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十一月七日

 

 

月冴えて地も煌くや掬星臺 152

   月冴えて地も煌くや掬星臺 不忍

 

 つきさえて  ちもきらめくや きくせいだい

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摩耶山にある『オテル・ド・麻耶』への交通手段(アクセス)としては、自家用車(マイカア)ではなく公共の交通機関の中でバス以外だと、十分ほど離れた『掬星臺(きくせいだい)』といふ場所に架空索道(ロオプウエエ)の『星の驛』がある。

そこは標高七百米(メエトル)に位置して、

「手で星を掬(すく)へる程の夜景」

が廣がつてゐるといふところから『掬星臺』と命名されたのであるが、日本三大夜景のひとつだといふ事は訪れた人だと納得されるものと思はれる。

また、『摩耶きらきら小徑』といふ天の川を動機(モチイフ)とした星座が描かれた遊歩道があつて、「蓄光石」といふ蓄光材で鋪裝(ほさう)されてゐるので歩道全體が夜間になると幻想的な青色の光が浮かび上がる。

 

 

木の果に宿の朝湯や 006 

   木の果に宿の朝湯や冬立ちぬ 不忍

 

 きのはてに   やどのあさゆや ふゆたちぬ

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朝の七時にみゆきちやんから起されて、

「風呂にいつたら?」

と言はれた。

御負けに、

「朝日が昇るところも見たよ」

といふ聲が寢惚(ねぼ)けた頭に降つて來たので、のろのろと寢臺(ベツド)から起上がつて地下へ向つた。

陽射しにつつまれた湯船につかると、じんわりと目が覺めて來た。

 

 

十一月八日

 

   冬もまだ二日のことよ日和下駄 不忍

 

 ふゆもまだ  ふつかのことよ ひよりげた

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冬になつたとはいふものの晴天の日にはまだ肌に寒さが傳はつては來ないほどの氣候で、用心にダウンジャケツトを著()て出かけようものなら、汗ばむ事さへある。

慌てて半袖のTシャツの上にYシャツを羽織り直して病院に出向くのだが、陽の差すところでは素足に下駄で歩いても冷たいとは感じない。

さうして、日蔭に入つてそれが數分も續くと流石に足の指先がひんやりとするのだが、運動した量による所爲(せゐ)か、矢張寒いとは感じない。

ただ、周りの視線が奇異なものでも見るやうなのが少し氣がかりではある。

しかし、暑がりの筆者はそんな事には頓著せずに下駄の音を空に向けて響かして行く。

 

 

十一月九日

 

   しぐるるや梢の果にかすむ山 不忍C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「しぐるるや梢の先の山もかすみて」と詠むも「片歌」の態(てい)にて、「しぐるるや梢のはてに浮ぶ山」と詠んでみて最終案となつた。

 時雨(しぐれ)とは、主(おも)に晩秋から初冬にかけて降つたり止んだりする小雨の事を指すが、またそのやうな曇りがちの空模様も含まれてゐると辭書(じしよ)にある。

 季語としては發句で冬に屬してゐるが、「萬葉集(まんえふしふ)」では晩秋にも初冬にも詠まれてゐ、「古今集」でも二季に跨つてゐて「金葉集」の時代まで續いてゐるとの事である。

 

 心敬(しんけい・1406-1475)に、

 

   雲はなを定めある世のしぐれかな 心敬

 

 くもは はなを   さだめあるよの しぐれかな

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 といふ句があり、宗祇(そうぎ・1421-1502)に、

 

   世にふるもさらにしぐれのやどりかな 宗祇

 

 よにふるも   さらにしぐれの やどりかな

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 といふ句が詠まれ、それに松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)が、

 

   世にふるも更に宗祇のやとり哉 芭蕉

 

 よにふるも   さらにそうぎの やどりかな

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 と、和歌ではないが本歌取りのやうにして獻辭(オマアジユ)の句を殘してゐる。

 更に、彼には、

 

   初しぐれ猿も小蓑をほしげ也 芭蕉

 

 はつしぐれ   さるもこみのを ほしげなり

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   旅人とわが名呼ばれん初時雨 芭蕉

 

 たびびとと   わがなよばれん はつしぐれ

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 といふ名句があり、芭蕉の忌日を「芭蕉忌・翁忌」などといふが、なんと言つても斷然『時雨忌』にとどめを刺すのではなからうか。

 

 上五句の「しぐるるや」は筆者の好んでゐる季語で、與謝蕪村(1716-1784)に、

 

   時雨るや我も古人の夜ににたる 蕪村

 

 しぐるるや   われもこじんの よににたる

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   しぐるゝや鼠のわたる琴の上  蕪村

 

 しぐるるや  ねずみのわたる ことのうへ

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 といふ作品があり、蕪村の弟子で後に夜半亭三世を繼いだ高井几董(たかいきとう・1741-1789)にも、

 

   俳諧に古人ある世の時雨かな 几董

 

 はいかいに   こじんあるよの しぐれかな

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 といふ句がある。

 

 また、筆者が批判めいた事ばかりを發言してゐる自由律俳句に、

 

   しぐるるや死なないでゐる 山頭火

 

 しぐるるや しなないでゐる

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 といふ種田山頭火(1882-1940)の秀句とでもいふ可き短詩がある。

 筆者近江不忍(あふみのしのばず)には、

 

   しぐるるや泣きゆる宵の暗さかな 不忍

 

 しぐるるや  なきゆるよひの くらさかな

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 といふ十代の頃の句がある。

 ただし、「や・かな」の切字がふたつあるもそれを良とする。

 

 

十一月十日

 

   雲流す風かすかなるや冬淺き 不忍

 

 くもながす  かぜかすかなるや ふゆあさき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

まだ冬とは言へそれ程も寒さはなく、穩やかな陽射しが降つてゐる。

そんな朝を迎へて一日が始まる。

いつまでもそんなものが續きはしない事を解つてはゐるが、せめてこの時間をかみ締めるやうに輔道(ほだう)を散歩する。

 

 

十一月十一日

 

   枝を拔け窓に射し來る小六月 不忍

 

 えだをぬけ   まどにさしくる ころくぐわつ

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 この間に退院して來たばかりだと思つたのに、もう繼母(はは)を阪大病院の定期檢診に連れて行く事になつた。

 陽が照つてゐるので車の中は暑いぐらゐで、窓からの風を氣持良く受けながら車をすべらせた。

 病院に送つてからこれまた孫の入院してゐる豐中市民病院へ直行した。

 病名は「川崎病」といふ聞いた事のない珍しいもので、なんでも幼兒(えうじ)の罹(かか)る病氣らしく、もう入院してから一週間も經()つてゐる。

 寢てゐたので病室にみゆきちやんを殘して、筆者は入口にあつた圖書館で、窓からの陽射しを浴びながら本を讀んでゐた。

 『小六月』とは俗に「小春日和」と言つてこちらの方が良く使はれてゐるが、文字數が六文字もあるので中句の最後から下句にかけて「小春・日和かな」といふやうな工夫が必要かと思はれ、多くは、

 「小春日・小春空・小春風・小春凪」

 のやうな形を採用されるやうな氣がする。

 單に「小春」ともいふが、それは陰暦の十月の異稱(いしよう)で、立冬を過ぎてもまだ寒さも感じられない穩やかな日和を指すが、中國の六朝時代(六世紀)の最も古い「荊楚歳時記」に、

 「十月は天氣和暖にして春に似る。小春(せうしゆん)と曰ふ」

 とあつて、その頃から用ゐられてゐたものだと辭書(じしよ)にある。

 また『徒然草』にも記載されてゐるといふ。

 この句は、

 「枯れた枝の先を拔けて窓に射してゐるものは陽射しではあるものの、正しくその正體は『小六月』である」

 といふ事を表現した心算(つもり)であるが、果してうまく傳はつただらうか……。

 以下に有名な俳人の『小六月』の句を列擧すれば、

 

   夕陽や流石に寒し小六月     鬼 貫

 

 ゆふひや  さすがにさむし ころくぐわつ

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   似た事の三つ四つはなし小六月 千代女

 

 にたことの  みつつよつはなし ころくぐわつ

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   張物に蝿の小紋や小六月    也 有

 

 はりものに   はへのこもんや ころくぐわつ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪ ♪ †ζ┃

 

 

   米俵手玉にとるや小六月    一 茶

 

 こめだはら  てだまにとるや ころくぐわつ

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   のびのびし歸り詣でや小六月  子 規

 

 のびのびし   かへりまうでや ころくぐわつ

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十一月十二日

 

   しぐるるや溶けだす闇が沁みてくる 不忍

 

 しぐるるや  とけだすやみが しみてくる

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 日が落ちる時間が早くなつて、夕餉の時にはすつかり暗くなつてゐる。

 食事の用意が出來たといふ聲で二階から店に降りて來ると、開いてゐる裏口の戸口から路面の濡れてゐるのが確認出來た。

 朝五時まで店を營業してゐるので、晝(ひる)でも眠られるやうに窓帷(カアテン)をして暗くしてゐるので、そのまま二階にゐたら氣がつかないほどの時雨である。

 筆者の好きな季題である事はすでに述べたが、時雨にもいろいろあつて、

 その年の初めに降れば「初時雨」、

 北から降りだせば「北時雨」、

 部分的に降るのを「片時雨」、

 傘を持つて出れば「時雨傘」といひ、

 朝に降れば「朝時雨」、

 夕方に降れば「夕時雨」で、

 夜に降るものを「小夜時雨」といふが、他に、

 「北山時雨・横時雨・月時雨・泪の時雨・川音の時雨・松風の時雨・木の葉時雨・時雨音・時雨雲・時雨心地・時雨の色・液雨(えきう)

 とあつて實(じつ)に多彩である。

 

 また、調べ直してみると松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)に、

 

   草枕犬もしぐるるか夜のこゑ     芭蕉

 

 くさまくら   いぬもしぐ るるか よるのこゑ

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   人々をしぐれよ宿は寒くとも     芭蕉

 

 ひとびとを  しぐれよやどは さむくとも

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   しぐるるや田の新株の黒むほど    芭蕉

 

 しぐるるや  たのしんかぶの くろむほど

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 とあり、外にも、

 

   あはれさやしぐるる比の山家集    素堂

 

 あはれさや しぐるるころの さんかしふ

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   深川は月も時雨るる夜風かな     杉風

 

 ふかがはは   つきもしぐるる よかぜかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

   しぐるるやもみの小袖を吹きかへし  去來

 

 しぐるるや   もみのこそでを ふきかへし

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

   時雨るるや黒木つむ屋の窓あかり   野坡

 

 しぐるるや   くろきつむやの まどあかり

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 などが見られ、まだあるのだがこれぐらゐにした。

筆者、近江不忍(あふみのしのばず)にはもう一句、

 

   しぐるるや死ねばいいのにただ泣きぬ 不忍

 

 しぐるるや   しねばいいのに ただなきぬ

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 といふ十代の頃の句がある。

 時雨は「泪の時雨」ともいふやうに初冬の侘しき樣なれば、文學を好む十代の年頃には暗き心象(イメエヂ)がつきまとふものなのだらうか、さういふ傾向の句が多くなる。

 

 

十一月十三日

 

   晴れた夜にしんと凍てつく話し聲 不忍

 

 はれたよに   しんといてつく はなしこゑ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 店が定休日なので箕面に「ドラキユラ ZERO」を一人で觀に行つた。

 面白かつたのに觀客は筆者を含めて四人だけであつた。

 幾ら木曜日だとはいへ、それはないだらうと思ふのだが、さういへばカルフウル改めキユウズモオルも全體的に客も疎(まば)らだつた。

 確かに、いちにち違ふだけだといふのに昨日に比べて寒さも一段と嚴しくは感じられ、それも理由のひとつには數へられるのだらう。

 しかし、根本的なものとしては景氣に止めを刺すのではないかと考へられる。

 この句は、邊(あた)りのしんとした夜の氣配に、凍てつくのは聲であると見立てた處がミソである。

 

 

十一月十四日

 

   しぐるるや頬から先に暮れかかる 不忍

 

 しぐるるや  ほほからさきに くれかかる

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 店の休み明けは、用がなければ大抵は夕方五時まで自宅にゐて、個人用電腦 (パソコン)を弄(いぢ)つてゐる。

 家には机上電腦(デスクトツプ・コンピユウタア)もあるのだが、使ふのは專(もつぱ)ら店でも活用してゐる携帶用電腦(ラップトップ) の方である。

 さうすれば情報(デエタ)の遣取りが煩雜にならなくて濟むからである。

 けれども問題もあつて、それはそのパソコンをその都度に持運びしなければならず、しかも映像と音樂を扱つたりする爲にそれ自身の容量を輕くしておきたいから、外づけの記憶裝置(デイスク)を最低三つは裝備してゐる。

 そればかりか何枚もデエタアを燒起すので、器機を熱くしない爲の下に引く扇風機のやうな裝置も運搬びしなければならないので、その出立(いでた)ちたるや、背中に鞄を背負ひ、片手には冷却用の機材と外づけのデイスクを買物の大きな袋に入れた姿で店と家の間を往復するのである。

 で、發句の方であるが、夕方になつて店に行く途中にふつと頬に冷たいものが當つた。

 雨である。

これはまたひと雨くるかな、と思つたが、

 

   ゆふしぐれ軒を濡らして止みにけり 不忍

 

 ゆふしぐれ   のきをぬらして やみにけり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ處で、店につくまでに止んで仕舞つて、夕時雨どころか片時雨にもならなかつた。

 

 

十一月十五日

 

   欲しきもの所詮は冬の月いづこ 不忍

 

 ほしきもの  しよせんはふゆの つきいづこ

C♪♪♪♪†ζ┃ ♪ ♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「欲しきものあへて言へば冬の月いづこ」と中句が九文字の字餘りであつた。

 生きてゐる限り人は何かを求め、それが得られない事で渇望する心がさまよふが、喉を潤(うるほ)す事が出來るのはほんの一瞬であらう。

 それは長い人類の歴史の中で、人間の欲望が肥大し過ぎた證據(しようこ)なのかも知れない。

 にしても、理窟つぽい事である。

 

 

十一月十六日

 

   問ひかけるあと幾度目の冬ざれぞ 不忍

 

 とひかける  あといくつきの ふゆざれど

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 言ふまでもなく人の一生には限りがある。

 ここ二、三日の朝夕の寒さは、いかにも冬らしいものである。

 子供の頃は、その寒さも半洋袴(ズボン)で平氣な顏をして外で遊び廻つてゐたものであつたが、あれから幾星霜……若い時分程には冬の寒さを樂しめなくなつた。

 第一、筆者は背伸びがしたかつたのか、子供らしい格好の半洋袴が好きではなかつた。

 はや、己が身の餘命も心細いものになつて來て、どれ程この季節を繰返す事が出來るか。

 「冬ざれ」とは、

 「冬の風物が荒れ果ててもの寂しい樣」

 をいふと辭書(じしよ)にあるが、古くは「ざれ」とは「なれば」といふ意味に用ゐられ、「冬になれば」といふ詞(ことば)と心得てゐたやうで、それが名詞化して「曝す」といふ意の「曝(さ)る」、則ち、

 「日の光や風雨に當つて色褪せる」

 と誤用されてこんにちに到つてゐるといふ。 

 

 

十一月十七日

 

   喰つて寢るにしては長きか將棋の日 不忍

 

 くつてねる   に しては ながきか しやうぎのひ

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 愛用の高島易斷の暦によれば、この日はなんでも『將棋の日』ださうである。

 ヒトは他の動物に比べ隨分と長生きな方で、それは時代を經る毎に長壽を甘受してゐるやうに思はれる。

  勿論、紀元前の文書には百五十歳まで生きたとか言ふ記述なども散見されるが、それは一日の捉へ方がこんにちとは違つてゐたからで、

 「今日も一日終つた」

 と、仕事などを終へた時に今でもいふやうに、昔でも今でも一日は二十四時間であるが、さういふ風に一日を考へてはゐず、日の出から日の入りまでを一日としてゐたのではないか。

 これは飽くまでも私見だが、さう考へれば夜の時間をまた一日と計算して一日は二日だつたとして百五十歳は七十五歳だつたのではないかといふ答へが導き出されないか。

 さうだとしても、

 「人生五十年」

 と言はれた中世の頃に比べれば、太古の七十五歳はそれ以前の人間の方が長生きであつたと言へるだらう。

 それに就いてさらに筆者の意見を述べれば、太古は自然による災害はあつたものの、人間による戰爭などいふものが少なく、またあつたとしても武器の殺傷能力が低かつたり大量殺戮兵器などもなく、御負けに化學調味料などを使つた食品などによる所爲(せゐ)か、自然のものを食してゐた人達よりも病氣になる確率が少なかつたりして、長生きした人は多かつたのではないか。

 その證據(しようこ)に、現在長生きしてゐる人で百歳を超えるのは明治や大正生まれの方達で、昭和でも戰後生れだと病氣や事故などで、若くして亡くなつてゐる人が多いやうに思はれる。

