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電腦(コンピユウタア)に於ける文字表記(もじへうき)の事情 孤城忍太郞(こじやうにんたらう・Kozyou Ninntarou)

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 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
 これは自作(オリジナル)の

『YAMAHA QY100 Motion1(竪琴・harp)曲 高秋 美樹彦』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
 映像は奈良懸にある、

 『石舞臺』

 へ出かけた時のものです。

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。

電腦(コンピユウタア)に於ける文字表記(もじへうき)の事情

 

 電腦(コンピユウタア)で文字を表記(へうき)するに當(あた)つて、『正字』と『假名遣(かなづかひ)』に就(つ)いて氣がついた事を述べてみたいと思ふ。

 
 先づ、漢字の表記には大まかにいふと、『正字』と『新字體(しんじたい)』との二種類があつて、この他に『異體(いたい)文字』などもあるのだが、話が複雜になるのでそれは省く事にして、取敢(とりあ)へず『正字』に就いて述べれば、

 『正字』とは昔からの點劃(てんくわく)の正しい形の文字で、略字・俗字のやうな正字から作られた新字體に對(たい)していふ言葉(大辭林(だいじりん)」

 であつて、所謂(いはゆる)、口語文を新假名遣で記録する場合には、新字體を使用するだけで濟(す)むので、それ程大きな問題は起きないやうに考へられてゐるが、それでは、それ以前の明治期の?史的假名遣の頃はどうだつたのかといふと、口語文でも『正字』で表記されてゐたのは言ふまでもない譯で、無論、その頃には漢字の改變(かいへん)がなかつたのだから、當然(たうぜん)といへば當然なのだが……。

 それに比べて、文語文を歴史的假名遣で表記する場合には、特に電腦(コンピユウタア)に記記録する時、例へば、「源氏物語」や「枕草紙」、或いは芭蕉の俳諧やや「平家物語」などを書き寫(うつ)さうとすると、電腦(コンピユウタア)には『正字』の漢字が不足してゐるので、新字體を利用するより外はなく、書く側は勿論讀(よ)む側にも、この文章のやうに「正字』と新字體が混淆(こんかう)された?態で提示される事になるのである。
 これは、釦(ボタン)を掛け違へたまま服を著(き)てゐるやうで、なんだか氣持が惡い事この上ないのである。

 そこで、ここで總ての『正字』に就いて語る譯にはいかないが、どのやうな漢字がないかといふのを大凡(おほよそ)で述べれば、
 「情(なさけ)」
 といふ新字體の漢字は、
 「立心偏(りつしんべん)」と、「青」
 で構成されてゐて、これが、『正字』だと、
 「立心偏」と「靑」
 で、この文字は電腦(コンピユウタア)には登録されてゐないので、ここに表示する譯にはいかないのは殘念だが、
 「青(あを)」
 の部分が新字體では、
 「月」
 になつてゐて、『正字』の場合は
 「円(ゑん)」
 になつてゐるといふ違ひが指摘出來るだらう。

 この他にも、
 「仏(ほとけ)」
 といふ新字體の漢字は、
 「人偏(にんべん)」と「厶(し)」
 で構成され、これが『正字』の場合だと、
 「佛(ほとけ)」
 と表記されて、
 「人偏」と「弗(ふつ)」
 と書かれ、これは「沸(わ)かす」といふ場合の、
 「沸(ふつ)」
 を『正字』で書いた時に、新字體では、
 「三水偏(さんずいへん)」と「厶(し)」
 で書かれるのかと思ふと、さうではなく、同じやうに、
 「沸」
 と表記されてしまふのである。
 つまり、新字體と『正字』とが違ふ場合もあれば、同じ字體の場合もあるといふ事になつて、
 「仏」
 といふ新字體の『正字』が、
 「佛」
 であると知らなければ、
 「沸」
 といふ文字が、何故、
 「三水偏」と「厶」
 で書かれないのか、といふ事に對(たい)する疑問も、生じない筈のものであり、下手をすると、これら二つの、
 「仏・佛」と「沸」
 は、全く別の性質の文字で、まさか同じ「旁(つくり)」の漢字であるとは、思ひも及ばない事になつてしまふのである。

