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傍觀者(bystander) ――ある傳説(でんせつ)的山にて(At a legendary mountain) Op.9 孤城忍太郞(こじやうにんたらう・Kozyou Ninntarou)

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この曲は叔伯特(シユウベルト・1797-1828)の、 『UNVOLLENDETE(未完成)』

といふ作品で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひです。

ない方が良いといふ讀者は、ご自由にどうぞ。

 

 

傍觀者(bystander)

 

――ある傳説(でんせつ)的山にて(At a legendary mountain)

Op.9

 

 ――人間が人間であるといふ事を計るものはない。

 

 

 鬱蒼(うつさう)たる山々には重苦しく霧雨が立ちこめてゐて、朝夕の區別がつけ惡(にく)く、剩(あまつさ)へ山犬の遠吠えが聞かれるので、靜寂の中に不氣味さをただよはせてゐた。
 そんな鬱陶(うつたう)しさが、この地方の山々には年中まとはりついてゐて、迷信や崇りなどを信じ易い人間が爲には、斯(か)かる傳説(でんせつ)的山には餘(あま)り寄りつきたがらず、從つて、世間からも知られずにひつそりとある。

 が、人が全く來ないかといふと、さういふ譯でもない。
 無論、山の中には人影を全然見出す事が出來ないのだから、山の上などに見えよう筈(はず)はない。
 山には、ただ山犬のうろついてゐるのが見えるばかりである。
 では、人は何處にゐるかといふと、不斷(ふだん)は雨と霧に隱れて見る事は出來ないその山々を、先づ何處よりも一番山らしく見る事が出來る所に、詰り、その四方の山々に圍(かこ)まれた中間に、猫の額ほどの盆地があり、その盆地の一部の小さいが湖と呼べるものの附近で、村を成(な)して細々と生存(いきなが)らへてゐるのである。

 村と言つても名ばかりで、古いしつかりとした作りの家が、小ぢんまりと六十軒ばかり建ち竝んでゐるだけで、凡(およ)そ、人の住んでゐる気配を見せない。
 實際、人の住んでゐると感じる事が出來るのは、その村の中心部に當(あた)る所の、十五、六軒が精々で、後の家は村の倉庫にでもなつてゐるのであらうか、土のこびりついた儘(まま)の鍬(くは)とか、使はれなくなつて何年も經(た)つた人形とか積木とかの玩具や哺乳壜や案山子などが、いはばその村の頽廢(たいはい)それ自身を意味するかのやうに、一軒一軒の家に日の目を見る事なく納められてゐた。

 それは若者が、皆、町や都会へ出てゐて、村に殘つてゐる者が年配者だけといふ所爲(せゐ)もある。
 多分、田や畑がこのやうな環境で収入も少ないから、若者は村を棄(す)ててしまつたのであらう。
 殘された者は――殘された者も、結局、町から仕事をもらつて、それを内職にして生活を補つてゐるのだが、もう今では、それが本職同樣になつてゐる者も少なくない。
 風土病といふやつであらう、病(やまひ)で床に臥してゐる老人が、小器用な手つきで、せつせと何やら町でもらつた手仕事をしてゐる。

 
 人が少ないから、仕事をするのにも定めた家に集まつて、歌か何かを口遊(くちずさ)みながら指を動かしてゐる。
 その中には、まだ田畑を耕す事が出來さうな、恰幅の良い老人も交つてゐる。
老人達の皺(しわ)だらけの顏に、小さく潤んでゐる瞳が印象的であるが、誰の顏も一遍して影が薄く、蕭然(せうぜん)と息を忍ばせて、殘り少ない餘生を過してゐるやうである。
 而(しか)も、村からその町まで行くには半日がかりで、山を幾つも越えなければならず、一人で行動する事が甚だ困難であるから、先づ奇蹟でも起らない限り、村としての生命は知れてゐる。

 が、どういふ譯であらう。
 ある日、一人の男が珍しく晴れ渡つた暖かいその日の空を象徴するやうに、この寂(さび)れた村へ忽然と現れた。

 仕事の手を止めた、村人達の懷かし氣なそれでゐて懷疑的な雰圍氣の中を、ぱさぱさの髪に口髭(くちひげ)を生やし、影を一層深めてゐる出つ張つた頬骨と、一重瞼の細い目をして、綻びのある擦り切れた背廣(せびろ)と大きな旅行鞄(カバン)持ち、顏だけ見れば三十歳ぐらゐに見えるが、その仕種はまだ二十歳(はたち)前後と感じられる異樣な風貌をし、一心に太陽を見上げ、ひよこひよこと倒れさうな足取りで、時々、立止りながら、人を無視し、家を無視し、村を無視して、いつか山奧へと歩いて消えて行つた。

