この音樂を聞きながら作品を鑑賞して下さい。
これは徳沃夏克(ドボルザアク・Dovorak・1841-1904)の
『チェロ協奏曲 ロ短調 第一樂章 作品104』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
映像は豊中市の話題の建設前の、
『森友學園』
の豫定地で撮影したものです。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひです。
ない方が良いといふ讀者はご自由にどうぞ。
第一囘 ムジカバトル
大坂音樂大學
二〇一五年四月十八日の午後1時半から、大坂音樂大學の「F110」教室で、
『第一囘 ムジカバトル』
が開催された。
それに參加すべく、筆者は一時過ぎに音大の校門を潜(くぐ)つた。
『ムジカバトル』とは「音樂と人の合意傳達(コミユニケイシヨン)」を主題(テエマ) とした上で、個々のお薦め曲を意見提示(プレゼンテエシヨン)して、言葉の表現力で聽衆から支持を得て、それが最も多かつた人が優勝者となつて、紹介された音樂(ムジカ)が會場で流れるといふもので、それを以(もつ)て「戰鬪(バトル)」といふ所以(ゆゑん)ともなつてゐるのである。
參加者は伊丹市立高校の學生四人と、音大の教職員三人による都合七人が、自身のお氣に入りの曲の魅力について、體驗(たいけん)談を交(まじ)へながらその理由を披露するのである。
曲目はポツプスからクラシツクまで部門(ジヤンル)は問はず、それこそ何でもありといふ事であつたが、殘念な事に今囘の場合は音大の先生以外にはクラシツクは殆どなかつた。
會場の撮影を久保田先生が受持ち、西村先生の司會で幕は切られて、先づは女子高生が端緒(たんしよ)を開いた。
彼女は、Charisma.cоm(カリスマドツトコム)といふ女性の二人組(デユオ)の、
『HATE(ヘイト)』
といふラツプの曲について語つたが、一人五分の持ち時間を見事なまでにきつちり使つて話を終へ、會場からは「おゝ」といふ響動(どよめき)が起つた。
内容としては音樂よりも歌詞の内容に重點(ぢゆうてん)が置かれてゐて、會場からの質問にもその事に觸れられてゐた。
二人目は男子生徒で、One Direction (ワン・ダイレクシヨン)といふグルウプの、
『Live While We’re Young(リヴ・ウイル・ウイラ・ヤング)』
といふ曲の紹介であつたが、阪神の強烈な支持者(フアン)の家族から一線を劃(くわく)す目的で、本を讀む自分の時間を持ちたいといふ理由から、歌詞の意味に氣が散らないやうにと洋樂の英語の曲を聞く事にしたのだといふ。
後で歌詞を調べて納得するものがあつたと彼はいふが、話を聞く側としては音樂の事よりも阪神に熱狂的な家族の方に話題が攫(さら)はれた感が強かつた。
歌詞に影響されたくないのならば、クラシツクの方を選擇(チヨイス)すれば良かつたのではといふ意見も會場から出されたが、クラシツクへの興味は薄いと思はれた。
三番目は女子生徒で、
『Still(ステイル)』
といふ偶像(アイドル)グルウプの「嵐」の曲について語つた。
けれども、ここでも音樂よりも歌詞に依存した鑑賞を主體(メイン)としてゐる節が強く感ぜられた。
歌詞に重きを置くのは構はないが、それを強調すると文學の鑑賞となつてしまつて、音樂を置去りにしてしまひ兼ねなくなつてしまふので、注意が肝要であらう。
勿論、文學と音樂更に美術も含めた歌劇といふものや、そこまで言はなくても演劇や映畫(えいぐわ)にしても、稍(やや)音樂が伴奏的傾向を帶びるものの、同じやうに總合藝術(そうがふげいじゆつ)の部門(ヂヤンル)として成立してゐるし、況(ま)して歌曲といふものがある以上、音樂と文學の融合といふものは切つても切れない關係にある事は論を俟(ま)たない。
しかしである。
音樂の聞き方としては、多くの人が良い曲だといふ言葉と同等(イコオル)の意味で、歌詞の優秀さを指摘する場面に出交(でくは)す事が頻發(ひんぱつ)するやうに思はれる。
その意味から言へば、叔伯特(シユウベルト・1797-1828)の歌曲などは詩と音樂が見事に調和(てうわ)してゐて、音樂だけとか詩だけが強調されるといふやうな事はないやうに思はれる。
是非、さう言つた鑑賞法も取入れて欲しいものである。
高校生の最後を飾つたのは女子生徒で、意見提示(プレゼンテエシヨン)は、
『 ultra soul(ウルトラ・ソウル)』
といふ「B’z(ビイズ)」の曲について述べた。
