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詩を書く者としての矜恃(きやうぢ) 紫不美男(むらさき ふみを・Murasaki Humio)

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詩を書く者としての矜恃(きやうぢ)

 

 

 この作品を讀む時、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。

 これは佐藤春夫(1892-1964)の詩に自作(オリジナル)の 

 『夏のわが戀 曲 高秋美樹彦』 

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。 

 映像は繼母(はは)の郷里の三重懸度會郡の、 

 『古和浦』 

 へ出かけた時のものです。  

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、

 ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、

 ご自由にどうぞ。

 

 

 詩人であるかどうかを判斷するのは、本人の申告によるものではないのかも知れない。

 けれども、まづ當人(たうにん)が名乘らなければ事は始まらないのではないか。

 問題は、自身が詩人として作品を發表しても、それを鑑賞者である讀者が納得出來なかつたり、詩らしきものを提示したところ、運よく讀んだ人達から發表者の意嚮(いかう)とは異なつて、詩人として歡迎されされたりするといふ事があつたりする。

 この兩者の思惑が一致して、首尾よく詩人と認定される幸運に惠まれる事は、極めて稀である事が問題をややこしくしてゐるのではないかと思はれる。

  

 白状すれば、筆者も幾つかの拙い作品を發表して、詩人らしき存在として仲間の内に加へてもらつてゐると思つてゐるが、正直、自信がある譯ではない。

 それといふのも、賣文(ばいぶん)によつて生計をたててゐる譯ではないといふ事が、精神的には大きな障碍(しやうがい)となつて、謂(い)はば、自稱詩人といふ立場でしかないといふ自覺となつてしまつてゐるやうに思はれる。

 それは言換へるならば、職業(プロフエツシヨナル)として成立してゐないといふ事とも関係してゐるが、けれども、それならば職業(プロ)とは何かといふ問ひに答へなければならないやうな氣がする。

  

 一體(いつたい)、職業(プロ)であるといふ事と好事家(デイレツタント)である事との間にはどのやうな差があるといふのだらうか。

 そこに介在するのが金錢による収入だけだといふのならば、話は簡單である。

 だが、詩を書いてはゐるものの、それを生計(たつき)として行ける程の金額の見返りがない場合、他の職業に頼つて暮しを支へてゐるとした時、それでもプロの詩人と呼べるのかといふと、どうなのか。

 この場合、職業(プロ)と愛好家(アマチユア)との違ひがあるとは思はれないのではないか。

 或いは若い時分には詩を發表してゐたが、高齡になつて廢業同然の状態であつた時、元詩人とでもいふ可きなのか。

  

 こんな話を聞いた事がある。

 ある人が店に来て、

 「この料理はプロとして駄目だ。少なくとも私は認めない」

 と言ひ、その人物は以前は店を構へてゐた同業者で、今は店を疊んでゐるが もつと接客を含めて料理に誇りを持つてゐたといふのである。

 しかし、これは可笑(をか)しな話で、確かに店を經營してゐた時はプロかも知れないが、どんな理由があつたかは不明だからその事は問はないにしても、現在はさうではないのだから、客としての意見ならば兔も角、プロとして失格した者からの苦言(クレエム)を受附ける理由は見出せない。

  

 凡(およ)そ、經營者としての資質と料理人としての技術とを同等に扱ふ事は出來ず、店を破綻に追ひ込んだからといつて、その理由を料理が不味(まづ)かつたからだとは一概にいへない。

 それは美味しい料理を提供したいが爲に、採算を度外視して食材を揃へたので店が傾いたといふ事も考へられるからである。

 とはいへ、それなりの調理の腕があるならば、高級な食材を使へば料理を美味しく出來る確率は格段に上昇(アツプ)するのは理の當然(たうぜん)であらうから、食材に見合ふ價格で客に提供出来ず、調理さへ出來ないといふのであれば、經營者としても料理人としても失格だとはいへまいか。

  

 とすれば、いづれにしてもプロとは呼べないやうな氣がする。

 その人物は、現在、同じやうに料理人として雇はれながら生計を立ててゐるのか、それとも全く別の職業で生活を支へてゐるのかは聞かなかつたが、別の職業ならば料理人は休業中で、雇はれながらも料理人として生きてゐたならば、自分で經營してゐた時よりも純粹に料理人らしく存在し得たと言へるかも知れない。

 プロであるかどうかといふ事は、ことほど左樣に判定が難しいものだと思つてゐる。

 さういふ事なので、筆者はどうなのかといふと、プロかさうでないかといふ事は大きな問題であるとは思はれず、愛好家(アマチユア)でも構はないから何か獨(ひと)り善(よ)がりではなく、何か自己滿足の世界とは一線を劃(くわく)した境地のやうなものがあつて、そこの住人としてゐられればといふ願望に近いものがある。

  