 かくて、命を繋ぐ子孫を残すといふ役目を濟ませてもなほ生きてゐる餘暇(よか)を過す爲に、人類は遊ぶといふ知的な行爲(かうゐ)を手にした。

 因みに、『將棋』は江戸時代に徳川家康(1542-1616)が本將棋と圍碁(ゐご)を幕府の公認とし、寛永年間(1630)には將軍の御前で指す「御城將棋」が行はれるやうになり、やがて舊暦(きうれき)の十一月十七日に「將棋・圍碁の日」として年に一度、「御城將棋・御城碁」を行ふやうになつたといふ。

 一九七五年、それに由來して日本將棋聯盟が新暦の十一月十七日を「將棋の日」と制定したのだといふ。

 

 

十一月十八日

 

   塵の世の天一天上や冬坐敷 不忍

 

 ちりのよの  てんいちてんじやうや ふゆざしき

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 何だか判じ物みたいな句であるが、

 『天一天上(てんいちてんじやう)

 とはこれまた愛用の高島易斷によれば、十二天將の主將であり方角神の一つである

 『天一神(てんいちじん)』

 の事で、更に調べると、

 「中神(なかがみ)・天乙(てんおつ)・貴人(きじん)」

 とも言はれ、この神が天と地の間を往復して、地上にゐる四十四日間は四方を規則的に巡り、天一神のゐる方角を

 「塞(ふたがり)

 といつて、その方向に向つて事を成すのを忌嫌ひ、それを犯すと祟りがあるとされたので、一旦別の方角に向ふといふ、

 「方違(かたたが)へ」

 をしてその方角にならないやうにするといふが、別にこの方角を吉とする説もあつて、どう身を處すればいいのか解らなくなつてしまふ。

 この天一神が癸巳(みづのとみ)の日に正北から天に上り、戊申(つちのえさる)の日までの十六日間を天上にゐるので、この間は何處へ出かけるのも吉だと言はれてゐる。

 天一神が天上にゐるのと入れ違ひに日遊神(にちゆうしん)といふ火の神が地に下りて人家に留まるので、家の中を清潔にしなければ祟るといふ。

 一層の事、家の中だけでなく、この世の塵も拂(はら)つて欲しいものである。

 尤も、さうなれば世の中そのものが消滅してしまふのかも知れない。

 何しろ「塵の世」とはこの俗世界の事を指してゐるのだから……。

 因みに地上にゐる時の詳細は、己酉(つちのととり)の日に天から下だつて東北の隅に六日、正東に五日といふやうに、四隅に六日づづと四方に五日づつの八方を順次廻り、計四十四日であるといふ。

 

 

十一月十九日

 

  一茶忌や髮白うして同い年 不忍

 

 いつさきや  かみしらうして おないどし

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 陰暦の十一月十九日は江戸時代後期の俳人、小林一茶(1763-1828)が亡くなつた日である。

 生涯に二万句を作つたといはれたが、信州の貧しい農家に生まれて江戸で俳諧を修業し、やがて近畿・四國・九州を放浪した後に故郷で沒した。

 松尾芭蕉(まつおばせう・644-1694)から與謝蕪村(1716-1784)へと引繼がれ、その後を受けて俳諧の一翼を擔(にな)つたが、彼の作風は蕪村の天明調に對して化政調と呼ばれるも、川柳と發句の境を行きつ戻りつしてゐるやうで、折角、芭蕉が高みに押上げた俳諧を、再び地に落したやうな所が氣になる。

 それは例へば、

 

    大根引き大根で道を教へけり

 

 だいこひき  だいこでみちを をしへけり

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   悠然として山を見る蛙かな

 

 ゆうぜんと  してやまをみる かはづかな

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   名月をとってくれろと泣く子かな

 

 めいげつを   とつてくれろと なくこかな

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  といふ句に、筆者にはそれが感ぜられるのである。

  一茶の私生活は幸(さち)薄く、三歳の時に生母を失つてから八歳で繼母迎へ、それに馴染なくて十四歳の時に江戸へ奉公に出たといふ

 三十九歳のになつて歸省し、病氣の父を看病したが甲斐なくて1箇月ほどで死去したが、繼母との間で十二年間もの長きに亙(わた)つて遺産相續の爭ひをする。

 五十二歳で最初の妻を娶り、三男一女を授かるも幼くして亡くなつてしまひ、その妻とも死別。

 六二歳で二番目の妻を迎へるが夫婦生活は半年で解消。

 六四歳になつて結婚した妻との間に一女が生れ、その子は四十六歳まで生存したとの事である。

 私小説の先驅けのやうな『父の終焉日記』があるかと思ふと、他の殘された日記に結婚後連日連夜の交合が記されてゐて、それは妻の妊娠中にも及び、腦卒中で半身不随になつてからでも性への欲望は、まるで生きるといふ證(あかし)ででもあるかのやうに衰へるといふ事はなく、その事から一茶には性豪で巨根の傳説まであるといふ。

 その一茶の俳號の由來はといふと、

 「西にうろたへ、東にさすらい住の狂人有。旦には上総に喰ひ、夕にハ武蔵にやどりて、しら波のよるべをしらず、たつ泡のきえやすき物から、名を一茶房といふ。」

 と『寛政三年紀行』の巻頭で一茶自身が記してゐる。

 

 嘗(かつ)て、昭和四十四己酉(つちのととり)年に、

 

   一茶は死にたり。

   我は生きて、なほ憂鬱を。

 

   一茶忌に誰ぞが云ふた生活苦 不忍「第一發句集『啼血』より」

 

 いつさきに  だれぞがいふた せいかつく

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 と詠んだ事を思ひ出した。

 因みに一茶は五月五日生れだといふが、筆者は五月四日で彼とは近しいものを感じてしまふ。

 

 

十一月二十日

 

皇帝のダリアよ 007 

 

   皇帝のダリアよ冬の空にあり 不忍

 

 こうていの  だりあよふゆの そらにあり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初め下五句は「空高く」であつた。

 長島住吉神社の側の空地に、四米(メエトル)はあらうかといふ見事な花が咲いてゐた。

 名前が解らなかつたので、近くを通りかかつた人に尋ねたところ、『皇帝ダリア』だと教へてくれた。

 けれども、愛用の電子辭書「EX-word」で調べてもそれが見つからない。

仕方がないので世界通信網(インタアネツト)で調べると、

 「木立ダリア」

 といふとあつて、更に、

 「墨西哥(メキシコ)から中央亞米利加(アメリカ)などに分布し、山地帶から亞高山帶の岩礫地や草地に生え、高さは二~六米(メエトル)になるといひ、莖は中空で木質化して、葉は二~三囘羽状複葉で、十一月から十二月頃に十~十五糎(センチ)の大きな桃色(ピンク)色の花を咲かせ、別名「皇帝ダリア」とも呼ばれる(植物圖鑑より)

 とあつた。

 「ダリア」だけを辞書で調べると、和名が『天竺牡丹』で夏の季語に屬する花であるが、『皇帝ダリア』はまだ辭書(じしよ)には記載されないほど定著してゐる譯ではないやうである。

 いづれは冬の季語として採用されるのも、さう遠くはないやうに思はれる。

 

 

十一月二十一日

 

   小春日や信號も日蔭を避けて待つ 不忍

 

 こはるびや  しんがうもひかげを さけてまつ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 まるで光合成が出來でもするかのやうに、うららかな陽射しを浴びて信號の變るのを待つのだが、逆に日蔭を捜して歩いてゐた夏とは大違ひである。

 

 所で、話は變るが陰暦十一月二十二日は淨瑠璃作者として名を殘した近松門左衞門(1653-1725)が亡くなつた日である。

 別に「巣林子忌(そうりんしき)・巣林忌(巣の正字は環境依存文字で使用不可)」ともいふと辭書(じしよ)にある。

 彼の作品は「世話物」と「時代物」に分けられ、町人社會の義理や人情を主題(テエマ)とした「世話物」である『曽根崎心中』によつて、それに觸發(しよくはつ)されて心中が流行したとよく言はれてゐるが、確かにさういふ面はあつたのだらうが昭和になるまで再演されなかつたといふぐらゐだから、百作以上の淨瑠璃を書いた内の凡(およ)そ二十作ばかりの「世話物」よりも「時代物」の方が人氣があつたと言はれてゐる。

 彼の、「藝の面白さは虚と實(じつ)との皮膜にある」と唱えた『虚實皮膜論』といふ藝術論は有名であるが、何でもこれは穂積以貫(1692-1769)が記録した『難波土産』に近松の言葉として書かれてゐるだけで、彼自身が書殘した藝能論はないといふ。

 出自は越前國の福井藩士で、松平忠昌の侍医であつた杉森信義の子として生れた。

 まだ訪れた事はないが、近松の墓所は尼崎の廣濟寺にある。

 

   もとの身も人を癒すや近松忌 

 

 

十一月二十二日

 

   小雪といふも浪花は舞ひもせぬ 不忍

 

 せうせつと   いふもなにはは まひもせぬ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「舞ひもせぬ浪速の空の小雪よ」と詠んで、下五句の坐りの惡い事が氣に入らないので改めた。

 「小雪(せうせつ)」は二四節氣の一つで、新暦では十一月二十二日頃になり、次の「大雪」前日までだと高島易斷の暦にある。

 

 酉の市(とりのいち)は十一月の酉の日に行はれる祭の事で、別に「酉の祭(とりのまち)・大酉祭(おほとりまつり)・お酉樣」ともいひ、神社の露店で縁起熊手を購ふ風習がある。

 主に關東地方に多くみられるが、大坂の堺市の大鳥大社や愛知懸の長福寺などの地方でも開催されてゐる。

 鷲神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀つた事から、「武運長久」を願ふが、それ以外にも「開運・商賣繁盛」の神として信仰されるといふ。

 「酉の日」は、毎日に十干十二支を當てて定め、十二日おきに巡つて來て、十一月の「酉の日」は二囘の時と三囘の場合があり、初酉を「一の酉」、次を「二の酉」と言つて「三の酉」まである年は火事が多いとの俗説があると言はれてゐる。

 

   この年は三なくて二のとりのがし 不忍

 

 このとしは  さんなくてにの とりのがし

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 けふは「良い夫婦」の日ださうである。

 この語呂合せともいふべき命名(ネエミング)は微笑ましいが、けれどもこれが季語に採入れられるのは可成時間がかかりさうな氣がする。

 

 

十一月二十三日

 

   風習は勤勞感謝の陰にあり 不忍

 

 ふうしふは  きんらうかんしやの かげにあり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪ ♪ ♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 勤勞感謝の日だから働くのかと思つたら、休んで感謝するのだといふ。

 何だか判つたやうな解らないやうな話である。

 いふまでもなく、『勤労感謝の日』は日本の國民の祝日の一つであるが、一九四八年の祝日法の、

 「勤勞を尊び、生産を祝ひ、國民互ひに感謝し合ふ」

 といふ趣旨によつてゐる。

 けれども、稻作文化によつて形成される國家が収穫物に感謝し、神々に五穀の収穫を祝ふ風習が生れ、それを『新嘗祭』といふ大事な行事として天皇による國事行爲(かうゐ)となつたのが、飛鳥時代だと言はれてゐる。

 それが第二次世界大戰後のGHQの占領政策で、國家神道と結びつくいたその國事を危険視した爲に、「勤労感謝の日」として差替えられたのだといふ。

 

 

十一月二十四日

 

   休日の振替も最後や霜の月 不忍

 

 この句の初案は、

 「休日の振替も最後霜の月」

 と中八音で、それを俳譜で示せば、

 

 きうじつの  ふり かへも さいご しものつき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 となり、字餘りではあるものの四分の四拍子の三小節を保つてゐる。

 けれども切字の「や」を足す事で、中句が九音にもなつてしまふが、

 「もう今年もつひにあと僅かとなつてしまつたなあ」

 といふ、しみじみとこれまでを振返るやうな感慨と、これから蹈みださうといふ氣分を含めたものをも、この「や」といふ切字がその表現を擔(にな)つてゐるのである。

 であるから、切字には四分音符()の一音を與(あた)へなければならず、それを同じやうに俳譜で示せば、

 

      休日 後や 

 

 きうじつの  ふり かへも さいごや しものつき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふやうになつて、これも四分の四拍子の三小節にはなつてゐるが、「や」に一拍を割()いてしまつた爲に、「替も」と「最後」の六音が三連符(♪♪♪=†)の一拍づつの二拍となる事で解決されたのである。

 この所、作句された作品は言ひ廻しに頼つたものが多く、發句の妙ともいふ可き『取合せ』に留意してゐなかつたやうに思はれる。

 芭蕉の弟子の野澤凡兆(のざはぼんてう・1640-1714)に、

 

   下京や雪つむ上の夜の雨 凡兆

 

 しもぎやうや  ゆきつむうへの よるのあめ

C♪♪ ♪ ♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ句があるが、『去来抄』の挿話(エピソオド)に、

 「此句初冠なし。先師をはじめいろいろと置侍りて、此冠に極め給ふ。凡兆あトとこたへて、いまだ落つかず。先師曰、兆汝手柄に此冠を置べし。若まさる物あらば我二度俳諧をいふべからずト也。去來曰、此五文字のよき事ハたれたれもしり侍れど、是外にあるまじとハいかでかしり侍らん。此事他門の人聞侍らバ、腹いたくいくつも冠置るべし。其よしとおかるゝ物は、またこなたにハをかしかりなんと、おもひ侍る也」

 とあり、その意味は初案には「雪つむ上の夜の雨」という中七と下五句だけが先に出來、上五句を惱んでゐたところ、芭蕉が「下京や」と置いたが凡兆は納得出來ず、不滿さうだつた。

 小さな家が密集した下京の路地に雪が降り積り、夜になるとその上に雨が降つて來たといふ情景であるが、この上句に「振る・振れる」の問題があり、『取合せ』にはかういふ問題がついて廻り、それは、

 

   行春を近江の人と惜しみける 芭蕉

 

 ゆくはるを  あふみのひとと をしみける 

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ句と似通つたものといへるだらう。

 

二十二、「行春を近江の人と惜しみける」の句に於ける『振る・振れる』の問題 『發句雜記』より

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4637715&id=74626489

 

 「雪つむ上の夜の雨」といふ凡兆の十二文字に對して、これにまさる上五があれば再び俳諧を口にしない、とまで言つた芭蕉には僭越ながら、筆者ならば「鳰(にほ)の海」としたいが、切字を入れて「淡海(あはうみ)や」としたと思ふ。

 賛否は兔も角、ことほど左樣に發句にとつて『取合せ』は重要なもので、筆者の下五句の「霜の月」も、月初めは天候が定まつた日和が多く、下旬には冬の氣配が濃くなる十一月(じふいちぐわつ)を霜月といふが、「十一月・霜月」のいづれも下五句に坐りが惡く、一層の事「冬の夜」だとかしても漠然として、捉へどころがない。

 そこで「霜の月」と落著いた譯である。

 賛否や如何(いか)に!

