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2015年 炎帝(Fire Emperor) 近江不忍(あふみのしのばず・Oumino Sinobazu)

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2015年

炎帝(Fire Emperor)

 

五月六日

 

   そよ風や言はれるままに夏立ちぬ 不忍

 

 そよかぜや  いはれるままに なつたちぬ

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 暦は人間が生活し易いやうに自然を分割したもので、主(おも)に人類の最初の職業でもある農耕と漁業と狩獵(しゆれふ)の爲に作られたものであらうと考へられる。

 けれども、ひと度(たび)制定されると、それは人間の意志を放れて暦の示されるままに、季節は意思を持ちでもしたかのやうに、我々の前に出現する。

 言はれるままに春夏秋冬が過ぎ、一年が經(た)つて正月が來、あつといふ間に十年をひと昔としてしまふ。

 人生の目的を探しながら、稍(やや)もすると迷路に迷ひ込んだ時、區切りとしての指針ででもあるかのやうに、自分の立ち位置を教へてくれる暦。

 自分には病氣や災難などがなければ、生れてから何年の月日が經ち、あと何年殘されてゐるのだと……。

 

 

五月七日

 

   遙々とまた來た夏をやり直す 不忍

 

 はるばると  またきたなつを  やりなほす

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 初案は「遠く來てまためぐる夏のやり直し」であつた。

 いづれにしても、生きて來て何十囘と繰返して迎へた夏に今年も出逢へた。

 本當(ほんたう)にやり直す事なんて出來ない事は、理解してゐる。

 生きてゐるといふ事の基本は、一囘切りの勝負である。

 やり直しと思つてゐるのは、さう思ひたいだけなのである。

 けれども、死ぬやうな失敗でなければ、さう思はずにはゐられない。

 やり直せるんだと……。

 

 

五月八日

 

   朝の雲に夏を隱して風渡る 不忍

 

 あさの くもに   なつをかく して かぜわたる

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 休み明けの金曜日であるが、今日は朝の九時から繼母(はは)の病院の送迎の運轉手をした。

 窓を全て開け放して新御堂に車をすべらせると、青い空に浮ぶ雲が日中の暑さを隱しでもするかのやうで、窓から入つてくる風が心地良かつた。

 今日も暑いのだらうなといふと、

 「晝(ひる)は二十六度になる」

 と妻が答へる。

 「夏やもん、性がないわ、賢ちやん」

 と、繼母(はは)も會話に參加。

 入院はしなくてもいいのだらうか、とぼんやり考へるともなく運転してる間に病院へ到着(たうちやく)した。

 

 

五月九日

 

   空氣さへまとはりつかぬ青時雨 不忍

 

 くうきさへ  まとはりつかぬ あをしぐれ

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 初案は「朝方の過ごし易さや夏の雨」と詠み、それから「目覺めても服纏はらぬ夏の雨」となり、「寢床から服纏はらぬ夏の雨」でも納得出來ず、更に「服さへも纏はらぬ朝の夏の雨」と詠んで見て最終案となつた。

 今朝方は目が覺めても汗ばんでゐず、氣持の良い覺醒感であつた。

 それもその筈で、窓硝子の目隱し(ブラインド)越しに見える表の樣子は、いつもと違つて薄暗く雨が降つてゐるとすぐに判つた。

 『青時雨』とは夏の雨の別稱で、他に「緑雨」とも云つて、どちらにしようか迷つたけれども、朝の灰色の空模様からはこちらがピツタリだと思つた。

 

 

五月十日

 

   我が繼母に分け隔てなく贈る妻 不忍

 

 わがははに  わけへだてなく おくるつま

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 五月の第二日曜日は『母の日』である。

 さうなる前の一九三一年頃は、三月六日を『母の日』としてゐた。

 やがて、一九三七年には五月八日となつたが、一九四九年に亞米利加(アメリカ)に倣ってこんにちの五月の第二日曜日に行はれるやうになつたのだといふ。

 けれども、その切掛けをつくつたのは女性宣教師たちの熱心な働きかけがあつて、定著(ていちやく)して行つたのだといふ。

 『母の日』は世界中で祝はれるが、その起源も樣々で日附も異なり、歐羅巴(エウロツパ)の特に英吉利(イギリス)では、十七世紀を起源とする基督(キリスト)教暦の四旬節(レント)期間の第四日曜日(復活祭の三週間前)の奉公中の子供達が年に一度、教会で母親と面会出来る移動祝日である「マザリングサンデイ」が起源とされる。

 亞米利加(アメリカ)では一八七〇年の南北戰爭終結直後に、夫や子供を戰場に送るのを今後絶對に拒否しようと「母の日宣言」を發し、敵味方を問はず負傷兵の衛生状態を改善するために「母の仕事の日」と稱して活動したといふものの、それを唱へた女性活動家の死後に娘が亡き母親を偲んで、教師をしてゐた母の教會で記念會を催し、白い麝香撫子(カアネエシヨン)を贈つた。

 これが母の日にその花を贈るのが一般的となつた起源とされる。

 ただ、白い色は亡き母親の爲で、普通は紅い色を贈る。

 晝食(ちうしよく)に繼母(はは)を店に呼んで、一緒に食事をして祝つた。

 父が亡くなつて十年になるが、殘された繼母(はは)の面倒を、みゆきちやんは笑つて對應(たいおう)してゐて、その自然な樣には頭が下がる。

 筆者のにとつては四番目とは言へ母親には違ひないのだが、妻には與(あづか)り知らぬ事である。

 それを自分の母親ででもあるかのやうに接してくれる。

 筆者からすればいふ事はないが、岡山にゐる自分の母親へはどうなのかと氣にかかるので聞いてみると、

 「近い内に歸るから、その時にと電話してある」

 のだといふ。

 因みに、濠太剌利(オウストラリア)では「菊の花」を贈るのださうである。

 

 

   もとの名をみごと隱すや四迷の忌 不忍

 

 もとのなを   みごとかくすや しめいのき

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 五月十日は『母の日』とは別に、文豪二葉亭四迷(1864-1909)の忌日である。

 本名を長谷川辰之助といふが、その筆名(ペンネエム)程には知られてゐない。

 その筆名も、文學に理解を示さなかつた父に言はれたというの俗説ではなく、坪内逍遥(1859-1935)の名を借りて出版した處女作の『浮雲』に對する自身の卑下から、 「くたばって仕舞へ(しめえ)」

 と罵つた事によると言はれてゐる。

 彼は『言文一致體(げんぶんいつちたい)』を實踐(じつせん)した事でも有名で、それは明治期まで文章は文語文で表記され、日常に用ゐられる話し言葉とは一線を劃(くわく)してゐた。

 文體としての文語は、中世以降から次第に話し言葉(パロオル)との乖離(くわいり)が大きくなり、明治時代になつて文學者の間から文語文ではない書き言葉(エクリチユウル)として、日常に用ゐられる口語體で文章を書くといふ「言文一致」の改革運動が起つた。

 その言文一致の小説として『浮雲(1887)』が知られるが、落語家の初代三遊亭圓朝の落語口演筆記が參考になつたといふ。

 中でも、山田美妙(1868-1910)の「です・ます」調は日本語表現の可能性を廣げたと言はれてゐるが、一般に言文一致の口語體の文章が時代の主流になつたのは、昭和初期からだと言はれてゐる。

 

 

筆名(ペンネエム)に就いて

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1350269532&owner_id=25109385

 

 

五月十一日

 

   ふらんすを夢見ついまは亡き朔太郎 不忍

 

 ふらんすを  ゆめみつ いまは なき  さくたろう

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 五月十一日は『朔太郎忌』である。

 日本近代詩の父と稱(しよう)される萩原朔太郎(1886-1942)は、長男で朔日(ついたち)生れである事から命名された。

 詩人としては珍しく、マンドリンを演奏したり音樂會や歌劇(オペラ)を愉しんだといふが、そこから「詩と音樂の研究會」を開く程だから、彼の詩には音樂性が高いと言はれてゐるが、擬音(オノマトペ)の扱ひをさう言つてゐるやうに思はれるので、筆者は音樂性といふ表現には異議を唱へたい。

 「現歌壇への公開状」を切掛けに論爭になる程に短歌を愛し、與謝(よさ)蕪村(1716-1784)や松尾芭蕉(1644-1694)など俳句にも一家言(いつかげん)を持ち、『郷愁の詩人與謝蕪村』といふ著書もある。

 室生犀星(1889-1962)とも親交が深く、詩人としての價値はいづれも高く評されればと思ふが、最近は大學出の人でさへその名を知られてゐない爲體(ていたらく)となつてゐる。

 『詩の原理』といふ名著はもつと讀まれる可きではないか。

 

 

     旅上 「純情小曲集」より

 

ふらんすへ行きたしと思へども

ふらんすはあまりに遠し

せめては新しき背廣をきて

きままなる旅にいでてみん。

 

