作品を讀む時、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
これは自作(オリジナル)の、
『motion1(cembalo)』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひです。
ない方が良いといふ讀者は、ご自由にどうぞ。
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異端者に非ざる異端者
(A heretic who is not a heretic)
小序
「異端者に非ざる異端者」は筆者自身の狂言であるかも知れない。
が、寧ろ筆者の最も軽蔑する、また哀れに思ふ、儚(はかな)い、その癖、筆者の好きな、所詮(しよせん)神になる事が出來ない、筆者の愛してゐると思ふ、所有(あらゆる)生物(特に感情の動物人間)への諦めにも似た、筆者の 感情の弄筆ででもあるとと思つて戴きたい。
一九六四年昭和三九甲辰(きにえたつ)年如月六日午前四時
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序 文
嗚呼! 古今の狂人ども!
あなた方はなんといふ事をしてくれたのだ。
あなた方は感情に任せ、あるいは自暴自棄に陷(おちい)り、また自分を天才と思ひ、吹聽した。
愛とは!
人間とは!
人生とは!
それらを臆面もなく貶(けな)し、辱(はづかし)め、己(おの)が名を響かせ、虚名を恣(ほしいまま)にした。
だが、よく聽(き)け!
感情家の賢者どもよ!
私達はあなた方のお蔭で、いや、少なくとも私だけは、あなた方のお蔭で、到頭(たうとう)、書かなければならなくなつた。
人間が何であり、
人生とは何であるか。
また、愛とは、
そして神とは!
私はあなた方の殘した作品は讀まないでおかう。
讀まなくても、あなた方が書いてゐる事ぐらゐは解る。
そして、餘儀(よぎ)なくされた私は、愈々益々、書き擲(なぐ)らなければならない。
私をここまで追ひ込んだ狂人どもよ!
少しは恐縮して、その名前を引込めろ!
尤も、軈(やが)ては消えて行くであらう私の身を、最早、消え去つてゐるあなた方の身に置き換へて考へれば、多少の同情は禁じ得ないが……。
一九六四年昭和三九甲辰(きにえたつ)年如月六日午前四時
∫
一、課 題
人生に於ける人間の課題とは、何を課題とするかにある。
ある答へ
人生に於ける人間の課題は、どう生きるかではなく、なぜ生きるかにある。
もつともな答へ
何を課題としても、目的を持てばそれで善い。
自己欺瞞(じこぎまん)
人生に於ける人間の課題なんて、なぜ生きるかなどといふ七面倒臭い理屈ぢやない。
どう生きるかにあるのさ。
∫
二、人 間
人間とは矛盾である。
矛 盾
矛盾は矛盾を動じる事しか出來ない。
そしてその一つの矛盾は、また矛盾を動じ、より大きな矛盾となつて動じて行く。
畢竟(ひつきやう)、矛盾からは脱し得ない。
又
矛盾からは眞實(しんじつ)は得られない。
ただ、矛盾からは眞實は得られないといふ事實を知る而己(のみ)である。
∫
三、煩 惱
人間は誰でも必ず、ある種の幸せを求めて生きてゐる。
たとへそれが有得ないと理解出來てゐても……。
徒夢(あだゆめ)
我々は不幸にも、全人類共通の向ふ可き目標がない。
せめて一つ、人間に於いて共通の仕事を、あるいは使命を、それも如何に苦しくて難しくても良いから、その仕事を成せば、絶對に幸福になれるといふ條件附きで、神々が我々に永遠の課題として與(あた)へておいてくれたならば、我々はこんにち程苦しまなくても濟んだかも知れない。
又
人間は都合の良いもので、さうなればさうなつたで、また不滿は出て來る事だらうが。
∫
四、宗 教
宗教を創つた者は、先づ法則を知つた者である。
あらゆる生物の無の法則を――。
その上で宗教を創つたものは、人間を尚且(なほかつ)愛してゐたからであらう。
又
その者が死ぬと、ある利用價値の爲にだけ宗教を動かす者が出て來る。
尤も、それは教祖自身がその心算(つもり)で創つた宗教があるかも知れないし、また、それは宗教に限つた事だけとは言へないのだが、そのいづれもが上層部の者たちばかりによつて企(たくら)まれてをり、信者はただ祈り、信じる事しか知らない。
又
信者は宗教を裏切らない。
さうして宗教も、勿論、信者を裏切らない。
しかし、一部の教祖たちは、そのどちらをも裏切る事をするだらう。
又
祈りを忘れた者や無心論者には、幸福ではない出世か堕落するだらう。
畢竟(ひつきやう)、宗教があるばかりに、救はれるべき道はない。
又
しかし、それでも救はれるべき道は、宗教にではなく、個の中にある。
∫
五、神と佛
神と佛も、人間のひとつの道を示した、それも人間の法則を見つけ出した者達の、主義である。
又