 因みに、筆者は凡兆の句では『猿蓑』の中の發句の、

 

   市中は物のにほひや夏の月 凡兆

 

 いちなかは   もののにほひや なつのつき

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 が氣に入つてゐる。

 

註)「四分音符(†)・四分休符 (ζ)」

 

 

 

 

十一月二十五日

 

ふゆにまだ咲く健氣さよランタナは 001

   冬にまだ咲くけなげさよランタナは 不忍

 

 ふゆにまだ   さくけなさげよ らんたなは

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「冬にまだ咲く健氣さよ七變化」で、「七變化」とはランタナの和名であり、下五句としての坐りはいいのだが、「七變化」をランタナだと詠み手に理解させる手續きに一歩の暇(いとま)が生じてひまふ。

 勿論、それで構はない場合もあり、さうでなければならない必要がある時もあるのだが、ここはこれが最善だともう一人の筆者が囁く。

 從つて、「けなげ」も漢字の「健氣」ではなく平假名となつた。

 七變化(ランタナ)は夏の初め頃から花を咲かせ、もう十一月も下旬にならうかといふのに、未(いま)だにその名に恥ぢずに黄色から緋紅色に變化(へんくわ)をしながら花を咲かせて道行く人を和(なご)ませてゐる。

 固(もと)よりランタナにその氣はないのだらうが、有情の生物である人間がそれを見て愛でるのである。

 けれども、それを人間の驕(おご)りといふ勿れ。

 全ての地球上のものを人類中心に考へてゐる存在であるとは言へ、暫(しば)し心を他に置いて花と一體(いつたい)とならうではないか。

 

 

十一月二十六日

 

   霜月や越えて行かばや身の始末 不忍

 

 しもづきや   こえてゆかばや みのしまつ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「霜月や越えるものなき身の始末」であつたが、氣分だけが先行した意味不明の言葉で、改めざるを得なかつた。

 霜月とも言はれる十一月も終りに近くなつて、藥が切れたので病院に處方箋をもらひに行かなければならなくなつた。

 體調(たいてう)がをかしいと思つて醫者(いしや)みてもらつたら癌だと言はれて、手術してから六年が過ぎたが、服用する藥を毎月一囘もらふ事と、未だに肉體的苦痛を伴ふ三箇月に一度の檢診を受けなければならない。

五年を過ぎて存命であれば克服できた、と言はれてゐてもこの有樣である。

 今年もまだ越える可き十二月が殘つてゐる。

 さうしてそれが過ぎれば、まだ越えなければならない今年の次の來年が待つてゐる。

 「ばや」は終助詞で、接續助詞の「ば」に係助詞の「や」が附き、「ばや」と一語化したものであるが、

   希望の「たいものだ」

   意志の「しよう」

   打消しの「どころか~でない」

 といふ意味を表現してゐる。 

 

 

十一月二十七日

 

秋過ぎて狩り遲れたり紅葉側 112

   秋過ぎて狩り遲れたり紅葉川 不忍

 

 あきすぎて  かりおくれたり もみぢがは

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 今日は店が定休日だから、筆者と妻と長女との三人で箕面へ出かけた。

 本當(ほんたう)は、孫を見てゐて欲しいといふ長男の頼み事があつたのだが、母親である嫁が教員の勤務をしてゐる小學校を休んで、病院に連れて行くので大丈夫だと連絡があつたので紅葉狩(もみぢがり)に行く事となつたのである。

 春の櫻を花見に行くといふのに對して、秋に野山へ紅葉を訪ねて鑑賞する事を紅葉狩といふいふのだが、櫻も「櫻狩」といふし、紅葉も「紅葉見」ともいふと辭書(じしよ)にある。

 紅葉狩の「狩」は多くは獸に對して使用されるが、それが鳥や小動物を捕獲する事から、「苺狩」や「葡萄狩」などの果物を採る意味へも廣がりを見せ、つひには草花を愛でる行爲(かうゐ)にまで及んだのである。

 『紅葉狩』は、日本で日本人の手により撮影された現存する最古の無聲映畫(むせいえいぐわ)の題名としても有名である。

箕面は紅葉の名所として知る人ぞ識る有名な處である。

 その上に、驛から二、八粁(キロ)で徒歩一時間弱の山の奧に、日本の瀧百選の一つにも選定されてゐる、五米(メエトル)の幅で落差三十三米もある大きな瀧がある。

 例によつて、紅葉(こうえふ)を味(あぢ)はふといふよりも撮影に沒頭し、途中で目に止つた景色を見つけると、その都度映像として定著(ていちやく)させずにはおかず、それを幾度も繰返すのだから、瀧まで行くのに倍近くの時間がかかつてしまつた。

 そこまでの景色で、日に照らされた山の錦と紅葉が川面に映し出される眩いほどの二重の世界に醉()つてしまつて、我知らず陽に照らされた瀧の姿を想像してしまひ、

   「陽光に瀧きらめいて冬紅葉」

 と詠んでしまつた。

 だが、そこに辿り著いて見ると、もう陽射しは山の頂にまで達してゐて、瀧を煌(きらめ)かせる事はなかつた。

 代りに、風に煌かせようと「風吹いて」と詠んだが氣に入らず、紅葉に瀧を煌かせる事とした。曰く、

 

風なくも瀧きらめいて冬紅葉 031

   風なくも瀧きらめいて冬紅葉 不忍

 

 かぜもなく  たききらめいて ふゆもみぢ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

十一月二十八日

 

   小春日や氣づけばしんと夜半の雨 不忍

 

 こはるびや  きづけばしんと やはのあめ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 冬になつたといふのに暖かな日が續いてゐる。

 まだ續くといふが、もう少しすると寒波が襲つて來るといふ。

 店の前にある神刀根線でも車の行交(ゆきか)ひが、いつになくひつそりとしてゐる。

 この雨のお蔭で、店の番をしながら獨りの夜を愉しんでゐる。

 高島易斷の暦によれば十一月二十八日は、淨土眞宗の開祖である親鸞(1173-1262) の命日である。

 ただこの忌日は陰暦で、新暦でいへば一月十六日となるが、宗派によつて新暦に換算したこの日に法要を行ふ場合と、舊暦(きうれき)の日附の儘で新暦の日附に營まれる場合とがあるといふ。

 親鸞聖人の『歎異抄』によれば、

 

 『善人なほもて往生をとぐ、いはんや惡人をや。しかるを世の人つねにいはく、「惡人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

そのゆゑは、自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、彌陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、眞實報土の往生をとぐるなり。煩惱具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、惡人成佛のためなれば、他力をたのみたてまつる惡人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして惡人はと、仰せ候ひき』

 

 とある。

 この「善人正機説」或いは「惡人正機説」は、これは彼の師である法然の言葉である、

 「善人なを()もて往生をとぐ。いはんや悪人をや(()内は筆者)

 といふ言葉から生れたものであり、淨土眞宗の教義の中で重要な思想で、惡人こそが阿彌陀佛の他力本願による救濟(きうさい)の根本であるという意味である。

 ここでいふ善惡とは、法的若しくは道徳的な問題を指してゐず、佛の視點による善惡であるから、それで見れば全ての人は惡人で、その事を自覺した者こそが救濟されるのだといふのである。

 このやうに「善人・惡人」をどう解釋(かいしやく)するかといふのは重要で、凡夫である人は根源的には善惡の判斷さへ出來ず、自身が眞の善は一つも出来ない「惡人」であると氣づく事であり、もっと言へば、自分の善行によつて往生しようとする行爲(かうゐ)は、阿彌陀佛を疑ふのと同じ事でしかないのである。

 その意味で、「善人」は眞實の姿が分からず善行を完遂できない身である事に氣づく事の出來ない「悪人」で、全ての人の本當(ほんたう)の姿は欲望といふ煩惱に動かされるが故に惡人だと述べるのである。

 人間の行爲は自らの善惡の基準でしかなく、ひとつとして善も出來ないといふ意味で、本質的には「惡人」だとされ、それを知らしめようととするのが「惡人正機」の目的である。

 けれども、これは「善惡」の本質を理解しなければ、

 「欲望のおもむくが儘に惡事を行つても構はない」

 と、世間に誤解され易いので注意が必要だと言へる。

 そこで一句である。

 初案は「善惡の彼岸に到れ親鸞忌」であつたが改めた。

 それは「彼岸」といふ言葉が大き過ぎて、解釋する時間に手間がかかると思はれたからである。

 曰く。

 

   善惡を超えたきものや親鸞忌 不忍

 

 ぜんあくを こえたきものや しんらんき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

 

 

十一月二十九日

 

シンデイのチケツト 003 

   歌姫のチケツト屆くやお年玉 不忍

 

 うたひめの  ちけつととどくや おとしだま

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 我が友人にしてFacebookmixiの仲間でもある心亭舮波夫氏が、シンデイ・ロオパアに心醉(しんすい)して、ホオムペエヂまで立上げて彼女の支持者(フアン)の人達に發信し續けてゐる。

 彼が二〇一一年三月二十一日のNHK大坂ホオルで、歌姫シンデイ・ロオパアに日本の國旗を手渡すと、彼女がそれをマントのやうに身にまとつて、舞臺(ぶたい)(せま)しと踊り歌つてゐる契機を作つたのは有名な話である。

 さうして、二〇一五年の一月十一日に歌姫が來日して來るといふので、筆者と長男とに切符(チケツト)を二枚も用立ててくれたのである。

 それが靜岡の稲岡エミさんから簡易書留で屆き、添書きに叮嚀な挨拶までされてあつて、恐縮至極であつた。

 この場をお借りして御礼申し上げる。

 當然(たうぜん)、エミさんとはFacebookFBフレンドとなつてゐる。

 それにしても、年内に來年のチケツトが屆くなんて、お年玉を先拂(ばら)ひされたやうで嬉しいこと頻りである。

 

 

十一月三十日

 

   短日やランタナの花まだ咲けり 不忍

 

 たんじつや  らんたなのはな まださけり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 いふまでもなく『短日』とは冬の季語で、冬の日が短い事である。

 まるで人の一生があつといふ間に終()へてしまふのと同じやうに、冬の一日の日没の早い事には無常觀を抱かざるを得ないやうに思はれる。

 それに比べて七變化(ランタナ)は、春の「日永」から夏の「短夜」、さうして秋の「夜長」を經()て冬の『短日』にまで及んで咲き續けてゐる。

 別に、

 「日短(ひみじか)・日短し・日つまる・暮早し・暮易し・短暮(たんけい)

 ともいふと辭書(じしよ)にある。

 

 

 

十二月一日

 

   けふからは師走の空や風荒ぶ 不忍

 

 けふからは  しはすのそらや かぜすさぶ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 つひに月も極まつた。

 とはいつても、十二月は始まつたばかりだからまだまだ油斷は出來ないが、不取敢(とりあへず)はここまで來た、といふ感想である。

 天氣豫報によれば、波浪警報が各地に出てゐて、大坂も御多分に洩れず空を舞ふ風の音が激しく鳴つてゐるが、豐中は海邊ではない所爲(せゐ)か、報道(ニユウス)で見る程には酷くはない。

 それでも店の暖簾や提燈(ちやうちん)が風に煽られてゐる。

 

 

 

十二月二日

 

ひと隅の陽だまりにある蜜柑搖れ 

   ひと隅の陽だまりにある蜜柑搖れ 不忍

 

 ひとすみの  ひだまりにある みかんゆれ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「ひと隅に温もりやある蜜柑かな」であつた。

 いづれ甲乙つけ難けれども、具體的な「温もり」といふ形容を避けた方が良からうもんと思ひ到る。

 去る程に、「かな」といふ切字よりも「搖れ」といふ動的な言葉で押へた感、まことに氣に入るところなり。

 今日は繼母を朝の十時半に庄内へ迎へに行つて阪大の病院に檢診に出かけたが、嚴しい寒さで内に一枚服を著込まなければならない程であつた。

 それもその筈で、大坂は氣温が七度で豐中や吹田(すいた)はもう少し低かつたやに思はれた。

 明日の大坂は三度の氣温だといふから、読者諸氏は一層寒さに氣をつけられたい。

 

 

 

十二月三日

 

  上弦の月や日暮れに首寒し 不忍

 

 じやうげんの つきやひぐれに くびさむし

C ♪ ♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「ふと見れば日暮れの空に上弦の」で、下五句を格助詞の「の」で止める事で、このあとにくる「月」を讀み手にいしきさせるといふ表現が斬新だと考へたが、餘りにも奇を衒(てら)ひ過ぎだと思ひ留まつた。

 夕方の四時半に自宅へ風呂を浴びに行く途中、東の空に上弦の月が綺麗にかかつてゐた。

 風呂から店に戻る頃にはすつかり日も暮れて、月はさらに鮮やかさを増して中空に冴え返つてゐた。

 

 

十二月四日

 

   底冷えや妻の在所の熱き汁 不忍

 

 そこびえや   つまのざいしよの あつきしる

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪ ♪ ♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「味噌汁や妻の在所の底冷えて」であつたが改めた。

 それも下五句は「汁熱き」であつたが、傍觀的なので實感としての有難味の傳はる「熱き汁」とした。

 木曜日は店の定休日なので、最近は頓(とみ)に元氣のなくなつた妻の母親を見舞ふやうな氣持で歸省した。

 今年で八十二歳になるお婆ちやんは、去年の夏頃から息苦しくなつて入退院を繰返し、心臟の藥を服用するやうになつて、気弱な事をいふやうになつた。

 それでも會(あ)つてみると思つたよりも達者で、惚(ぼ)けてもゐず、昔話にも花を咲かせてゐた。

 岡山の美作(みまさか)の山間部にある妻のみゆきちやんの實家(じつか)は、その獨特の地域性で冬になると嚴しい底冷えがする。

 夕餉に温かい味噌汁が出てほつこりしたが、味噌は昔から自家製で、お婆ちやんが大豆から作つてゐて、それを感心しながら戴いてゐたのだけれども、大豆の潰し方が粗いので、味噌汁を飮み終る頃になると椀の底に粒々が殘つてしまふ。

 それを箸で集めて掻き込むと達成感が口の中に廣がる。

 

 

十二月五日

 

uvs141206-002

 

  歸途につく空の月追ふ冬の暮 不忍

 

 きとにつく   そらのつきおふ ふゆのくれ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 午後三時に美作から中國自動車道路を、米や野菜を不斷(ふんだん)に積んだ車を操りながら大坂へと走らせた。

 加西で休憩をしてさらに走り續けると、四時を過ぎたばかりで、まだ山の上に日が照つてゐるといふのに、高速道路の右側にうつすらと丸い月が見えると妻が言ふ。

 運轉をしながらチラツと首を振ると、確かに薄く白い月が空に張附いてゐた。

 その月を右に左にと見ながら、混み出した西宮邊(あた)りを過ぎる頃にはすつかり暗くなつて、到頭(たうとう)澁滯に卷きこまれてしまつた。

 結局、普通に走られれば二時間程の距離なのに、三時間もかかつた豐南町の店に著く事となつた。

 

 

十二月六日

 

木枯しの追ひ求めてや uvs141207-001

 

   木枯しの追ひ求めてや袋露地 不忍

 

 こがらしの  おひもとめてや ふくろろぢ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 人は何かを求めなければ生きて行けないやうである。

 特に他の動物のやうに餌を求めてさまよはなければならない生活苦を強()ひられる事もなく、日々の糧(かて)を安定的に供給出來るやうになつた開發された地域に住む現代人にとつては、潤(うるほ)ひある人生をと稱(しよう)して、自己實現の爲の享樂的なものを手中に治めんと蠢(うごめ)く。

 況()して、子孫繁榮を目的としてゐるとしか思へないやうな昆蟲などに比べて、孫どころか、下手をすれば曾孫の顏まで拜めようといふ生存率を誇つてしまふ昨今(さくこん)である。

 假令(たとへ)それが袋小路へと導くものであつたとしても、或いは破滅への道へ突き進むのだとしても、人は何かを求めずにはゐられない。

 

 

十二月七日

 

   道端の葉や殺ぎ落としたる冬木立 不忍

 

 晝(ひる)前にみゆきちやんから田舎から仕入れた米の精米を頼まれて、事のついでに久し振りだからと亥子谷へ出かけた。

 桃山臺の驛から南千里の驛を過ぎてそのまま坂道を下ると、そこが亥子谷である。

 そこまでの秋には美しかつた銀杏竝木の景色は、すつかり落葉となつて道路の側溝に重なり合ひ、その上の銀杏の木々は線描畫(エツチング)のやうに空に貼りついてゐた。

 何を思つたか、行きつけの喫茶店は今日が日曜日で休みだといふ事に到著してから氣がつくといふ粗忽ぶりを發揮して仕舞つた。

 この句、中句が九音もある字餘りであるが、中句の「葉や」が八分音符()ふたつの一拍で、「殺ぎ落とした」までが三連符(♪♪♪)ふたつの二拍となり、「の」に四分音符()の一拍で都合四拍の四拍子となる。

 全句の俳譜を示せば、

 

 みちばたの  はや そぎお とした る ふゆこだち

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪  †┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ事になる。

 

 

 

十二月八日

 

   それとなく行事を糧の冬ごころ 不忍

 

 それとなく  ぎやうじをかての ふゆごころ

C♪♪♪♪†ζ┃♪ ♪ ♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 季語を調べるのに愛用してゐる高島易斷の暦によれば、八日は、

 

 『納めの藥師(くすし)

 『成道會(じやうだうゑ)

 『御事納め』

 『針供養(はりくやう)

 

 と行事が目白押しである。

 

 「東方淨瑠璃世界」の教主「薬師瑠璃光如来」こと、通稱「藥師如來」は「大醫王佛(だいゐわうぶつ)」とも呼ばれ、人々の病(やまひ)を治癒し延命するばかりか、精神的な苦痛をも取除くと言はれてゐ、その年の最後の藥師の縁日の事を『納めの藥師』と言ひ、この一年間のご加護を感謝すると共に、次の一年に向けて祈願をする行事である。

 

 また、釋迦が八日に降魔成道則ち悟りを開いた事記念して行われる法要を『成道會』といつて、別に「臘八會(ろうはちゑ)」とも言はれさうである。

 

 更に、陰暦二月八日に年神の棚をはずして正月の行事を終るといふ事が江戸時代に行はれ、或いは古く東國で農事を終る事を祝つて行なはれた行事を『事納め』と言つたとあり、何かと心の整理を託(かこ)けての行爲(かうゐ)なのであらう。

 

 今ではそれほど頻繁に使はれる事がなくなつたが、昔は縫繍机(ミシン)などもなくて重寶(ちようほう)されてゐて、戰爭中に一枚の布に絲を縫ひつけて結び目を作る「千人針」で、出兵兵士に對して武運長久を祈るお守りとして送つたりしたといふが、使い古して錆びたり折れ曲つたりして使えなくなつたそれらの縫い針を供養し、近くの神社に納める行事を『針供養』といふ。

 

 これらの幾つもの行事は、生きて來た人々が積上げた文化(カルチヤア)として、こんにちも日本人の心の中ばかりでなく、行爲としても殘つてゐる。

 

 この句の初案は、「それとなく糧にしたるや冬ごころ」で、下五句を「冬の暮」と置いたが凡庸なのでこれに改めたが、中句の「糧にしたるや」もこれだけでは一句として立ち難いので推敲した。