汽車が山道をゆくとき

みづいろの窓によりかかりて

われひとりうれしきことをおもはむ

五月の朝のしののめ

うら若草のもえいづる心まかせに。

 

 

寂しき春 室生犀星 抒情小曲集より

 

 

五月十二日

 

   降る雨に暗さ匂ふやジヤスミンの 不忍

 

 ふるあめに   くらさにほふや  ジヤスミンの

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 朝から雨が降つてゐて、時に明るくなる事はあるが急に激しく降りだし、結局は一日中雨だつた。

 「茉莉花(まつりくわ)」とも「素馨(そけい)」とも言はれる「耶悉茗(ジヤスミン)」は、モクセイ科ソケイ属の植物で、芳香を放つ花は香水やお茶の原料として愛用されてゐる。

 店の近くを通ると、降る雨に花の芳香が封じ込められて邊(あた)りに漂つてゐた。

 

 

 

五月十三日

 

   暗き部屋に最後の客の牡丹散り 不忍

 

 くらき へやに  さいごのきやくの  ぼたんちり

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 初案は「暗き部屋牡丹を客に獨り言」であつたが、氣に入らないので推敲した。

 調べると、『牡丹』はボタン科ボタン属の落葉小低木で、

 「富貴草・富貴花・百花王・花王・花神・花中の王・百花の王・天香國色・名取草・深見草・二十日草(廿日草)・忘れ草・鎧草・ぼうたん・ぼうたんぐさ」

 などと多数の別稱を持つてゐて、その呼名の多さが人々に愛された事の證明(しようめい)ともなつてゐる。

 咲く順番でもあるといふ、

 「立てば芍藥、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」

 は女性の美を形容した慣用句も有名であり、牡丹と芍藥の違ひは樹木と草の差であるといふ。

 我が店を訪問された方々が去り、深夜になつて誰もゐなくなつたと思つたら、最後に鉢植の牡丹がはらりと散つた。

 まるでそれが最後の客ででもあるかのやうに……。

 

 

五月十四日

 

   緑雨なれど生きてこの世は終へられず 不忍

 

  りよくう なれど   いきてこのよは  をへられず

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 『緑雨』とは新緑の頃に降る雨の事で、別に『翆雨(すいう)』ともいふが、こちらは歳時記に採用されてゐない。

 このところ自身もふくめて病院へ出かける事が多くなつた。

 さういふ年代だといはれればそれまでであるが、不取敢(とりあへず)、筆者自身の病状は安定してゐる。

 けれども、親戚が入院して放射線治療を受けてゐる上に、また別の親戚が重篤な病状だといふ報せを受けてゐた。

 店が休日だから見舞ひに出かけやうとすると雨が降り出して、重々しい氣分の中、一方は面會禁止だとの事でその病院の前を通過して、別の病院まで車を走らせた。

 あらかじめ電話で行く事を傳へてゐたので、病院にはその家族が待つてゐて、たつた今、藥を投與(とうよ)したところだからと待合室で病状を聞いた。

 直接面會すると會話をしようとするので、患者が息苦しくなつて容體(ようだい)にもかかはるからと、眠るのを待つてから寢姿と對面するのがやつとの状態であつた。

 見てゐるこちらが息苦しくなつてしまふ程である。

 病院の部屋の窓からは、樹木の緑を慈しむやうに濡らして降る雨が見えるが、病人には慈雨となる事はない。

 病院を出ると、車が流れるやうに往來(ゆきき)してゐる。

 世の中は何事もなかつた、とでもいふかのやうに……。

 

 

五月十五日

 

   降る雨は夏を溶かすや路地の闇 不忍

 

 ふるあめは   なつをとかすや  ろぢのやみ

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 今日は、「今日の一句」をどうしようかと思ひあぐねてゐた。

 夕方から店が混み始めて晩飯を食べたのは普段から遲れる事三時間の九時を廻つてゐたので、眠るのも儘ならず、十時過ぎに寢たと思つたら十二時前に携帶電話の呼び出しで目を覺ました。

 重い体を引摺りながら階下の店へと降りて行くと、勝手口の戸の外には雨の降るのが見えた。

 だが、まだ何も句は浮ばない。

 今日こそはもう駄目かもしれないと思つた時、

 「夜を溶かして」

 といふ言葉が突いて出た。

 直ぐに「降る雨が」と上句をつけたが、季語に困つた。

 そこで最終案となつたのである。

 これで今日も何とか一句が出來、お蔭で過ごし易い夜となつた。

 

 

五月十六日

 

   晴れたかと思へば雨の薄暑かな 不忍

 

 はれたかと  おもへば あめの はくしよかな

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 このところ雨が降つたかと思ふと晴れたりして、天候が安定してゐない。

 その所爲(せゐ)でもあらうか、本格的な暑さまでにはなつてゐず、歩いたりなどの鳥渡(ちよつと)した運動をすれば汗ばむといふ程度の時期であるが、初夏の頃のそんな感覺を『薄暑』といふ。

 別に『輕暖(けいだん)』ともいふと辭書(じしよ)にあるが、季語としては明治の頃には定著(ていちやく)してゐたとの事である。

 

 

五月十七日

 

   陽は降りて人の慕ふや夏木立 不忍

陽は降りて人の慕ふや夏木立 uvs150518-001

 

  ひはふりて   ひとのしたふや  なつこだち

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 日曜日は地域の連合會の催しのスポオツハイキングで四粁(キロ)を歩いて、出發點(しゆつぱつてん)の高川小學校で酒や麥酒、カレエや燒肉及び燒鳥が待つてゐるのを樂しみに、朝の九時から集まつてゐた。

 勿論、子供達には果汁(ジユウス)やお菓子も配られるので、大勢の家族がやつて來た。

 相不變(あひかはらず)、筆者は撮影班(そんなものはないので勝手に名乘つてゐるのだが)として參加したが、天氣も良かつたので汗をかきながらの撮影となつた。

 

 

五月十八日

雨に烟る見慣れたはずの夏の街 002

 

   雨に烟る見慣れたはずの夏の街 不忍

 

 あめに けむる  みなれたはずの なつのまち

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 第三月曜日は『アミイユ豐中庄本』で發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』があつたので、一時過ぎに店を出た。

 いつもは徒歩で小一時間をかけて行くのだが、今日は午後から雨が降るといふので、自轉車ででかけた。

 今日は季題を設けず、皆の書留めた作品を鑑賞してから添削をした。

 少し時間が伸びて一時間半で終へ、建物を後にするとポツポツと雨が降り出した。

 慌てて酷くなる雨脚の中を、店へ急いだ。

 幸ひにも輕く濡れただけで濟んだが、昨日からの睡眠不足で疲れが溜つたのか、店の二階で横になつてゐると、來客が混んで來たといふので店に出る。

 八時過ぎに夕食を濟ませて、今度は本當に寢なければと二階に行つた。

 今度は酒精(アルコオル)の力を借りたので、すぐに眠つてしまつた。

 十二時前に起されて階下に下りると、雨は激しさを増して降つてゐた。

 その所爲(せゐ)で店は暇(ひま)で、雨の降る表通りを眺めると、いつもとは違つた街竝に異邦人(エトランゼ)にでもなつたやうな氣分であつた。

 

 

五月十九日

 

   夏の庭にまた咲き初むる七變化 不忍

 

 なつの にはに   またさきそむる しちへんげ

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 初案は「ランタナの咲き初めたる夏の庭」であつた。

 それでも解るやうに、『七變化』とはランタナの和名であるが、一般には「紫陽花(あぢさゐ)」を意味する事の方が多い。

 調べると、七變化(ランタナ)は學名を「Lantana camara」といつてクマツヅラ科の常緑小低木で、果實(くわじつ)は鳥が食べて種子を散布するが、種を噛み砕く傾向の強い哺乳類には有毒だと言はれてゐる。

 以前にも書いた事があるが、侵略的外來種の世界最惡(ワアスト)百に選らばれてゐるさうである。

 けれども、その名が示すやうに「赤・橙・黄・白」の花が次第に變化(へんくわ)をし、見た目も紫陽花に似てはゐるものの全く別種で、花の色は鮮やかであるが全體的に小さくて、咲いてゐる期間も長く、それ故に季語にも採用されてゐない。

 初夏から初冬まで人の目を愉しませてくれるこの花を、筆者はとても氣に入つてゐる。

 

 

五月二十日

 

   陽は降りてやがては雨の宵涼し 不忍

 

 ひはふりて  やがてはあめの よひすずし

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 『涼し』はいふまでもなく夏の季語で、暑い中で感じる涼しさには、