主義は畢竟(ひつきやう)主義に過ぎないが、倫理や理論だけの主義よりは遙かにましであり、主義にしなければ、一層強く生きて行く事が出來る筈である。
又
法則さへ見つければ、人間が信じる者は、神でも仏でも藁屑(わらくづ)でも差支へない。
即(すなは)ち、信じる事も法則の中に屬(ぞく)する。
又
信じると言つても、必ず對象物はゐる。
その對象物とは、畢竟、小説の題名のやうなものである。
題名を言へば、内容がすぐに頭に浮ぶやうにする爲の……。
又
信じる對象物にも多少の限度がある。
先づ動物たるもの、總(すべ)ては失格になる。
勿論、その中には人間も含まれてゐる。
尤も、基督(キリスト)や釋迦(しやか)は死んでゐるから例外である。
又
架空の動物とか生存する動物でも、白子(しらこ)とか所謂(いはゆる)畸形(きけい)の動物なら望みはある。
兔に角、人間の期待を裏切らないもの、あるいは裏切れないもの、詰り、あやふやで、曖昧(あいまい)で、二面を、もしくはそれ以上を備へられるものであらう。
例へば、
「信じたけれども、報はれなかつた」と言へば、
「信仰が足りない」といふ事が出來、
「信じて報はれた」と言へば、
「あなたが信じたから神が與(あた)へた」
の類(たぐひ)である。
又
猶太(ユダヤ)教徒であつた耶蘇(イエス)基督でさへ、生きてゐる時は神の使ひと言ひ、神の七光りがあつたのである。
耶蘇(イエス)自身が神に近づけたのは、その死によつてであり、それは佛陀(ぶつだ)においても、婆羅門(バラモン)教の教へがあつたればこそ、悟りも開けたといふものである。
又
勘(かん)違ひも甚(はなは)だしい。
人間がゐたから神が存在するのではない。
神がゐたから人間が存在するのである。
とするならば、基督は神の使ひであつて、神そのものではない。
又
もしも基督が神であるといふのならば、筆者の言はんとするものは神ではないし、敢(あへ)て神と呼ぶ必要さへない。
超自然とも、この大宇宙を支へてゐるであらう、百數十箇の元素とも呼ぶが善(い)い。
又
神とか佛(ほとけ)若しくは廣(ひろ)い意味での宗教を、私は信じない。
少なくとも、信じるといふ事を基本にしない。
私はいつでも納得が出来るかどうかを、問ひ續けるだけである。
∫
六、神になれなかつた人間
不老不死といふ事は、確かにわれわれ人間にとつて大きな魅力である。
先づ、死の恐怖から逃れられる。
尤も、今のやうな世の中では、交通事故や公害といふ死神が彷徨(さまよ)つてゐるから、不死も當(あて)には出來ないが、あるいはそれにも耐へられる事の出來る生命を不死といふのかも知れないとすれば、悲しみは樂しみに變(かは)り、樂しみは永遠に續く事になる。
何故なら、樂しみが死によつて悲しみに變化(へんくわ)する事がないのだから。
しかし、逆に言へば、それはそれで一歩間違へば大變(たいへん)な事になる。
といふのは、愛する人が振向いてくれないとすれば、永遠の悲しみにならないとは言へなくもない。
さうなれば、一番手に入れられないのは他の人の心かも知れず、その爲に暗い闇に沈んでしまふ事になるが、兔に角、なんにせよ我々は神と同じ位置に着く事になるのだが……。
又
しかし、不死になつたとして、不老でもあるのだとすれば、何歳を上限としてゐるのか、さうして年を取らないといふ事を自分の好みで決定出來、しかも任意に年齡を移動出來るとすれば――取らぬ狸のなんとやら……。
∫
七、永 遠
世の中の悉(ことごと)く永遠でないがゆゑに、我々は永遠を求める。
が、斯(か)かる氣持で以(もつ)て、永遠なるものになつたとしても……。
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八、不老不死
もし、我々が不老不死になつたとすれば、我々は一體(いつたい)何をすれば良いのだ。
又
我々は死が恐ろしいといふ理由だけで、なんの意味もなく不老不死を求めてゐるのか。
∫
九、贅 澤
不老不死になつても仕方がないといふが、ぢやあ、我々は限られた範圍内(はんゐない)で、精一杯に生きればそれで良いのか。
さうぢやない。
ぢやあ、どうすれば良いのだ。
どうすれば……。
∫
十、生存の時間
我々の平均壽命が長くなつたといふ話であるが、幾ら長くなつたと言つても、永遠とは行くまい。
第一、我々が生きてゐると感じてゐる時間は、いや、自分が自分であると名乘れる時は、天才を除けば、人生六十年とした内の、ほんの二十五年もあるまい。
その二十五年以外の内譯(うちわけ)は、先づ大抵の者が十二歳ぐらゐまでは、自分といふものを考へずに漠然と生きてゐる。
即ち、自意識は渾沌(カオス)の海に埋沒した儘である。
さうして、そこから拔け出せたとしても、あとの二十三年は夜の睡眠である。
我々、凡人が長生きをしようと思つたら、二十四時間寝ずにゐる事だ。
尤も、それだけ眠らずにゐられればの事だし、無事に六十年を生きられればの事であるが、その保證(ほしよう)は何處にもない。