 何故と言ふに、この方が寒さを暖めるやうな氣がしたからである。

 註) 縫繍机(ミシン)は中國語から借りたものだが、嚴密には「繍」は「糸扁に刃」なのだが、環境依存文字で文字化けをするので「刺繍」の「繍」に換へて「縫繍机とした。

 

意見(コメント)

 行事を糧にってどういうことかなあ。ふといろいろ考えてみました。忙しさが先に立つ師走ですが、それが糧になるんだと。

 

 

意見(コメント)の返事

 毎日がだらだらと過ぎて行くのを、行事(イベント)といふ行爲(かうゐ)で氣分を一新する。それを「糧」と見立てた譯です。

 

 

十二月九日

 

   年の瀬やふり廻されし孫の守 不忍

 

 としのせや  ふりまはされし まごのもり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 川崎病で入院してゐた孫が退院して店に來た。

 子供用の肉叉(フオオク)と匙(スプウン)を何とか操りながら時に手づかみで、小さく作つたソバ飯ロオルを滿足さうに口に運んでゐた。

 その嬉しさうに晝食(ちうしよく)を食べる姿を見ながら、この兒の將來がどうなるのだらうか、と不圖(ふと)思つた。

 孫は筆者の事を「パパ」と呼ぶ。

 さう呼ぶ事を希望したからであるが、それには理由がある。

 實(じつ)は我が父親が自分の孫、則ち我が子に「御爺ちやん」と呼ばれたくないから「お父(とう)ちやん」と呼んでくれと要望した。

 その頃、我家は子供に「パパ・ママ」と呼ばしてゐたので、問題はクリアされる事となつた。

 當然(たうぜん)、繼母(はは)は「お母ちやん」である。

 それに倣(なら)つて、長男夫婦が「お父ちやん・お母ちやん」と呼んでゐるのだから、「パパ」と呼んでもらふ事としたのであるが、小さな男の子の口からさう呼ばれると擽つたい事この上ない。

 ただ、ひとつだけ問題がある。

 それは妻の「みゆき」ちやんが「ママ」とは呼ばせず、「お婆ちやん」で良いといふのである。

 それでは却つて孫が混亂(こんらん)する。

 第一、頻繁に「パパ」と言つて會話をしてくるのに、「みゆき」ちやんには「ばあば」とも呼んでもらへず、笑ひながらも少しばかりオカンムリである。

 筆者は、「お父ちやん・お母ちやん」を片言で「オトウタン・オカアタン」と孫が兩親にいふのだから、「グランパ・グランマ」の省略形の「パパ・ママ」だと考へれば良いのではといふのだが、それでも「お婆ちやん」で行くと意固地になつてゐる。

 それを支援するやうに長女が、「子供が混亂するから良くないと掩護(えんご)射撃をする。

 それどころか、「パパ」と呼ぶのを止めさせようとさへする。

 筆者は斷乎としてそれを拒否する。

 御爺ちやんと呼ばれて、なんの老け込んでなどゐられるものか。

 

 

十二月十日

 

   雨だといふ未だ雲間に冬の月 不忍

 

 あめだといふ   いまだくもまに ふゆのつき

C♪♪♪♪♪♪ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「冬空にかすんだ月を見つけたり」といふ毒にも藥にもならないものが口から出て來た。

 これではと「豫報(よほう)では雨や雲間に冬の月」と詠むも、「豫報」といふ言葉が一句の全體の何かを殺いでゐるやうに感ぜられてので、上五句の字餘りを甘んじて受容れた。

 深夜に外へ出て見たが、雨が降る所爲(せゐ)か今日はそれほどの寒さではなく、夜空の月も雲間からぼんやりとかすんで見えた。

 木曜日は雨だといふ。

 

 

 

十二月十一日

 

   嘘の世や誓文祓ひも今は昔 不忍

 

 初案は「嘘の世や今は昔の誓文祓」であつたが、下句が七音になると五七七の形式である『片歌』となつてしまふので改めた。

 けれども、完成された句は五八六となつてしまつた。

 字餘りとしては上句と中句は多くあるが、下句に關しては珍しいと言へるだらう。

 「今は」が三連符(♪♪♪)となつて、その俳譜を示せば、

 

 うそのよや  せいもんばらひも いまは むかし

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪ ♪♪†ζ┃

 

 となる。

 句作の爲の季語を調べる一環として愛用してゐる高島易斷の暦に、新暦の十二月十一日は陰暦の十月二十日に當(あた)り、この日はその昔、四条京極の官者殿へ京都の商人や遊女が、商賣上で止むを得ずに客を欺いたりした罪を拂(はら)ひ、神罰を免れるやうに參詣して祈つた行事を『誓文祓(せいもんばらひ)』といつたとある。

 この江戸時代以來の風習は、京都や大坂の商店が安賣りを行なひ、後に商店の賣出しの行事となり、全國に廣がつたといふ。

 別に『誓文拂(はらひ)』とも書き、『誓文晴(はれ)・誓文晴し』ともいふとあるが、後者の方は同じ日に開催される戎講(えびすこう)の日に、九州の福岡地方に明治期になつて言はれるやうになつたといふ。

 これは博多の呉服商が大坂に出かけた時に戎市の「誓文拂ひ」の大盛況に出合つた事が切掛けで定著(ていちやく)するやうになつたと辭書(じしよ)にある。

 時を經(へ)る毎に『誓文祓』ではどうにもならなくなる程の嘘が、増々この世に蔓延(はびこ)つてゐるやうに思はれるのだが……。

 

 

十二月十二日

 

   冬暗き天灰色の日の翳り 不忍

 

 ふゆくらき  てんはいいろの ひのかげり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「晝(ひる)暗き灰色空の日の翳(かげ)り」であつた。

 晝(ひる)の一時過ぎに自宅から店に途中のどんよりとした薄暗い空に、かすかに光を放つ輪廓(りんかく)だけを見せた太陽があつた。

 救ひのない今の世相を體現(たいげん)したやうな光景ではないか、と思つた。

 

 

十二月十三日

   

   見あたらぬ焚火戀しき土手の風 不忍

 

 みあたらぬ   たきびこひしき どてのかぜ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 子供の時分はあれほどあつた焚火を、今はめつきり見かけなくなつた。

 ひとつには落葉を掻き集めるといふ事がなくなつたからだと考へられる。

 けれども、木の葉を集めても、何處でも火を焚くといふ事が消防法で禁じられてしまつたのが原因ではないかと思はれる。

 これは筆者の思ひ込みかも知れず、その理由は神社の正月の火祭の行事に注連縄(しめなは)や門松を持ち寄つて燒く「どんど燒」でさへ、慣例として許されてゐるだけであるとの事を、撮影した時に聞いた記憶があつたからである。

 況(いはん)や、町内の子供會の催(もよほ)しで焼肉とか加(カレエライス)を作るので火を使ふ許可を求めても、鰾膠(にべ)もなく斷られてしまつたとの事で、子供の爲といふ錦の御旗も通用しなかつたのである。

 早朝に、一斗鑵(いつとくわん)の上を切り拔いて木を燒()べて暖をとる作業場などもあつたやに聞くが、今でも許可されてゐるのだらうか。

 有名な若草山の山燒きは慣例として別だとしても、田舎の野火でさへ近頃見なくなつた理由はそんなところにあるのだらうか。

 

 

 

十二月十四日

炊出しと酒や uvs141215-001

 

   炊出しと酒や餅搗く町内會 不忍

 

 たきだしと   さけやもちつく ちやうないくわい

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃ ♪ ♪♪♪ † ζ┃

 

 豐南町に店が移つて三度目の年末を迎へたが、日曜日に町内會恆例の餅搗き大會が開催された。

 今囘はそれまでの豐南西公園が小學校の工事の影響で使用できないので、代つて長島神社の横にある公園で執り行はれる事となつた。

 前日から店の横で下拵へを濟ませて、今日は朝七時から夕方の四時頃まで後片付けをして終へたとの事。

 筆者は選擧もあるので、九時半から二時前まで撮影をして歸つて仕舞つた。

 相變らず結束力の強さを見せて、町内の人が次々と集まつて盛況だつた。

 

 

十二月十五日

 

   悴んだ手に攫むもの虚空なり 不忍

 

 かじかんだ  てにつかむもの こううなり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 夕方の五時過ぎに家の風呂へ入りに行つた。

 遉(さすが)に寒くて、最初は四十二度の雨浴器(シヤワア)が火傷をしさうなぐらゐ熱く感ぜられた。

 それにも慣れて湯船に浸()かると、身體(からだ)が芯から温まり心までが解(ほぐ)れるやうであつた。

 風呂から上がると休む間もなく表に出て店に向つたが、外氣は思ひのほか寒く、折角温まつた身體が一氣に冷たくなつて、特に手袋もしてゐない兩手が悴(かじか)んで仕舞つた程である。

 人間の欲望といふものは、名譽慾(めいよよく)や權力を欲したり金錢慾であつたりを求めてしまふものだが、生涯を終へる時にはそれらは離れてしまふもので、元から果敢無く悴んだ手で虚空を攫(つか)む行爲(かうゐ)に似てはしまいか。

 店に行く途中、そんな事を思ひながら句作した。

 

 

 

十二月十六日

 

   年の瀬の夜更けの空に風猛る 不忍

 

 としのせの  よふけのそらに かぜたける

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 初案から續けて「何事かあるや年の瀬風舞ひぬ」と詠むも、初案を良とした。

 今日は風が強くて、何事かを訴へでもしさうなやうに轟といふ音を響かせながら虚空をかけ廻(めぐ)つてゐた。

 選擧の結果がどうだとか、景氣が惡いだとかの不滿を言へば限がなく、生きてあるを芽出度き事と辨(わきま)へて、今日一日を過さんと思ひ到る。

 倩々(つらつら)惟(おもんみ)るに、下五句の「風の聲」の句勢の弱ければ、「風猛(たけ)る」と改めん。

 

 

十二月十七日

 

   ぬくもりを傳へし布團や籠る朝 不忍

 

 ぬくもりを  つたへしふとんや こもるあさ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「自らで温もる布團の朝の時」であつたが諦めた。

 我家は炬燵の周りで轉寝(うたたね)をする時は別にして、寢室で眠る時は暖房器具を一切使用しない。

 どれだけ部屋が寒くて布團が冷たくても、自らの體温だけで夜具に包(く)まつて眠る事にしてゐる。

 最初は震へる程寒いが次第に羽毛布團が熱を帶び、連合ひの體温と共に暖かい空間が手に入る。

 こんな冬の朝は布團から中々拔出せないとふ何氣ない日常の行動でも、

 『自燈明』

 といつて、誰かを師とするのではなく自らの光を以(もつ)て人生の闇を照らして歩いて行くのだといふ事を考へてしまふ。

 その『自燈明』といふ能力は、經驗と知識とを己が身に取入れて、智識にまで昇華させて事に置いて發揮させられれば叶ふのだが……。

 などと理窟つぽい事を思ひ廻らせてゐたりするのである。

 

 

十二月十八日

 

   冷たき手にそれでも消ゆる風花よ 不忍

 

 つめたきてに  それでもきゆる かざはなよ

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 初案の下五句は「風の花」であつたが、坐りが良いからと言つて風花をさう表現しても問題はないかといふと、さうとばかりも言へないやうに思はれて無難な方を選ぶ事とした。

 今日は殘り少ない店の休日で、『ゴーン・ガール』といふ映畫(えいぐわ)を觀に行き、そのあと長男夫婦と孫のクリスマスプレゼントを買ひに吹田の山田にある「トイザラス」へ立寄つて、一緒に食事も濟ませて歸つて來た。

 ここ二、三日少しばかり風邪氣味だつたので、マスクをしながら孫に會つた。

 最初は怪訝な顏をしてゐた孫も、すぐに誰だか理解して笑顏を見せて安心してくれたけれども、身體(からだ)は怠(だる)くて、家に歸つても風呂に入る元氣さへなくなつてしまつた。

 倒れ込むやうにして炬燵の横でひと眠りして、夜中の一時頃に目が覺めたのでこれを書いてゐる。

 今日は朝から雪がちらついてゐて路面には氷さへ張附く程に寒かつた。

 

 

十二月十九日

 

   不條理や陽遁始め雪は白 不忍

 

 ふでうりや  やうとんはじめ ゆきはしろ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 愛用の高島易斷の暦によれば、金曜日である十二月十九日は『陽遁始め』ださうである。

 九星(きうせい)は、

 「一白・二黒・三碧・四緑・五黄・六白・七赤・八白・九紫」

 の九つからなる古代中國から傳はる民間信仰であり、

   「四九二

    三五七

    八一六」

 この「縦、横、斜め」のいづれの列も三つの數字の和が十五になる「魔方陣」が起源であり、この數字に、

 「白・黒・碧・緑・黄・赤・紫」

 の七色と、

 「木・火・土・金・水」

 の五行、それに、

 「十干・十二支」

 といふ易の八卦を配當して作られたといふ。

 洛水の書(洛書)とも言はれてゐるこの魔方陣は、禹(夏王朝)が洛水を通りかかつた時、川の中から飛び出た神龜の甲羅に描かれた模様から思ひついたとされれてゐ、

 

   「一白水星(いつぱくすいせい)           坎 白

    二黒土星(じこくどせい     )  土    西南 坤 黒

    三碧木星(さんぺきもくせい)           震 青

    四緑木星(しろくもくせい)       東南 巽 緑

    五黄土星(ごわうどせい)        中央 黄 色

    六白金星(ろくぱくきんせい)      西北 乾 白

    七赤金星(しちせききんせい)      西  兌 赤

    八白土星(はつぱくどせい)   土    東北 艮 白

    九紫火星(きうしかせい)       火         離 紫」

 

 これらの名前は太陽系の惑星との關聯は全くなく、また九星には三つの「白星」と一つの「紫星」があり、嘗(かつ)ては「三白九紫」として吉の星であるとされてゐたといふ。

 この「九星」に限らず、全ての占ひや日々の生活を決定づけるやうな暦や行事などは、無常で不條理なこの世の中を、人が生きて行く便(よすが)として少しでも指針となるやうにと見つけ出したものであらう。

 この句の初案は「不條理や花は紅雪は白」であつたが、『陽遁始め』を詠み込めてゐなかつたので改めた。

 句意としては、「花は紅くて雪は白い」といふごく當り前の事に氣がつけば、

 「開運」

 といふ日常の規範以上の、

 「當るも八卦、當らぬも八卦」

 などといふ占ひと言ふか、宗教の信心にまで己が身を投ずるやうな事はないのではなからうかと考へてしまふ。

 

 

十二月二十日

 

   即興の樂の音ひびく冬の宿 不忍

 

 そくきやうの  がくのねひびく ふゆのやど

C♪♪ ♪ ♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 今日は長男の爵士(ジヤズ)のお師匠である村山義光さんの「ワアクシヨツプ」があるといふので、一緒に出かける事になつた。

 博客(ブログ)によれば、

 「受講ご予約受付中~『第74回g村山義光ジャズ・ワークショップ』  告知●20141220()14:0018:30西九条駅前【マーシーオーガモン】(原文の儘)

 といふ事になつてゐて、幾度かの面識はあるものの、深く會話を交した事はなかつた。

 三人の受講者に對する的確な指導的意見(コメント)に、思はず我が意を得たりと膝を打つこと頻りであつた。

 その後、

 「難波【Musc Bar 845 vo東雲真理g村山義光DuoLive

 での実況(ライヴ)で納得の行く、ジヤズの聚集(セツシヨン)を聽いた。

 「日本一危険なジャズボーカルvo東雲真理と再び」

 といふ村山義光師匠のブログでの惹句が目に止るが、即興(インプロヴイゼエシヨン)もくだけた中にも程好い緊張感もあり、伸びのある聲が店の中を滿たしてゐて、コクのある音樂を堪能出來た。

  

村山義光ライブスケジュール・ブログ

http://murayaman.blog72.fc2.com/

 

 

十二月二十一日

 

   陽にとける藥鑵の湯氣や年の暮 不忍

 

 ひにとける   やくわんのゆげや としのくれ

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 初めは漠然と「年の瀬や窓の陽射しに溶け込む藥鑵(やくわん)の湯氣」と詠んで見た。

 次に「暮の陽に藥鑵の湯氣が溶け込んで」と、連歌の第三句の體(てい)となり最終案となつた。

 一九四〇年代以前は正月前ともなれば、火鉢が部屋の眞中(まんなか)に置かれてあり、その上には藥鑵が湯氣を立てて部屋の乾燥を防いでゐたり、御節料理の爲の鍋があつたりしたものである。

 それが四〇年代を境にして電器炬燵が普及すると、各家庭から火鉢は一掃されてしまひ、最近では加濕器が利用されてゐるやうだ。

 我が店は鐵板が常備されてゐるので、お好み燒や燒そばは勿論の事、卵燒や燒肉はいふに及ばず、煮物の鍋や藥鑵で水を沸かすのもすべてそれで賄へるのである。

 朝――といつても十時頃から鐵板を温めだして藥鑵を置いておくと、やがて店の中の天井に向けてに湯氣が立上る。

 その湯氣が出窓からの陽射しを受けて溶け込むやうな調和を見せる。

以前のやうな正月前の穩やかな陽が蘇る。

 

 