 「涼・涼氣・涼味・涼意」

 などがあり、音感とか視覺から受ける水の流れや木陰とか雨や風を身に受ける自然からのものや、風鈴といふものからの涼もある。

 また別に、

 「朝涼・夕涼・晩涼・夜涼・宵涼し・涼夜」

 といふ言葉もあるが、

 「新涼・初涼」

 は秋の涼でそれとは區別される。

 日中は暑かつたけれども、夜の八時過ぎになつて激しく雨が降り出した。

 その雨は雷をともなつてゐたので騷然としたものではあつたが、一氣に大氣が冷えて涼を呼んだ。

 

 

五月二十一日

 

   月消えて部屋著に酒と冷奴 不忍

 

 つききえて  へやぎにさけと ひややつこ

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 二十一日は二十四節氣の第八に當(あた)る『小滿(せうまん)』で、『暦便覧』に

 「萬物盈満(ばんぶつえいまん)すれば草木枝葉繁る」

 と記されてゐ、西洋占星術では雙兒(ふたご)座の始まりだといふ。

 十八日が「朔」だつたので、夕方の空に細い新月が見える。

 今日は休日なので何處にも出かけずに、久し振りに家でのんびりした。

 思ひの外、過ごし易い一日だつた。

 

 

五月二十二日

 

   雲を背負ふビルの狹間に田を掻きて 不忍

 

 くもを せおふ   びるのはざまに たをかきて

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 『田を掻きて』とは『代掻(しろか)き』の事で、辭書(じしよ)によれば、田植ゑの爲に田に水を入れて土壌を掻き均(なら)す作業の事であり、夏の季語となつてゐて、別に、

 「代掻き・田掻く・田掻馬・田掻牛・代馬・代牛」

 といふやうに昔は牛や馬を作業に使つてゐたが、今では機械の拖拉机(トラクタア)に取つて代られてゐる。

 店に行く途中の裏道にある田圃が蓮華畑だつたのに、いつの間にか田を掻いた状態になつてゐた。

 雲が夏を教へてゐるやうだつた。

 

 

五月二十三日

藥飮む夏の身にせめて 002

 

   藥飮む夏の身にせめて淺蜊飯 不忍

 

 くすりのむ   なつのみに せめて あさりめし

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 幕末の剣客、浅利又七郎義明(1822-1894) は少年時代、淺蜊賣(あさりう)りをしてゐたといはれたが、健康食品として知られる蜆(しじみ)程に効能が言はれる事のない『淺蜊』は、貝塚などから數多く出土するぐらゐに古くから食用とされてゐたといひ、調理には剥身でない場合は砂拔きを要する。

 濾過攝食の水質淨化の機能があるので、干潟などの再生事業に役立つとも言はれるが、移動しないという生態が災ひして貝毒が蓄積されので食中毒の危険性もある上に、アノイリナアゼといふビタミンB1を破壊する酵素があるので、生食には向いていないとも言はれてゐるさうである。

 『淺蜊』は季語としては春である。

 『淺蜊飯』は別に「深川めし」とか「深川丼(ふかがはどん)」ともいふが、貝類と葱などの野菜を煮込んだ汁をご飯に掛けたものと、炊込んだものとがあるやうだ。

 元は江戸深川邊(あた)りで採れた馬珂貝(ばかがひ)を用ゐてゐて、明治・大正になつて淺蜊を使ふやうになつたといふから、それほど古いものではないやうである。

 中國の『藥食同源』といふ言葉から生れた『醫食同源(いしよくどうげん)』は日本の造語で、今では逆輸入されてゐるといふが、食事を均衡(バランス)よく攝取する事で病氣の豫防と治癒を兼ねようといふ思想である。

 『醫』は、略字の「医」の正字である。

 病氣を治すのに呪術をつかつたといふ意味を「医」と「殳」が表し、「酉」は藥酒を使つた處から生れた文字であるといふ。

 妻、みゆきちやんの思ひを有難くいただいた。

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五月二十四日

 

   風凪げど夏とは言へぬぽつねんと

 

 かぜなげど  なつとはいへぬ ぽつねんと

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 初案は「風凪いでなほ夏はなし獨り部屋」であつたが、まだ足りないといふ感が強くて改めた。

 今日は雨が降つても可笑しくないやうな天候だつたが、つひに雨を見る事はなかつた。

 深夜に店で來客を待つてゐると、風もないのに暑いといふ感じがしないどころか、汗ばむ氣配さへない。

 しつとりと夜に包まれてゐるやうな感覺は、とても氣に入つてゐる。

 

 

五月二十五日

 

   歳も近く盛といふに夏に逝く 不忍

 

 としも ちかく  さかりといふに なつにゆく

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 親戚の、次女の婿の父親が亡くなつた。

 かういふ日が近々に來るとは思つてゐたが、いざさうなつてみると言葉が出ない。

 初案は「夏の日や盛りといふに同輩は逝く」と調子は亂(みだ)れる。

 更に「歳近き人や夏も盛といふに獨り逝くや」と整ふ樣子さへ見せない。

 これではと「歳近く盛といふに逝くや夏」と詠むも、「夏逝く」といふ夏の終りの句と錯覺(さくかく)させて仕舞ひ兼ねない體(てい)となつたので、鯔(とど)の詰りとして最終案となつた。

 親戚附合ひをして十八年ほどでしかなく、往來(ゆきき)も頻繁といふ事はなかつたが、それでも旅行や食事を幾度か重ねて、お互ひの家と家の親交は絶やさなかつた。

 入退院を繰返しながら療養してゐて、何度か病院や自宅に見舞ひにお邪魔をしたが、穩やかな表情で特段病状が惡化したやうには見えなかつた。

 一箇月ほど前に杖を突きながら家族に伴はれて店に來られた時は、遉(さすが)に杖を必要とするその樣子と、會話の遣取りの時の呼吸の苦しさうにしてゐるのには驚いてしまつた。

 けれども、出されたお好み燒をぺろりと平らげ、珈琲まで飮む健啖振(けんたんぶ)りを見て少しは安心してゐたが、その後は自宅や入院中に見舞つても寢てゐる顏を見るだけで退出するばかりで、今から思へばあれが最後のお食事%E

 

 

六月二十七日

 

   青空に氣持乾したり夏蒲團 不忍

 

 あをぞらに   きもちほしたり なつぶとん

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 前日にひと頻り降つた雨が、からりと晴れてお日樣をのぞかせてゐた。

 梅雨の時期の晴間は貴重ではあるが、例年に比べて雨は少ないやうに感ぜられる。

 それでも太陽を目にすると氣持が晴れ、蒲團でも乾さうかといふ氣になるが、案外、じめじめとした心に陽を入れるのが目的なのかも知れない。

 

 

 

七月一日

 

   夏幻視あやつり兼ねる閏秒 不忍

 

 なつげんし  あやつりかねる うるふべう

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 初案は「得したと思ふものなき閏秒」でありしが、發句といふよりも狂句の體(てい)にて揮(ふ)るはず、續いて「刻みても從ひ兼ねつうるふ秒」とするも理窟が勝ち過ぎて首肯(しゆこう)せざるの感強く、さりとて最終案と雖(いへど)も理窟から離れざること甚だ多くして、技未熟なれば如何ともし難きものなり。

 

 「うるふ秒」は一九七二年に始まり、毎年七月一日の午前九時直前(日本時間)に行ふと決つてゐるが、未だ歳時記に採用されず、季語としての認知度は與(あた)へられてゐない。

 人は生きて行く上で、何か基準を設けようとする。

 さうする事によつて迷ひを最小にして行動を可能ならしめようとする。

 その最たるものが時間で、二十四時間の一日を晝(ひる)と夜、一週間から一箇月、春夏秋冬を經(へ)て、更に一年へと時を振分ける。

 けれども、地球の自轉を人間の都合で思ひ通りには動いてくれはしない。

 それを一秒を「セシウム133」原子の振動數により定義し、一九五六年に秒の長さを一九〇〇年一月一日時點の地球の公轉速度によつて『暦表秒』と定義した。

 地球の自轉が一定ではない事により生じる「閏秒」とよく比較される「閏日(閏年)」は、地球の公轉周期で季節のずれを調整する爲に行はれる。

 地球の自轉が長期的な傾向としては徐々に遲くなるといふ事実の前には、これらの行爲(かうゐ)も空しいものに思はれるかも知れないが、だからといつて一切を抛棄(はうき)する譯には行かない。

 それは壽命はいづれ盡きるのだと解つてゐても、坐して死を待つといふ事が出來ないのと同じであらう。

 

 

七月二日

 

   ゆふめしは蛸喰らふなり半夏生 不忍

 

 ゆふめしは  たこくらふなり はんげしやう

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 初案は「とりあへず蛸を喰ふなり半夏生」であつた。

 續いて上句を變へて「夕飯は蛸を喰ふなり半夏生」としたが、温和し過ぎるので野性味を加味して見る事にした。

 『半夏生(はんげしやう)』とは七十二候の一つであり、夏至から十一日目に當(あた)る日で、藥草である烏柄杓(からすびしやく)の漢名である『半夏』が生える頃からさう言はれるのだといふ。