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十一、幸 福
幸福は十足飛びに考へれば、容易に我々の自由に出來る。
が、しかし、我々は容易に十足には飛べない。
∫
十二、距 離
幸福といふものが我々人間とは異物のものだとすれば、例へば、太陽のやうなものだとすれば、我々は太陽と一體(いつたい)となれない事を知る前に、先づその絶大なる距離を知るだらう。
又
のみならず、ある範圍(はんゐ)からは近づけない事も知るだらう。
近づく爲(ため)には人間は頭腦を使ひ、一つの媒体――即ち人工的な乘物を考へる事によつて、軈(やが)ては成就するかも知れない。
しかし、一九七〇年代にならうとしてゐる現在の段階では、近づく事は出來ない。
若し近づけば、希臘(ギリシア)神話にある人工の翼を使つて太陽に近づく男の如く、翼が燃え盡きて海に落ちて死んでしまふ事だらう。
いや、翼と同時に肉體(にくたい)も眞黒(まつくろ)に燒け爛(ただ)れて死んでしまふに違ひない。
又
然し、やがての未來には太陽に近づく事が出來るかも知れないし、或いは太陽に着陸するをも可能となる科學的技術を手に入れて、太陽に行き着くかも知れない。
だが、太陽に着陸して住む事が出來たとしても、それでもそれは一體となつた事にはならない。
※文中に「一九七〇年代」とあるのは、この文章がそれ以前に書かれたものだからで、違和感を憶えられたかも知れませんが、不悪(あしからず)。
∫
十三、再び幸福
幸福は常に我々の意識の中にある。
意識の外へ出た時は……。
∫
十四、偉大なる宗教書である聖書や佛典に因(よ)れば
私の最も知りたい事は、偉大なる宗教書である聖書や佛典に因(よ)れば、それらの書物にも、又、人間には生きてゐる價値(かち)があるとも、さうして勿論の事、それがないとも書かれてはゐない。
又
しかし、それは神や佛にとつては、書く必要がなかつたのであらう。
又
それでも生きてゐる價値がある、といふ答へを求めるのが人間だけだといふこの事實(じじつ)を、我々はどう受取れば良いのか!?
∫
十五、神の芸術作品に於ける人間
(人間を創造したのが神であるとするならば)
人間は何故自由になれないのでせうか。
その一端が解りました。
それは人間が神に支配され、神によつて生かされてゐる、神の奴隷だからです。
又
人間は何故幸福になれないのでせうか。
その一端が解りました。
それは人間が神の芸術作品だからです。
何故なら、人間が創作した芸術作品は人間が観賞する爲にあるのであつて、作品自身の爲にあるのではないからです。
それと同じやうに、我々人間は人間の爲に創られたのではなく、神の觀賞の爲に創られたものだからです。
神の娯楽の爲に……。
∫
十六、好色家
私が見るに、神が最も好色家であらう。
未來永劫に於いても、好色家である我々の總てを見てゐるのであるから……。
又
神に最も近い者達も。
その中には、人間がゐる事は勿論だが、Cupidも惡魔さへもゐる事を忘れてはならないだらう。
又
人間やCupidや惡魔に於いては好色家かも知れないが、神は、恐らくは我々に好色家とは呼ばはせないであらう。
好色家とは……。
∫
十七、嘲 笑
我々は食べる爲に生きてゐるのでもなければ、生きる爲に食べてゐるのでもない。
我々は排泄する爲に生きてゐるのである。
見よ!
神々のあの嬉しさうな顏を!
∫
十八、自 殺
自殺とは自分を殺害する殺人者の事である。
又
自殺は人間が見つけ出した唯一の特權である。
が、しかし、その特權を正確に使ひこなした者はゐない。
又
自殺は必ずしも卑怯な振舞ひではない。
自殺は世の中が苦しくて、それに負けて死ぬから卑怯だといふのが俗説のやうだが、もし生きてゐる苦しみよりも、もつと苦しまなければ自分の罪は償へないと思つて自殺をしたとすれば、それさへも卑怯といふのであらうか。
又
神々の芸術作品に於ける人間の失敗作たる所以(ゆゑん)は、一般的には皮膚の色の違ひであると言はれてゐるが、そんなものではない。
何を隱さう、それは人間が自殺をする事にある。
何故なら、我々が自殺によつて死ねば、神々は我々を見て、己(おの)が儘に愉しむ事が出來ないから。
或いはそれでも……。
註) 筆者は自殺を推奨する爲にこれを書いたものではありません。
∫
十九、特 權
笑ひと云ひし行為と自殺と云ひし行爲は人間の特權なり。
然(さ)れど笑ふは生きてゐる事、自殺は死なんが爲なり。
然れば世人云へり、
「笑ひは善、自殺は惡、愚なり」
と。
果して世人のいふが如きが眞に正しきと云へり乎(か)。
否(いな)、笑ひは生きんが爲のものに非ず。只、生きてゐるゆゑに笑ふ而己(のみ)有
り。
笑ひは生命の本質を求むる、人間の思考を妨げるものに有り。
然れど自殺は考へ拔きし一個人の思考の結論、或は結果に有り。
ゆゑに是(これ)世人の云ひし所の、
「笑ひは善、自殺は惡」
の理論は成り立たぬと云へり。