十二月二十二日

 

   朝食に坐れば冬至南瓜かな 不忍

 てうしよくに  すわればとうじ かぼちやかな

C♪♪ ♪ ♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪ ♪ ♪†ζ┃

 

 初案は「朝餉に默つて坐れば南瓜(かぼちや)かな」であつたが「南瓜」は秋の季語なので、やはり日附だけで冬至(とうじ)を傳(つた)へる譯(わけ)には行かないと考へて改めた。

 冬至は二十四節氣のひとつで、晝(ひる)が一年で最も短い日である。

 習俗としては「星祭」とか、冬至風呂と称して「柚子湯に入るとかがある。

 食べ物としては、冬至の「と」から「唐茄子(たうなす=南瓜)・唐辛子・泥鰌(どぢやう)・豚汁・鶏肉(鶏卵)」などがあり、「砂拂(はら)ひ」と稱して體内(たいない)の惡いものを吐き出させる爲に蒟蒻を食べるといふ。

 また、冬至の朝は疫病にかからないといふ小豆粥則ち「冬至粥」を食すといふが、いづれも語呂合せが多いものの、それらは無病息災を祈つての事である。

 特に全國に殘つてゐる風習としては、中風にならないとか或いは長生きするといふので南瓜を食べるのが有名である。

 食糧事情の惡かつた昔は、冬に榮養を攝る爲の工夫でもあつたのだらか。

 所で、今年の十二月二十二日は舊暦によれば十一月一日となり、これを「朔旦冬至(さくたんとうじ)というと辭書(じしよ)にあり、これは十九年に一度の事であるといふ。

 但し、どういふ計算かはよく解らないが、この次は三十八年後の二〇五二年になるさうである。

 「朔旦冬至」は中國では古くから行はれ、六五九年に偶然遣唐使が唐の都である洛陽に滯在中に儀式への參加が許されたといふ。

 日本では唐風儀式を取入れた桓武天皇の七八四年に初めて儀式が行はれ、公卿が賀表を奉り、天皇は紫宸殿に出御して祝つたとの事。

 後日に豐明節會(とよあかりのせちゑ)に朔旦叙位や恩赦も行はれたといふが、一七六八年の光格天皇の時の「朔旦冬至」の儀式が最後で、次の一八七〇年には明治政府により古い因習として、以後かうした儀式は行はない事となつたといふ。

 我家では毎年この日が來ると、健康であらん事を願つて、默つて坐れば食卓に南瓜が出る。

 連合ひの思ひやりは、當然(たうぜん)御來店のお客樣にもお裾分けされて、皆さん感謝しながら完食される。

 

 

十二月二十三日

 

   友が來て酒酌み交す年の暮 不忍

 

 ともがきて  さけくみかはす としのくれ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案の下五句は「師走かな」であつた。

 毎年ごとに師走の氣分が町から消えてゐるやうな氣がする。

 暦を見ると今年も終りだと思ふが、切迫感が全く身に迫つて來ない。

 正月を前にするといふ惜しむ氣持と、新たな年がそこまで來てゐるといふ改まつたものが、湧いて來ないのである。

 夜遲くに友人が訪ねて來て昔話に花が咲いたが、上司とのいざこざで仕事を辭()めたものの、會社(くわいしゃ)が庇つてくれたので、辭表(じへう)を提出してからの日數を有休扱ひにしてゐてくれて、他の支店で勤務する事となつたとの事。

 「捨てる神あれば、拾う神あり」

 まさにさういふ事であるが、それも彼が仕事に對する眞摯な姿勢があつたればこそで、見てゐる人はゐるものなのである。

 筆者の友人は同年より以下の人が多く、中には隨分と年の離れた人物もゐるが、どういふ譯か獨身者ばかりである。

 聖誕祭(クリスマス)もに近いのか、來客の少ないのを幸ひに、店で鍋でも圍んで酒を酌み交す。

 

 友來たりて酒あれば一獻(いつこん)お互ひに

    年の瀬の夜をしみじみと呑む           不美男

 

 とも きたり て  さけ あれば いつこん おたがひに

C♪♪ ♪♪♪ †ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 としのせのよを しみじみとのむ

♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪♪♪†┃

 

 

十二月二十四日

 

   イヴに獨りゆゑなき事にあらざれど 不忍

 

 いゔに ひとり  ゆゑなきことに あらざれど

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 二十四日の今日は言ふまでもなく平安夜(イヴ)である。

 我が店の大坂の郷愁的食物(ソウルフウド)であるお好み燒は、全くお呼びではないのか、來客數が激減である。

 といふか、人通りが皆無である。

 一時間に一人だつて、幹線道路だといふのに車でさへ往來(ゆきき)してゐない。

 糅()てて加へて、今日は日本では古くから「納め地藏」として最後の縁日の日でもある。

 地藏縁日は「四」の附く日に行はれ、その年十二月二十四日を最後の日とし、年明けの一月二十四日を最初の地蔵の縁日で「初地蔵」呼ばれてゐる。

 梵語(サンスクリツト)語で「クシテイ・ガルバ」とも呼ばれてゐる『地藏菩薩』は、婆羅門(バラモン)教から佛教に取入れられた「地天」の事で、これに對して天を司る「梵天」則ち「虚空藏菩薩」があり、これらは一對(いつつい)として存在してゐるとものの本にある。

 『地藏菩薩』は佛典の「地藏十王經」によると、閻魔大王の化身と言はれてゐ、釋迦入滅後から五十六億七千万年後に彌勒菩薩が現れるまでの間、

 「地獄道・餓鬼道・阿修羅道・畜生道・人間道・天道」

 といふ六道の一切の衆生を救ふ菩薩とされてゐる。

 袈裟を身に纏ひ、瓔珞(ネックレス)を著けて、右手には錫杖(しやくぢやう)を、左手に如意寶珠(によいほうじゆ)といふ地藏の姿は僧侶が心象(イメエヂ)されて、時代と共に親しみを込めて「お地蔵さま」に變化(へんくわ)して行つた。

 因みに、地獄信仰と地蔵菩薩とは別個のものであつたといふが、今ではクリスマスイブに壓()されて隅に追ひやられてゐる。

 

   さればとて納め地藏にゆゑもなし 不忍

 

 さればとて   おさめじざうに ゆゑもなし

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

十二月二十五日

 

   孫も來て贈答もあり聖誕祭 不忍

 

 まごもきて  ぞうたふもあり くりすます

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 十二月二十五日は耶蘇基督(イエス・キリスト)の降誕(誕生)を祝ふ日である。

 猶太(ユダヤ)教から羅馬(ロオマ)帝國のへと受繼がれて教會暦では、日没を一日の境目としてゐたといふ事で、平安夜(クリスマス・イヴ)の十二月二十四日の夕刻から朝も含めて、聖誕祭(クリスマス)と同じ日に數へられるのだといふ。

 けれども、基督教において聖誕祭(クリスマス)は「降誕を記念する祭日」とされてゐるものの、耶蘇基督の降誕した日がいつにあたるのかは、古代から樣々な説があり、この日が誕生日だと考へられてゐる譯ではなく、新約聖書にも耶蘇の誕生日を特定する記述はないのである。

 聖誕祭には家族と過ごし、樅の木(クリスマスツリイ)の下に「愛」の象徴である贈物(プレゼント)を置く。

 この習慣は、中世獨逸(ドイツ)の神秘劇でアダムとイヴの物語を演じた事に由來してゐると言はれてゐる。

 聖誕老人(サンタクロオス)は、聖人である尼哥拉(ニコライ)の傳説が起源とされてゐる。

 因みに、基督教で最も重要な祭りと位置づけられるのは復活祭の方だと言はれてゐる。

 筆者は無宗教であるが、獨り身から妻帶して四人の子供に惠まれ、一人ではあるが孫までが生れ、この日に集まつてささやかながら贈物(プレゼント)を交し、共に食事を愉しんで食後にはケエキを食べながら談笑をする。

 この年になつて贈物まで貰へるなんて信じられない。

 サンタクロオスはゐるのかも知れない。

 

 

十二月二十六日

 

   冬ざれて木々のうしろの景色かな 不忍

 

 ふゆざれて   きぎのうしろの けしきかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 今日はなかなか出かけられなくなつた亥子谷へ行つて見た。

 桃山臺から南千里を拔けて亥子谷へと向かう道沿いに、公孫樹(いてふ)と櫻の竝木が續いてゐ、それらの葉は已(すで)に枝から離れてしまつてゐて、いかにも冬の荒れ果てた寂しげな景觀を呈してゐた。

 それらの枝の隙間のその向ふに見える空や雲も、分ち難く一つに溶込んでゐるやうであつた。

 

 

十二月二十七日

 

   上弦の椀置く西の冱てる空 不忍

 

 じやうげんの  わんおくにしの いてるそら

C ♪ ♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「上弦の椀を置いたる西の空」であつたがこれでは季語がないので、次に「上弦の椀置く西の冬の空」としたが改めた。

 さうして下五句も「空冱()てる」であつたが、「空冱」といふ漢字ふたつがぶつかり合つて柔らかさが不足すると考へての結果となつた。

 「上弦」とは滿月が半分に缺()けた時、眞中(まんなか)の線を弓の弦と見立てて右側に弓があれば「上弦」で、左側に弓があれば「下弦」といふ事になる。

 また、お椀の形が西に沈めば「上弦」で、これから上る東の空にあれば「下弦」だと憶えれば解り易いだらう。

 高島易斷の暦によれば二十九日の夜が「上弦」とあるが、二十七日の夜も西の空にお椀型の月が冱てつくやうにかかつてゐた。

 

 

十二月二十八日

 

   一切を降り落す雨や納め不動 不忍

 

 初めは「何もかも降り落す雨や思へば納め不動」といふ言葉がダラダラと浮んだ。

 けれども、これでは言葉を並べただけでしかないから、殺ぎ落とさなければならない。

 高島易斷の暦によれば毎月二十八日は不動尊の縁日で、十二月はその年最後の縁日で『納め不動』といふのださうである。

 大坂では瀧谷不動明王寺で「護摩供」が行はれる。

 梵語(サンスクリツト)で「アチヤラ・ナアタ」と言はれる不動明王(ふどうみやうわう)は大日如來の化身とされ、

 「無動明王・無動尊・不動尊」

 などと呼ばれて「お不動さん」の名で親しまれてゐ、五大明王の中心となる明王でもあり、

 「眞言・宗天台宗・禪宗・日蓮宗」

 等の日本佛教の諸派及び修驗道で廣く信仰されてゐるといふ。

 不動明王は、印度(ヒンドウ)教の最高神である大自在天(シヴア)神にあるとの説が有力で、ヒンドウ教を取り込むために密教がシヴア神を不動明王として大日如來の眷屬とする事で、その信仰者までも吸収したものと思はれる。

 所で、歳時記の中に『納め不動』は記載されてゐないやうであるが、筆者はこれを季語と同じものと扱つても構はないと思つてゐる。

 夕方から雨が降り出したので家に歸るのを止めて近所の錢湯に行つた。

 近所の店で忘年會の招待を受けて出かけたが、雨は次第に強さを増して、何もかも降り落しでもするかのやうであつた。

 この句は「五音・八音・六音」の字餘りであるが、中句では「落す」が三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))となり、下句は「動」が四分音符()の一拍を充()てる事で解決出來る。

 俳譜を示せばかうなる。

 

 いつさいを  ふり おとす あめや おさめふどう

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪ †┃♪♪♪♪  † ζ┃

 

 

 

 

十二月二十九日

 

   冬の田の溝の水にも雲のあり 不忍

 

 ふゆのたの   みぞのみづにも くものあり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 駐車場を出るとマンシヨンの直ぐ横に田圃と畑がある。

 亥子谷から歸つて來てそこを通りかかつたら、畝(うね)が作られてあるものの、何かを植ゑられてあるやうな氣配は感ぜられない。

 それほど閑散とした風景ではあるが、一定の間隔で列状に盛上げられた土に溝が切られ、そこの幾つかに水が溜つてゐて、青い空と白い雲が異次元の入口ででもあるかのやうに廣がつてゐた。

 

 

 

十二月三十日

 

   年の瀬や有象無象の一人なり 不忍

 

 としのせや  うざうむざうの ひとりなり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 愈々(いよいよ)、今年も納めの時が迫つて來た。

 生を受けてよりこの方、何も出來ぬ儘に時を過ごし、殘り時間の方も少なくなつて來たにも拘はらず、己が身ばかりではなく世間に對しても貢獻すべきものがない。

 『有象無象(うざうむざう)

 とは種々雜多なくだらない人間の事で、人を卑しめる言葉だと辭書(じしよ)にあるやうに、忸怩(ぢくぢ)たる思ひが去來すれども、

 「いかんともする事能(あた)はず」

 といふ心境で今年も暮れて行く。

 

 

十二月三十一日

 

打つ鐘が年 uvs150101-001

 

   打つ鐘が年跨がする去年今年 不忍

 

 うつかねが  としまたがする こぞことし

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 町内に長島住吉神社があつて、聞く所によるとそこで七年ほどまえから年末年始のカウントダウンをしてゐる。

 筆者がこの地でお好み燒屋を始めて二年半になるが、これで三度目の新年を迎へる事となり、例によつて撮影に出かけた。

 夕方になつて雨が降り出したのどうかと思つたが、出かけやうとした夜の十一時半には晴れてゐて、空に綺麗な月がかかつてゐた。

 何處からか除夜の鐘の音が神社にも響いてゐた。

 

 

一月一日

 

壽いで uvs150101-003

 

   壽いで來る人やあり御節かな 不忍

 

 ことほいで  くるひとやあり おせちかな

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「壽(ことほ)いで來る人もあり御節(おせち)かな」であつた。

 それから中句の一文字だけ推敲したものの、暫く躊躇(ちうちよ)してから決定した。

 といふのも、中句の「や」を讀者が「切字」と勘違ひしやしないかと氣になつたからであるが、けれどもこれは格助詞の「や」で、「が・も」に通じる「や」と扱ふ事が出來るものであると考へて良とした。

 暮から元旦の五時まで店を營業して、そのまま自宅へ歸つて速攻睡眠を貪つた。

 十二時前に目が覺めて、長男夫婦と孫と心亭舮波夫(シンテイロパヲ)氏が参入して、皆でお屠蘇で祝ひ、雑煮と御節を戴いた。

 それが午後四時まで續いて、不圖(ふと)窓の外を見ると、雪が降つてゐた。

 結構、大坂にしては、それも正月の朔日(ついたち)にしては珍しく、激しい調子で降つてゐた。

 雪は、一時間程で止んで仕舞つた。

 所で、「や」の「切字」を忌避したかつた理由は下句に「かな」があつて、それがふたつも「切字」が重なつてしまつたからであつた。

 中村草田男(1901-1983)に、

 

   降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男

 

 ふるゆきや  めいぢはとほく なりにけり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ句があるが、拙句にこの有名な作品を引合ひに出すのは烏滸(をこ)がましいが、それが次の句では、さうなつてしまつた。

 正月から何たる事か。

 

 初雪や uvs150101-001

 

   初雪や朔日の午後の浪花かな 不忍

 

 はつゆきや  つい たちの ごごの なにはかな 

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

一月二日

 

櫻の時期だから季節は違ひますが、去年に毛馬を訪ねた時の映像です。

 

   あらたまの春の堤や誘ふ風 不忍

 

 あらたまの   はるのつつみや さそふかぜ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 「あらたまの」は『新玉・荒玉・玉』とか、別に『璞』とも『阿良多麻能』とも表記し、「あら」に「麁・未」、「玉」に「珠」の字を用ゐる場合もある。

 本來「あらたまの」は和歌の枕詞(まくらことば)で、發句には向かない表現であると思はれる。

 その理由は、枕詞が特定の語の上に掛つて口調を整へる言葉で、それ自體は意味が不明であつて自立してゐるとは言へないからである。

 「あらたまの」は「年・月・春・夜」に掛るといふ性質上、短歌の下句の「七七」がない發句において、文字數の制約をうけてしまふので、傳へるべき内容が不足してしまふ恐れが充分に考へられる。

 であるから枕詞を、

   あしびきの山鳥の尾のしだり尾の(足日木乃山鳥之尾乃四垂尾之)

   ながながし夜をひとりかも寝む(長永夜乎 一鴨將宿)

 といふ柿本人麻呂(六六〇七二〇)の歌のやうに、夜の長さを讀み手に解らせる爲に「五七五七」の二十四文字まで使つて、獨り寂しく寢るのだと詠んでゐる餘裕が、發句には望み得ないのである。

 それがこの句で何とかなり得たのは、

 

    春風や堤長うして家遠し 蕪村

 

 はるかぜや   つつみ なごう して いへとほし

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ句があつて、これは與謝蕪村(1716-1784)が六十二才の時の作品である『春風馬堤曲』の十八首の中の一句で、奉公に出た娘が藪入りで故郷の毛馬へ帰る道中を漢詩や發句(俳句ではない)を交えて詠んだものであるが、生涯つひに一度も生まれ故郷に歸らなかつた蕪村が娘に托した望郷の句であり、それを面影としてゐるからであると筆者は思つてゐる。