 別に片白草(かたしろぐさ)といふ草の葉が、その名の通り半分白く化粧してゐるやうに見える事から『半夏生』と呼ばれてゐる。

 この時期に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言つて、大雨になる事が多く、「半夏水」とも言はれるのだといふ。

 この日は天から毒氣が降るので井戸に蓋をするとか、この日に収穫した野菜は食べないとか、熊野地方などでは「ハンゲ」といふ妖怪が徘徊するので、農作業を行ふ事を戒めるとかするといふ。

 讃岐地方では饂飩(うどん)を食べる習慣があり、この日を「うどんの日」に制定してゐるし、福井驗では燒鯖を食し、長野懸では芋汁を食べるさうだが、我が近畿地方では蛸を食べる習慣がある。

 田に植ゑた苗が蛸の足のやうに根附くのを願つての事といふが、人の生き樣も斯(か)くありたいものである。

 

 

七月三日

 

   體内にやまひすくふや夏の蟲 不忍

 

 たいないに   やまひすくふや なつのむし

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 この頃は老人介護を老人がするやうになつたといふ。

 ひとつには出生率の低下といふ事もあるが、嘗ての親子三世代による大家族で育兒(いくじ)や家事勞働の分擔(ぶんたん)で補ひ合つてゐた制度が崩潰(ほうくわい)し、核家族化といふ助け合ふのが夫婦だけといふ單位の減少といふ問題となつて、育兒の神經症(ノイロオゼ)も失業による収入の不足も、複合による家族同士の扶助が成立し得なくなつて仕舞つた事にあるやうの考へられまいか。

 そればかりか、近所同士の味噌や醤油の貸し借りといふ隣人愛さへ不足するに到つては、生き難(にく)い事この上ない世の中となつてしまつた。

 繼母(はは)を車で病院におくつてから、今度は筆者が三箇月檢診で病院に行かねばならなかつた。

 五年以上過ぎたので、こちらの方は安心だと思つたゐたら、次は腸内に腫瘤(ポリプ)が見つかつた。

 一難去つてまた一難といふところであるが、年齡からいへば本當(ほんたう)にそれだけかといふ事も考へてゐる。

 次から次といふ事だつて大いに有得るのだから。

 中句の「やまひ(病)をすくふ」の『すくふ』は「巣食ふ」であるのは勿論だが、心理的には「潘多拉(パンドラ)の匣」から絶望といふ災いの全てが飛出して仕舞つた後に、弱々しいが最後に殘つた希望にも似た「救ふ」といふ思ひの掛詞(かけことば)でもある。

 

 

七月四日

uvs150705-001

 

   雨降りて街を翳ます薔薇かな 不忍

 

 あめふりて   まちをかすます さうび かな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「雨降りて街かすめてや薔薇の棘」であつた。

 

 『薔薇(ばら)』は「荊棘」とも書くやうに棘のある木のバラ科バラ属の總稱(そうしよう)で、「いばら」の轉訛(てんくわ)したものであるが、「薔薇」の字から漢語で「さうび」とも讀んだりする。

 古代バビロニアの『ギルガメシユ叙事詩』の詩の中や、克勒巴都拉(クレオパトラ・前69-前30)も愛したといふ『薔薇』が、日本では『万葉集』にも「茨」として詠まれてをり、ある故事から茨城の懸名の由來ともなつてゐるといふ。

 江戸時代に園藝が流行し、その頃の書物の『花壇地錦抄』に「らうざ(rosa)」といふ記述が辭書(じしよ)にある。

 與謝蕪村(1716-1784)に、有名な「愁ひつつ岡にのぼれば花いばら」、

 

 うれひつつ   をかにのぼれば はないばら

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ句がある事でもそれが知られるだらう。

 雨が降る中をカラオケ大會の撮影を依頼されたので出かけたが、歸りは行きとは違ふ路だつたので、幸運にも薔薇の花にめぐり逢へた。

 

 

七月五日

 

   生きざまや茶の苦さ知る榮西忌 不忍

 

 いきざまや  ちやのにがさしる えいさいき

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 初案は「効用に左右されてや榮西忌」から「茶の苦さ受流してや榮西忌」へ、さうして「茶の苦さ娑婆苦の味か榮西忌」を經(へ)て最終案となつた。

 千光國師といふ諡號(しがう)を贈られた臨濟宗(禪宗)の開祖である榮西(えいさい・1141-1215)は、「ようさい」とも呼ばれるが、遣唐使と共に中國へ渡つて南宋で學んだ後に、茶の種や製茶及び喫茶方法を持歸つた事が、こんにちの日本でお茶が廣まつた基礎となつてゐる。

 それが今から凡そ八百年ほど前の事で、『喫茶養生記』といふ著書もある處から『茶祖』とも呼ばれてゐるが、實(じつ)は、お茶は奈良時代にすでに傳はつてはゐたものの、それほど普及してゐなかつたのを彼が各地に廣めたといふ事で、その功績のお蔭で茶を呑む習慣が民衆に定著(ていちやく)した。

 「良藥口に苦し」といふが、茶と同じやうに人生でも失敗をして痛みを知つた人間の方が、人格に渋みと共に味(あぢ)が出るものである。

 と、説教染みた事を述べて仕舞ふ筆者の惡い癖が顏を出す。

 

 

七月六日

 

   梅雨最中響くは雨か傘の聲 不忍

 つゆさなか  ひびくはあめか かさのこゑ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は上句が定まらず、「天から降る雨に」といふ心象(イメエヂ)から「天から降るや響くは雨か傘の聲」となり、最終案となつた。

 何でも江戸中期の禪僧白隱慧鶴(はくいんゑかく・1685-1763)の創案に、『雙手(せきしゆ)の音聲(おんじやう)』といふ禪問答があり、それは初めて參禪をするものに對して、

 「雙手聲(こゑ)あり、その聲を聞け」

 と云つたのに始まるといふ。

 兩手を打てば音が鳴るが、音がする方の手は右手か左手かと問うてゐるのである。

 久し振りに梅雨らしく雨が降つて、そんな中を發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』へ教へに、庄本にある介護施設まで出かけた。

 店から片道四十分強の歩行運動(ウオオキング)で、この時期によく出逢ふ情景である傘を打ちつける雨音を聞きながら、不圖(ふと)、この音は雨自身の聲なのか、それとも傘の聲なのかと、意味もなく考へ込んで立ち止つて仕舞つた。

 けれども、車の通行に促されて思はず我に返ると、失笑しながらまた歩き始めた。

 

 

七月七日

 

   雨だれや見えぬもの追ふ星祭 不忍

 

 あまだれや   みえぬものおふ ほしまつり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「七夕のつのる思ひや雨籠(あまごもり)」といふ句で、

 

 やなばたの   つのるおもひや あまごもり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 これと全く異なるつてゐた。

 しかも下五句は「日長雨(ひながあめ)」としたが、この「日長」は「日永」とも表記し、晝間(ひるま)の長く暮れにくい事で春の季語であるから、一日中が雨といふ意味にはならないので改め、「雨籠」とした。

 「雨籠」とは雨が降るので家に閉ぢ籠ることであるが、これでも氣に入らないので、ことの序(つい)でに句を一新した。

 『七夕』は「たなばた」とか「しちせき」と讀み、「棚機(たなばた)」や「棚幡」とも表記され、亞細亞の國々に廣く節供とされてゐるが、日本では五節句の一つとして舊暦(きうれき)の七月七日の夜の行事であつたが、明治改暦以降は新暦の七月七日或いは月遲れの八月七日に開催される事が多いやうである。

 『七夕』はお盆行事の一環で、七日の夕方に精霊棚とその幡を安置した事からの謂(い)ひであるが、それが中國の牽牛と織姫の二星が耕作と蚕織を司るのに因んで、織姫のやうに機織や裁縫が上手くなることを願ふ『乞巧奠(きかうでん)』といふ祭事と習合(しふがふ)したものである。

 であるから、七夕の日に素麺(さうめん)を食べるといふ習慣があるが、それは麺を糸に見立てたといふ説があつて、至極、穩當(をんたう)なものでであるやうに思はれる。

 毎年、舊暦(きうれき)では必ず上弦の月となり、それが沈むと天の川が現れるが、新暦では月齡が一定でない爲に月明かりの影響で天の川が見えない年もあつたりする。

 この日に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」と言つて、織姫と彦星が流す涙だと傳へられてゐる。

 しかし、面白い事に『七夕』は季語としては秋になつてゐるのである。

 舊暦と新暦とを併合した弊害ででもあらうか。

 今日は日中は雨だつたが、夕方からは雨は上がつた。

 それでも曇りがちで星は見えなかつた。

 

 

七月八日

 

   雲斑ぽつり窓打ちて白雨かな 不忍

 

 くもまだら   ぽつりまど うちて はくうかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 初案は「雲黒く窓打ちて白雨かな」であつた。