又
笑ひは人間を創りし神が我等に與(あた)へしものとせば、早云ふ事も今更に無し。
笑ひ 詩集『自害』より
http://
∫
二十、最 近
最近(?)、所有(あらゆる)動物の改良が試みられて來たやうに思はれる。
それは勿論(もちろん)人間の爲にであるが、また我々人間も神の娯樂の爲に、黒人・白人・黄色人等々。
さうして最近(?)、混血が……。
∫
二十一、宿 命
我々は今までの事を知るに到つた、神の娯樂の爲に我々が創造されたと。
が、もしそれに氣がついたとしても、どうといふ事はない。
第一、誰も自殺などはしまい。
又
死ねば死んだで、神にとつて都合よく行く事は間違ひない。
それに人間が自殺によつて滅びないといふ事は解つてゐるから(?)、その内、神は大地震でも起こして、地球上の人間の文明を悉(ことごと)く破壊し、ついでに人間の智慧も元に戻して、永遠(?)に神の娯樂作品として、同じ事を繰返さす事であらう。
まあ、いづれにしても我々は弄(もてあそ)ばれた擧句(あげく)に、死を免(まぬか)れない。
∫
二十二、俗 人
俗人とは天才を愚弄する事と、天才を辱める程の尊敬しか出來ない。
∫
二十三、天 才
天才とは面白いといふ事を知つてゐる者の事である。
∫
二十四、英 雄
英雄とはある一時期に勃發的に現れるのを常とする。
又
英雄とは最も純粹な者の事である。
又
最も純粹な者は生憎(あいにく)人間界、いや、生物界には存在しないだらう。
又
花は純粹ではない。
何故な花には心がないから。
縱(よ)しやあつたとしても、我々には與(あづか)り知らぬ事である。
眞逆(まさか)花の心を讀取る者もゐまいて。
敢(あへ)て花は純粹ではない。
心があらうがなからうが。
又
奇蹟が起こした英雄はゐない譯でもない。
が、それらの人は偶々(たまたま)無心な氣持で英雄に祭り上げられて、野心を持つ前に運よく、それこそ奇蹟的に失脚したか、死んだりした者の事である。
かの少年少女の尊敬の的である、亞米利加合衆國の第三十五代大統領ケネデイ(John Fitzgeld Kennedy・1917-1963)や、同じく暗殺されたその弟だとて、奇蹟的に死ななければ、奈破崙(ナポレオン・Napoleon Bonaparte・1769-1821)の如く、僞の汚名を著(き)せられてゐた事であらう。
あるいは、もう著せられてゐて、當然であるのかも知れない。
又
最も純粹なものとは、生物全てがそれであらう。
もし英雄が存在するとすれば、生きてゐるもの全てが英雄である。
又
判然(はつきり)と言はう、英雄は存在しない。
それを希求する民衆が、誰かをさう呼ぶばかりである。
又
英雄と呼ぶべき人衆の才能も、一抹の泡(あぶく)のやうな言葉に過ぎない。
註)
この文章は一九七二年以前にかかれたものだから、ケネデイに關する評價は現在のそれと隨分違つてゐた事をお含み下さい。
言ひ譯でした。
∫
二十五、孤 獨
孤獨を感じるのは愛を知つた兆候である。
又
孤獨を裝(よそほ)ふのは愛への一種の技巧である。
なんびとも、この地球上に一匹では生きて行く事が出來ない。
又
この地球上にたつた一人でゐると、確かに我々は孤獨を感じるであらうが、その空間の苛々した寥(さび)しさに、忽ち孤獨から逃れんとし、孤獨を忘れて、我々は仲間を求め合つて、この地球上を歩き廻る事であらう。
神々に見守られながら……。
又
我々が仲間を見つけると(初めにどうやつて我々の祖先が見つけ合つたのか知らないが)、またもや贅澤にも、我々は結局ひとりであり、愛する者同士でも、一體化は無理であると、孤獨を感じ始める。
又
我々は孤獨を求める時があるが、それは何も、本當に獨りを求めてゐるのではない。
兔(と)に角(かく)、この地球上に何十億といふ人々がゐる事を自覺しての上でである。
さうして、その何十奧の人々がゐるにも拘はらず、自分といふものを誰一人として理解してくれないといふ、魂(たましひ)の己(おの)が人生に對(たい)する反動ともいへる行動でもある。
しかし、孤獨の中にゐる限りは生命の不安はない。
その證據(しようこ)に、孤獨な者は自殺をしない。
怖いのは孤獨の後に來る、ただ暗澹(あんたん)とした厭世なのである。
又
孤獨には悲しみばかりか、樂しみもある。
∫
二十六、厭 世
人間ほど割に合はないものはない。
なにをしても、後悔だらけではないか。
又
厭世の境地に達した者は、最早、樂しみも悲しみも超越してしまつてゐる。
これはどういふ事か、なつて見なければ解らない。
味はつてもゐない、砂糖の甘さを推し量るやうなものである。
∫
二十七、戀 愛
戀愛は下劣な人間を、僅かに脱し得る事が出來る精神の高揚である。
が、その戀愛も、また所詮(しよせん)、人間の遊び、感情の遊びに過ぎない。
又
嗚呼!
それでも戀愛はして見たいものだ。
∫
二十八、ある人に
君は私を變へる事が出來るのに――。
∫
二十九、ある男
愛する人よ!