 けれども、それもこの句を知らない讀者には無縁の作品となるのかも知れない。

 今日は近所の神社を四件も廻つた。

 先づは十一時過ぎに長島住吉神社へ詣でてから藏壽司で晝食(ちうしよく)

 それから天竺川の堤防を歩いて服部の住吉神社へ行き、次に服部天神へ向つた後に、いつものお約束の喫茶『花琳』で珈琲を飲む。

 それが終つて若宮住吉神社を最後として自宅へ歸つたのは、五時を過ぎてゐた。

 

 

一月三日

 

友を待つ心斎橋に 036

 

   友を待つ心斎橋に冬の月 不忍

 

 ともをまつ  しんさいばしに ふゆのつき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 今日は休みの最後の日だから、心亭舮波夫(シンテイロパヲ)氏が馴染のSinging Bardiva』へ行く約束を以前からしてゐたので、心斎橋へ出かけた。

 その店は洋樂を原語で歌ふのが專門のカラオケバアで、さういふ珍しい主旨の店だから客層は大坂と言はず、關東や四國・九州からも來るとの事である。

 そこで一時間程で歸るつもりが、つい居心地が良くて四時間近くも長居をしてしまつた。

 それぞれの客のノリも良くて、愉しい時間が過ごせた。

 

 

 

一月四日

 

池に映る林に棲むかうきね uvs150105-002 池に映る林に棲むか浮寢鳥 uvs150105-001

 

   池に映る林に棲むか浮寢鳥 不忍

 

 いけに うつる  はやしにすむか うきねどり

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 桃山臺の驛の横に池がある。

 そこは噴水があつて夏は涼しげであるが、冬は水嵩も少なくて噴水も停止されてゐるのか、少なくとも筆者がゐる間は裝置が作動してゐなかつた。

 『浮寢鳥(うきねどり)』とは冬の季語である「水鳥」が水に浮いたまま眠る姿をいふのだが、古來より歌人達は「憂寢」をかけて戀の獨り寢の寂しさを詠んでゐた。

 一人で布團に入つて寢ながら、特に冬などはそのまま生涯を過すのかと思ふ心許なさは、如何にも遣る瀬無いものであらう事かは察して餘りある。

 群れをなす水鳥の動きだけが水面にゆつくりと波紋を廣げてゐた。

 

 

 

一月五日

 

   商賣の身でありながら知る初巳 不忍

 

 しやうばいの   みでありながら しるはつみ

C ♪ ♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 高島易斷の暦によれば、五日は官廰(くわんちやう)の御用始であると同時に「初水天宮(はつすいてんぐう)」の日である。

 さうして、「初巳(はつみ)」の日でもあるとあつた。

 調べて見ると『初巳』とは正月の最初の巳の日の事で、この日は七福神の一つである辨財天(べんざいてん)に參詣する習慣があり、「初辯財天・初辯天」ともいふ。

 辯才天は福徳賦與(ふくとくふよ)の神として信仰され、蛇を使者に用ゐた事に由來して、この日は「巳成金(みなるかね)」といふお札が出されるとの事。

 琵琶を手にした女性の神である辯財天は、藝事や金運及び勝負事にご利益があるとされ、

 『安藝の宮島・大和の天川・近江の竹生島・相模の江ノ島・陸前の金華山』

 を五辯天と稱するさうである。

 またこれ以外にも數多くあるものと思はれるが、神奈川懸の銭洗辯財天宇賀福神社や東京都の寛永寺辯天堂などもあり、その他に千葉懸柏市の布施辯天へ參(まゐ)る事を「布施參」といふともある。

 

 

一月六日

 

   爪先に地より傳はる寒の入 不忍

 

 つまさきに   ちよりつたはる かんのいり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

 一月六日は『小寒』であるが、別に『六日年越』とも言つて、それは正月七日を『七日正月』といふ事からその前夜を年越として祝ふ事と辭書(じしよ)にある。

 この行事は地方によつては、

 「神年越・女の年越・馬の年越」

 などといふ事もあるやうで、この夜は大晦日と同じやうに過すといふ。

 『寒の入』とは、この『小寒』の日から節分までの三十日間が寒に入る事で「寒の内」と言ひ、厳しい寒さが續くので寒中見舞が出されたりする。

 言ふまでもなく『小寒』は二十四節氣のひとつである。

 この句はスツと口から衝いて出て、さういふ句は極めて珍しい事ではあるが、何處も弄(いぢ)りようがない。

 とは云ひながら、倩々(つらつら)惟(おもんみ)るに中句に不滿が出たので變へてみた。

 

   爪先に地から這い入る寒の入 不忍

 

 つまさきに   ちからはいいる かんのいり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

一月七日

 

   心にも優しき妻の若菜粥 不忍

 

 こころにも  やさしきつまの わかながゆ

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 高島易斷の暦によれば、福岡大宰府天満宮では「鷽(うそ)替え神事」と「鬼すべ神事」が同日に續けて行はれるといふ。

 調べてみると「鷽替え神事」は、前の年に不知不識(しらずしらず)の内についた全ての嘘を、參加者が天神さまに木彫りの鷽を交換して今年の吉に替へ、一年間の幸福を祈念する神事であり、「鬼すべ神事」はその年の災難消除や開運招福を願ふ、勇壮な火祭りである。

 扨(さて)、正月七日は五節句の一つで『人日(じんじつ)』といひ、七種粥を食べることから七草の節句ともいふ。

 中國では古來、正月の一日を鶏の日、二日を狗()の日、三日を豚()の日、四日を羊の日、五日を牛の日、六日を馬の日として、それぞれの日にはその動物を殺さないやうにしてゐたといひ、さうして七日目を人の日(人日)として犯罪者に對する刑罰は行はず、七種類の野菜(七草)を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があつた。

 日本では平安時代にこれが傳はつて、『七草粥』となつたと辭書(じしよ)にある。

 この風習が一般化したのは江戸時代からで、『人日』を含む五節句が江戸幕府の公式行事となつたといふ。

 更に、新年になつて初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて柔かくしてから切ると、その年は風邪をひかないとも言はれてゐるやうだ。

 我家はかういつた行事は、妻と長女の擔當(たんたう)で必ず催されてゐる。

歳時記によれば『七草粥』は、

 「七草・薺(なずな)粥・若菜粥・七雜炊・七日粥・若菜の日・宵薺・二(ふた)薺・若菜の夜()・叩き菜・七所祝(ななとこいはひ)・七草貰ひ・七草賣」

 と樣々な表現があるが、これらは「五七五」の十七文字といふ少ない音數に合はせようといふ配慮からであるのは勿論の事である。

 

 

18、七草考・『日本語で一番大事なもの』大野晋 丸谷才一 中央文庫

『摂取本(セツシボン)』より

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4657977&id=59232146

 

 

一月八日

 

   迷ふ世の十方闇や寒の内 不忍

 

 まよふよの  じつぱうぐれや かんのうち

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 『十方闇(じつぱうぐれ)』とは甲申(きのとさる)の日から癸巳(みづのとみ)の日までの十日間の事を言ひ、この期間は天地陰陽の氣が和合せず、則ち相剋してゐるので相談事も纏り難(にく)く、萬事うまく行かない兇であるとされてゐる。

 高島易斷の暦によれば、新規事の開始や旅立ちにも兇とされ、勞多くして功の少ない日と記載されてゐる。

 『十方闇』は『十方暮』とも表記し、

 「一粒万倍日(いちるふまんばいび)・不成就日・八專・三隣亡・天一天上・天赦日・土用」

 などの選日の一つである。

 「十方」とは天地と八方向の事で、四方八方の十方が閉ざされたという意味からも、「暮」と書くよりは「闇」の方が的確であらうが、「途方に暮れる」の語呂合せとの説もある。

 尤も、筆者は占ひも宗教も信じたりはしないけれども……。

 

 

一月九日

 

   穩やかな風なき朝の寒四郎 不忍

 

 おだやかな  かぜなきあさの かんしらう

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 『寒四郎』とは寒の入(小寒)から四日目に當る日を言ふが、『廣辭苑 第六版(岩波書店)』には記載されてゐないものの、「精選版 日本國語辭典(小學館)」には採用されてゐる。

 それによれば、

 「麥(むぎ)の厄日とされてをり、この日の天候は「天上天一」の第一日目で「八專(はつせん)」の第二日目當り、四季の「土用」の第三日目と竝んで、その後の晴雨または一年の作柄に重要な影響がある」

 と書かれてあり、その日に晴れるとその年は豊作になると言はれてゐる。

 また、

 「彼岸太郎(一日目)・八専次郎(二日目)・土用三郎(三日目)・寒四郎(四日目)

 とも言ひ、更に寒の入から九日目は「寒九」と呼ばれ、『寒四郎』とは逆に「寒九の雨」といつて、雨が降れば豊作の兆しとされてゐるといふ。

 この日は朝の九時半から箕面の「109シネマ」へ『96時間 レクイエム』を觀に出かけたが、その時は晴れてゐたのに午後になつてから曇り空になつかと思ふと、朝の天氣が嘘のやうに雨が降り出した。

 

 

一月十日

 

   心當てに旅の支度や宵戎 不忍

 

 こころ あてに   たびのしたくや よひえびす

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「身支度も初めの月の宵戎」と詠み、「身支度も初めの旅やの宵戎」とそれからそれへと移つて最終案となつた。

 年が改まつて、昔は十五日までを『末の内』と言つたが、現在は七日までを指すやうになり、また新たな一年の旅立ちの氣分で身を引締める。

 そんな思ひで宵戎にでも行かうと一歩を進める。

 

 

一月十一日

 

   歌姫や聲は立見に隱されず 不忍

 

 うたひめや   こゑはたちみに かくされず

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「歌姫や音は立見を上廻り」であつた。

 今日はシンデイ・ロオパアの、

 『三十周年アニヴアアサリイ・セレプレエシヨン ジヤパン・ツアア 2015』

といふ大坂公演に出かけた。

 御存知であらうが、我が友人の心亭舮波夫(シンテイロパヲ)氏が大の支持者(フアン)である事から、二〇一二年に一緒に出かけてから二囘目の事となつた。

 けれども、今囘の公演には少しばかりがつかりした。

 それといふのは、十八時開演で席に著いたものの、客席の一部の支持者(フアン)が舞臺(ぶたい)に向つて掛聲(コオル)をし出して他の觀客を煽動(せんどう)して輪が廣がつて、それが二十分ぐらゐ續いてシンデイを呼び出さうとすんるのだが、筆者が思ふにはそれが却つて開演を遲らせた要因のひとつになり、十八時四十分からの開演となつたのではないかと思つてゐる。

 そればかりではなく、彼女が現れると觀客は一齊に立上つて手拍子をし始めたのである。

 筆者は、さうまでして觀客としてそこにゐたくはなかつたので、直ぐにフロアにでて、そこにある舞臺を映し出したモニタアを見てゐたが、小さなスピイカアから聞える音樂を聽いてゐる内に、

 「これでは家で電視臺(テレビ)を見てゐるのと變りはないではないか」

 と急に業腹になつて、意を決して座席に戻つた。

 さうして、今度は梃子(てこ)でも立上つたりするものかと座席に腰かけてゐた。

 まるで抗議でもするかのやうに……。

 周りには、筆者以外に一人だけ同じやうに坐つてゐる鑑賞者がゐて、妙に共感(シンパシイ)を覺えた。

 立上がつて手拍子をする多くの觀客は、あれは音樂を聽いてゐるといふ姿勢とは到底思はれない。

 あれはシンデイの支持者(フアン)である事に醉()つてゐるといふか、シンデイを支へる一員である事の再確認なのではなからうか。

 それにも拘はらず、彼女はプロとして最後まで歌ひあげたのである。

 いふまでもなく、『歌姫』とはシンデイ・ロオパアの事であるのはいふまでもないだらう。

 序(つい)でに言へば、シンデイ・ロオパアは最後の曲の「True Colors」を歌ひ終へて舞臺の袖に消えて行つた時、觀客からは追加演奏(アンコオル)の拍手が鳴り止まなかつたが、つひに彼女を見る事はなかつた。

 いつもなら一曲だけでなく、觀客の期待に應(こた)へて二曲目を歌ふ場合もあるといふ。

 筆者には、それがシンデイの觀客への抗議であつたやうに思はれた。

 

 

一月十二日

 

   髭剃つて元服なれど春淺き 不忍

 

 ひげそつて  げんぷくなれど はるあさき

C ♪ ♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 十二日は高島易斷の暦によれば『初子(はつね)』とあるが、調べて見るとこれは、

 「その月の最初の子()の日。特に、正月の最初の子の日」

 とあり、更に、

 「古くは野外に出て小松を引いたり、若菜を摘んだりして遊ぶ」

 が、これを『子の日』の遊びと呼んださうで、季語としては「新年」として扱はれるものである。

 けれども、それよりもこんにちでは『成人の日』としての方が一般的で、この日は日本の地方公共團體(だんたい)などで成人に達する人々を招いて、社會人となつた事を祝福するといふ、

 『成人式』

 の行事が執行される。

 これは奈良時代からの元服に始まる日本特有の傳統的風習で、歐羅巴(エウロツパ)や亞米利加(アメリカ)などの海外では、このような式典などはないといふ。

 『元服』は通過儀禮(イニシエエシヨン)の一つで、「元」は首()の事で、「服」は著用を表す言葉で「頭に冠をつける」といふ意味であり、また、加冠とも初冠(うひかうぶり)とも言はれる男子の儀式であるが、女子の成人式は裳著(もぎ)と言ふと辭書(じしよ)にある。

 この『成人式』の大元(ルウツ)は、敗戰で打ちひしがれた当時の人が、せめて次代の青年達に希望を與(あた)へようと、一九四六年に埼玉懸の蕨市で實施(じつし)された、

 「青年祭」

 であつたといふ。

 これが祝日法により一九四八年に公布・施行され、「一月十五日」を『成人の日』として制定したが、ハツピイマンデイ法に伴ひ、二〇〇〇年からは一月の第二月曜日へ移動されてゐるのは御存知の通りである。

 そればかりか現在では若者の人口の減少から、地方では地元を離れた人が里歸りをする大型連休(ゴオルデンウイイク)やお盆に開催される場合もあるといふ。

 『元服』は、奈良時代から江戸時代の間までは數へ年で十二から十六歳の男子が家督を繼いだのだが、現在は二十歳になつてから大人として一人前となる。

 それであるにも拘はらず、式典では例年の事のやうに大人氣ない行爲(かうゐ)で、顰蹙を買ふ情けない姿が報道(ニユウス)を賑はしてゐる。

 

 

一月十三日

 

   病院に繼母初送りせむ冬曇り 不忍

 

 初め上五句を「通院に」と置き、中句に「せむ」はなかつたが、斯()くは推敲せり。

 今年になつて初めての繼母(はは)の通院で、晝(ひる)の十二時半に車で阪大病院に送つて行つた。

 この句、中句が九音もあるが、「送り」を三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))にする事で中句を四拍子に保つ事が出來、「せむ」の「む」の八分音符()に延長記號(フエルマアタ)の記號を附與(ふよ)する事で餘情を傳へる事が可能となる。

 俳譜を示して置かう。

 

 びやゐんに  はははつ おくり せむ ふゆぐもり

C ♪ ♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

一月十四日

 

   十四日にまた年越して幾つなるか 不忍

 

 占ひや縁擔(えんかつ)ぎなどではなく、季語の確認として愛用してゐる高島易斷の暦によれば、十四日(じふよつか)は大坂四天王寺で『どやどや』が行はれるとある。

 『どやどや』とは、

 「元旦から十四日間に六時堂で修正會(しゆしやうゑ)が修せられ、十四日の結願(けちぐわん)の日に催される天下泰平・五穀豐穣を祈願する行事である」

 と辭書(じしよ)にある。

 三大奇祭の一つとされるが、諸説があつて決定しがたいやうである。

 冥土の土産に一度は行つてみたいものである。

 所で、この日は別に『十四日年越し』といつて祝ひをするとあり、

 「舊暦(きうれき)から新暦を採用した明治以降の慣習で暦に載る」

 と一説にあるが、「角川俳句大歳時記」で調べてみると、どうやら江戸時代からあつたやうである。

 このあひだ年を越したばかりだといふのに、また年を越すなんて、我が齡((よはひ)幾つになりしか。

 この句は「六音・七音・六音」からなる19文字の字餘りであるが、上句の「四日」と下句の「幾つ」が三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))となつて、四分の四拍子の三小節となる。

俳譜を示して置かう。

 

 じふよつか に  またとしこして いくつ なるか

C♪♪ ♪♪♪ † ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪ ♪♪†ζ┃

 

 註)「ζ」は四分休符の代用である。

 

 

一月十五日

 

   小豆飯や粥なき在所の小正月 不忍

 

 あづき めしや  かゆなきざいしよの こしやうぐわつ 

C♪♪♪ ♪♪† ζ┃♪♪♪♪♪♪ ♪ ♪┃♪ ♪ ♪ ♪ †ζ┃

 

