒の御伴にお裾分けしたりしてゐる。

 「また生長らへて」とは隨分と大袈裟なやうだが、若い頃には自分の死について漠然としか認識しないもので、それが齡(とし)を重ねる毎(ごと)に死は身近な事として捉(とら)へられるやうになつて來る。

 一年一年の經過(けいくわ)が生延びたといふ實感として身に迫つて來るのである。

 さういふ「また今年も」といふ喜びや驚きのやうな氣持を表現されたのが、字餘(じあま)りとなつたのである。

 「玉筋魚」はスズキ目ワニギス亞目イカナゴ科の魚類で、稚魚は東日本で「小女子(コウナゴ)」、西日本で「新子(シンコ)」と言ひ、「釘煮」とは玉筋魚を「醤油・砂糖(ざらめ)・生姜」で煮詰めたもので、それが折れた釘のように見えるのでさう呼ばれてゐると物の本にある。

 所で、「玉筋魚」は春の季語として定著(ていちやく)してゐるが、「釘煮」はさうではない。

 けれども賛同が得られるかどうかは解らないが、筆者は春として「釘煮」を扱つてゐる。

 

 

三月十四日

 

   何處となくうらうらとある土手の春 不忍

 

 どことなく  うらうらとある どてのはる

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「どことなくうらうらとある春の中」が浮び、次に下五句を「春の風」と置いてから「土手の風」としたが、季語がないので最終案となつた。

 『TSUTAYA』へDVDを借りに行く途中に、天竺川の堤防を歩いて行くと、遉(さすが)に近畿は『お水取』が濟むと寒さが和(やは)らぐと言はれてゐる通り、もう寒さを感じられない穩(おだ)やかな風で、何處となく春らしい氣候になつてゐる。

 それも昨日からの雨が突然に上がつて、明るい陽射しになつた事も影響してゐるのだらう。

 

 

三月十五日

 

   邊りには雨でも匂ふ沈丁花 不忍

 

 あたりには  あめでもにほふ じんちやうげ

C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪ ♪ ♪†ζ┃

 

 初案は字餘りだが「邊りにはそれでも匂ふ雨の沈丁花」と浮んだので、それを纏めてみた。

 纏めるとは有體(ありてい)に言へば端折る事であるが、發句は「省略の文學」である事の證左であるといへるだらう。

 けれども、よく考へれば文章といふものの要諦でもあり基本だと言へまいか。

 沈丁花とは「ちんちやうげ」とも言はれ、漢名を「瑞香(ずいかう)」また別名として「輪丁花(りんちやうげ)」ともいふとある。

 中國南部が原産地で室町時代には既に日本で栽培されてゐたといふが、その殆どが雄株で、雌株が見られる事は稀(まれ)だといふ。

 從つて果實(くわじつ)は結ばず挿木(さしき)で増やすが、赤く丸い果實を見つけたとしても有毒であるから、素人は手を出さない方が無難であらう。

 花の煎じ汁は「歯痛・口内炎」などの民間藥として使はれるさうだが、これも處方の仕方にコツが必要なのではないか。

 季語としては、花を咲かせるのが二月末から三月にかけてなので春の扱ひとなつてゐて、香木の沈香のやうな良い匂ひがし、丁子(ちやうじ)のやうな花をつけるといふ意味でその名があるといふ。

 二月二十三日の誕生花でもあり、學名は希臘(ギリシア)神話の女神ダフネに因むと言ひ、花言葉は「榮光・不死・不滅・歡樂・永遠」ださうである。

 近くの公園を通りかかると、雨に封じ込められた匂ひは、それでも地面の幾筋もの水の流れを傳はつて、かすかではあるが漂つてゐる。

 それを辿つて花の在處(ありか)を見つけると、匂ひの世界の住人となる。

 

 

三月十六日

 

   伊予柑と胃に優しいからと醗酵乳 不忍

 

 いよかんと  いにやさしい からと ヨオグルト

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 この句の中句は「九音」の字餘りで、「からと」が三連符(♪♪♪)の一拍で中句が四拍子を保つてゐる。