私は社會人としての男か。
君の愛人としての男か。
それとも人間としての男か。
∫
三十、倦 怠
愛する事は簡単だが、愛し續ける事は難しい。
∫
三十一、再びある人に
君は私を變へる事が出來たのに――。
∫
三十二、美 人
「私は美人しか愛さない」
人が誰しもさう思つてゐると假定(かてい)して。
「當(あた)り前だ。愛した女性を他の者が見れば、反吐が出るかも知れないが、愛する男にとつては、嘸(さぞ)かし美しきひとなのだらうよ」
又
美人、屁もする糞もする。
「嗚呼、驚いた!」
又
「えゝ、性欲も感じるつて!!」
又
美人は人間個人の、あるいは人間自身が持つてゐる趣味である。
∫
三十三、趣 味
趣味ほど莫迦らしいものはない。
趣味で愛されたものこそ、いい迷惑である。
∫
三十四、愛
あつてもなくても苦しいもの。
又
それは愛ひとつのみに限つた事ではない。
又
とすれば愛を特に重要視する必要はない。
又
逆に愛以外のものも重要視すべきだ。
又
愛に何を求めるのか。
∫
三十五、心 理
知られたくないといふ事は、知られたいといふ事でもある。
又
結局、それでも解らない。
∫
三十六、結 婚
あゝ一體(いつたい)何をするのだ。
その長い長い時間を。
況してや人生を。
∫
三十七、仕 事
仕事とは、人生の倦怠を少しでも免れさせる爲のものである。
しかしそれでも。
∫
三十八、意 義
無駄な時間を無駄でなくす爲には、無駄と思ふ事。
∫
三十九、問 答
「幸せは何處にあるか」
君の肩の上に、掌(てのひら)に、心の中に、ちやんとあるぢやないか。
「ちえツ、それぢやあ、どうしようもない」
∫
四十、不可能
おい、貴樣!
自分で笑つて見ろ!
ふん、出來ないだらう。
∫
四十一、眞 實
「君は何故生きてゐるのか」
何故生きてゐるのか知りたいからさ。
∫
四十二、再び問答
「我々は、心臟が動いてゐるから生きてゐるのさ」
當り前ではないか。
「では、生きるとは心臟そのものの事なのか」
又
「我々が生きてゐるには、生きようと思つて生きてゐるのではない」
何故だね。
「もし生きようと思つて生きてゐるのだとすれば、心臓は我々の意志によつて左右される可きものでなければならない。つまり死にたい時は、自分の意志によつて心臓を止めて、死ぬ事が出來なければならないのである。自殺する事と、意志で心臓を止めて死ぬ事は、本質的には別なのだ。然(しか)るに心臓は我々の意志に關係なく、生きようと思つても、死なう思つても、さうしてまた何も思はなくても、心臓が動いてゐる間は生きてゐなければならない。それでも生きようと思つて我々は生きてゐると言へるのだらうか」
成程(なるほど)。
「我々は眞の意味で、生きてゐる價値があるのだらうか」
又
ぢやあ、こんな風には考へられないかな。
「……」
物を食べるのは食べたいから。詰り、生きたいから心臟が動いてゐる。もし死にたければ死ぬ事は出來る筈だ。口では死にたいと言つても、その人の心の中には、自然と生きると言ふ事を求めて生命を形成してゐる。それが心臓を動かしてゐる原動力だと。第一、さうなればうつかり生きたくない、と思ふ事も出來やしないぢやないか。
∫
四十三、驚異(そして無駄な問答)
君、胸に手を當てて見給へ。
「かうかい」
さうだ、音がするだらう。
「うん、でも何の音だらう」
心臟が動いてゐる音さ。
「えゝ! これが心臓の動いてゐる音か。ふうん、でも誰のだらう」
馬鹿だなあ、君のに決つてゐるさ。
「何だつて、これが僕の心臓の動いてゐる音だつて。でも、本當にこれが僕の心臓の動いてゐる音なのかなあ」
興味のない人
「君、胸に手を當てて見給へ」
かうかい。
「さうだ、音がするだらう」
あゝ。
「それは君の心臟が動いてゐる音さ」
そんな事は言はれなくても分かつてゐるさ。
「さうか、分つてゐるのか。僕にはこの音が不思議でならないんだ」
さうかね。
「……」
無関心な人
君、胸に手を當てて見給へ。音がするだらう。
「いゝや」
えゝつ! なんだ、そこでは駄目さ。
「なぜ」
それは當然、脈々と鼓動を打つてゐるのは心臓のある所だけさ。
「……」
無氣力な人
「君、胸に手を當てて見給へ。音がするだらう」
音?
「?」
∫
四十四、飛 躍
笑ひが果敢無(はかな)いのは生活に密着してゐないからさ。
これは幸福についても云へる事で、それだつて生活に密着した、その時その時の些細(ささい)な事の中から見出せば、素晴らしい笑ひとなり、幸福となり、社會となるのさ。
「では聞くが、生活に密着した笑ひとは? 幸福とは?」
? ! ?? !! ??? !!!