 さうして、これは新字體の、
 「発」
 といふ文字が、『正字』では、
 「發」
 となり、「三水偏」の「旁」を加へて、
 「溌」
 『正字』では、
 「三水偏」と「發」 
 となるが、これ以外にも、「酉(ひのとり)(酉偏(とりへん))」の新字體、
 「醗」
 と、『正字』の、
 「酉偏」と「發」、
 或いは新字體の、
 「廃(はい)」
 が『正字』の場合には、
 「廢(はい)」
 となり、「病垂(やまひたれ)」の、
 「癈」
 や、「手偏(てへん)」の、
 「撥(はつ)」
 などには「発」の旁がなく、「發」の旁だけしかないのである。

 更に、これと似たやうな、
 「近(きん)」
 といふ漢字の場合と、
 「辷(すべる)」
 といふ『正字』の場合の、
 「之繞(しんわう)」
 に「、(點(てん))」が一つある新字體の場合と、二つある『正字』との場合で も、表記が統一されてゐないので、
 「仏・佛」や「沸」
 の時と似たやうな問題が起きてしまふが、「、(點)」が一つか二つか、といふ選擇肢(せんたくし)だけでは、流石(さすが)に別の性質の文字群だとは考へ難(にく)いのが、僅(わづ)かに救ひだと言へるだらう。

 さうして新字體の、
 「殺(さつ)」
 といふ漢字が十劃(じつくわく)であるのに比べて、『正字』では、「メ」と「木」の間に「、(點(てん))」があつて、一劃(いちくわく)增えて十一劃(じふいつくわく)になつてゐるし、又、
 「者」
 といふ新字體の漢字も八劃(はつくわかく)であるが、『正字』になると「土」と「日」の間に「、(點(てん))」が附いて九劃(きうくわく)になつてしまふのである。

 これ以外にも、
「戻(るい)」
「類(るい)」
 などがあつて、これは、
「大」と「犬」
 の違ひなのだが、これで本當に劃數(くわくすう)に依(よ)る姓名判斷は、有効なのかと思つてしまふ程である。

 さて、漢字に關(くわん)してはこれ以外に『字形』の問題もあつて、
 「伴(はん)・畔(はん)」
 例へば、この二つの文字と、
 「絆(きづな)・袢(はん)」
 この二つの文字の「旁(つくり)」は、本來同じ字形であるべき筈のものであるのだが、見た通り違つてゐて、こんな状態で放り出された事を不合理だとは思はれないだらうか。

 では、何故このやうな問題が發生してしまつたかといふと、太平洋戰爭が終つてから、「当用漢字(原文の儘)」といふ漢字制限が政府から施行されて、それは無制限に漢字を使用するのは、兒童(じどう)の勉強の負擔(ふたん)になるといふ理由からで、この時序(つい)でに「当用漢字」に選ばれた漢字の「字形」さへも、これも同じく漢字の記憶に要する時間を輕減(けいげん)する爲に、と稱(しよう)して改變(かいへん)してしまつたからである。

 この時に、「当用漢字」以外の文字も「偏(へん)」と「旁(つくり)」や「字形」を統一しておいたならば、混亂(こんらん)のないすつきりしたものになつてゐたものと思はれるが、それには手をつけなかつたので、このやうな状況に陷(おちい)つたのであり、「当用漢字」は、やがて文字の不足を補(おぎな)ふ爲(ため)に、數(かず)を增やして「常用漢字」へと變遷(へんせん)して、今日に到つてゐる。