 我家では食前に醗酵乳(ヨオグルト)が出される。

 ヨオグルトとは土耳古(トルコ)語で、「牛乳・水牛・羊・山羊」の乳などに乳酸菌や酵母を混ぜて醗酵(はつかう)させて作る食品の事である。

 いつもその上には、バナナとか葡萄とかの旬の果物が乘つてゐて、今だと伊予柑が添へられてゐる。

 胃に優しいのは勿論であるが、その行爲(かうゐ)そのものが優しいのである。

 因みに、五月十五日を「ヨオグルトの日」としてゐる。

 

 ※註

 醗酵の「醗」が環境依存文字で正字を使へないのが無念である。

 

 

三月十七日

 

   明け切れずそのうへ靄で見えぬ春 不忍

 

 あけきれず  そのうへもやで みえぬはる

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 店は朝の五時まで營業してゐて、四時半を廻つたら暖簾をしまひ、閉店の準備をし始める。

 春とは言へ、まだこの時間は夜を引摺つて開け切らない。

 御負けに靄まで出てゐて、街燈や信號の明りが薄ぼんやりと空中に浮んでゐる。

 もう寒いといふ事はなくなつたが、春らしい景色は何處にも見えない。

 勿論、晴れてゐたからといつて春といふ抽象物が見える譯のものではないが……。

 

 

三月十八日

 

   春の雨に傘持つ指の重さかな 不忍

 

 はるの あめに  かさもつゆびの おもさかな

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 午後の四時前に風呂を浴びに家へ行かうと表へ出ると、雨が降り出した。

 慌てて傘を取り出して歸路に著(つ)いたが、途中にある喫茶『コパン』で珈琲を飮んで傘休めをした。

 雨は激しさを増して、憂鬱な氣分で傘に當(あた)る雨の音を聞いてゐる。

 倦怠(アンニユイ)な氣分に浸りながら……。

 

 

三月十九日

 

   春山の裾しか見えぬ雨の旅 不忍

 

 はるやまの  すそしかみえぬ あめのたび

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 朝の七時になつて激しく降り頻る雨の中を、名神の豐中インタアから西宮を拔けて、阪神高速第二神明で混雜の爲に停滯を餘儀なくされ、十時半頃に途中の青山で降りた。

 それは「姫路青山銘菓桜小径」さんの店の『パレ杵屋』さんで、モオニングを食べる爲だつた。

 食事を濟ませてから、お土産に「桜小径」とシユウクリイムを買つて店を出た。

 これで立寄つたのは二囘目であるが、今度は姫路の店にも行つて見ようと思ふ。

 龍野を過ぎて新宮邊(あた)りになると雨は更に激しくなり、通り過ぎて行く山の頂は霞んでしまつて裾野しか見えず、幻想的な景色が眼前に廣がつてゐた。

 

 晝(ひる)過ぎになつて妻の實家(じつか)に到着(たうちやく)すると、早速、夕食まで歸りに事故を起さない爲に蒲団で睡眠を貪らなければならなかつた。

 何の事はない、筆者は寢る爲に歸つたやうなものである。

 而(しかう)して、夕食時に聲をかけられて飯を濟ませて、米やら取れたての野菜や収穫してもらつてゐた玉葱や馬鈴薯を車に積んで、七時頃に美作を後にした。

 

   妻子連れて行く手さへぎる春の鹿 不忍

 

 つまこ  つれて   ゆくてさへぎる はるのしか

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 歸りの中國自動車道路の作東インタアの入口は、國道の本線から脇に入つた小高い峠にある。

 料金所へ入らうと右折しようとした時、突然、車の前を鹿の親子連れが横切つた。

 驚いて徐行をしながら、その行方に視線を投げかけると、鹿の家族は何事もなかつたやうに車道から輔道(ほだう)へ、さうしてその先の木々の中へ消えて行つた。

 鹿は別に「ゐのしし」に對して「かのしし」といふが、古くは「しし」とは肉を意味する言葉で、「猪(ゐ)のしし」及び「鹿(か)のしし」といひ、いづれも秋の季語である。

 

