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『ロオン・レンヂヤア(The Lone Ranger)』を觀て 孤城忍太郞(こじやうにんたらう・Kozyou Ninntarou)

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この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。

『Motion1(風琴・organ) 曲 高秋 美樹彦』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。

映像は三重懸へ行つた歸り道、

『阪奈道路』

を撮影した時のものです。

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。

 

 

 

映畫(えいぐわ)『ロオン・レンヂヤア(The Lone Ranger)』を觀て

 八月八日の定休日に『ロオン・レンヂヤア(2013)』を觀て來た。
 この作品が世に出たのは古く、調べて見るとラヂオドラマが一九三三年に放送されてから、アメリカン・コミツクスとして發表され、テレビドラマとして一九四九年から一九五八年の間に全二百二十一話にも及ぶ物語が制作されたとある。

 日本ではそのテレビドラマ版が一九五八年からテレビ放映され、それを筆者も子供の時に見てゐたが、勿論、當時はテレビのある家庭など滅多にないので、街頭テレビは見た覺えはあるもののその頃まで、まだあつたかどうかは記憶になく、恐らく理容店とか電気屋に陳列された畫面で『スウパアマン(1952)』と同じやうに見てゐたやうに記憶してゐる。

 だから第一話から見たのではなく、途中のそれも毎週續けては見る事が出來なかつたので飛び飛びに見てゐたのであるが、黒い假面をつけた主人公が白馬に跨つて、

 「ハイヨオ、シルバア~!」

 と言つて白馬をウイリイ(?)させて、羅西尼(ロツシイニ)の作曲した『ウイリアム・テル』の序曲の音樂をバツクに走る勇姿が、子供心に深く印象に殘つてゐる。

 この顏を隱して白馬に乘るといふ正義のヒイロオは、日本だと状況(シチユエエシヨン)的には『鞍馬天狗(1927)』と似てゐるので理解し易かつたのではないかと思はれるが、それでも氣になる事があつて、 それは主人公と一緒に行動する先住民のトントは從者ではなく、

 「キモサベ」

 といふ言葉が示すやうに、信頼し合へる友人といふ對等の立場である事で、何故なら、その言葉には「頼りになる相方」といふ意味がある事からでも納得出來る筈である。

 では、これの何處が氣になつたのかといふと、當時の聖林(ハリウツド)映畫は西部劇の花盛りで、「勸善懲惡」の作劇法(ドラマツルギイ)として先住民を野蠻な惡として設定されて、驛馬車や村を襲つて來る彼らを剿滅(そうめつ)させる事で昇華(カタルシス)を得てゐたが、何故白人を襲ふのかといふ經緯(いきさつ)は端折(はしよ)つて、觀に來るゆとりのない彼らを差置いて、觀客である白人を喜ばせる爲に制作されてゐたのである。

 それが、である。
 白人である主人公のロオン・レンヂヤアは、あらう事か危ひ處を先住民に命を助けられたばかりか、その後は彼と行動を共にしてゐるものの、白人と黒人のやうな主從の關係には見せないやうに工夫されてゐたと思はれ、銀行強盗や牛泥棒を惡の対象として、トントと一緒に退治する物語となつてゐて、全作品を見た譯ではないので決定的な事は言へないが、先住民との軋轢は少なくとも筆者が見た挿話(エピソオド)の中にはなかつたやうに記憶してゐる。

 この不思議な相棒(コンビ)は、映畫好きの少年には解釋(かいしやく)のしようがなかつたが、それは日本の『鞍馬天狗』の場合でも、敵對する新選組の局長である近藤勇(1834-1868)を鞍馬天狗である倉田典膳が立派な人格者として彼を褒めてゐて、これまた惡い奴の親玉をさういふ扱ひをする事に、どうしてだらうと思つたものである。