 初案は「妻の在所の粥(かゆ)なきままに小正月(こしやうぐわつ)」から、「小豆飯(あづきめし)や粥ぢやなけれど小正月」へと變遷(へんせん)して決定稿となつた。

 店が休日だつたので、生憎の雨模様だつたが朝の九時から妻の實家の美作へ、今年初めての里歸りをした。

 正午に到着(たうちやく)して輕く晝食(ちうしよく)を攝り、祖母や兄嫁や妻の姦(かしま)しい會話を他所(よそ)にして午睡を愉しんだ。

 元日を「大正月」といつて「門松」を飾るのに對して、正月の十五日は『小正月』といつて「餅花」や「削り花」を飾る事から「花正月」とも呼び、別に近畿では「女正月」ともいふと辭書(じしよ)にある。

 正月は「御雜煮(おざふうに)」だが、小正月は五穀豐穣を願ふ農耕儀禮として「小豆粥」を食するのだといふ。

 これは『土佐日記』や『枕草子』などにも、「小豆粥」を食べた事が記されてゐるさうである。

 さうして、田舎の事だから「小豆粥」が出されるかも知れないと期待してゐたのだが、卓上に出て來たのは栗もたつぷり入つた「小豆飯」で、胡麻鹽(しほ)をかけて食べた。

 一般にはこれは「赤飯」と呼ばれてゐるものである。

 妻の幸(みゆき)ちやんに聞くと、小正月の「小豆粥」といふ風習は知らないといふ。

 結局、麥酒(ビイル)も飲めない儘に夜の十時になつて歸宅したので、今、麥酒と葡萄酒(ワイン)を飮みながら、碎けた氣分でこれを書いてゐる。

 

 

一月十六日

 

   藪入はすでに濟まして都市の空 不忍

 

 やぶいりは   すでにすまして としのそら

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 高島易斷の暦によれば十六日は『臘日(らふじつ)』で、この日を年の暮れとして大祓(おほはらひ)を行ふので大晦日の事をさう呼ぶのだといふが、どうもよく解らない。

 さて、更に暦を調べると『賽日(さいにち)』ともあつて、佛教、印度(ヒンドウ)經などで地獄若しくは冥界の王として死者の生前の罪を裁き、日本の佛教においては地蔵菩薩と同一視されてゐる閻魔(えんま)を參詣する日である。

 閻魔(えんま) 梵語(サンスクリツト)語のヤマ( Yama)の音譯であり、「賽」は『賽の河原』と關係があるのかと思つたら、

 「祈願が叶つて御禮參(おれいまゐ)りする日」

 だと辭書(じしよ)にあつた。

 この『賽日』は「閻魔詣・十王詣」とも言ふとあるが、『藪入(やぶいり)』の日にも當(あた)り、小正月の後に奉公人が休暇を貰つて實家に歸る事をいふ。

 昔は農家の息子達が口減らしの爲に商家に丁稚(でつち)や女中として住込みで奉公に出、正月になると新年を祝ふものの、二日から初荷や初賣りで奉公人は休みがなく、小正月を過ぎて漸(やうや)く給金や小遣ひを手にし、土産を持つて實家に歸る事、これを『藪入』と言つたが、また別に「宿下(さが)り」とも呼ばれた。

 『藪入』は七月にもあつて、正月の時の季語と區別する爲に『後(のち)の藪入り』といふが、この習慣が都市の商家を中心に廣まつたのは江戸時代で、太陰暦から太陽暦への改暦が行はれた明治維新以降も大きな變化(へんくわ)はなく、この日は都會の繁華街は奉公人達で賑はひ、活動寫眞(映畫)などはこれによつて大きく發展したとされる。

 第二次世界大戰後からは労働基準法で日曜日を休みとなつて『藪入』は廢(すた)れ、「正月休み・盆休み」に取つて代られるやうになつた。

 我家では十五日にみゆきちやんの實家に歸つて來たので、『藪入』の前に里歸りは濟ませてしまつた。

 妻の實家とは言へ、田舎があるといふのはいいものである。

 

 

一月十七日

 

外に出て客の聲響く寒土用 001

 

   外に出て客の聲響く寒土用 不忍

 

 そとにでて   きやくのこゑ ひびく かんどよう

C♪♪♪♪†ζ┃γ ♪ ♪♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 十七日は土用の日で、普通に『土用』と言へば夏の季語であり、本來は五行に由來する暦の雜節で、陰暦の

 「立春・立夏・立秋・立冬」

 の四季の直前の約十八日間づつをいふが、陰陽五行説で四季を充てると、

 「春()・夏()・秋()・冬()

 となつて、殘つた「土」を先ほど述べたやうに季節の變り目に割當てて、

 『土用』

 と呼び、立秋直前の夏の土用を指す事が多く、その丑の日に鰻を食べる習慣がある事で知られてゐる。

 それに對して冬の土用は『寒土用』といふが、一年で最も寒さの嚴しい時期で、その最終日が節分となる。

 また、『土用』に入る前に着工して土用中も作業を續けるのは差支へないが、『土用』の間は土の氣が盛んになるので「動土・穴掘」等の土を犯す作業や殺生が忌まれ、ただし「土用の間日(まび)」にはその障りはないとされるといふ。

 夏と冬の『土用』は季語としてあるものの、「春・秋」については特にないやうだが、一八四七(弘化四)年の淡水亭伸也輯になる『合類俳諧忘貝』に、

 「發句にては當季(夏・筆者註)。平句にてはきにつれて」

とあり、

 「季または雜」

 とある。

 意味は、

 「連歌の發句では『土用』は夏の季語として扱はれ、それ以外の平句では季がある場合はその季節の季に從ひ、無季の場合は「雜(ざふ)」といふ」

 といふものであらうが、その著者と本についてはこれ以上の詳細は調べられなかつた。

 以前の店の常連客が歸るといふので、乘合自動車(タクシイ)を呼び止めようと前の道路に出ると、深夜の外氣は切れるやうに冷たく、戸を閉めてゐるにも拘はらず店からの客達の聲が夜の底に響き渡つた。

 

 

一月十八日

 

   山遠くまして梢の冬の雲 不忍

 

 やまとほく   ましてこずゑの ふゆのくも

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

初案は「山遠く梢(こずゑ)の先の冬の雲」であつた。

望んだものは何もかもが手に入れられるだらう、と若い時には思つたものである。

月日は流れて人生の晩年を迎へつつある時が近づいて來ると、さうとばかりは言へないが、だからといつて總(すべ)ての願ひが叶つたとしても、精神衛生上の問題があるだけで、滿足した生涯であつたかどうかといふだけの事なのであらうから、人生の目的が果してそこにあつたといつて良いものかどうか。

山はあまりにも遠くにあり、手に屆く筈の枝の葉はすでに散り果て、その梢の果にある雲は遙か彼方にある。

「空の空、空の空なるかな、空の空」

 

『空』と『無』に就いて

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1343474641&owner_id=25109385

 

 

一月十九日

 

   その廣き地球なれど店に冬籠 不忍

 

 この句の中句は九音であるが、『地球』は現代假名遣では「ちきゅう」と四文字であるが、歴史的假名遣だと「ちきう」と三文字となり、三文字の基本形(撥音()と促音())を除いた場合の音型である「γ♪♪♪」といふ八分休符(γ)から始まる。

 それに續く「なれど店に」が「♪♪♪ ♪♪♪」といふ三連符(♪♪♪)が二つで、前の「地球(γ♪♪♪)」と合せて中句が四拍子となるが、最後の「に」といふ音に延長記號(フエルマアタ)を附記して餘情を與(あた)へる事も忘れてはならないやうに思ふ。

 全句の俳譜を示せば、

 

 そのひろき   ちきう なれど みせに ふゆごもり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ事になる。

 

 取立てて人間嫌ひといふ譯ではないが、今日は一日店とその二階を往つたり來たりしただけで、一度も表へ出かけなかつた。

 まるで冬籠でもしたかのやうに……。

 因みに、『冬籠』は發句では當然(たうぜん)の如くに冬の季語であるが、和歌では春に掛る枕詞である。

 

電腦(コンピユウタア)に於ける文字表記(もじへうき)の事情

http://www.miyukix.biz/?page_id=1413

 

 

 

一月二十日

 

   東雲や腹に沁みたり寒の水 不忍

 

 しののめや   はらにすみたり かんのみづ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案の上五句は「朝ぼらけ」であつたが改めた。

 『東雲(しののめ)』とは「朝ぼらけ」と同じ意味であるが、こちらの方が範圍が廣いので決定稿とした。

 二十日は二十四節氣の第二十四に當り、夏に『大暑』といふのに似て、この日から次の節氣の『立春』前日までを『大寒(だいかん)』といふと辭書(じしよ)にある。

 『大寒』は寒さが最も嚴しく寒稽古が行はれたり、雉が初めて卵を産むといふ説や、今では水を買ふといふ生活習慣が根づいてしまつたので、そんな事をする人はゐないかも知れないが、この日の朝の水は一年間腐らないとされてゐるので、器にに容れて納戸に保管する家庭が昔は多くあつたといふ。

 人類の黎明期から考へれば、よくぞこれまでといふ程、三六五日殆ど毎日と言つても良いぐらゐの行事がある。

 この世は何かを據所(よりどころ)としなければ、生きて行く安心感といふやうなものが感ぜられないのであらうか。

 

 

 

一月二十二日

 

   我が身には戻るものなき默阿彌忌 不忍

 

 わがみには   もどるものなき もくあみき

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 歌舞伎狂言作者の河竹默阿彌(かはたけもくあみ・1816-1893)は、江戸時代幕末から明治にかけて活躍し、江戸日本橋生まれで本名は吉村芳三郎といひ、俳號を其水(そすい)と言つたとある。

 『默阿彌』と言へば、戰國時代の武將で大和の興福寺の衆徒であつた筒井順昭(1523-1550)が亡くなつた時、跡繼ぎの順慶(1549-1584)が年若く、その死を隱す爲に聲色(こわいろ)が似てゐた盲目の僧の「木阿彌」に寢所で順昭の代役をさせてゐたが、順慶が長ずるに及んで元の僧に戻った。

 貧しい生活から成上つて再び轉落して貧しい生活に戻る事、これを「元の木阿彌」といふ有名な慣用句が筆者には思ひ當る。

 『默阿彌』はそれに倣(なら)つたものではなく、歌舞伎に西洋劇の合理性を取入れやうとしてゐた改良演劇論者の批判に對(たい)して「黙して語らず」の意味でつけられたものだといひ、生涯に書いた演目は三百餘りもあり、その評價は坪内逍遙(1859-1935)でさへ、

 「明治の近松・我が國の沙翁(シエエクスピア・1564-1616)

 と絶賛してゐる程である。

 彼は若い頃から芝居の臺本とか川柳や狂歌の創作にふけつてゐるといふ素養があつた所爲(せゐ)か、

 「月も朧に白魚の、篝も霞む春の空……」

 から始まり、

 「こいつあ春から縁起がいいわえ」

 といふ『三人吉三廓初買(三人吉三)』の大川端庚申塚の場でのお嬢吉三の科白とか、

 「知らざあ言つて聞かせやせう

  濱の眞砂(まさご)と五右衛門が

  歌に殘せし盗人の

  種は盡きねえ七里ケ濱」

 といふ『青砥稿花紅彩畫(白浪五人男)』の雪ノ下濱松屋の場、辯天小僧菊之助の科である、これらの七五調の洗練された言ひ廻しは觀客を魅了して止まない。

 

 

一月二十三日

 

   冬の街を目覺めゆく腦や休み明 不忍

 

 初案は「街の活氣や休み明(あけ)」と上五句を缺()いてゐて、次に「體から腦の目覺める休み明」となり、更に「體から目覺めゆく腦や休み明」となるが季語がなく、かくて最終案となつた。

 金曜日は休み明だつたので、目が覺めたのが午前十一時前だつた。

 寢たのが明方の六時頃だつたから、店に行く道を歩きながら身體(からだ)を起して、それから頭が次第に活動を開始するやうになる。

 さうして街の景色を吟味して行く事になるのである。

 この句は「六音・八音・五音」の十九文字であり、上五句の「冬の」が「三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用)」となり、中句の「脳や」も同じく「三連符」となつて、全體として四拍子の三小節となる。

 

 ふゆの まちを   めざめゆく のうや やすみあけ

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 これが俳譜を示したものである。

 註)「†(四分音符の代用)」「ζ(四分休符)の代用)」

 

 

一月二十四日

 

   身代りに救ふ奇特や初地藏 不忍

 

 毎月二十四日は地藏菩薩の縁日で、一月はその年最初の縁日として「初地藏」と呼ばれてゐる。

 子供を守り救ふ子安地藏信仰や人の苦を代つて受ける地藏信仰は、中世から民間に廣まつたと言はれるが、誰かの代りになつて我が身を犧牲にした事で有名なのは耶蘇基督(イエスキリスト)で、彼は全ての罪人の身代りとなつて磔刑(たくけい)にされたのである。

 『地藏菩薩』は釋迦入滅から五十六億七千万年後に彌勒菩薩が出現するまでの間、現世に佛が不在となる爲に代つて衆生を救ふ菩薩であるとされる。

 別に、「心と身體(からだ)の棘を拔く」といふご利益で知られる「とげぬき地蔵」は一月四日が初地蔵だといふが、更に調べると毎月「四・十四・二十四日」に各地で開かれるのだといふ。

 

 

一月二十五日

 

   誰でもが逃れられなや法然忌 不忍

 

 だれでもが   のがれなれなや ほふねんき

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 一月二十五日は御忌(ぎょき)とも言はれる法然上人の忌日である。

 一一三三年に美作の國、久米(現在の岡山懸久米郡久米南町)の押領使であつた漆間時國と、母の秦氏君(はたうぢのきみ)との子として生まれた法然(1133-1212)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧であるが、比叡山で天台宗の教を學んで後に、阿彌陀佛の誓ひによる「南無阿彌陀佛」と念佛を唱へれば、死後は往生出來るといふ教へを説いて淨土宗の開祖と仰がれる。

 幼名を勢至丸といひ、諱(いみな)を源空、通稱は「黒谷上人・吉水上人」と呼ばれ、法然は房號であるといふ。

 親鸞(1173-1262)の師でもあつた法然は、ある事件で後鳥羽上皇により念佛停止の斷が下され、上皇の怒りを買つた法然は還俗させられて「藤井元彦」と名乘らされて讃岐の國に流罪となり、弟子の親鸞も越後に配流されてゐる。

 赦免されてから戻つた法然は、攝津の現箕面市の勝尾寺に滯滞在してゐたとの記録が殘つてゐる。

 難行を斥(しりぞ)け念佛を唱へる易行のみを正行とした爲、その教へは都の中央貴族ばかりか地方の武士や庶民にも廣がり、日本佛教史上初めて一般の女性にも布教を行つて、國家權力との關係を断ち切つて個人の救濟(きうさい)に專念したのは大いにその先進性を認められるものであらう。

 末法思想の時代背景により、この世に生まれた凡夫にとってこれまでの宗派では往生は難しく、自らこの娑婆の世界での解脱は諦めて淨土往生を求める。

 則(すなは)ち、本來の聖道門の修行は堪え難く、只管(ひたすら) 浄土門に歸依して念佛行を專(もつぱ)らにする外に救はれる道は望めないと法然は唱へる。

 ただ、聖道門とその行による困難で深い聖道門による悟り自體(じたい)を排除したり否定するといふ意味ではなかつた。

 所で、『法然上人忌』は愛用の高島易斷の暦によれば一月二十五日が命日になつてゐるが、調べて見ると明治十年(一八七七)からは四月に法會が行はれる事になつたといふ。

 從つて、現在では春の季語として扱はれてゐるが、考證としては、

 『花火草(寛永十三)・初學抄(寛永十八)・増山の井(寛文七)

 等々とあり、筆者としては宗教的行事の法要ではなく、正規の忌日として扱ひたいと思つて詠んで見た。

 生きてこの世を出た者はゐないといふが、凡夫たる我が身を思へば、

 「法然猶以て往生を遂ぐ況んや不忍をや」

 と慮(おもんぱか)るのも宜(むべ)なるかなといふ處であらうか。

 

 

一月二十六日

 

   やがて煙と消えん道元誕生會 不忍

 

 初案は「世に出でて煙と消えん誕生會」であつたが、季語もなければ誰の誕生會(たんじやうゑ)であるのかも不明であつたので推敲した。

 一月二十六日は鎌倉時代初期の禪僧で曹洞宗の開祖である『道元(1200-1253)』の誕生會である。

 道元禪師は、諸説あるものの村上天皇九代の後胤(こういん)と言はれる内大臣「源通親(1149-1202)」を父として京都に生れ、三歳で父を、八歳で母を失つた事で世の無常を感じ、十三歳に比叡山に出家し、曹洞宗では「高祖」と尊稱され、齒磨きと洗面や食事の作法とか掃除の習慣を日本に廣めたと言はれてゐる。