 

三月二十日

 

   癌と聞いて我が事ながら知らぬ春 不忍

 

 がんと きいて  わがことながら しらぬはる

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案から「癌と聞いて今更ながら春の中」と改めては見たものの、餘りに自身の事を知らぬといふ表現としては元の方が妥當(だたう)な氣がして、その儘とした。

 癌が發症して五年以上は經(た)つたが、醫者(ゐしや)からは、

 「まだ若いから」

 と脅されてゐる。

 もう六十を過ぎ、四捨五入すれば七十に垂(なんな)んとする身を若いとは、言ふも云つたりであらう。

 時代が違ふとは雖(いへど)も、俳聖といはれた松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)は五十一歳で病歿(びやうぼつ)してゐる事を思へば、與謝蕪村(1716-1784)の六十八歳と、小林一茶(1763-1828)の六十四歳で亡くなつてゐる半ばで存命してゐられる事を身の幸(さひは)ひと受取らねばなるまい。

 その上に病(やまひ)の兆候もなければ、餘命遙かとはいはねど、四、五年の猶餘(いうよ)は殘されてゐるのではないかと思つてゐる。

 けれども、自身の齡(よはひ)を倩々(つらつら)惟(おもんみ)れば、眞逆(まさか)この年までといふ感が甚だしいものであり、氣持は三十代といふ感覺で、未(いまだ)だ煩惱(ぼんなう)の中の住人である。

 それにしても、一番知らなかつた事は自分自身の事であつた。

 

 

三月二十一日

 

   野も山もわが春愁のなか住む 不忍

 

 のもやまも  わがしゆんしゅうの なかにすむ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪ ♪ ♪ ♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「野も山も人里に住むわが春愁のなかにあり」といふやうな事が浮んだ。

 唯物論的には春愁などあつたものではないが、唯識論的には野も山も人里もわが意識の春愁の中に存在してゐるのである。

 『春愁』とは何となく氣が塞いで物憂い春の思ひの事である。

 別に「春の愁ひ」ともいふが、この症状が顕著な例を掲げれば、『じやりん子チエ』に出演する誰よりも人間らしい「アントニオジユニア」で、彼(?)こそは春先になると憂鬱な物思ひに耽る哲人となるのは有名な話である。

 ひとり、我もまたここにあり。

 

 

三月二十二日

 

   愁ひ越えまた愁ひ越えても春の雲 不忍

 

 うれひこえ  また うれひ こえても はるのくも

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 中句の九音は、「愁ひ」を三連符(♪♪♪)にする事で四拍子として解決出來る。

 世の中は「樂あれば苦あり」といふが、往々にして苦を越えても苦があつて、樂が中々廻つて來ない場合があつたりするので、心が折れさうになつたりする。

 握り拳(こぶし)を内に祕めて耐へるしかない。

 いつか來るであらう笑顏を夢見て……。

 下句の「春の雲」とは、雲に憾(うら)みはないけれども光を遮るといふ意味で配して見た。

 

 

三月二十三日

 

   春も暗く遙かかすかに夕燒て 不忍

 

 はるも くらく   はるかかすかに ゆうやけて

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 上句の「春も」は三連符(♪♪♪)となる事で四拍子となる。

 初案は「春暗く」といふ上句であつたが、「春」が「暗」いとは言葉足らずで、この儘だと「春」そのものが「暗」いといふ事になつてしまふ。

 勿論、心理的に自身の身内に不幸があつたとか、虚無的な精神からさういふ事も象徴的表現としては考へられるが、それ以外はさういふ事はない譯で、「春」の日が暮れてからが「暗」いといふのが本筋であらうかと思はれる。

 そこで限定的な表明として、「字餘り」となつても言葉を正しく使はなければならない。

 「字餘り」は、感情の破綻の表現であると共に、言葉足らずを防ぐ爲にも許容とされてゐるのだと知つておく可きだらう。

 下句の「夕燒て」に就いては發句としては問題の多い表現で、「て止り」といふ連歌の第三句の體(てい)であり、他に「らん・もがな」の止りがあるのだが、その上に「夕燒」といふ名詞を「自カ下一段(文)」の動詞化させてゐる處に注意を喚起したかつた、といふのが作者の謀(はかりごと)であつた。