 確かに、今から思へば幕末の日本の舵取りをどうするかといふ意見の對立から生れた爭ひであるから、善と惡といふ構圖で捉へ切れる問題ではないのだが、子供にはそこら邊りの事情は理解出來ず、ロオン・レンヂヤアと先住民のコンビと同じやうに、どちらも中々に一筋縄ではいかない物語であつたのだらう。

 それで思ひ出したのだが、前囘の

 「映畫『アイアンマン3』を觀て」

 では無謀にも「超英雄(スウパアヒイロオ)」の分類を試みたが、その中にこの、

 『ロオン・レンヂヤア』

 を無念な事に書き漏らしてしまつた。
 なんたる失態か。

 そればかりでなく、

 「扮裝(コスチユウム)や覆面(マスク)を被つて主人公の正體を明かさない」

 といふ基本の外に、假面や扮裝(コスチユウム)は呪術的な意味も含まれてゐるといふ最も重要な要素(フアクタア)があるといふ指摘をするのを忘れてしまつてゐた。

 自然界の所有(あらゆる)事物は具體的な形象を持ち、と同時に固有の靈魂や精靈などの靈的存在を有するとみなす原始宗教(アニミズム)から考へてみれば、自然と一體(いつたい)となる爲に身體(しんたい)に鯨面文身(げいめんぶんしん)則(すなは)ち入墨(いれずみ)といふ彩色を施し、強靭な肉體と精神を持つて先史時代の人々が狩や戰場へと赴くやうに、正義の味方も假面や扮裝(コスチユウム)を身に纏ふ事で惡人に畏怖心を抱かせつつ、自身も迷ひのない確固たる精神を宿らせる事に成功してゐるのではなからうか。

 これを書くに當つて、數年前にあの頃テレビで放映された『ロオン・レンヂヤア』のDVDを見つけて第一卷だけを購入してゐたものを見てみると、第一話から第三話まで収録されてゐて、ロオン・レンヂヤアの誕生する經緯(いきさつ)が理解出來るやうになつてゐる。
 更に調べてみると、このテレビ・シリイズ以降には「一九五六年・一九五八年・一九八一年」に映畫化もされてゐて、この内の一本を近所の洋畫專門の映畫館に觀に行つた記憶があるが、もしかしたら『快傑ゾロ(1958)』と勘違いひをしてゐるかも知れない。

 今囘の映畫の『ロオン・レンヂヤア』は、テレビで放映された第一話から第三話までを基本(ベエス)にしてゐるやうに筆者には思はれる。
 それはテキサス・レンヂヤアズ(騎馬警官隊)が身内に裏切られ、袋小路の谷に誘ひ込まれてギヤング團を率ゐる無法者のキヤヴエンデイツシユに狙ひ撃ちされてしまふ。
 運良く生殘つた兄からレンヂヤア入隊を認められた檢事の弟だけが、ご都合主義にも通りかかつたトントに助けられ、ギヤング團を追ひかけて行く。
 この鬩(せめ)ぎ合ひが物語の核となつてゐるが、テレビ版では以前にトントの部族が襲はれて一族が潰滅された時に、運よく通りかかつたのがロオンレンヂヤアであつたといふ設定が異なつてゐた。

 この映畫でのトント役を演じたジヨニイ・デツプは、怪優といふか怪演といふか、トントが狂言廻しのやうに物語を進めるが、

 『パイレエツ・オブ・カリビアン(2003)』

 の時でもさうだつたが、聊(いささ)か大袈裟(オオバア)な演技で眞面目(シリアス)さが缺(か)けてゐるやうに思はれた。
 おどけ過ぎである。

 このトントといふ名前は、なんでも西班牙(スペイン)語で「間抜け」という意味ださうであるが、先住民の社會では、

 「白人に追從(ついしやう)する輩」

 の蔑稱として使はれてゐるとの事で、これは歌手のナツト・キング・コオルや、「尋常性白斑」といふ病氣だと言はれてゐるあの世界的に有名なマイケル・ジヤクソンでさへ白人から名誉白人として扱はれて、同じ人種の人々からは好意的には見られてゐないやうに感ぜられる。