何でも彼女は演劇部で、その發表會の時に思つたやうな力が出せなくて、話してゐる内にその事が蘇つたのか、感極まつて涙を見せた。
この時も音樂ではなく、歌詞に勇氣づけられたといふ挿話(エピソオド)に終始して、「音樂と人」の拘(かか)はりといふ主題(テエマ)からは納得させられるものではなかつた。
音樂を聽(き)く態度には、歌詞のない器樂曲(インストウルメンタル)において、行進曲や舞曲のやうに肉體(にくたい)の運動を目的とするものと、演奏會場で椅子に腰かけて鑑賞する二種類があるものと考へられる。
當然(たうぜん)、前者の場合には運動が主で音樂は從となり、後者の時には純粹に音を樂しむ事が主となる。
勿論、その時でも身體(からだ)が自然に音樂に合せて動く事があるので、嚴密に言へば身體(からだ)を動かさない音樂と、さうでない音樂とがある譯ではなく、主と從がいづれかに片寄つてゐるといふだけの事なのであるが、その差は大きいと言はねばならないやうに思はれる。
そこで歌詞に依存する音樂についてもさういふ事が言へ、音樂と詩の融合が優れてゐて、鑑賞者にその兩方で感動が喚起されれば文句はないのであるが、多くの曲は全體的に歌詞の内容の訴求(メツセイジ)性の強い、社會問題や聞き手に訴へたい内容を盛り込んだところに共感を得てゐるやうに思はれ、最後に勝者を決める時に、筆者はいづれにも擧手(きよしゆ)をしなかつた。
理由は、個々の生き活きした體驗談の挿話(エピソオド)ほどワクワクしなかつたからである。
優勝は、最初に紹介されたCharisma.cоm(カリスマドツトコム)の、
『HATE(ヘイト)』
に決つた。
次の第二部は、音大の教職員の番となつた。
一番目は男性の先生の自作(オリヂナル)曲である、
『陽が昇る時』
といふ曲で、自身の曲を自薦といふのは面映いと述べてをられた。
そればかりか、この音樂の聽き處はといふ質問にも、
「こことここ」
といふやうな指摘は出來ようものではないと不滿を述べられてゐたが、これは大賛成で、筆者もお好み燒屋をしてゐて、
「この店で一番美味しいヤツ」
とお客樣から言はれると、
「あなたが欲しいものが一番です」
と答へてゐる。
不味い商品を提供する筈はなく、全て自信を持つて調理してゐるからであるが、それは音樂に於いても變るものではないやうに思はれる。
調べて見ると、
『陽が昇る時』
といふ曲は吹奏樂の爲の音樂で、先生は題名(タイトル)についても一家言(いつかげん)をお持ちのやうで、自分の作品に題名をつけるのを潔しとはしないといふ考へを披歴された。
恐らく、聽衆には純音樂として鑑賞してもらいたいといふ思ひが強いのだらうと推察されたが、繪畫(くわいぐわ)の無題などといふ題名と比較されて、ご自身も、
「無題」
とか、
「作品一」
といふものでも構はないと述べられ、そんな風だからかこの『陽が昇る時』といふ題名も友人につけてもらつたとの事である。
だが、それには筆者は賛成し兼ねる。
凡(およ)そ、制作された作品とといふものは、當初(たうしよ)こそは創作者のものではあるが、それが完成さて発表するのであれば、作品は作者の手から離れるものである。
さうして、ひとたび鑑賞者の前に曝(さら)されれば『題名(タイトル)』が「作品一」では不親切であるばかりでなく、創作者にとつても不便である。
考へても見るが良い、創作家(クリエイタア)が生涯に作品を一つだけしか作らないならば、題名は「作品一」でも問題はないだらう。
さうでない場合でも、例へば個人の氏名が同姓同名だつた時に困つたりした憶えがある事でも諒解されるやうに、全ての作曲者が「作品一」とした時を想像して見れば良いだらう。
或いは、『悲愴』といふ副題を持つ曲だつて知つてゐるだけでも二つもあるし、蕭邦(シヨパン)なんかの圓舞曲(ワルツ)や夜想曲(ノクタアン)などは、作品番号で言はれても曲と一致させるのはそれほど容易ではないやうに思はれるのは筆者だけだらうか。
「作品一」といふ題名が、創作者にとつてはそれで濟むと思つたとしても、聽衆には「作品一」だけでは理解出來ず、創作者の名前でも冠さないとその曲に辿り著(つ)けない。
それは交響曲や協奏曲、絃樂四重奏曲や鍵盤奏鳴曲(ピアノソナタ)といつた種類(ヂヤンル)のものは、作曲者の名前と同時にその曲を見つけるといふ不便に似てゐる。
その意味で、交響曲でも『運命』や『新世界から』といふやうな副題のついたものの方が聽衆には受けが良くて、それは何も歌詞の附いた音樂が歌詞に依存したといふやうな問題と同一視する理由からではないやうに思はれる。
文學の世界でも、俳句や短歌に題名がないやうに題名を附けられるものにも一定の資格がゐるのであるが、その權利とでも言へるものを自ら放棄するのは勿體ないと思ふべきではなからうか。