 以上に述べた事は筆者の熱心な讀者であるならば、これまでにも再三述べた事であるから、言はずもがなの事で口幅つたく感ぜられるかも知れない。

 寒の戻りで少し温かくして自宅へ風呂に入りに歸つた。

 それが夕方の四時頃で、途中に喫茶『コパン』で珈琲を飮んでから部屋で撮りためたテレビドラマを觀て、やおら風呂に浸(つ)かつた。

 緩(ゆつく)りしてゐた所爲(せゐ)で、外はもうすつかり暗くなつてゐたが、西の地平線には幽かに空を赤く染める夕燒が殘つてゐた。

 それが次第に消えて行くのを追ひかけるやうに店へと向つた。

 今日も無事に一句がものに出來、

 「やれやれ」

 といふ安堵感に浸りながら……。

 

 

三月二十四日

 

   煩惱にどつぷり浸かる彼岸明け 不忍

 

 ぼんなうに  どつぷりつかる ひがんあけ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 愛用の高島易斷の暦によれば、二十四日は「彼岸明け」だとあつた。

 春分と秋分を中日とした彼岸は、前後各三日を合せた各七日間の一年で計十四日間の期間に行ふ佛事を彼岸會(ひがんゑ)と呼び、最初の日が「彼岸の入り」で、最後の日を「彼岸明け(地方によつて「はしりくち」)」と呼ぶとものの本にある。

 中日には先祖を祀(まつ)り、殘りの六日間は悟りの境地に達するのに必要な「六波羅蜜」を一日に一つづつ修める日とされてゐるが、「六波羅蜜」とは、 

 「布施・持戒(利他)」「忍辱・精進(自利)」「禪定・智慧(解脱)」 

 の事で、到彼岸(とうひがん)とも譯されるが、「完全である事・最高である事」を意味し、佛教の修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指してゐる。 

 所で、彼岸會は八〇六年(大同元年)に日本で初めて行はれた獨自のもので、この佛事は「淨土思想」にふかく結びついてゐて、西方にあるとされる阿彌陀如來が治める極樂淨土、則(すなは)ち西方淨土が、春分と秋分になると太陽が眞東から昇つて眞西に沈む太陽を禮拜し、その彼方に淨土があると思ひを馳せたのが彼岸の始まりと考へられる。

 凡俗の人である筆者などは悟りとは無縁で、煩惱に塗(まみ)れた生活を過して生涯を終へるのだらう。

 

 

三月二十五日

 

   淡雪になりそびれてや日照雨 不忍

 

 あはゆきに  なりそびれてや ひでりあめ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 一時(いつとき)は暖かくなつたので、このままそれが續くだらうと身體(からだ)が慣れようとしたばかりなのに、二、三日の間に寒さが嚴しくなつてしまつた。

 そんな中、今日は朝の十時から十一時半まで「庄内會館」で、

 『暮しの中の部落問題』

 といふ命題で、太田恭治さんを講師とした集會に出かけた。

 主催は「豐中人權まちづくりセンタア」とあつたが、筆者は初參加だつたので詳細は不明のままであつた。

 討論(デイスカツシヨン)形式ではなかつた爲に一方的な話で終始したが、せめて質問の時間を割(さ)いてゐてくれたらと思つた。

 その歸りに『TSUTAYA』で取寄せてもらつてゐたDVDをせしめ(?)て、天竺川の堤防を歩いてゐると、何やら冷たいものが顏にかかつた。

 晴れた空の一部に灰色から黒へと諧調(グラデエシヨン)を見せた雲が、いつのまにか筆者の上に覆つてゐて、寒さにも拘はらずそれが雪にはならずに、霙(みぞれ)とも雨ともつかぬやうなものが降り出した。