 その修行法は「只管打坐(しくわんたざ)」といつて、只管(ひたすら)坐禪に打込むのであるが、その樣子は「永平寺」を訪れる事で知られるだらう。

 朝廷より賜る道元の大師號は『承陽大師』であるが、

 「誰とても生れ死するを免れぬ存在である事よ……」

 といふ感は拭(ぬぐ)へはしない。

 この句は『道元誕生會』を季語として扱つてゐるが、歳時記に載つてゐる譯ではない。

 けれども、筆者は季感としては成立してゐるので構はないと考へてゐる。

 嘗(かつ)て越前(ゑちぜん)と呼ばれた福井懸の雪深い永平寺の風景と共に、彼の道元禪師を偲べぶ事で共感も湧かうといふものではなからうか。

 事の序(つい)でに、この句は上句が「七音」の字餘りであるが、「やがて」と「煙」のいづれも三連符(♪♪♪=(四分音符の代用)にして、「と」を四分音符()と四分休符 (ζ)を追加する事で四分の四拍子の一小節として解決出來る。

 俳譜を示せばかうである。

 

 やがて けむり と   きえんどうげん たんじやうゑ

C♪♪♪ ♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪ ♪ ♪†ζ┃

 

 

一月二十七日

 

 

   生き難や止んで降りたる寒の雨 不忍

 

 いきがたや   やんでふりたる かんのあめ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 ここ二、三日、雨が降つたり止んだりして重苦しい天候であるが、筆者は基本的に雨が好きである。

 それは爽やかな感じの雨も良いけれども、薄暗くて重苦しく、死にたくなる程の氣が滅入るやうな雨の音に浸るのも嫌ひではない。

 下五句の「寒の雨」は寒の内に降る雨の事で、『寒の内』とは寒の入り(小寒)から立春までの事をいふ。

 上五句は「生き難(にく)や」と讀んで戴きたい。

 

 

一月二十八日

 

   温もる身を冱て空に風呂歸り 不忍

 

 ぬくともる  みをいてぞらに ふろがへり

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案から「温(ぬくと)もる冱()て風の身や風呂歸り」と推敲したが、初案を良とする。

 夕方の四時過ぎに自宅へ風呂に入りに歸つて來た。

 思ひのほか寒く、晝(ひる)頃には病院の歸りに白いものさへ舞つてゐたが、その時には雪は止んでゐたものの底冷えのする夕暮であつた。

 けれども日がとつぷりと暮れ、風呂から上がつて身體(からだ)の芯から温まつて店に戻る時には、冱てついた夜風が心地良かつた。

 調べると、『温もる』は「暖まる・温まる(ぬくまる)」といふのが本來の形なのかも知れなく、岩手懸で「ぬくたまる」といひ、千葉、佐渡、長野、山梨、静岡、愛知などでは「ぬくとまる」といふとあつたが、「ぬくともる」といふ表現が如何にもといふ感じで、句を詠む側でなくもう一人の讀者としての筆者自身がそれを強く推(お)した。

 

 

一月二十九日

 

   冬が來てここが里になる繍眼兒かな 不忍

 

 初案は「冬が來て里まで來たる繍眼兒(めじろ)かな」であつた。

 學名を「Zosterops japonicus」といふ「メジロ」は、スズメ目メジロ科メジロ屬(ぞく)の鳥の一種で、「目白・眼白・繍眼兒」と表記される。

 互ひに押合ふやうにくつついて枝に竝ぶ習性がある所から「目白押し」といふ慣用句にまでなつた「繡眼鳥」は雀よりも小さく、目の周りの白い輪が特徴で、室町時代から「メジロ」の名で知られてゐ、英名でも「White-eye」だし、中國語名でも「繡眼鳥」と呼ばれてゐるとある。

 古來より、「繍眼兒」は鶯と共に春を告げる鳥として親しまれてゐたが、現在では歳時記の季語としては夏の部に入るが、

 「この類(たぐひ)皆龝(あき)なり」

 と古い書物には夏以外の秋の部に屬してゐたやうである。

 木曜日は店を始めてから一、二年してから定休日として定著(ていちやく)してゐるので、かれこれ四十年以上は經()つてゐるのだが、ここ一年程は朝の五時に店を片附けて二階で假眠をとつてから、九時過ぎに自宅へ歸る事にしてゐる。

 ただ、時間は一、二時間は前後するが、それでも途中にある行附けの喫茶店『コパン』のモオニングの午前十一時までに間に合ふやうにはしなければならない。

 今朝も常連の人達と會話をしつつ、時折窓の外を氣にしてゐる樣子が窺はれて、さうかうしてゐると、

 「來た、來た」

 といつて窓に近づいて行つた。

 何かと尋ねると繍眼兒が來てゐるといふ。

 さういへば、ここ何囘となく家に歸る時に雀ではないなと思ひながら見かけた鳥がゐたが、あれがさうだつたのかと思ひ當つた。

 思はず輔道(ほだう)に出て繍眼兒を撮影しようとしたが、殘念な事に氣配を察して飛去つてしまつた。

 けれども、實()が生()るつてゐる譯でもないのにどうしてなのかと思つたら、半分に切つた蜜柑を、幾つか木の枝に引掛けて點在(てんざい)させてゐるのを見つけた。

 恐らく喫茶店のママが若いに似ず、風流にも態々(わざわざ)鳥の爲に好物の果實を置いたのであらう。

 冬になると北方のものは南下して、山地のものは平地に移動するといはれる繍眼兒は、ここを人里と知つてそれを啄(ついば)みに來てゐたのであつた。

 この句の中句は八音であるが、「ここが」は三音なので八分休符(γ)からなる八分音符()が三つの、

 「γ♪♪♪」

 といふ二拍の音型となり、

 「里に」は三連符(♪♪♪=(四分音符の代用))の一拍、

 「なる」も三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))だが分割方法が違つて、

 「♪♪♪=♪†=†(四分音符の代用)

 といふ音型で、「る」に三連符(♪♪♪)の内の八分音符()二つを合せた四分音符()分が與(あた)へられて一拍といふ事で、中句が四分の四拍子の一小節になるのだが、勿論、その四分音符は通常の四分音符()と同じものでないのはいふまでもないだらう。

 次に俳譜を示す。

 

 ふゆがきて   ここが さとに なる めじろかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 喫茶店にゐる間、つひに繍眼兒は姿を見せなかつた。

 

 

一月三十日

 

   雨が雪にかはりさうなほどに痛き指 不忍

 

 休日明けは家で晝(ひる)過ぎまで緩(ゆつく)りとして、時には夕方まで雜用をしてから店に出勤する。

 昨日の休日は箕面の「109シネマ」で『シン・シテイ』を觀たのだが、それまで三時間程眠つただけで、結局、深夜の三時まで寢られなかつた。

 筆者は小學校の六年生ぐらゐから、不眠症で夜になつてもなかなか寢られなくなつてしまひ、寢ようとすればするほど眠られずに悶々として、氣がつけば夜が白々と明けるのを知つて、もう駄目だと思つて諦める頃に睡魔に襲はれるといふ事が續くやうになつた。

 軈(やが)て、さういつた事が習慣化されてしまつたのか、それ以降は吸血鬼(バンパイア)よろしく、日中よりも夜中に行動する機會が増えてしまつたので、夜に起きてゐる事は苦痛ではなくなつてしまつた。

 であるから、そろそろ寢ようかと深夜の三時に地下の寢室に向(むか)はうと表に出る(地下に行くには一端外に出なければならない)と、いつの間にか雨が降つてゐた。

 寢室に行つたものの、電視臺(テレビ)やDVDで映畫(えいぐわ)を觀てゐるので直ぐには寢られず、映像をその儘にして眠りに就くといふ鹽梅(あんばい)である。

 地下の寢室は眞暗で、ひとたび就寢すれば外からの音は聞えず、燈りを消せば何も見えないといふ眠るには最高の環境なのである。

 そこで久し振りに晝(ひる)まで睡眠を貪る事が出來たが、雨は相變らず降つてゐて、店に行く途中の寒かつた事といつたら尋常ではなかつた。

 手袋をしてゐるといふのに、傘を持つ手の指先は痺れるやうに痛く、爪先からは地面の冷氣が押寄せて來て、灰色の空から降る雨は雪になるのではと思ふほど大氣を覆つてゐた。

 この句は「六音・九音・五音」の二十文字の字餘りで、上句の「雨が」と中句の「さうな」と「ほどに」の三つの言葉が三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))となる事で、發句の基本である四分の四拍子の三小節として解決されるのである。

 俳譜を示せば次の通りである。

 

あめが ゆきに   かはり さうな ほどに いたきゆび

♪♪♪ ♪♪†ζ┃γ♪♪♪ ♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

 

一月三十一日

 

   目にちらと何かと思へば風花よ 不忍

 

 今日は昨日とはうつてかはつて晴天で、綺麗な青空が廣がつてゐた。

 ただ、風は生きてゐる事を教へるかのやうに冷たく、道の草木を激しく搖らし、時折、途切れ跡切れに目の前を掠めるものがあるので、何かと思へば風花だつた。

 見上げれば、白い雲に交じつて灰色の雲も見られるので、それはそこから飛來したのだらう。

 この句の中句は「八音」で、全句が十八文字の字餘りであるが、中句は「四音」と「四音」だから、問題なく解決できる。

 次に俳譜を示しておかう。

 

 めにちらと  なにかとおもへば かざはなよ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

二月一日

 

   如月に春死なんとて散る願ひ 不忍

 

 きさらぎに  はるしなんとて ちるねがひ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 はや二月となつてしまつた。

 二月と言へば如月(きさらぎ)の別稱が思ひ浮ぶが、如月と言へば俗名を佐藤義清といひ、出家して法號を圓位、のちに西行(さいぎやう・1118-1190)として世に知られる、

 

   はくは にて死なむ

   その 如月の望月のころ

 

 ねがはくは   はなのしたにて はるしなむ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 そのきさらぎの もちづきのころ

 ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪♪♪†┃

 

 彼のこの歌を思ひ出さずにはゐられない。

 この上句の最後の「春死なむ」に初めて接した時、「春に死なむ」と助詞の「に」を省略する事で、「春」が「死」んでしまつたやうで、そんな事があるものかと反撥(はんぱつ)すると同時に、その衝撃的な表現に逆に魅入られて行つた。

 よく考へれば、自身が死んでしまへば「春」もなにもあつたものではなく、「春」が「死」んだと言つたとて整合性がない譯ではなからう。

 それに「春に死なむ」とすれば、「春に」が三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))となる、

 

 はるに しなむ

C♪♪♪ ♪♪†ζ┃

 

 といふ「六音」の字餘りになつてしまふ。

 所で、辭書(じしよ)によれば『如月』は陰暦二月の事で、「草木の甦生(かうせい)する事」をいふ「生更ぎ」の意味で、別に「衣更著」とも表記し、「きぬさらぎ」とも讀むところから「著物を更に重ね著する」といふ意味に考へられるが、これは間違ひであるといふ。

 こんにちでは轉用されて、太陽暦の二月にも用ゐられてゐるが、さうだとするとこの「花」は何だらうかといふ事になる。

 奈良時代に「花」といへば「梅」で、それ以降は「櫻」になつたと言はれてゐるが、古今集の、

 

   人 はいさ心もしらずふるさとは

      花ぞむかしの香ににほひける

 

 ひとはいさ  こころもしらず ふるさとは

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

  はなぞむかしの かににほひける

 γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪♪♪†┃

 

 と詠んだ紀貫之(866-945?)の有名な歌があるが、これは櫻ではなく梅の花で、その違ひを理解するのは「香」があるかないかで判別できるものと考へられる。

 その意味で、西行の歌の花を「如月」といふ處から判斷すると、太陽暦だと梅になるが、舊暦(きうれき)の二月の滿月だと考へれば、新暦の四月初旬に當り、「香」も配されてゐないので「櫻」が正解だと思はれる。

 ただ「櫻」といつても、現在花見でお馴染みの江戸末期に偶然が作り出された「染井吉野」ではなく、「山櫻」の事であるといふが、「枝垂櫻」といふ説も捨て難い。 

 この句は言ふまでもなく本歌取であるが、聊(いささ)か西行に頼り過ぎである。

 それといふのも、一日一句といふ負擔から苦し紛れに口を突いて出たものである。

 

 

二月二日

 

   寒からうとひと日に違ひなき夜明け前 不忍

 

 歳時記を見ても高島易斷の暦を捲(めく)つ見ても、どうしても素材を見つけられない日があるものである。

 興が湧かないといふか、その時の氣持にしつくりとした季語が浮ばない事があつて、「一日一句」の重さに考へあぐねてしまふのである。

 昨日に續いて、さういふ時の處(しよ)し方の一端として今日の句がある。

 この句は「六音・九音・五音」の二十文字の字餘りとなつてゐて、上句の「からう」と「違ひ」の二つが三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))となる事で、四分の四拍子の三小節として解決される事となる。

 例によつて俳譜を示さう。

 

 さむ からう と  ひとひに ちがひ なき よあけまへ

C♪♪ ♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

二月三日

 

服はず鬼と名づけしや追儺の儀 uvs150204-001 

 

   服はず鬼と名づけしや追儺の儀 不忍

 

 まつろはず   おにと なづけ しや つゐなのぎ

 C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 六世紀頃に中國の死靈を意味する鬼()が日本に入つて、日本固有の「おに」と重なつて『鬼』になつたいふ説があるが、語源的には姿が見えないといふ『隱(おに)』から派生したものだといふ。

 それ以前には「もの」と呼んでゐて、「怨靈・死靈」の類(たぐひ)であつたが、陰陽思想や淨土思想とも習合(しふがふ)し、閻魔大王の獄卒であるともされるが、役行者(634-701)には「前鬼・後鬼」といふ使ひがをり、藤原千方(生沒年不明)にも使役された「金鬼・風鬼・水鬼・隱形鬼(怨京鬼)といふ四人の鬼がゐたといふ。

 一方で、憎しみや嫉妬の念から人が鬼に變化(へんくわ)するといふ説もあるが、朝廷にとつて無用者或いは不都合な存在、則ち「服(まつろ)はぬ民」を鬼とする事で排除しようとした傾向も窺はれるやうに思はれる。

 これは飽くまでも私見であるが、「鬼子」といふ形で僻地に追ひやる口實としたのではあるまいか。

 「順(まつろ)はぬ民」とも書かれる得體の知れない存在を「邪鬼」と呼ぶ事で忌み嫌つたりするが、さうであるといふ事は逆に恐れてもゐた證據(しようこ)で、朝廷に逆らつた平将門(-940)や左遷された地で沒した菅原道眞(845-903)などは、死後に怪異現象が現れた事から、その怨靈を鎭める爲に御靈(ごりやう)として祭られてゐるのである。

 また、「鬼」は頭に一本若しくは二本の角と卷毛の頭髪、口には牙と指に鋭い爪、虎の毛皮の褌に金棒を持つた姿を想像するが、角が牛で、牙と爪と毛皮が虎で、これは「丑()」と「寅()」の間の方角である「艮(うしとら)」を鬼門と呼ぶ事に由來するものであるといふ。

 追儺(ついな)は宮中の年中行事の一つで、大晦日の夜に惡鬼を拂(はら)つて疫病を除く、平安時代から行はれてゐる儀式として「鬼遣(やらひ)」とも呼ばれてゐて、節分の起源とも言はれてゐる。

 

青き目も豆撒きを見し神社かな uvs150204-001 

 

   青き目も豆撒きを見し神社かな 不忍

 

 あをきめも まめまきをみし じんじやかな

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪ ♪ ♪†ζ┃ 

 節分は「せちぶん」ともいふ雜節の一つで「季節を分ける」ことを意味し、各季節の始まりの日の「立春・立夏・立秋・立冬」の前日の事であるが、一般的には江戸時代以降から立春の前日を指すやうになつたやうである。

 また、邪氣除けの柊鰯(ひひらぎいわし)などを飾り、「福は内、鬼は外」と聲を出して福豆を撒き、年齡の數だけ豆を食べる厄除けを行ふ。

 但し、一粒多く食べる場合もあるといふが、これらは地方や神社などで異なつてゐる。

 それといふのも、季節の變り目には邪氣()が生じ、その悪靈を追拂ふ行事として執り行はれるやうになつたのであるが、『延喜式』によれば、宮中で牛と童子の人形を大寒の日の前夜半に大内裏の各門に飾つて、立春の日の前夜の夜半に撤去され、室町時代頃から「桃の枝」への信仰に變化(へんくわ)して、軈(やが)て炒つた豆で鬼を追拂ふ行事へと變遷(へんせん)したやうである。

 豆撒きに關(くわん)しては、宇多天皇(867-931)の時代に鞍馬山の鬼が都を荒らすので、大豆で鬼の目を打ち潰して災厄を逃れたという故事が始まりとされるが、神社では「福は内」といふ掛け聲はなく節分祭(せつぶんさい)と呼ばれ、寺院では節分會(せちぶんゑ)の呼稱されるのが一般的であるといふ。

 

   服 はず       鬼  と 名 づけ しや   追 儺の儀

 まつろはず   おにと なづけ しや つゐなのぎ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

   青 き目も      豆 撒 きを見し    神 社  かな

 

 あをきめも  まめまきをみし じんじやかな

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪ ♪ ♪†ζ┃

 

 

                「參考資料 ウキペデイア・EX-wordから引用)

 

 

 

關聯の發句

 

二〇一四年版の發句 秋の部

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