 この句の中八音は「打ちて」が三連符(♪♪♪)となる事で四拍子として解決されてゐる。

 さうして、「ぽつり窓打つたかと思ふと」といふ表現の「つたかと思ふと」が省略されて、「ぽつり窓打ちて」となつたのであり、その後に「白雨」となつて降り出したのだといふ情景を述べたのである。

 『白雨』とは「俄(にはか)雨」の事で、別に笠をかぶる暇もなくて袖を笠代はりに肘を頭上にかざす意味から「肘笠(ひぢかさ)雨」ともいふが、「夕立」の事も指したり、明るい空から降る雨の事も云つたりして、意外に幅廣く使はれるやうである。

 けれども、筆者は周りの景色を白く翳むやうにさせたり、激しく路面を打ちつける雨が白く跳ね返るやうな風景を思ひ浮べて仕舞ふ。

 朝の天氣豫報では激しい雨が降ると傳へてゐたが、雨は降つたものの雨脚は大人しいものだつた。

 

 

七月九日

 

   纏綿と香る明治や鴎外忌 不忍

 

 てんめんと   めいぢかをるや おうぐわいき

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪ ♪ ♪†ζ┃

 

 七月九日は明治の文豪森鴎外(1862-1922)の亡くなつた日である。

 彼は同時期の夏目漱石(1867-1916)と同じうして歐羅巴(エウロツパ)にも留學してゐるが、その作風は鴎外が江戸から明治の精神を傳へようとしてゐるのに比べ、漱石はそこから先の日本人の精神を考へようととしてゐたやうに筆者には思はれる。

 鴎外は「小説家・評論家・翻訳家」といふ文學博士であると同時に、官僚であり陸軍軍醫といふ醫學博士といふふたつの顏を持つてゐた。

 彼の功績としては「交響楽・交響曲」といふ和製漢語の譯語を創作してゐたり、「假名遣(かなづかひ)意見」で「棒引(ばうびき)假名遣」を廢案に追込む一助を擔(にな)つた事であらう。

 ただ氣に入らない事があつて、それは鴎外の「鴎」といふ表記で、「区」が正字の「區」でない事が殘念でならない。

 「鴎」の正字の表記はあるにはあるが、環境依存文字なので場合によつては文字化けをする事があるので、氣樂には使へないといふ不便さを味はふ事になる。

 それと、『鴎外忌』といふ言ひ方も、

 「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」

 といふ滿六十歳で歿する時の遺言から、「森林太郎ノ墓 」と一切の稱號(しようがう)を排する事を願つた本人の意志を考慮すると、どうかと思はないでもないが、結局はさう呼ぶのならば、せめて「舞姫忌」とでもすればよからうと思つたりするのだが……。

 

 

七月十日

 

   白晝や雨を黒いと鱒二の忌

 

 はくちうや   あめをくろ いと ますじのき

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 七月十日は井伏鱒二(ゐぶせますじ・1898-1993)が亡くなつた日である。

 彼の作品で眞面(まとも)に讀んだ事があるのは、『山椒魚』と、

   「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 

 さよならだけが じんせいだ

C♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 で有名な于武陵(うぶりよう・810年-?)の『勸酒(くわんしゆ)』の譯詩ぐらゐのもので、『黒い雨』は映畫(えいぐわ)を觀たが小説にまでは手を伸ばしてゐない。

 あと、筆者はラヂオドラマが好きで、放送された樣々な音樂やドラマを録音してゐて、一九六八年に「朽助のゐる谷間」を聞いた記憶がある。

 井伏鱒二で知つてゐる事と言へば、

 「富士には月見草がよく似合ふ」

 といふ太宰治(1909-1948)の『富嶽百景』の中に出て來て語られる彼の姿ぐらゐのものである。

 とは言へ彼の作品は意外と映畫化が多く、

 「集金旅行・多甚古村・駐在日誌・おこまさん(秀子の車掌さん)・四つの湯槽(簪(かんざし))・貸間あり・本日休診・珍品堂主人」

 などが擧げられるが、何と言つても森繁久彌(1913-2009)の主演でシリイズ化された『驛前旅館』に止めを刺すだらう。

 最も有名な「姪の結婚」として『新潮』誌に發表され、のちに「黒い雨」と改題された作品は、『勸酒』と同じく盗作の疑惑がかけられてゐたが、その日記の使用は許諾されたものである事が判明してゐるで、それには當らないと言へるやうだ。

 井伏鱒二は九十五歳で死去してゐる。

 ここで例によつて忌日の命名をすれば、「勸酒忌」を提示したい。

 

 

七月十一日

生麥酒に封じ込めたり熱帶夜 003

 

   生麥酒に封じ込めたり熱帶夜 不忍

 

 なま びいる に   ふうじこめたり ねつたいや

C♪♪ ♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 我が店では、生麥酒(ビイル)は冷凍庫で冷して置いた帶把大杯(ジヨツキ)でお客樣に提供してゐる。

 製造元(メエカア)に言はせると、そんな事をしない方が良いといふのだが、筆者は斷然こちらの方が見た目にも旨いと思つてゐる。

 『生麥酒』は日本では熱處理をしてゐないものを指すが、酵母菌の有無が各社によつて異なつてゐるといふ。

 一方で『熱帶夜』とは、氣象廰(きしやうちやう)の用語で夜間の最低氣温が摂氏二十五度以上の事であると言ひ、俳句の夏の季語として扱はれてゐる爲に、明治以前に用ゐられてゐないのは當然(たうぜん)ながら、大正を經て昭和も戰後になつてからのものである。

 俳諧の發句とは無縁であるのだからといつて、この季語を斥けようといふ考へにはならない。

 とはいへ、この句には『生麥酒』と『熱帶夜』といふ二つの季語があり、これが瑕疵(かし)となつてゐるやうに思はれるかも知れないが、筆者はこれで問題はないと思つてゐる。

 それは重點(ぢゆうてん)が一つに収斂(しうれん)されてゐるならばこの限りではなく、この夜の暑さはそれほどのものであつたからだといふ表現となり得てるるからだといふ外はない。

 

 

七月十二日

 

   鳥消えてきらめき殘る夏の雲 不忍

 

 とりきえて  きらめきのこる なつのくも

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 明日は内視鏡檢査なので風呂に入つておかうと自宅へ行くが、表に出ると身體(からだ)全體が熱氣に包まれてしまつた。

 なんといふ暑さだらうか。

 けれども、それが生きてゐるといふ事を自身に教へてくれる師ででもある。

 人は何處も具合が惡くなければ、健康である事を實感出來ない存在なのであらう。

 それは現状よりも常に一歩上である事を幸せと感じて仕舞ふのに似てゐる。

 さうして、その事がそれを手に入れられない原因となつてゐて、現状にいつも不滿を抱かざるを得ない存在。

 それが人間なのかも知れない。

 「鳥雲に入る」は春の季語なのだが、ここではそれに近い事を言つておきながら、季節は夏なのである。

 

 

七月十三日

 

   生と死や聳ゆる病棟せみの聲 不忍

 

 せいとしや   そびゆるびやうとう せみのこゑ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪ ♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 葬儀場には本人にとつて生はない。

 あるのは死ばかりである。

 運營したり身近な人々による悼む者はゐるものの、悲しみの場所であると言へるだらう。

 病院には死もあるが生もある。

 といふよりも死もあるが、生きようとする生存への希望を齎(もたら)す場所であると言へる。

 人は若い時にも哲學的命題として死を考へる事があり、事故や災害などで九死に一生を得るやうな經驗をした者もゐるだらうが、それでも眞劍に自身の確實な死の問題として捉へてゐたとは言へないだらう。

 勿論、若くして死病に罹つて仕舞つた人の絶望も本人は言ふに及ばず、周圍(しうゐ)の人もかける言葉を失つてしまふ程の苦しみである。

 さう言つた場合もあるだらうが、多くは老境に入つてから初めて身近なものとして死を考へ、その爲の準備をして覺悟を決められるやうになる氣がする。

 この句の初案は「生と死や聳ゆる病棟夏の午後」であつた。

 「取合せ」として、初案よりも「せみの聲」の方がよくなつたやうに感ぜられる。

 「せみ」と平假名にしたのは、「蝉」の正字の「虫扁」に「單」が環境依存文字で、機種によつては文字化けをするので使用を諦めざるを得なかつた。

 麻酔などで車での來院を禁じられたから、長男に送つてもらつた。

 保育園に行かなかつたのか、孫も一緒につき添つてくれた。

 市立豐中病院の巨大な建物に著(つ)いたら、まづ第一番にせみの聲に迎へられた。

 

 

七月十四日

 

   何處となく夏も終りの青さかな 不忍

 

 どことなく   なつもをはりの  あをさかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「何處となく夏も終りの景色かな」であつた。

 それから、「何處となく夏も終りに光る青」となつて最終案となつた。

 風呂嫌ひの筆者に妻や娘から家に歸つて入るやうに促されて外へ出ると、汗が出る程の暑さではあつたが、空の青さや雲の流れに何處となく秋の氣配が感ぜられた。

 況(ま)して、空の青さが風に乘つて舞ひ降りたかのやうに大氣までが青く染まり、光が街を清淨な感覺に浸してゐるやうであつた。

 立秋は八月八日であるからまだ二十日以上も先の話であるが、晩夏にはなつてゐるのだらう。

 

 

七月十五日

 

   噺家にあらねど扇で街に出る 不忍

 

 はなしかに  あらねどあふぎで  まちにでる

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 暑い!