 『淡雪』は別に「沫雪・泡雪」とも表記し、『淡雪』は「あはゆき」で「沫雪・泡雪」は「あわゆき」と假名(かな)を振り、『萬葉集(まんえふしふ)』から『後拾遺和歌集(ごしふゐわかしふ)』までは冬の景物と捉へられてゐ、『源氏物語』の「若菜上」には、

 「春のあは雪」

 と『淡雪』は春へと季が移り、『新古今集』の頃には『淡雪(あはゆき)』を春先の消えやすい雪とし、泡沫のやうにすぐ消えてしまふといふ意味の「沫雪・泡雪(あわゆき)」とは區別すると辭書(じしよ)にある。

 

 

三月二十六日

 

   彼方より此方へ鳥や風光る 不忍

 

 かなたより  こなたへとりや かぜひかる

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「彼方より此方へ來たり風光る」であつたが、凡庸ゆゑに推敲した。

 朝の五時過ぎに店を閉めて、二階で假眠(かみん)をした。

 今日は店が休みなのでもつと緩(ゆつく)りしても構はないのだが、八時半には目が覺めてしまつた。

 別に今更、嬉しかつたといふ年齡でもあるまいが、このところ眠りが淺くて往生(わうじやう)してゐる。

 直ぐに店を出て、行きつけの喫茶『Copin(コパン)』でモオニングを註文(ちゆうもん)した。

 この店の鋪道(ほだう)側にある窓の植込みに、蜜柑(オレンヂ)を輪切りにしたものや紙コツプにシロツプを入れたものを枝に挾んで、鳥寄せ紛(まが)ひの事をしてゐる。

 いつもなら繍眼兒(めじろ)が來てゐるのは報告した事があるのだが、今は白頭鳥(ひよどり)が飛んで來るといふので見てみると、確かに二羽の白頭鳥が枝を行つたり來たりしてしてゐる姿に丁度(ちやうど)出會(でくは)した。

 「ひよどり」は留鳥(りうてう)で、普通「鵯」と表記するが、留鳥は渡り鳥に對する語であり、繍眼兒の體長が十一糎(センチ)に比べて、白頭鳥は二十七糎と倍以上も大きいので、他の鳥は枝に寄りつけなくなつて側をうろついてゐる。

 今日はまだ寒いとは言へ天氣も良くて、室内からだと枝の隙間から見られる外の景色は春の光が躍(おど)つてゐるやうである。

 

 

 

三月二十七日

 

   上弦の月見當らぬ春曇 不忍

 

 じやうげんの  つきみあたらぬ はるぐもり

C ♪ ♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 日中は晴れてゐたのに、夕方ぐらゐからやや曇り出して來た。

 『春曇』とは春季に多い薄曇りの事で、春になると何となく氣が塞(ふさ)いで物憂くなつたりするものである。

 假令(たとへ)空が晴れてゐたとしても、そんな氣分を『春曇』といふのではないかと考へてしまふ。

 別に『春情』ともいふが、それよりも『花曇』の方が似た氣分ではないかと思はれる。

 高島易斷の暦によれば、今日は「上弦」だとあつたが、殘念な事にみつけられなかつた。

 

 

三月二十八日

 

   ブラインドより地に落つ小さき春の虹 不忍

 

 ブラ インド より  ちにおつちいさき はるのにじ

C♪♪ ♪♪♪ † ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 この句は「上七音・中八音・下五音」の二十文字で、三文字の字餘りとなつてゐる。

 晝食(ちうしよく)の時に客席の一つに著(つ)かうとしたら、床にひと筋の塵(ごみ)のやうなものが落ちてゐるのに氣がついた。

 取らうと腕を伸ばしたら、それは指を通過して手の上に乘つた。

 驚いてよく見たら、塵だと思つたのはブラインドから差込む微かな光で、それが角度の關係で虹に見えたのだつた。

 いふまでもなく、『虹』とは夏の季語である。

 それがそれ以外の季節に詠む事で、何か有得ないものでも見つけたやうな氣持になつたりするものである。

 

 

三月二十九日

 

   春の日や諦めさせた雨上る 不忍

 