 村人達は餘(あま)りの出來事に吃驚(びつくり)してしまつて、何が何やら判斷出來ずに、男が見えなくなるまで、凝(ぢ)つと唖の如く見入つてゐた。
 軈(やが)て、男が完全にみえなくなると、村人達は直ぐ樣、集會所(しふくわいじよ)らしき所に集まつて、村の長老らしき者を圍(かこ)んで、ぼそぼそと會議をし始めた。

 會議といつても、所詮、形式張つてゐるだけで、何かといつては集まつて來る、この村の老人達の取留めのない世間話なのであるから、どうといふ事もないのであるが、老人達に取つてはこれが唯一の慰めででもあるかのやうに、やれ「人殺し」だの、やれ「自殺」だのと、目脂(めやに)のついた潤んだ瞳を輝かせながら、嗄(しはが)れてしまつた聲で、言ひたい事を言ひ合つてゐる。

    二、

 附近から鐘の音が聞えて來るのだから、入相(いりあひ)には違ひないだらう。
山々は激しい気象の變化(へんくわ)を見せて、霧雨が立ち込め、鬱陶(うつとう)しくいつもより重く暗かつた。
 さうして、相變らず山犬が吠えてゐる。
 そんな中を、五、六人の男達が恐怖の中にも怒りを見せた顏つきで、山犬の吠えてゐる方を恨めしさうに見つめ、覺束ない道を懷中電燈で照らしながら、草木を押擴げてゐた。

 男達は二、三日程前、麓の町で、

 「この山へ、一人の男が登つて行くのを見た」

 といふ情報を聞き、年齡、風貌を確かめた上で、殆ど無明の中に神々しい光を見出したかの如く、山々に圍まれてゐるその村へ、數日を費やしてやつて來たのであつた。

 さうして、更に一時間ほど前に、その村の老人達から確信的な情報を把(つか)むと氣をよくして、男達は老人達の止めるのも聞かずに、大急ぎでこの山に登つて來たのである。
 そこまでは良かつたのでだが、捜してゐるうちに雨と霧に遮(さえぎ)られてしまつて、道に迷ひ込み、ここまでやつて來たものの男を捜す所か、自分達の仲間を見失はない事で精一杯であつた。

 然(しか)し、暗闇は無遠慮に雨を吸込んで、幽遠(いうゑん)と計り知れずに續き、次第に男達の明りを奪ひ去つて行つた。
 さうなると、もう本當に一寸先は闇また闇であり、男達をつないでゐるものは聲ばかりである。
 が、その聲も、到頭(たうとう)、全く耳に入らなくなつて來て、前には五、六人ゐた筈の男達が、いつのまにか二、三人に減つてしまひ、その二、三人の男達もいつかそれぞれ違つた方へと、雨に打たれながら離れて行つた。

 一方、逃れるやうにこの山へ來た男は――男も逃れる所か、矢張、道に迷つてしまつて、かなり恐がつてはゐたが、手に持つてゐる大きな旅行鞄の中に、飢ゑと寒さを免れるべき物質を所持してゐるといふ事が、男の氣持を幾らか抑へてゐて、男は歩く事に時間を費やす事が出來た。
 軈て、その成果があつて、漸(やうや)く一つの洞窟を見つけ、一夜を凌ぐ宿とした。

 男は赤々と燃え盛る炎(ほのほ)の中へ薪(まき)をゆつくりと燒(く)べながら、雨を吸つてずしりと重い服を見て、

 「もうここまで來れば大丈夫だらう」

 と思つた。
 さうして、その服を乾かしながら、

 「何日でもいい、世間のほとぼりが冷めるまでここにゐよう」

 とも思つた。

 が、急に塞ぎ込んでしまつて、その細い目にいつぱい炎を映して、悲しさうに笑つた。
 男は默つて旅行鞄の中から、罐詰(かんづめ)と麺麭(パン)を取出して喰ひ始めた。
 餘りうまくなささうである。
 だが、贅澤(ぜいたく)も言へないのだらうか、平らげてしまつた。

