置き布袋
この作品を讀む時、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
これは自作(オリジナル)の
『Motion1(ピチカアト・Pizzicato) 曲 高秋 美樹彦』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
映像は四國の徳島懸にある、
『大歩危・小歩危』
へ出かけた時のものです。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、
ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、
ご自由にどうぞ。
∫
ある雨の降る日の事で御座います。
その雨は前の晩から降り續いて、重苦しい雲に覆はれた一日でしたが、夕方になつてみゆきちやんが、
「布袋さんが! 店の前の布袋さんが……」
と慌てふためいて告げに來ました。
店で食後の珈琲を飮んでゐた私は、何をそんなに慌てふためく事があるのかとでもいふやうに、
「世の中に驚くやうな事なんてありませんよ」
と言ひながら、徐(おもむろ)に店先に向ひました。
「だつて、ほら!」
みゆきちやんは指先どころか、その腕まで何度も振りながら店の入口の横にある布袋樣の、更に横にある長細い花壇の花と花の鉢植ゑの間を指し示して、早く見るやうにに私を促(うなが)すのです。
やれやれといふ思ひでそこを見ると、なんと布袋さんが坐布團の上に鎭坐(ちんざ)在(まし)ましてゐるではありませんか。
一體(いつたい)誰が……。
私は思はず心の中で呟きました。
「ねツ!」
みゆきちゃんが、どうだといふやうに私の顏を覗きに來ます。
むツとしながらも、私はこれでは驚くのも無理はないと思ひながら、
「本當(ほんたう)だ、眞逆(まさか)こんなものがあるなんて」
と負惜しみのやうに肯首(うなづ)きました。
とは言つても、誰に負けたといふ譯ではありませんから、この布袋さんを置いたのは誰なのかといふ疑問の方に話題は移つて行きます。
勿論、私に心當(あた)りはありませんし、驚いて私に告げたみゆきちやんでない事は誰が考へても納得できます。
態(わざ)と驚いて、私を揶揄(からか)ふといふ藝當(げいたう)は、みゆきちやんに出來よう筈がありません。
「誰何だらう?」
今度は、晝(ひる)の十一時から夕方の五時まで店を擔當(たんたう)してゐる長女に、件(くだん)の布袋さんの事を聞いてみる。
「えツ! 嘘~ツ?」
長女は店の前を通つて出勤して來るにも拘はらず、その事實(じじつ)に全く氣がついてはゐなかつたのです。
「こんな事ツて、あるんだらうか」
店の全員が、新しい布袋さんの前で首を傾(かし)げます。
以前から置いてあつた布袋樣は、いつのまにかこの店の象徴(シンボル)にまでなつて仕舞つて、子供や親子連れの家族が布袋さんの頭を撫でる姿を頻繁に見かけてゐましたが、最近では通りがかりの大人達までもが、周りに人影のないのを確かめるやうにして、こつそりと頭を撫でる人が現れるまでになつて、最早、知る人ぞ識るといふ名所の域にまで達さうかといふ名物の布袋樣なのです。
その上、撫でるのはもう頭だけではなく、自分の惡い部分が直るのを祈りでもするかのやうに、それぞれが思ひ思ひの身體(からだ)の一部をさすり出すやうになつてゐるやうなんです。
尤も、髪の毛を求める方にはこの布袋樣はお役には立てませんが……。
それにしても、「藁稭(わらしべ)長者」や「笠地藏」といふ御伽噺(おとぎばなし)のやうな不思議な出來事がよくぞ起きたものです。
これはもう、誰がそれを置いたのかといふ理由や、その犯人を探すといふ事は無意味ではないかと思はれます。
それよりも、差詰めこれは笠地藏ならぬ、『置き布袋』とでもいふ可きだと納得する出來事でしかないのでせう。
ただ氣がかりなのは、これを機に布袋樣が仲間を呼び寄せて、次々に増えて行かないだらうかといふ事でした。
家にあつても、捨てるに捨てられずにゐる樣々な布袋さんを所藏する人々が、我先にと奉納でもするかのやうに、
「これは有難い」
と、こつそりと置いて行つて仕舞ふのではないかといふ事です。
けれども、安心したら良いのか、がつかりす可きなのか。
あれから二箇月以上は經ちましたが、まだ新しい布袋さんが増える氣配は見せてゐないやうです。
二〇一五年五月二十一日(木) 朝五時半 閉店後の店にて記す
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