 はるのひや  あきらめさせた あめあがる

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 この句の初案は「諦める朝にや夜に雨上る」と詠み、氣に入らずに「何もかも諦めさせる雨上る」と推敲したが季語がない。

 そこで最終案となつた。

 今日は朝八時から高川小學校でソフトボオルの開幕式であつたが、生憎な事に雨が降り出して、折角、瞼を擦(こす)りながら持出した寫眞機(カメラ)も試合を撮影する事なく、僅かに開幕式の挨拶を映像に収めるにとどめた。

 言葉には勿論、限界がある。

 けれども、それを如何に感じさせずに人に傳(つた)へるかといふ事を考へるのも愉しいものである。

 この句に就いても、とある地區のソフトボオルの試合が雨で流れたといふのが現實の背景であるのだが、そこを離れてもつと空想を擴(ひろ)げれば、前からこの日に行樂に出かけようと計畫(けいくわく)してゐた花見が、朝からの雨で不首尾に終つてしまつて、憮然とした面持ちの主人公に成代(なりかは)るといふ事も可能なのである。

 關西も、愈々(いよいよ)花見の酣(たけなは)となつた。

 

 

     關聯記事

 

十五、空想の句の視點に就いて 『發句雑記』より

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4637715&id=63350638

 

 

三月三十日

 

瞼閉ぢてそれでも見ゆる櫻かな 001 

 

   瞼閉ぢてそれでも見ゆる櫻かな 不忍

 

 まぶた とぢて  それでもみゆる さくらかな

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 この度、『とよなか地域ささえ愛ポイント事業(原文の儘)』といふ奉仕(ボランテイア)活動の一環として、『アミーユ豊中庄本町(原文の儘)』の「介護付有料老人ホーム(原文の儘)」で發句教室を開催する事となつた。

 會の名前は『鳰(にほ)の會(くわい)』とした。

 その時、一齣(ひとくさり)發句に就いて解説した後に、作句の參考にでもなればと即興で、

 「明るさに瞼閉ぢても櫻色」

 と詠んだのが初案であつたが、それからすぐに推敲の過程をみせながら最終案へと移つた。

 この句の上句を「目を閉ぢて」とすれば五文字となつて整ふのだが、目を閉ぢた瞼の上に暖かな春の陽射しと櫻の花の色が映えるやうに感ぜられればと考へて、敢て字餘りとなる「瞼」としたのである。

 

 

四月一日(三月三十一日)

 

舞ひ遊ぶ花散る下で朝餉かな uvs150401-001

 

   舞ひ遊ぶ花散る下で朝餉かな 不忍

 

 まひあそぶ  はなちるしたで あさげかな

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 先に示した句が初案で、これではと「散る花の舞ひ遊ぶ下で朝餉かな」と推敲したが有觸(ありふ)れてゐるのでその儘とした。

 今日は、服部緑地で家族揃つて花見がてら朝食をしに出かけ、そこで「辨當(べんたう)に朝日に照つて櫻散る」と詠んで見たが纏らず、「朝日」も「照る」も「辨當」も省いて出來上つたのがこれである。

 發句は省略の文學で、

 「言ひおほせて何かある(去来抄)」

 と芭蕉の言葉にもある通り、贅肉は殺ぎ落とさなければならない。

 この句を推敲した讀み下し文ではなく、當初(たうしよ)の倒置法(たうちはふ)による上句を「舞ひ遊ぶ」とした事で、辨當や食事をしてゐる主(ぬそ)の上に朝日に煌(きらめ)く櫻の花瓣(はなびら)が舞つてゐるばかりでなく、食事をしながらそれを見てゐる人間の心まで、何か浮き浮きした舞ふやうな氣分まで表現出來たやうに感ぜられまいか……。

 

 

四月一日

 

   吹雪きだと騙すつもりが萬愚節 不忍

 

 ふぶきだと   だますつもりが ばんぐせつ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 この句の初案は「雨止んだと騙すつもりが四月馬鹿」であつた。