 食べ終へると、男は毛布を二枚ほど重ね、懈(だる)さうに岩壁に凭(もた)れかかつて、覆(おほ)ひかぶさつた。
 焚火だけでは冷えるのだらう。
 それでも火は燃え續けてゐるのだから、洞窟もかなり暖かくなつてゐてしかるべき筈であつた。
 男はいつに間にか、そのまま昏々(うとうと)と寝てしまつた。

 突然、山犬の現實的な唸り聲で、男はその細い目を開けた。
 急に背筋が寒くなるを感じた。
 暗いしよぼついた洞窟の入口邉りには、十數匹の山犬が群れをなして、ゆつくりと間隔を狹(せば)めながら、洞窟の中へと向つて來てゐるのである。

 男は落着かうと思つて、あたりを見廻した。
 すると不圖(ふと)、薪の消えるのに氣がついて、上着の内(うち)衣嚢(ポケツト)にある、いや、洋股(ズボン)の衣嚢にあつた自動點火器(ライタア)を取出して、
 紙に火を!
 紙に火を!
 紙に火を漸く點(つ)けて、薪を勢ひよく燃やし始めた。

 が、その時にはもう洞窟内に、數匹の山犬が侵入して來てゐて、それぞれが男に飛びかからうとする寸前であつた。
 男はそれと見るや、直ぐ樣、燃え出した薪の一本を手に持つて、今にも喰ひついて來さうな山犬の方に突きつけた。
 山犬は吃驚(びつくり)して後ろへ下がり、吠えながら、そのまま後退(あとずさ)りをして洞窟の外へ出て行つた。

 男は止めに、手に持つてゐた薪を山犬の群がる洞窟の外へ投げつけ、次(つ)いで、もう二、三本も投げつけると、暫くは徘徊(うろうろ)してゐた山犬も、いつの間にか、雨で燻ぶつてゐた薪の火が消える頃には、その姿を何處かへ消し去つてゐた。
 それを確かめても、男は容易に外へ出ようとはしなかつた。
 が、男は先づほつと一息つくと、さて、腹の減るのを覺え、鞄(カバン)から食麺麭を取出して食べようとした。

 その瞬間、

 「井原! お前を暴行殺人の罪で、逮捕する! おとなしく、そこから出て來い!」

 と、刺々(とげとげ)しい聲(こゑ)が、まだ興奮の冷めやらぬ、しょぼついた洞窟の外から叫ばれた。
 男はその言葉を聞くと、戰々(わなわな)と震へながら、その場へ力なく突伏(つつぷ)した。

 洞窟からなんの返答もないと、その聲は續けて、

 「もう逃げられないぞ! 觀念して、法の裁きを受けろ!」

 と、前よりも一層刺々しく叫んだ。
 男は、その聲を遠くの方の事のやうに感じながら、

 「俺は、殺(バラ)すつもりぢやなかつたんだ!」

 と泣き叫んで、幾度も抱へ込んだ自分の頭を毆つてゐた。
 山犬が何處か遠くで吠え合つてゐた。

    三

 密林の中を、霧雨が立ち込めてゐる密林の中を、二人の男がお互ひ、ものも言はずに歩いてゐる。
 よく見ると、二人とも片方の手首に手錠を嵌(は)めてゐて、それがどうかすると、密林を割るやうな、鋭く物憂げな音で響き渡つて行つた。
 さうして、それを追ひかけるやうにして、山犬の遠吠えが迫つて來るやうであつた。

 男はその都度、心細さの餘り、年配の刑事に幾度も話かけようとしたが、刑事は何か思案をしてゐるのか、終始、默り込んで、他の事は全く何も氣にならない樣子であるから、結局、二人とも手錠を嵌めてから、もう數十時間も經(た)つたであらうかと思はれる今まで、ひとことも言葉を交さずにゐた。

 刑事は男を逮捕してからのこの二、三日を、男の所持してゐた食物で過した。
幾ら控へ目に食べても、二人が食べれば、旅行鞄の一部に入つてゐた食物である、最早、殘りも二人の口を糊する程度のものでしかない。