 兔に角、暑い。

 多少の運動は必要(ひつえう)だらうと、天竺川を越えて驛前の「TSUTAYA」まで出かけた。

 豐南市場は、嘗(かつ)ての勢(いきほ)ひはなくなつたとはいへ、それなりに人の行交(ゆきか)ひで賑(にぎ)はつてゐた。

 初案は、下五句が「街を往く」であつたが、颯爽とし過ぎて、餘所餘所(よそよそ)しいので改めた。

 中句の八音の字餘りは、全てを八分音符(♪)にする事で解決されるので、發句の基本の「五七五」が飽(あ)くまでも目安であつて、その實體(じつたい) は「四分の四拍子」の「三小節」といふ拍子(リズム)にこそあるのだといふ事が、この事でも證明(しようめい)せられるものと思はれる。

 扇(あふぎ)は、動詞の「扇(あふ)ぐ」から派生して名詞化された言葉で、手で風を送るのに用ゐるものであるが、基本は右利き用である。

 「打羽」を意味する團扇(うちは)は、紀元前から中國の記録や古代埃及(エジプト)の壁畫(へきぐわ)にもあるが、紙を折りたたんだ扇は日本獨自のものであるといふから我が事のやうに誇らしい。

 抑々(そもそも)は、冬の季節の扇とされた『檜扇(ひあふぎ)』から始まり、それは木簡を束ねたものであり、用途は物を書く爲のであつたと言はれてゐるが、それが時代を經(へ)て紙を貼つた夏の扇となつたといふ。

 さうして、扇は涼の道具としてだけではなく、和歌を書いたり縁起の良い「末廣がり」といふ事で贈答に使はれたりして、更には俵屋宗達(?-1640頃)等によつて『扇繪(あふぎゑ)』と呼ばれる日本畫の形式が生れたといふのは、如何にも遊び心に溢れた日本的な發想であるといへまいか。

 禮儀(れいぎ)としても笑ふ時に口を隱したり、日本芸能では、箸や笠や盃などの色々なものに見立てたりもするので、使ひ道は樣々である。

 松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)は『奥の細道』で、

 

   物書て扇引さく余波哉 芭蕉

 

 ものかきて   あふぎひきさく なごりかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 とういふ句を詠んでゐるが、これなどは別れの道具として扱つて、感情の亂(みだ)れを表現してゐる。

 因みに、扇を開くのに根本で止める重要な部分を要といふが、これが「肝心要」の語源となつたものである。

 扇は別に扇子(せんす)ともいふが、この句で使はなかつたのは、

 「感性(センス)が良い」

 と振られるのを避ける爲に、敢(あへ)て扇としたのである。

 嘘である!

 

 

     關聯記

 

Ⅰ.發句(ほつく)拍子(リズム)論 A Hokku poetry rhythm theory

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html

 

 

七月十六日

 

   やり過ごす嵐の枕や夏の夢 不忍

 

 やりすごす  あらしのまくらや なつのゆめ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「やり過ごすひたすら夏の嵐かな」であつた。

 次に「やり過ごす嵐の枕や夏の夜」へと轉(てん)じたが、「枕」に「夜」の重なりが氣になつたので改めた。

 「嵐の枕」とは嵐の吹く中で寢る事をいふが、嵐だからと言つても心配で眠れないといふ譯ではない。

 寧(むし)ろ、寢てやり過ごすしか方法がない。

 伏龍(ふくりよう)ではないが、世の中にはさういふ時期があつたりするものである。

 「嵐」とは今でいふ颱風の事であるが、多くは平安時代から「野分(のわき)」が用ゐられてゐた。

 無論、『古今集』に文屋康秀(?-885? )の歌で、

 

   吹くからに秋の草木のしをるれば

   むべ山風をあらしといふらむ

 

 ふくからに   あきのくさきの しをるれば

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 むべやまかぜを あらしといふらむ

 ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃

 

 といふのがあるぐらゐだから、嵐にも秋といふ意識はあつたのであらう。

 辭書(じしよ)によれば、希臘(ギリシア)神話の怪物テユポン(typhoon)から英語のタイフウンとなり、日本では明治初年に「大風(おほかぜ)」若しくは「颱風」といふ言葉が生れたが、一九五六年に漢字の書換へによる制定で「台風」と書かれるやうになつたといふ。

 從つて、松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)の「武藏曲」に、

 

   芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 

 

 ばせう

C♪ †┃

 

 のわきして  たらひにあめを きくよかな

 ♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪♪┃

 

 と「野分」の句はあるが、「颱風」の作品は存在し得ない事になる。

 

 

七月十七日

 

   山鉾に連なる果や古都の雨 不忍

 

 やまほこに  つらなるはてや ことのあめ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「生涯に一度は見たり祇園(ぎをん)雨」で、下五句は「祇園」と言ひ切つて、そこに「雨」が降つてゐるといふ意味で「祇園 雨」と分けて表記したい感じであつたが、「祇園」だけでは「祇園祭」の意とは解せられないので、次に「生涯に一度は濟ませた祇園の會(ゑ)」としたが、これも氣に入らず、最終案は全く別の句となつた。

 祇園祭は、今から四十數年前に友人と出かけたが、ただでさへ暑いのに餘りの人混みに行くも歸るもならず、何時間も同じ場所から解放されなくて苛々して、二度と來るものかと思つた記憶だけが殘つてゐる。 

 辭書(じしよ)によれば、「神田祭」と「天滿祭」と共に日本三大祭の一つとされる「祇園祭」は、八坂神社の祭禮で京都の夏の風物詩でもあるが、その起源は古く、八六九年に疫病の流行で惡靈(あくりやう)を鎭める爲の御靈會(ごりやうゑ)を行つたのが始まりとされる。

 應仁(おうにん)の亂(らん)や第二次世界大戰での中斷はあつたが、廢絶される事なく千年を超える歴史を誇りながら今も續いてゐる。

 また、佛教に由來の深い「祇園精舎」から祇園祭といふ名稱が生れたといふが、明治維新に神佛分離令で祭禮名から佛教色を排除して「祇園御靈會」から「祇園祭」に變更(へんかう)されたものの、「祇園」だけを殘さざるを得なかつたといふのは皮肉な話である。

 日本の行事は、舊暦(きうれき)から新暦に移行してから、樣々な日程の變化(へんくわ)が起きてゐて、この「祇園祭」も嘗(かつ)ては六月だつたものが七月へと變遷(へんせん)されてゐる。

 

 

七月十八日

 

    一齊にせみの木となる雨上り 不忍

 

 いつせいに  せみのきとなる あめあがり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 颱風一過――

 それでも雨だけは翌朝まで降り續いてゐて、九時過ぎに目を覺ましたら雨は上がつてゐた。

 昨日は、繼母(はは)を病院に送迎したまま車を店の横に駐車してゐたので、家の駐車場に置きに出かけようと外へ一歩蹈み出したら、一齊に蝉の聲が降り出して來た。

 まだ曇空だつたが、晝(ひる)過ぎになると雲間から光が射して來た。

 他の地域では颱風の傷痕の報道がなされてゐたが、幸ひな事に筆者の住んでゐる豐中地區では、大きな被害を受けた樣子は見られなかつた。

 死者や行方不明の報告も相次ぎ、一部では電車が立往生して何百人もが閉込められて、體調(たいてう)不良が相次いだといふ。

 颱風に限らず、自然災害といふもので人は一喜一憂するが、自然を受容れるといふ事は、生のみならず死をも受容れるといふ事であらうかと思はれる。

 それを人類は自然と敵對(てきたい)でもするかのやうに、制禦(せいぎよ)に血道を上げてゐるが、それ以外の生物は自然の流れに任せ、暴風雨で土砂に流された樹木は行き著(つ)いた場所で新たに根を張るか朽ちるかし、そこを栖(すみか)とした鳥や宿つてゐた昆蟲も運命をともにして死を迎えたり、さうでなければ新天地で生存(いきながら)へて、その事を人間のやうに歎き悲しんだりせずに從容(しようよう)と受止めてゐる。

 世界は不思議な生の營みの中で、生滅を繰返してゐる。

 この句、風とか聲といふ音に關する言葉は一言も使つてゐないが、上句の「一齊に」から中句の「せみの木となる」になつた時に、せみの聲が聞えたら、句としては成功したものだと考へてゐる。