 けれども、どうせ騙すのならば嘘は大きい方が面白くて罪は輕いと思はれるので、少しだけ規模上昇(スケエルアツプ)させて季節外れの「吹雪」としてみた。

 本來ならば、

 「吹雪きだと騙すつもりが騙されて」

 とか、

 「吹雪きだと騙すつもりが返討(かへりうち)」

 といふ方が理解し易いのだが、すでに述べたやうに、

 「言ひおほせて何かある(去来抄)」

 が表現の要諦であるから、まして發句となれば季語も要求されるので、作者が何に騙されたのかまでは讀者の想像に任せて中句までとし、下句を季語としての役目のある『萬愚節』としたのである。

 因みに、先の句は發句であるよりも和歌にした方が諒解されるやうに思はれる。

 曰く、

 

   吹雪きだと騙すつもりが騙されて

   いまや地球は氷河期ぞとや

 

 ふぶきだと   だますつもりが だまされて

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

  いまやちきうは ひようがきぞとや

 γ♪♪♪♪♪♪♪┃ ♪ ♪♪♪♪♪♪┃

 

 かうすれば納得されるだらう。

 いふまでもなく『萬愚節』とは、「四月馬鹿(エイプリルフウル)」の事で、聞き慣れない言葉でさう表現した方が、更に騙す氣分が膨れ上がるだらうと考へたからに外ならない。

 調べると、英語の「April Fools’ Day」とは、四月一日には嘘をついても良いという風習の事で、それも正午までに限るとも言ひ傳へられてゐ、更に細かく言へば「April Fool」はその日に騙された人を指すのだといふ。

 この言葉は日本では直譯風に『四月馬鹿』とか、漢語風の表現だと『萬愚節』若しくは『愚人節』とも言ひ、仏蘭西(フランス)語では「四月の魚(Poisson d’avril・プワソン・ダヴリル)」と呼ばれるのださうである。

 この風習の起源は全く不明だとの事で、それ自體がエイプリルフウル的である。

 負け惜しみを言へば、昨日の句は「四月一日」として發表したが、實(じつ)は三月三十一日の日附の事を詠んだもので、『今日の一句』は一日遲れで掲載されてゐるから、それに氣がつかれれば、それが「エイプリルフウル」であつたのである。

 幸ひといふか、殘念な事にその効果は捗々しくはなかつたが……。

 お粗末!

 

 

四月二日

 

   不忍に輝き優る花に鳥 不忍

 

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 しのばずに  かがやきまさる はなにとり

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   散る花に異國の人の行交ひて 不忍

 

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 ちるはなに  いこくのひとの ゆきかひて

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   池の岸に棚引き渡る花の雲 不忍

 

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 いけの きしに  たなびきわたる はなのくも

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   古の社とビルの花景色 不忍

 

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 いにしへの  やしろとびるの はなげしき

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 今日は次男を訪ねて妻と二人で東京へ出かけた。

 次男は麻布でラウンジをしてゐて、そればかりか今年の初めにハンバアガア店まで始めたので、多少の心配もあつて一度は見ておかうと思つたからである。

 どうなつても心勞が盡きないのが親といふものなんだらうが、顏を見ればそれなりに納得出來るだらうと思つての上京なのであつた。

 

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 朝七時過ぎに新幹線に乘つて東京驛に著(つ)き、その足で上野の不忍池に櫻を觀(み)に行つたが、櫻は滿開の上に上天氣なので、驛は花見客の長蛇の列で賑はつてゐて、なかなかその場を脱出する事が出來なかつた。

 そこをクリアしても上野公園から不忍池までは、半分が歐羅巴(エウロツパ)や亞細亞の人々がところ狹(せま)しと集まつてゐて、人種の坩堝(るつぼ)と化してゐた。

 

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 二時間以上も上野と不忍池を一周してから淺草でe="font-size:"fontり  だまとしかと騁似た氣十五>014/10/uvs1パ)ゃle="fonうなつtrong><>

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パ)餂はウロsize: 18pt;">三月二十四日

 

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<燂訏貮、『今日の一句』は一日遲れで掲載されてゐるから、それに氣がつかれれば、それが「エイプリリのある>lwww.mstyle="font-size: 18pt;">三月二十六日

 

 

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