∫
四十五、笑 ひ
笑ひには二種類あるのではないかと思はれる。
一つは、自身は安全な所にゐて、誰かの失敗を笑ひ、誰かを貶(おとし)める事で安心する、落語の與(よ)太郎の話を聞くといふ笑ひである。
それに比べて誰も傷つけず、自身も含めて上も下もない笑ひ、即ち、駄洒落などの言葉遊びによる笑ひがある。
これを「ユウモア」といふのではないかと思はれるが、これらに優劣をつけたのでは、折角の笑ひも臺無(だいな)しになるので、どちらも笑つて許す可きだらう。
∫
四十六、考へ方
樂しさといふものは、結局樂しいと思つただけ得をしたといふ外はない。
それだけのもである。
又
それだけのものが、果して人生の意義であらうか。
∫
四十七、慾
人間が口に物を運ぶのは何故か。
「人間は生きる爲に食物を口に運ぶ」
それだけであらうか。
人間は生きて行く事に恐ろしい不安を感じる。
未來はどうなつてゐるのだらうか。
この儘でゐられるのだらうか。
或はこれ以上になれるのだらうか。
何かをしなければ、氣を紛はさなければ、と不安が募るばかりで消えては行かない。
そこで我々人間は、先づ口に食物を運ぶ事をする。
そして食慾の次に性慾、睡眠慾、金錢慾、とこのありと所有(あらゆる)事をして生きて行く。
「慾は不安の種である」
生きて行く事に恐ろしい不安を感じてゐるにも拘はらず、しかもそれが得られなくなる事が最大の不安であらうに、それを紛はす爲に生きて行く最上の行爲である食慾を滿喫する。
なんと愚かしい。
∫
四十八、流 行
人間の悲劇は、自身のしたくない事も見てゐると自然に身につく事のある。
だからこそ、有意義なものを流行させなければならないのだが、流行するものに碌なものはない。
金が儲かるばかりの下らないものが流行し、資本家が肥えるやうに出來てゐるものらしい。
又
自然に身についてしまつたものが多くなると、やがてどれがしたい事で、さうではない事との區別を理解出來なくなつてしまふ。
その餘りの選擇肢の多さに……。
∫
四十九、測定器
人間が人間であるといふ事を計るものはない。
又
その測定器があつたとしても、その測定器が正しく測定される機器であるといふ事を計る測定器はない。以下同文。
又
即ち、正當な判定を下すものなどありはしない。
∫
五十、再び人間
人間とは、人間の創つた言葉でしかない。
又
從つて、
「人生とは?」
といふ問ひは、人間の男性の配偶者を人妻と呼ぶに等しい。
又
その問ひかけは、犬の配偶者を犬妻と呼ぶ愚かさに等しい。
∫
五十一、廢 人
ある種の人間を廢人と呼ぶのか。
人間そのものが廢人であるのか。
∫
五十二、反 語
人類である我々が人間であるといふ所以(ゆゑん)は、兔にも角にも人間でないといふ事であり、獣でもないといふ事である。
又
言ふなれば、芥川龍之介の言つたやうに人間でもあり、獣でもあるといふ事である。
∫
五十三、無 駄
苦しみをなくす爲には、暇(ひま)な時間を作らない事。
∫
五十四、苦
苦しみがなくなるといふ事は、どんなに苦しい事であらうか。
思へば苦しみも必要である。
∫
五十五、完全犯罪
完全犯罪は、殺されたといふ事が解つてもいけない。
又
犯罪そのものがあつたといふ事さへ、隱蔽(いんぺい)されてゐなければならない。
∫
五十六、完 全
完全なものとは不完全でないものである。
不完全でないものなど……。
∫
五十七、不完全
我々の不完全の一部は忘れる事にあり、我々の慰めの一部は忘れる事にある。
∫
五十八、忘れるといふ事
忘れるといふ事は、人間の意志の如何(いかん)に拘はらない。
又
我々は忘れるといふ事を、永遠に忘れられない。
∫
五十九、裁 き
「貴方達は何故裁くのだ!」
「權利はあるのか?」
∫
六十、罪
罪は善によつて生み出される。
又
我々は生を受けるといふ罪を犯してゐるとすれば、罪といふものは我々にとつて不可抗力なものでしかない。
又
如何なる罪も犯さなかつた者(もしそんな者がゐればだが)は、罪を犯した者よりも罪深いのではなからうか。
あの神でさへも矢張……。
∫
六十一、法 律
我々は悉(ことごと)く守らなくてもいいものを守つてゐる。
土臺(どだい)、そこに無理が生じるのは當然である。
もう我々は、せめて我々の中だけも、そのやうなものを作るのを止さう。
又
誇り(pride)の高い我々は、何かを守らなければ生きて行けない。
その癖、持つてゐるのはprideだけで、それに伴つた精神や行動は兼ね備へてはゐない。
∫
六十二、秩 序
それに則(のつと)つて行動すれば我々は束縛といふ不幸を知り、それを蔑(ないがしろ)にすれば自由といふ不幸を知る。
又
それは結局、人間に生きる價値があるといふ事を、定義づける爲のものであるが、いづれにしても、不幸の環(リング)からは拔け出せさうもない。
∫
六十三、價 値
生きてゐる價値は、死んだ時にある。
∫
64、無 言
本當の人間は、何も言はないまま死んで行く。
又
それは何も言へない儘だつたのかも知れない。
∫
六十五、生 命