 「もう、食物も二日と持つまい」

 刑事はさう思ふと、逸(はぐ)れた仲間の安否を氣遣つた。

 然し、山犬の遠吠えにその望みも果敢なく斷ち切れた。
 さうしてそれと同時に、この山から拔け出せるといふ自信も、次第に消えて行つた。

 「もし、このままこの山から拔け出す事が出來ないのなら、この男をいつまで捕まへてゐても同じだらう。それよりも、今はこの男と……」

 刑事は、そんな事まで考へるやうになつてゐた。

 だが、それは刑事にとつて都合の良い考へでしかなかつた。
 何故なら、今は拔け出せないからといふ事で、犯人を普通の協力し合ふ男として扱つてはゐるが、一たび麓の町が見えるやうのでもなれば、この刑事は忽ちの内に、また、男を犯人として扱ふに違ひないからである。
 刑事もその考へに到り、それを不快に思つたのか、氣色に憂鬱な暗さを宿らせた。

 一體、どれほど歩いた時分であつたらうか。
 二人の男は、足が鉛ででもあるかのやうに、ずぶつ、ずぶつと引摺つて動いてゐた。
 飢ゑと寒さと睡眠不足の所爲(せゐ)か、充血した眼が飛び出さんばかりにぎょろつき、神經の消耗と伴つて、痛ましいほど頬が殺げ落ちてゐた。
 二人はまだあれからも、逃げようとする犯人と、その隙を與(あた)へまいとする刑事の、そんなやり取りの爲に、ものを云ふ事さへ忘れてゐた。

 が、到頭、一人が堪り兼ねたやうに、

 「刑事さん、俺、死刑になるかな」

 と尋ねた。
 刑事は、たつた一人の刑事は、

 「さあ、はつきりとは解らんが、多分、さういふ事になるだらうな」

 と低い聲で、やや氣の毒さうに言つた。
 すると、それを訊いた男は、

 「俺は生きたい! 死ぬなんて御免だ! 刑事さん、お願ひだ。このまま逃がしてくれ。お願ひだ!」

 と、氣違ひのやうになつて叫んだ。
 刑事は、それを冷ややかに見下して、

 「見苦しいぞ。お前に殺された老人や少女も、きつと生きたかつただらうにな。少しは反省しろ」

 と、吐き出すやうに窘(たしな)めた。

 然し、逆上した男は、一向に大人しくしさうにはなかつた。
 それどころか、その言葉が油となつたかの如く、

 「くそつ、逃げてやる!」

 と言ひ放つて、側に落ちてゐる大きな石を持つて、刑事に炎となつて毆りかかつて行つた。
 それはこの山にゐるといふ心細さと、それを一層(いつそう)驅立(かりた)てる山犬の遠吠えと、更に捕まつたといふ事への足掻きであつたのかも知れない。

 「止さないか!」

 刑事はさう叫ぶと、男の持つてゐる石を拂ひ落として、拳銃を取出さうと、上着の内側へ手を捩(ね)ぢ込んだ。
 男は透かさず、刑事にぶつかつた。

 拳銃が地面に落ちるや、忽ち、挌鬪(かくとう)が始まつた。
 地面を轉(ころ)がりながら、上になつたり下になつたりして、眞黒(まつくろ)になつて、頬を毆りつけ、腹を蹴り、木にぶつかり、岩にぶつかり、擦り傷や服の何處かを破りながら、地面に落ちてゐる拳銃を我がものにしようと、死物狂ひになつて、

 「お前を、殺してでも、逃げてやる」

 「莫迦」

 「なに! お前は何も、知らずに、任務を遂行すれば、いい、だけかも、知れないが、こつちにとつては、生死に、關(かか)はるんだ!」

 「人殺しは、死刑に、決つてる。正當防衛で、ない限り。お前のやうに、世の中に、なんの役にも、立たない奴はな、死ねばいいんだ!」

 「くそつ、お前も、さう思つて、ゐやがる。何も解つちやあ、ゐない癖に! 殺してやる!」

 と息を、はあはあ吐いて、挌鬪してゐる。

 が、何せ手錠を二人がそれぞれの片腕の手首に嵌めてゐるから、思ふうやうに大きな動きが出來ない。
 それでも、いつのまにか場所はかなり移動してゐて、地面に落ちてゐる筈の拳銃も、もう見失つてゐた。
 挌鬪は終る樣子もなく、二人の男はどんどん暗闇をすべつて行つた。