 全く呆れ果てた事で、それならば最初から文字の制限などしなければ良かつたのである。

 古來から、人民を從はせる道具として文字を統制するのは、權力者の常套手段であつたのだが、民主主義のこの時代に、漢字統制もないのではなからうか。

 そこで提案したい事があるのだが、電腦(コンピユウタア)に關して、新字體は殘した儘でもかまはないから、せめて「偏」と「旁」や「字形」の統一された、『正字』は全て網羅して、「字形」も舊(きう)に復した文字を裝備しておいてもらへないだらうか。

 と云ふのも、
 「無制限に漢字を使用させてもいいのか」
 といふ意見に、真向(まつか)うから反對(はんたい)しなければならない、と作者は考へるからで、
 「何故、無制限に漢字を使用させてはいけないのか」
が分らず、又、誰が、
 「使用させてもいいのか」
 と問ふのかも分らず、更に、
 「無制限に」
 といふ言葉を隱れ蓑にして、
 「そんな事をされては大變(だいへん)だ」
 といふ雰圍氣(ふんゐき)を醸(かも)し出して、漢字を制限しようとしてゐるかのやうに思はれるからである。
 大體(だいたい)、「無制限」と言つたところで、漢字は無制限にある譯ではなくて、有限のものなのである。
 最大でも五萬字ぐらゐのものであらう。
 これらの漢字を使用するしないは、個人の自由だから別にして、電腦(コンピユウタア)には總(すべ)てを登録しておくべきだ、と考へるのである。

 といふのも、簡易な漢字辭典を編纂(へんさん)しやうとするなら仕方がないが、出來得る限り完全な形で完成させやうと思つたら、この漢字は使用する瀕度が少ないので、と言つて、それらの漢字を省略したりはしないと思ふからである。

 次に、『假名遣』に就いて述べると、これには『歴史的假名遣』と『現代假名遣』とがあつて、電腦(コンピユウタア)には、この二つの内の一つである『現代假名遣』しか、普通は使用出來ない筈で、『歴史的假名遣』を利用したければ、作者のやうに「辭書登録)」で補つてからでないと作動せず、さうでなければ、後は一語毎に『現代假名遣』で表記して、いちいち言葉を『歴史的假名遣』に變(か)へて、文章を作成していくしかないのである。

一體(いつたい)、『歴史的假名遣』と『現代假名遣』との違ひは、基本的に文字を變換(へんくわん)する時、その言葉を「假名(かな)」か「羅馬字(ロオマじ)」で變換するのだが、その時に、
『ざ行』と『だ行』、
『う』と『お』の使ひ分けが理解出來ないと、うまく變換されなくて、それは例へば『現代假名遣』の、
「氷(こおり)」
の「お」は、何故「う」ではないのか、
「高利(こうり)」
「行李(こうり)」
「小賣(こうり)」
の「う」は、何故「お」ではなくて「う」なのかを承知してゐないと、電腦(コンピユウタア)の文字を叩く事さへ出來ないのであり、『現代假名遣』の、
「じやあ」
が『ざ行(ぎやう)』の「じ」で、
「ぢやあ」
のやうに、『歴史的假名遣』だと『だ行(ぎやう)』の「ぢ」になるのは、どうしてなのかと言ふと、それは、
「氷(こほり)」
が『歴史的假名遣』で「こほり」と表記し、「ほ」は「お」だと、『現代假名遣』で制定されたからなのであり、
「高利(かうり)・行李(かうり)・小賣(こうり)」
と表記された『歴史的假名遣』の「う」は、その儘『現代假名遣』に殘したからで、これでは『歴史的假名遣』を知らなければ、説明さへ出來ないといふ事になつてしまふ。

さうして、次の場合の、
「ぢやあ」
は「では」の轉(てん)じたもので、『歴史的假名遣』だと、
「だ行」
だけで濟むが、『現代假名遣』になると、
「ざ行」と「だ行」
に跨(またが)つて活用しなければならない羽目になつて、言葉が亂(みだ)れて仕舞ふのである。