我々は何故生きてゐるのか解らなくても、肥料さへ與(あた)へれば、逞しい生命力によつて生きて行く事が出來る。
又
我々の中のあるものは、兔も角生きようとしてゐる。
又
人間は生きてゐるから、生きてゐる價値があるとは言へない。
又
生きるといふ事は自分の意志ではない。
肉體の健康なだけに外ならない。
∫
六十六、再び裁き
我々は既に裁かれてゐる。
∫
六七、人間の事
多くの人が他人の不幸を解らないやうに、その人が如何に幸福であるかといふも解らない。
∫
六十八、無頓着
我々はどうすればそれが出來るかを知る能力を持つてゐる。
が、我々は何人もそれが如何なるものであるかを全く知らない。
∫
六十九、美
「美」は美しいといふ言葉をしか有せない。
∫
七十、寶石(ほうせき)
寶石は金庫へしまつておくものではない。
又
寶石は店頭に飾つておくものでもない。
又
更に寶石は人間を飾るものものでもない。
∫
七十一、自 然
筆者は寶石(ほうせき)は心を飾るものだ、といつて善人ぶるつもりはない。
寶石は自然の地中深くに存在する。
それを人間の力で磨いて仕上げたに過ぎない。
詰り、寶石は人間がゐてもゐなくても存在してゐるのである。
∫
七十二、中途半端
我々人間は、自然のやがては成し遂げる事を中途半端に少し早めて完成(?)させてゐる。
即ち、地球を滅ぼす事は出來るが、地球を創造する事は出來ない。
又
所詮、我々人間は自然にあるものを組合せる事は出來るが、別の生命を創り出す事は出來ない。
∫
七十三、暗 中
我々は「何か」を求めてゐる。
その事を素晴らしい、と思つてゐる。
それに向つて歩く事を「善(よ)し」、と思つてゐる。
しかし、その「何か」は「何か」であつて、決して人の求めてゐる「幸福」や「平和」ではない。
又
それは「安住」か「快樂」の卑猥な世界かも知れないし、或(あるい)は本當(ほんたう)に素晴らしい「平和」や「幸福」かも知れない。
しかし、その「何か」が、「平和」や「幸福・平等」であると思つても、我々は「平和」や「幸福・平等」を求めてゐるのではない。
それは矢張、いつまで經(た)つても「何か」なのである。
∫
七十四、主義者
所有(あらゆる)主義主張は不完全である。
故に所有主義者や主張する者も不完全である。
我々は一つの主義主張で言ひ表せるほど單細胞に、若しくは完璧に出來上がつてはゐない。
たとへ一つひとつの主義主張が、偉大なものの一部を成してゐるとは言へ……。
∫
七十五、武 器
まさか人間自身を殺害するとは、思つてもみなかつた器具。
∫
七十六、人殺し
我々は何人(なんぴと)も、否(いな)、如何(いか)なる生物(せいぶつ)をも殺す權利はない。
それが縱(よ)しや、生きて行く爲に必要であつたとしても。
所が、我々は生きて行くには無論の事、趣味で殺す事も稀ではない。
人間の贅澤といふ奴は、どうしようもない。
又
權利があると思はれるのは、我々を創つたと思(おぼ)しき神にだけであらう。
が、その神すらも、我々が我々として判然と感じ取れるやうになつた時點(じてん)では、果して神と雖(いへど)も、神の氣持だけで我々を殺す權利があるものかは、甚だ疑問である。
又
筆者を創つたのは神らしいが、父親と母親によつてこの世に生存する事が出來た。
かういふ不合理な事は、筆者自身、甚だ遺憾に思ふ。
その爲に、父親は自分が創つたものと思つて、散々筆者に文句を言ふ。
ひとつ出來るものなら……。
∫
七十七、個人としての私
我々が語られる時は、一番立派な大家(たいか)と言はれる人物であるならば、あるいは何千年であるかも知れない。
が、しかし、私自身などは生きてゐる時でさへも……。
∫
七十八、ある時
私が自分の筆名を「孤城忍太郎」だといふと、
「良い名前ですね」
と言つた人がゐる。
冗談ではない。
その人は屹度(きつと)、孤獨な城で忍んでゐる、とでも思つたのであらうが、大違ひのコンコンチキである。
私の名前はそのやうなhumanism(人道主義)に徹した名前ではない。
孤獨な城で意味もなく忍ばなければならない男だ。
忍びたくて忍んでゐるのではない。
忍び難きを忍んでゐるのでもない。
勢ひさうしなければならないのである。
多分、これからも永遠に。
∫
七十九、Nihilist
神々を好色家と呼び、佛を遍(あまねく)く罵倒した私は、神々や佛達に、否、自分自身に苦しむ事だらう。
即ち、惱みや恐れは自身の中にある。
∫
八十、好 み
筆者の好みは、自分の好みを人に押しつける事である。
全くこれほど小氣味のいい事はない。
∫
八十一、異端者
我は主義者に非ず。
即ち、我は懐疑主義者に非ず。
懐疑者なり。
我は懐疑を主義とせず。
又
我は主義者に非ず。
我は異端者なり。
∫
八十二、異端者に非ざる異端者
われは異端者なり。
異端者にならんとし、異端者にならん事を只管(ひたすら)拒み續け、而(しか)も異端者にならん事を誇りにせんとする、卑屈なる異端者なり。
∫
八十三、また或時
我を狂氣か、阿呆か、極惡人に成らせ給へ。
出來ない!
