深夜12時30分まで營業してゐます

MENU

『空の空(Vanity of vanities)』に就いて 孤城忍太郞(Kozyou Ninntarou)

  • HOME »
  • 『空の空(Vanity of vanities)』に就いて 孤城忍太郞(Kozyou Ninntarou)

 

『空の空(Vanity of vanities)』に就いて

 

 この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。

 これは自作(オリジナル)の

 『Motion1(Another version) 曲 高秋美樹彦』

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。

 映像は豊中市の天竺川にある、

 『墓所』

 へ出かけた時のものです。

 横にある公園の桐の木は見事なものです。

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、

 ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、

 ご自由にどうぞ。

 

 

 

 あれは中学の三年生の時だつたか……。

 誰もが青春時代に罹(かか)る將來に對(たい)する漠然とした不安とかに、人生を儚んで自殺でもして仕舞ひたいといふ甘美な幻想に囚(とら)はれてゐて、だからといつて實際(じつさい)には死を選んだりする事はなく、ただ厭世的(Pessimistic・ペシミステイツク)な氣分に浸(ひた)つて自分が世界の不幸を一心に引受けて、他の人々はそんな事に氣がつきもしないのだと、さう思ふ事で自己滿足といふか、人類への優越感のやうなものを味はふ事で納得して、深刻音痴に陷(おちい)つてゐた。

 それを青春の特權だとでもいふやうに、世界に壓(の)しかかられるやうな重荷を背負つているやうな日々を過しながら、その事を紛らしでもするかのやうに本を讀み漁(あさ)つてゐた。

 何の本だつたか記憶は混濁してゐるが、恐らく活字ではなく漫畫(Comic・コミツク)だつたと思ふが、その中の、

 「空の空、空の空なるかな、空の空」

 といふ文章が、その頃の精神的な麻疹(はしか)に罹つた生意氣な若造の心に妙に響いた。

  

 あれから五十年以上も經(た)ち、世界通信網(Internet・インタアネツト)が普及した社會となつた日々を送るやうになつて、幾つかある内の「SNS (ソオシヤル・ネツトワアキング・サアビス)」の『mixi』に參加する事となつたが、その中の「マイミク」の「つぶやき」の意見(comment・コメント)として、件(くだん)の「空の空」といふ一文を述べた。

 それに對して、

 「真言宗?(原文の儘(まま))

 といふ、さもありなんといふ應答(おうたふ)があり、早速、

 「それは『舊約聖書(Old Testament・きうやくせいしょ)』の、「傳道(でんだう)の書」、第一章の卷頭の有名な文語譯です」

 と應(おう)じると、

 「空の思想が旧約聖書にもあるとは(原文の儘)」

 といふ再度の返事。

 この後、筆者も驚いた記憶があるといふ文章に續けて、

 「日本人の飜譯(ほんやく)の所爲(せゐ)か、また、希臘(Greece・ギリシア)哲學の影響とも言はれてゐる」

 と書込みをした。

 「Vanity of vanity, all is vanity.」

 この文語文譯が、

 「空の空、空の空なる哉、都(すべ)て空なり」

 

くうのくう   くうのくうなるかな  すべてくうなり

♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪♪♪┃γ♪♪♪♪♪♪♪

 

 と言ふ『旋頭歌(五七七五七七)』の半分の『片歌(五七七)』の體(實際には五九五)であり、また道歌のやうな含蓄(がんちく)に富んだ内容に、日本人としては馴染が深くて取附き易く感ぜられたやうに思はれる。

 

 この前二五〇から一五〇年の間に書かれたと推定される舊約聖書の一書である、耶路撒冷(ヱルサレム)の王の大闢(David・ダヴイデ)の子である所羅門(Solomon・ソロモン)の著作とされる「傳道(Copyright・コヘレト)の言葉」は、舊約聖書の羅甸(ラテン)語で、

 「Vanitas vanitatum omnia vanitas.」

 と表記して、『ヴアニタス(Vanitas)』とは「空虚」「むなしさ」を意味する言葉であると言ふところから、別に、

 「虚無の虚無、虚無の虚無かな、虚無の虚無」

 とも言ひ得る事になると思はれる。

 調べて見ると、『傳道の書』とも呼ばれる『傳道(コヘレト)の言葉』は、

 『傳道の言葉・雅歌・哀歌・路得(Ruth・ルツ)記・以斯帖(ester・エステル)記』

 といふ猶太(Judeaユダヤ)教の五つの卷物に含まれてゐる。

  