 しかし、かう言つた問題は黒人や白人の關係ばかりでなく、先住民と入植者の關係もあつて、例へば日本の沖縄の人や北海道のアイヌ、露西亜(ロシア)や中國の少數民族だとかエスキモオ、それよりももつと複雜に人種同士が絡み合つた、日本における韓國の人々が樣々な理由で不幸にも日本に住んで、二世から三世へと世代交代が進んだ上に日本人と韓國の人との結婚などもあつて、今では日本人としても韓國の人間としても、まるで嘗(かつ)てのさまよへる猶太(ユダヤ)人のやうに、その存在のよつて立つ基盤を失はされてゐるやうに思はれる。
 これらは知られてゐないだけで、まだまだ世界中に散見される問題に違ひないだらう。

 話を戻せば、主人公は檢事として惡黨(あくたう)のキヤヴエンデイツシユを法廷で告發する爲に何年かぶりに故郷に歸つて來たが、汽車で護送中に仲間によつて脱走を許してしまふ。
 町に歸ると幼馴染のヒロインと逢ふが、今では兄の嫁となつて一兒の母となつてゐる現實を知らされる。
 どちらかといふと主人公の弟と戀仲であつたやうで、何があつたか知らないが故郷を離れてゐたものの檢事としての役目を擔つて歸郷したのであつたが、やりきれない不幸な再會となつてしまつたのである。
 さうして、正義を遂行しようとする青年は、まんまと脱走に成功したキヤヴエンデイツシユの一團を追ひかける爲に、レンジヤアの隊長である兄の許しを得て隊員となつて一緒に追跡して行くのだが、その結果は先に述べた通りである。

 惡漢の策略に嵌つて死に瀕したが、何とかトントの助けで命を取留めた主人公がギヤング團を追ひかけて行くと、兄嫁の家が先住民に襲はれてゐるのを知つて救出する可く驅けつけたものの、それは原住民の扮装をしたギャング團一味であつた。
 かうして白人社會に先住民を惡い奴らだと思はせる事に成功するのだが、相手をやつける爲に手段を選ばないのはよくある事だとしても、さういふ行爲(かうゐ)をする國家や個人に矜持はないのかと問ひたいが、それも空しく響いて仕舞ふ現實に暗澹となる。

 この映畫はこの他にもどんでん返しが幾つかあつて、一五〇分といふ時間を飽きさせる事なくアツといふ間に本篇は終り、エンデイングのタイトル・ロオルの方が長く感じられるほどであつた。
それとトントの科白では、映畫の宣傳(コマアシヤル)で使はれてゐる、

 「キモサベ」

 は、正直言はれるまで思ひ出す事が出來なかつたが、それよりも、

 「白人嘘つき。インディアン嘘つかない」

 の方が強烈に印象に殘つてゐる。

 この映畫は、發端(オオプニング)がトントの囘想から始まり、お定まりのやうに最後もトントで終るのだが、最終場面(ラストシイン)で年老いたトントが荒野へ消えて行く時、鴉が追ひかけて肩に止らせるといふ演出がなかつた。
 その事だけが殘念でならなかつた。

     二〇一三年八月十二日午前三時過ぎ 店にて記す

 

ある人に答へて

 

 「リメイク」を「文化の停滞という問題」と捉へる視點は、以前にも書いた記憶がありますが、敢て書くと、新しい主人公(キヤラクタア)の英雄(ヒイロオ)を創造して失敗するよりも、リメイクにすれば新しい世代は兔も角、知つてゐる世代の觀客が見込めるので、製作者側の損失(ロス)が少なくて濟むといふのが、さういふものが作られてしまふ最大の理由ではないか、と。

 

TEL 06-6334-2218 午前11時~午前12時30分

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