第一、具象物である繪畫と抽象物である音樂とを同等に述べるには無理があるやうに思はれる。
十九世紀後半になつて機械文明の發達のお蔭で、それまで如何に本物そつくりに描くかといふ技術に躍起となつた繪畫も、寫眞機の發明で具象から抽象へと變化(へんくわ)を餘儀なくされた。
さういふ意味では音樂へと近づいたといへるのだが、それでも音樂の抽象性には繪畫は追ひつけない。
目で見れば納得出來る繪畫と、耳で聽いてなほ抽象的である音樂との違ひは、當然の事に題名といふ形の差で反映されても良い筈ではないか。
本來、名前といふものの目的は特定するといふ事に盡きるのである。
であれば、より解り易く他のものと迷はずに識別出來る方が良いのは當然であらう。
先生の意見を聞きながら、一部は意見(コメント)として述べたが、なほも考へとしては以上のやうな感想を抱いた。
次は女性の先生で、琴の授業を擔當(たんたう)してをられるさうで、紹介する曲は宮城道雄(1894-1956)の、
『水の變態』
といふ邦樂であつた。
この「春の海」で有名な作曲家は、この曲を十四歳で完成させたといふのだから、その早熟振りには驚嘆させられる。
調べて見ると、小學校の教科書に書かれた氣象に關する一節に著想を得たと言はれてゐて、全曲は約十五分ほどの長さで、
「前弾(前奏)・前唄・手事(間奏)・中唄・手事・後唄」
といふ構成になつてゐる。
これからも解るやうに、『春の海』のやうな純然たる器樂曲ではなく、西洋音樂でいふところの歌曲に屬(ぞく)するものである。
更に、この箏曲は獨奏曲として作曲されたものだが、後に二重奏曲としても演奏されるようになつてゐる。
ただ、この曲に對しては他の發表者がCDなどの音源によつて聽くのに對(たい)して、琴による生演奏であるといふ強調(アピイル)は魅力的で他を壓(あつ)してゐた。
筆者はそれだけで、他の人の意見提示(プレゼンテエシヨン)を聞くまでもなく、一票を投じる腹を決めてしまつた。
それほど強烈な(インパクト)があつて、次の男性職員の發表が氣の毒なほどであつたが、こちらの方が納得出來るものであれば、こちらの音樂を推す事に吝(やぶさ)かではない。
『Surrender(サレンジヤア)』
といふMr.Children(ミスチル)の曲が俎上に上つたが、語部(かたりべ)である本人の失戀(しつれん)の時にこの曲が丁度流れてゐて、その歌詞が心情と同調(マツチ)して心が動かされたといふのである。
音樂を思ひ出の美化作用と聞くのは、映畫音樂を聞いてその場面を思ひだすのと同じ行爲(かうゐ)で、映像やある記憶を導き出す爲の二義的なものとして音樂を捉へてゐるもと考へられまいか。
勿論、この思ひでの美化作用の爲だつたり、舞曲のやうな肉體の運動の爲の鑑賞法が、純音樂の鑑賞に比べて劣つてゐるといふ、優劣を決める心算(つもり)は全くない。
ただ、純粹に音を樂しむといふ鑑賞法も身につけておけば、愉しむ幅が廣がるのにと要らざる老婆心を抱いたに過ぎないのである。
結局、教職員の曲で優勝したのは、
『水の變態』
で、總合優勝も手中に納めた。
優勝者には、音大からも何某(なにがし)かの賞が授與(じゆよ)され、
『Surrender(サレンジヤア)』
を熱く語つた音大の職員には話が面白かつたといふか、失戀を慰めるのが目的か、それともその事を正直に公言(カミングアウト)した勇氣を稱へてか、伊丹市立高校からは『イチタ賞(市+伊丹)』が贈られた。
琴の生演奏を聽きながら、提供された心盡くしのお菓子やお茶・ジユウスをいただき、その後も參加者がそれぞれ思ひ思ひの人と歡談をして散會した。
最後に、全曲の題名と演奏者を紹介しておかう。
1、『HATE(ヘイト)』Charisma.cоm(カリスマドツトコム)
2、『Live While We’re Young(リヴ・ウイル・ウイラ・ヤング)』One Direction (ワン・ダイレクシヨン)
3、『Still(ステイル)』嵐
4、『 ultra soul(ウルトラソウル)』B’z(ビイズ)
1、陽が昇る時 高先生
2、「水の變態」片田岡先生
3、「サレンジヤア」ミスチル
以上であるが、全體的に樂しい時間を過せたことを、この企劃(きくわく)をされた音大の先生の方々に感謝をしたいと思ふ。
また、機會があれば出席したいと考へてゐる。
二〇一五年4月二十五日(土)午前三時半 店にて記す
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