それ以外でも、
「胡瓜(きうり)」
は『現代假名遣』では、「きゅうり」と平假名(ひらかな)で表記し、
「柳生(やぎふ)」
は「やぎゅう」となり、
「桐生(きりふ)」
「氣流(きりう)」
は「きりゅう」と書(か)かれてしまふ。
さうして、このやうに打ち込まなければ、電腦(コンピユウタア)は文字の變換をしてくれないのである。

然し、この小文字で表記される「ゆ」は、耳で聞くと確かにさう聞えるが、これは幽靈音で、『歴史的假名遣』では、
「胡瓜(きうり)・柳生(やぎふ)・桐生(きりふ)・氣流(きりう)」
と表記してゐて、「ゆ」といふ文字は何處(どこ)にも存在してゐない。
それも當然(たうぜん)の話で、これらの「ゆ」の小文字を表記する『現代仮名遣』を、二つに分割すると、
「胡(き)」と「瓜(うり)」
「柳(やぎ)」と「生(ふ)」
「桐(きり)」と「生(ふ)」
このやうに、何處にも「ゆ」といふ小文字(こもじ)はなくて、だからこそ、これを幽靈音といふ所以(ゆゑん)であるのだが、耳に聞えるやうに表記するといふのは、極めて難しい行爲で、それゆゑに『假名遣』といふ表記法が必要になるのである。
これと同じ事が、殘しておいた、
「氣(き)」と「流(りう)」
の「流(りう)」にも言へて、
「りう」
と發音(はつおん)しても、耳が裏切つて「ゆ」の音を聞いてしまふのであり、『假名遣』はかう言つた事にゆつくりと對應(たいおう)して來て、論理的に許容出來るものは取り入れ、この「ゆ」のやうに、言語學上納得出來ないものは拒否して來たのである。

それが政治家と小説家、民族學者などによつて、言語學者・國語學者もゐない儘に、『現代假名遣』の施行といふ形によつて崩潰(ほうくわい)してしまつたのは、返す返すも殘念である。
そこで、『歴史的假名遣』を電腦(コンピユウタア)で作動させる爲には、『現代假名遣』の「五段活用」を「四段活用」に改める事と、『は行動詞』を追加するだけでも、隨分樂(らく)に操作が出來るものと思はれるので、この二つの『假名遣』を、隨意に切り替へて使へるやうにしてもらへれば有難ひものである。

『假名遣』に關しては、この他に「字音假名遣」といふのがあつて、これは漢字に假名を當(あ)てる時の書き分けをいふのだが、それは例へば、この文章がそれに當つてゐる。
それと筆記體に關して書き上げられた文章の文體(ぶんたい)を、所謂(いはゆる)、字形書体(フオント)を「行書體」にした時、『正字』の中で不足してゐる漢字を、「環境依存文字」として作成された漢字群があるのだが、これは行書體に變換されないので、「環境依存文字」を使用出來るやうに、その問題も解決されれば良いと願つてゐる。

ところで、登録されてゐない『正字』は、「外字」で作成すればいいではないか、と思はれる方がゐるかも知れないが、さうすると電網(インタアネツト)で公表した時に、送信側は兔も角、受信側にはその文字が反映されず、見てもらふ爲には特別な手續きを經(へ)なければならないので、その意味では、「環境依存文字」と同じで、「文字化け」を生じさせない爲にも、最初から電脳(コンピユウタア)に登録されてゐたならば、問題は一氣に解決される事になるのである。

最後に、これまで述べた『正字』に對(たい)して、電腦(コンピユウタ
ア)に登録されてゐないものだと思つてゐたが、若しかしたら作者の見落としがあつて、既に存在してゐるものもあるかも知れないので、その時はお詫びを申し上げると共に、他にも至らぬところが多々あるかと思はれるので、多くの方のご敎授を仰ぎたいと考へてゐる次第である。

 

 

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