 すると二人の行く手には、雨と霧に隱れた地面に、薄暗い大きな龜裂がごくりと覗き、不氣味に凝(ぢ)つと息を殺してゐた。
 それでも、二人の男はなほも氣がつかずに挌鬪をしてゐた。
さうして、それが一メエトル程になつてしまつた時、刑事の腹の上に跨(またが)つて毆(なぐ)つてゐた男は、矢庭に地肌が消えて、眞青(まつさを)な空間が目前に迫つてゐる事を知つた。

 男の全身から、力がすうつと拔けて行つた。
 刑事はそこを透かさずついて、くるつと半廻轉(はんくわいてん)した。

 「危ない!」

 男は思はずさう叫んで、邉(あた)りへ思ひ切り片手を突張(つつぱ)つた。
 さうして、崖の縁(ふち)に出てゐた枝に觸(ふ)れると、ぐつと、しつかり握り緊めた。

 雨と霧に包まれた斷崖には、ゆらゆらと運命に動かされてゐる、一本の蔦のやうなものが見える。
 二人の男の代りに、幾つかの小石が谷底へ落ちて行つた。
 小石が岩肌を轉がり落ちる音は、絶望的な、冷たく騷がしい谺(こだま)を呼んで行つた。
 さらに、山犬の遠吠えが、その谷間に響き渡つた。
 小石の音とともに、谺も微(かす)かにしか聞えなくなつたが、それは小石が谷底へ到達しようとしてゐる事にはならなかつた。
 それほど谷底は、深淵であつた。

 男は辛(つら)かつた。
 男の下の手錠の嵌まつた片手には、刑事が喘(あへ)ぎながらぶら下がつてゐて、手首がちぎれるほど痛いし、またその下には何處まで續いてゐるのか、考へただけでも恐ろしくなるやうな暗い巨大な穴があつた。
 男は、もう何處がどうだか判らないやうな激痛を堪(こら)へながら、冷たい岩壁を見返して、必死に這ひ上がらうと、もがいた。
 助からう、生きようともがいた。

 その時、下にぶら下がつてゐた刑事がひと言、たつた一言、殆ど怒るやうに、

 「頑張れ! 落ちたら死ぬぞ!」

 と、暗闇の中から男に向つて、喘ぎ喘ぎ呻(うめ)いた。

 刑事はさう言つた後、直ぐにはつとして、闇で覆はれた顏に苦痛の色を浮べた。
 光が、一層、失はれたやうだつた。
 男は麻痺して來た腕を、二人を僅かに支へてゐる細い片腕を、凝(ぢ)つと見つめながら、夜叉のやうの形相で呟いた。

 「俺は、死刑囚なんだ!」

一九六七年昭和四十二丁未(ひのとひつじ)年葉月

 

 

後 書

 「如何でしたか、傍觀者諸君!」

 筆者はこの作品を書く時、これが一番言ひたかつた。
 さうして、これを書かせしめた原動力は、この一言にあつた。
 無論、この事は作者である自分自身にも言へる事である。
 筆者は、この作品を自身の心象(イメエヂ)で書いたのである。
 誰の能力も暗示(ヒント)も借りてはゐないと思つてゐる。

 にも拘はらず、この作品を書いてゐる時、このやうな事件は、他の映畫や雜誌に幾らもある、ありふれた内容だと思ひ、書く氣がしなくなつてゐた。
 が、書く事が筆者の最後の手段であると思ひ直して、なんとか書き終へた。

 書き終へて、筆者は結末を劇的(ドラマチツク)に書き過ぎたと思つた。
 勿論、かういふ結末にしなければ、この作品の意味はないに等しいのだが、筆者の氣分としては、二人とも有無を言はせず、挌鬪したまま谷底へ落としてしまへば良かつたとさへ思つた。
 然し、まあ仕方がない。
 多少しつこくても良いぢやないか、と妥協した。

 だが一つ、これだけは先にも書いた通り、全く筆者一人の創作であり、誰の智慧も得てはゐないと斷言出來る。
 又、斷言したいし、妥協はしない。
 凡そ、筆者は決してこれを良い作品だとは思つてゐない。
 然し、その事が筆者を以(もつ)て、これを支へてゐる所以(ゆゑん)である。

一九六七年昭和四十二丁未(ひのとひつじ)年葉月

 

TEL 06-6334-2218 午前11時~午前12時30分

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