 良い詩人の條件(でうけん)として、筆者は鑑賞眼があり、しつかりとした批評の文章が書ける事だと思つてゐる。

 ところが、批評の文章は鑑賞する能力を磨けばそれなりのものが書けると思はれるが、鑑賞眼はさうは容易(たやす)く養(やしな)はれるとは考へられない。

 優れた詩人は、創作する能力と共に、それ故にこそ觀賞能力にも長(た)けてゐるものだらうが、その爲には、表現とは何かを自ら考察する能力を手中に納めなければならないものと思はれる。

  

 そこで、筆者にはどうしても納得出來ない詩が幾つかある。

 そのひとつが、三好達治(1900-1964)氏の第一詩集『測量船』で發表された「雪」といふ作品である。

 

   太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。

   次郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。

 

  た ら う をねむらせ  た ら う のやねに  ゆき ふりつむ

C♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪♪♪ζ┃

 

  じ ら う をねむ らせ  じ ら う のやねに  ゆき   ふりつむ

C♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪ζ♪♪♪♪┃

 

 この「八音七音六音」といふ二聯(にれん)の詩に、何を感ずればいいのか。

 この詩を前にした時、この詩が理解出來なければ詩人としての價値(かち)を證明(しようめい)出來ないのだと言はれてゐるやうで、筆者は呆然(ばうぜん)と立盡(たちつ)して仕舞ふのである。

  

 拍子(リズム)としては、發句(ほつく)の上句(八音)と下句(六音)の字餘りといふ事で解決が著(つ)くが、一聯としての完成度はと見ると、季語としての雪はあるものの發句ほどの充實さは見受けられない。

 それは「たらう」といふ固有名詞がある事で、それへの説明が小説のやうに餘裕がないので不足してしまふからである。

 この男の子は何歳で、どんな家庭環境に育ち、どんな性格なのか、兩親はゐるのか片親なのか、それとも兩親がゐなくて祖父母に育てられてゐるのか、それさへゐないので施設で育つてゐるのか、などと想像は取留めもなく廣がつて、何を傳へたいのか身に迫つて來ない。

 同じ固有名詞でも「富士山」ほどの普遍性は、「太郎」にはあるとは思はれない。

  

 であるのにこれが二聯もあつて、その二聯目も「次郎」といふ固有名詞で語られてゐる。

 統一感はあるだらうが、兄弟でもあるまいに「太郎」と「次郎」では同じ屋根の下に暮してでもゐさうな表現となつてしまつてゐて、これでは二聯にした意味がない。

 それならば、もう一聯増やして何かを傳へるとか、さうしないのであれば「太郎」と「次郎」といふ名詞に普遍性を求めたのならば、「次郎」を「花子」にでも變(か)へて、男女の名前にする事でせめて普遍的な子供といふ世界を展開させるといふ手段もとれた筈である。

  

 但し、さうすると「太郎」や「次郎」の時ほどの緊張感を「花子」には望み得ない。

 「花子」だと男女といふ公平性と、子供は男子だけでなく女子も屋根の下に眠つてゐるのだといふ温もりが傳へられるが、「花子」は「太郎」と對(つい)となつても滑稽味の方が強く感ぜられてしまふと筆者には思はれ、「次郎」を「花子」に變へた効果は減じられて、痛し痒しといふ鹽梅(あんばい)となつてしまふのである。

 その事は詩を書く者として筆者にも理解出來たので、「花子」といふ固有名詞を選擇せずに「次郎」を採用したのであらうと忖度(そんたく)は出來るが、出來るからといつて詩としての完成度が達成されたとは考へられない。

  

 短詩形の作品は、發句も含めて獨善的になり易い。

 さうして、何かを含めたやうな表現が出來るのも短詩形の特徴であるかと思はれる。

 この『雪』といふ作品も讀者の想像に寄りかかつた表現ではないかと、筆者には思はれてならない。

 桑原武夫(1904-1988)氏の『第二藝術論』を批判した筆者としては面映いが、彼の意見(嚴密には彼の提唱した事ではない)に從へば、この作品が高名な三好達治氏の作品でなかつたならば、若しくは彼の名前を知らない人が讀んだとしたら、これ程の評價を得たかどうか解らないとは考へられまいか。

  

 筆者には、子供が眠る家の屋根に雪が降るといふ表現に、どれだけの想像を膨らませ得たとしても、そこから先の空想は讀者の勝手でしかないと思つてゐる。

 そこには、丁度、映畫(えいぐわ)に子供や動物を登場させて感涙を絞らせるといふ、あざとい演出のやうなものを讀取つてしまふのである。

 さういふ考へに毒されてしまつてゐると言はれればそれまでであり、これを以て、詩人としての能力に缺(か)けると言はれるならば、筆者は甘んじてそれを受ける心算(つもり)である。

 

 

二〇一五年五月十五日(月)午前11時四十分 自宅にて記す

 

 

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