出來ないのなら仕方がない。
この儘で生きよう。
私はPatrick Hanryや芥川龍之介のやうに勇敢ではないから。
∫
八十四、二重人格者
私は二重人格者を可哀想に思ふ。
私などは、少なくとも百以上の人格を備へてゐるから。
∫
八十五、本 意
死にたい時に死ぬのは私の本意ではない。
さうして勿論、生きたい時に死ななければならないのも本意ではない。
然し、最も本意でないのは、生きたくない時に生きてゐる事だ。
∫
八十六、順 應(じゆんおう)
私の生きてゐる理由は、少なくともその一つは、生きてゐたから生きてゐるのである。
さうして、今は死ぬ事が出來ないから生きてゐるのである。
若し、私の魂なるものがあつて、それが大宇宙の別世界で漂つてゐるものだとしたならば、さうして私が意識の内にさう感じる事が出來たとしても、魂である私は、結局、不滿を持ちつつも、そのまま大宇宙を現状と變(かは)る事なく漂つてゐる事だらう。
私も自分の意志で生れて來た譯のものではない。
かういふ事が言へるのも、どうやら私の神經が麻痺して來てゐるからかも知れない。
∫
八十七、無氣力
私は何が悲しいかといつて、この世の中に幸福といふ不幸がある事を知つた時ほど悲しかつた事が、未だ嘗てない。
私はその時からこんな姿になつてしまつた。
∫
八十八、夢疲れ
私が人生に疲れたのは、寧ろ、現實よりも夢の中での事が遙かに多い。
實に私の人生は夢によつて斯くも老い果てたのである。
∫
八十九、不如意
私は常々かう思つてゐる。
「死ぬ爲に生きたくはない。
どうせ生きる爲に生きられないのなら、生きる爲に死なう」
と。
だが、いまだにむざむざと生存(いきながら)へてゐるのは、どうした譯であらう。
∫
九十、目 的
君がしたい事はなんだ。
「人がまだしてゐない事」
それが具體的には、どんな事なのだい。
「それは結局、何もしない事かな」
∫
九十一、生の革命
生の革命は死である。
∫
九十二、馬鹿馬鹿しい事
死の革命は生である。
∫
九十三、結 局
我々は、結局下らないものを主體としてゐる。
∫
九十四、幸福と不幸
幸福といふものは、信仰みたいなものである。
信じた時、或は信じる事が出來るならば幸福である。
又
昔からあつたものは、不幸だけだつたかも知れない。
人間はそれが嫌で、幸福といふ言葉を創つたのかも知れない。
又
不幸といふ言葉は、幸福といふ言葉の後に出來たのかも知れない。
然し、それは呼び名が、である。
又
幸せがあつても幸福ではない。
又
幸せがなんであるのか解らない事が、結局、我々人間の幸福である事なのかも知れない。
∫
九十五、愛と死
愛は誰とでも出來る遊戯である。
假令(たとへ)愛する時には、この世にこの人だけだと思つてゐても、その失戀の爲に死ぬ男女はゐない。
若し死ぬ男女がゐたとすれば、それは遊戯に疲れた爲である。
∫
九十六、最高の愛とは
最高の愛とは、この世に男と女が一人づつしか存在しない状態の事である。
さうでなければ、一人の愛する相手が死んだとしても、まだ愛するに足る相手が幾らもゐる事になるのだから。
もしこの世に男と女が一人づつだとすれば、他の何者とも比較する事は出來ない。
それほど素晴しい、さうして夢のやうな愛はないものだらうか。
一九七二昭和四十七壬子(みづのえね)年文月二十三日午後七時
∫
後 記
この作品は私が三十代後半の頃から思ひついたままに、覺え書に書いておいたものを纏めたものである。
かう云つたものは私が生きてゐる以上、書き續ける作品の一つであらうかと思はれる。
人生の事について考へると、色々と浮んでくる。
それを短い言葉で書いたのがこれである。
だから本來、この作品はこれで完結した事にはならないのだが、なんとなくこれで一つに纏めても良いやうな氣がしたので、完結させる事にした。
まだこれからも書く事は書くのだが、書くとしても題名は變(かは)る事になる。
この作品は私の人生の考へ方の一つに過ぎない。
私の考へた人生の總(すべ)てではない。
さうして、この作品は小説の題言として使用する爲に書いたものである。
言つて見れば、小説の主題となるものである。
だから少なくともこの作品に書かれた數だけは、小説が出來上がつてゐなければいけないのだが、實際はこの作品に書かれた數どころか、殆ど習作の域を出ない作品ばかりである。
一體(いつたい)、いつになつたら小説ばかり書いてゐられるやうになるのだらうか。
そんな無精者の世の中は來ないものだらうか。
一九七二昭和四十七壬子(みづのえね)年長月二十七日午後十一時