 十四世紀に教會中心の世界觀を離れて人間性の解放を求めて「希臘(Greece・ギリシア)・羅馬(Rome・ロオマ)」の古典文化を復興し、文藝復興とも稱された『再生(renaissance・ルネサンス)』は「調和・均整」を目指したが、「永遠のなるもの」から「移ろい行くもの」で全てを虚無とする「ヴアニタス」を中心とする十六世紀から十七世紀にかけて誕生した巴洛克(baroque・バロツク)藝術へと移行した。

 巴洛克(バロツク)期には、この「ヴアニタス(虚無)」と、「Memento 

mori・メメント・モリ(常に死を思ふ)」と、「Carpe diem・カルペ・ディエム(生を樂しめ)」という、三つの主題を見出す事が出來、この後には装飾的な洛可可(rococo・ロココ)が待つてゐる。

 この『ヴアニタス』は樣々な豊かな靜物畫の中に、隠喩(metaphor・メタフアア)として死から逃れられない人間の果敢無い定めのである象徴とでもいふ時計や、もつと直截的な頭蓋骨とか、腐つてゆく果物などを配置して、觀る者に虚榮の空しさを喚起する意圖(いと)を示す寓意(allegory・アレゴリイ)として表現されてゐる。

  

 一方で、この「ヴアニテイ(Vanity)」を『空』といふ譯で本當(ほんたう)に問題はないのかといふ氣がしないでもない。

 といふのも、すでに述べたやうに『空』とは「シユウニヤタア(Śūnyatā)」といふ梵語(Sanskrit・サンスクリツト)で、大乘佛教の根幹をなす教へであるから、猶太教の聖書の翻訳に妥當(だたう)と言へるのかと指摘されれば、多少の躊躇(ちうちよ)が生ずるのは宜(むべ)なるかなと思はれるからである。

 けれども、世界は海に隔てられてゐても人の流れを止める事は出來ず、況して思想的な交流がなかつたと本當に言へるのか。

 これは私見であるが、思想や宗教は互ひに影響し合つてゐたと思はれるので、かういふ事もあつたのではないかと考へて納得はしてゐる。

  

 さうかといつて、『空』を『虚無』といふのは構はないが、虚無主義(ニヒリズム)は少しばかり違ふと思ふ。

 凡(およ)そ、羅甸語の「Nihil(無)」に由來する『ニヒリズム(Nihilismus)』思想或いは虚無主義は、一七三三年に獨逸人に用ゐられた言葉であるから、比較的新しい用語であり、さういふ意味からも虚無主義と『虚無』とを同一視するのは賛成出來ないのである。

 にも拘はらず、「mixi」のマイミクの意見(comment・コメント)に、

 「飽くまでも私見ですが、「空」は般若心經」の「空」といふよりも、「nihilism」の「虚無」の方かも知れません」

 とうつかり書いてしまつた事に、慎重さを缺(か)いた表現であつたとしてお詫びしなければならない。

 だが、『空』を『虚無』といふ言替へには問題はないと考へてゐる。

 といふのも、

 「化粧箱」を「ヴアニテイケエス(Vanity case)」と言つて意味深く思つたりしたもんです」

 といふ追加の意見に、事の本質に止めを刺すからである。

 考へてもみるがいい。

 髑髏(どくろ)に化粧をする構圖(こうづ)を想像しただけでも、それが諒解されるであらう。

  

 虚無は、あの暗い心象(image・イメエヂ)のある仏蘭西(France・フランス)よりも、明るく突き拔けるやうな青空の中に漂ふ空虚さが感ぜられる伊太利亞(Italy・イタリア)にこそ相應(ふさは)しいと思はれる。

 嘗て隆盛を極めた伊太利亞映畫(えいぐわ)の中に見出されたやうに……。

 

 

     關聯記事

 

『空』と『無』に就いて

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1343474641&owner_id=25109385

 

霊性への目覺めについて(東日本大震災を契機とする宗教的な私感)

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1723450481&owner_id=25109385

 

 

追記)

これを書かせしめたマイミクに感謝すると共に、

この一文を彼に捧げたいと思ふ。

彼とは松丸 ブディウトモ氏の事である。

 

 

TEL 06-6334-2218 午前11時~午前12時30分

PAGETOP
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.
ツールバーへスキップ