 果して……。

 

 

七月十九日

 

   限りあるゆゑにこそ知れせみの聲

 

 かぎりある  ゆゑにこそしれ せみのこゑ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 この句の中句の「知れ」といふ切れ方は命令形のやうに思はれるかも知れないが、これは文語活用形の一つである確定條件を表はし、下に「ば・ど・ども」を受ける已然形で、ここでは「こそ」の係りを受けた結びとなつてゐる。

 また、「限りあるゆゑにこそ知れ」とは、まるでそれを教へでもするかのやうに「せみの聲」が鳴いて聞えるといふ句意になる。

 夏の盛りにせみの聲を聞いてゐると、何だか「本當(ほんたう)にもう成す可き事は濟ませたか」と耳元で急かされてゐるやうな氣がする。

 今日は昨日の雨で順延になつた近所の盆踊が開催されるので、せみ時雨の中を撮影に出かけた。

 

 

十八、『遊行柳』の句に就いて 『發句雑記』より

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4637715&id=63792047

 

 

七月二十日

 

   何もかも振り捨ててなほ風死すや

 

 なにもかも  ふりすててなほ  かぜしすや

C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 『風死す』とは異樣な言葉であるが、辭書(じしよ)によれば、夏の暑い盛りに風が全く風が止む事で、「朝凪・夕凪・土用凪」のやうな場合をいふとある。

 また、關西方面の海岸地方で見られる現象ともあるが、「凪(なぎ)」といふ言葉が海の波が穩やかであるといふ意味からも宜(むべ)なるかなと思はれる。

 『風死す』は昭和三十年代頃から使はれ始めたといふから、比較的新しい季語であるが、風がぴたりと止つて仕舞つた状態といふのは、噴出す汗に思はず手を團扇のやうにしてでも風がほしくなるものである。

 今日は發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』の日で、第一、第二月曜日の午後二時から開催してゐて、店から歩いて到著(たうちやく)するのは五十分程かかつてしまふ。

 

關聯記事 

發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』

http://www.miyukix.biz/?page_id=2294

 

 

七月二十一日

 

   明易き豆腐を宛てに飲み乾せば 不忍

 

 あけやすき  とうふをあてに のみほせば

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 『明易き』とは、夏の夜の明けが早い事で「明易(あけやす)・明早し・明急ぐ」とも言ひ、意味としては「短夜(みじかよ)」と同じだが、短夜が夜の短い事をいふのに對して、『明易』は明急ぐ夜を歎く氣分が増さるやうに思はれる。

 この句ではふたつの省略があつて、ひとつは豆腐を「冷奴(ひややつこ)」と表現出來なかつた事と、いまひとつは飲み乾したものが麥酒(ビイル)であると指名し得なかつた事のふたつであるが、その理由はいづれも夏の季語となつてゐるからであるのはいふまでもない。

 それをすれば季語が三つにもなつて仕舞ひ、實(じつ)に制約のある形式を扱ふのは厄介ではあるが、それゆゑにこそまた醍醐味もあらうといふものである。

 取合せから見れば、うまく箸で抓(つま)めなければ、いともあつさりと崩れて仕舞ふ豆腐は明易い夏の夜のやうだし、その麥酒の泡も果敢無げで人生の苦みを教へるかのやうで、飲み乾せば白々として夜は明けて仕舞つてゐる。

 

 

七月二十二日

 

   梅雨終へて止んでまた降る未練かな 不忍

 

 つゆをへて  やんでまたふ る みれんかな

C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「梅雨終へてまだらに降るや未練かな」であつた。

 初案の多くは一瞬に思ひ浮んだものであるから、中には下句がなかつたりした完成されない儘のものもあつたりする。

 であるから、一囘で良い句が完成する事などはなく、このやうに中句に「や」と下句に「かな」の切字が重なつたりするので、推敲しなければ使ひものにならない場合が殆どである。

 今年は空梅雨だつたといふが、梅雨があけた途端に雨といふのも皮肉なもので、それも一日中降つたり止んだりの繰返しで、時に激しく、また粉糠雨のやうだつたりする。

 何事にも過去を振返らず、前だけを見て生きて行くといふ有樣(ありやう)は立派なのだらうが、本當にそんな事が出來るのか。

 いつだつて人は後悔し、惱み、苦しんで生きて行く。

 出來るのは、生きてゐる限り後悔をしながらも前へ進んで行く事だけなのだらう。

 雨はまだ降り續いてゐる。

 

 

七月二十三日

 

   肌寒き雨に見舞ひの大暑かな 不忍

 

 はださむき  あめにみまひの  たいしよかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪ ♪ ♪ †ζ┃

 

 初案は「雨に見舞ふものさへもなき大暑かな」であつた。

 次に「雨に見舞ふ肌寒くある大暑かな」と詠むも最終案へと推敲をした。

 『大暑』は二十四節氣のひとつで、期間としてはこの日から次の節氣の『立秋』前日までをいふと辭書(じしよ)にある。

 「暑氣到りつまりたる所以(ゆゑん)なればなり」

 と『暦便覧』に記されてゐ、『大暑』の數日前から始まつた土用が續き、『小暑』と『大暑』の一箇月間を暑中と言つて、この期間内に暑中見舞ひを送るのであり、寒中見舞が『小寒』と『大寒』の期間中であるのと對(つい)をなしてゐる。

 因みに、『立秋』を過ぎてからは殘暑見舞となる。

 昨日からの雨が續いてゐて、九時過ぎに自宅へ車を取に行つた。

 繼母(はは)を病院に送迎する爲である。

 十時から約一時間、機能回復訓練(リハビリ)を終へるまで病院で待つてゐる。

 その間、車でDVDを見たり音樂を聞いたりしてゐる。

 さういへば、筆者は十代後半から一切の見舞ひや年賀状を出してゐない事に思ひを致した。

 虚禮(きよれい)を廢したといへば聞えは良いが、妻がその時期になると筆者の代りにせつせと葉書を書いてゐるのだから、不精なだけに過ぎないと言へるだらう。

 

 

七月二十四日

 

   河童忌や暮殘りたる鼻の先 不忍

 

 かつぱきや  くれのこりたる  はなのさき

C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 七月二十四日は芥川龍之介(1892-1927)が亡くなつた日である。

 それは一九二七年(昭和二年)の事であつたが、作品に「河童」といふ小説があり、好んで河童の繪を描いた事などから彼の忌日を『河童忌』といふ。

 號(がう)は澄江堂主人といひ、別に俳號を我鬼といつた芥川に、私淑するとともに少なからぬ影響を受けた筆者としては、何某かの意を表しようと考へるのだが、こんな事ぐらゐしか思ひ浮ばない。

 この句は、死の直前に「自嘲」と前書した短册に、

 

   水洟や鼻の先だけ暮れ殘る

 

 みづぱなや  はなのさきだけ くれのこる

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ句が書かれてあり、これが辭世の句とされる作品への敬意(オマアジユ)となつてゐる。

 この句の「鼻の先だけ暮れ殘る」とは面白い表現で、よく考へれば自身では鏡でもなければ、「暮れ殘つた」「鼻の先」は見られはしないのである。

 勿論、それ以外に額だとか耳とかも見えないのだが、己が目の前にある筈の鼻が見えないといふのは、まるで一寸先が闇ででもあるかのやうで、さう考へれば實(じつ)に心細く感ぜられないだらうか。

 從つて、この句の手柄は芥川龍之介こと我鬼に歸するのはいふまでもない。

 

 ところで、『河童』とは口先が尖(とが)つて頭上に水を蓄える皿と、手足の指には水掻き、背中に甲羅があり、人や他の動物を水中に引入れて生血を吸ひ、尻から腸を拔くといはれる水陸両生の想像上の動物で、日本を代表する妖怪である。

 因みに、彼の俳號から『我鬼忌』ともいふ。

 

 

桃太郎傳説(ももたらうでんせつ)

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七月二十五日

 

   死者よりも生者の爲よ盆踊 不忍

 

 し しや よりも  せいじやのためよ ぼんおどり

C♪ ♪ ♪♪†ζ┃♪♪ ♪ ♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 この所、ご近所の各地區で盆踊が順次開催されてゐて、その撮影に大忙しである。

 この日が二囘目の撮影で、あと三囘の撮影が控へてゐる。

 『盆踊』は諸説あるものの、空也(903-972)の踊念佛からと言はれるぐらゐだから佛教行事の一環であり、盂蘭盆(うらぼん)で精霊を迎へ、死者を供養する行爲(かうゐ)であつたといふ。

 この踊りには誰でも參加できるものと、踊り手が見せる場合のものとがあり、また一方通行の行進型と輪になつて踊る圓舞(ゑんぶ)型のものがある。

 夏休みの期間に行はれる『盆踊』ではあるが、殘念な事に季語としては秋となつてゐる。

 

   輪になつて踊る慰め盆の唄 不忍

 

  わになつて     をどるな ぐ さめ   ぼんの うた

C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 今日はもう一句出來た。

 

 

七月二十六日

 

   飛行機の影我が上に過る夏 不忍

 

 ひこうきの  かげわがう へに よぎるなつ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「飛行機の影我が影の上(へ)に過る夏」と、中句九音の十九文字であつたが、「影」の二重(ダブ)るのが氣になつて改めた。

 他に、下句の「過る」を「搖ぐ」とか「かぶさる」とか「掠(かす)める」とかが浮んだが、結局はかうなつた。

この句、意味から見れば「飛行機の影」で切れて、

 

 ひこうきのかげ  わがうへに よぎるなつ

C♪♪♪♪♪♪†┃ζ♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

といふやうに「我が上に」といふ破格の讀み方になる事も考へられるが、筆者は第一に示したやうに讀んだ方が發句としては納得出來るものと思つてゐる。

 晝夜(ちうや)が逆轉(ぎやくてん)した生活をしてゐるので、筆者には朝食に當るのだが、實際には十二時に攝るので、世間では晝食(ちうしよく)となる食事を終へてから、『TSUTAYA』へ出かけた。

 道すがら、地面に短く貼りついた自分の影を追ひかけるやう天竺川の堤防を越えようとすると、その影の上を飛行機が通り過ぎて、一瞬、太陽を遮りその影が筆者を覆ひ隱して行く。

 白晝夢(はくちうむ)ともいふべき、なんとも不思議な氣分になつた。

 

 

七月二十七日

 

   こたふるは風に青田のそよぎかな 不忍

 

 こたふるは  かぜにあをたの そよぎかな

C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 夕方になつて家へ風呂を浴びに歸つた。

 その歸りは田圃のある裏道を通つたが、そこは特に廣々としてゐて日も翳つた所爲(せゐ)もあるのか、いつになく風も涼しげであつた。

 上句の「こたふる」は、「答ふる」と「應ふる」といふ表記があるが、平假名の方がやはらかくて良いやうに思はれた。

 人と人との觸合(ふれあ)ひが雜(ざつ)になつてゐるやうな氣がするのは、實(じつ)は自身が人嫌ひからなのかも知れないと思つて仕舞つた。

 苦手な人間よりも自然と接する方が安心出來る、といふのも困りものである。

 

 

七月二十八日

 

   顯れてまた消ゆる謎や石榴の忌 不忍

 

 あらはれて  また きゆる なぞや ざくろのき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「消えてまた顯(あらは)れる謎や石榴の忌」であつたが、人間が突然出現してこの世に生存し、軈(やが)て時が來て煙のやうに消えて行く不思議を、探偵小説の謎に見立てようと思ひついて改める事にした。

 『石榴(ざくろ)忌』とは江戸川亂歩(えどがはらんぽ・1894-1965)の命日の事をいふが、彼に同名の中篇小説(1934年)があるからの事であると言ひ、その筆名(ペンネエム)も亞米利加(アメリカ)の作家エドガア・アラン・ポオ(1809-1849)に由來するのは有名な話である。

 一九二三年(大正十二年)の「二銭銅貨」が出世作で、名探偵明智小五郎の生みの親でもあるが、一方で變態性欲を題材にした性的倒錯(サデイズム)や怪奇的(グロテスク)な殘虐趣味の強烈さに特筆される傾向があり、所謂(いはゆる) 「エロ・グロ・ナンセンス」と言はれるもので、それは後に『SM奇譚』にまで影響を與(あた)へたのではないかと筆者は考へてゐる。

 亂歩には、純文學の作家よりも下に見られてゐた事を氣にしてゐたのではないかと思はれる節が見受けられるが、筆者は彼の作品での中でも、『パノラマ島綺譚』や『人間椅子』が面白いと思つてゐる。

 

 

七月二十九日

 

   報せてや夜の帳をせみのこゑ 不忍

 

 しらせてや  よるのとばりを せみの こゑ

C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 日中のあまりの暑さに鳴りをひそめてゐたせみが、夕方になつて輕くひと雨降つた後に一齊(いつせい)に鳴きだした。

 雨だつた所爲(せゐ)かも知れないが、心なしか日の暮れるのも少しばかり早くなつたやうな氣がする。

 とはいへ、それほど生き急ぐ必要はないやうに思はれるのだが……。

 

 

七月三十日

 

 

   そのさきに雲の光るや江戸風鈴 不忍

 

 そのさきの  くものひかるや えどふうりん

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ † ζ┃

 

 初案は、透明の硝子で出來た風鈴といふ意味の「玻璃(ビイドロ)風鈴」といふ言葉で纏めたかつたのであるが、文字數の關係で句とはならなかつた。

 代りに、それと同じ意味で使はれる『江戸風鈴』を採用したのだが、調べるとこれは商標(ブランド)の名稱(めいしよう)のやうである。

 抑々(そもそも)、『風鈴』とは中國で音の鳴り方で吉兇を占ふ「占風鐸(せんふうたく)」と言ふ道具が起源だと言はれ、それが日本に佛教文化とともに傳來(でんらい)したと考へられてゐるやうで、『法然上人行状繪圖』に、

 「極樂の七重寶樹(しちぢゆうほうじゆ)の風のひびきをこひ、八功徳池(はちくどくち)のなみのを(お)とをおもひて、風鈴を愛して」

 とあるさうで、「ふうれい」と讀むのだといふ。「()筆者註」

 家の軒下などに吊り下げられて夏の風物詩となつたのは、いつからの事だつたかは判然としない。

 疫病などの魔除けの爲に用ゐられて來た青銅製の風鐸から、暑氣拂(はら)ひの器具として定著(ていちやく)して行き、

 「鐵(てつ)・銅・硝子・陶器・木・木炭・水晶」

 など材質で樣々な形状の風鈴が作られて涼しげな音を愉しむやうになつた。

 けれども、近頃は盆踊でもさうだが、密集した住宅地での風鈴の音は生活騷音と看做(みな)される事もあるといふ。

 以前に、都會から田舎に住居を移して來た人が、蛙の聲が五月蠅いと市役所に苦情を申し立て、市の職員が蛙を駆除しようとするのだが、手に負へなくてどちらも困つて仕舞つたといふ笑へない話を聞いた事がある。

 嘗(かつ)て、日本人は花を西洋人のやうに分類する爲の研究や、蟲の生態を調べるのを目的とするのではなく、その果敢無げに散る花の命を愛しんだり、蟲の聲に生きとし生けるものの憐れを感じてゐたものだが、日本人にはあつた筈のその感性が希薄になつたのではないかと、時として時流の變化(へんくわ)を感じて仕舞ふ事がある。

 この句は、マイミクの「ワーデル」さんの『風鈴寺』の記事にあつた寫眞(しやしん)に觸發(しよくはつ)されて、思はず口を吐いて出來たものである。

 透明な硝子で制作された「玻璃(はり)の風鈴」則ち『江戸風鈴』を通して見える、青空の中に湧上る白い雲の彼方から光の筋が風に運ばれ、それが風鈴の音となつて訪れを報せる。

 無心になつてその音と一體(いつたい)となつて交はり、音そのものとなる……。

 

 

七月三十一日

 

   天に屆け夏も終りの盆踊 不忍

 

 てんに とどけ  なつもをはりの ぼんおどり

C♪♪♪ ♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 これで三つ目の盆踊りの撮影となつた。

 あと二つ殘つてゐるが、無事に撮影出來るだらうか。

 盆踊は死者を供養する爲に行なはれるものと言はれ、また村落社會の所謂(いはゆる)ガス拔きの役目を帶びると共に娯樂による結束を強める機能もあつた。

 現在では宗教性も希薄になり、自治體や商工會が主催してゐる場合が多いやうである。

 實(じつ)は、明治時代に衰退した事があつたが、復活が叫ばれて農村の娯楽として再開されるやうになり、町内會の行事の一環としてこんにちに到つてゐ、子供達に取つても夏休みの間の大きな行事(イベント)となつてゐる。

 本來は秋の季語である盆踊りは、地域によつては夏の間に開催されて仕舞ふ。

 殘る二つの盆踊は、幸ひ八月八日の立秋以降に行はれるので、發句として詠むのには好都合であるが、茸腫(ポリイプ)の手術があるのでどちらかが撮影と重なつてしまはないかと心配である。

 日本の各地が記録的な猛暑で夜になつても遣り切れない程の暑さの中を、七月も最後の日を惜しむかのやうに踊りに夢中になつてゐる。

 

 

八月一日

 

   この先のいづれの夏にか我はゐず

 

 このさきの  いづれのなつにか われはゐず

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 初案に下五句を「ゐない我」と口語體で考へたが、結果として上記の形に納まつた。

 この『ゐず』の「ず」は打消しの「ず」で、「ゐない」といふ意味になり、「ゐる」といふ肯定の場合は「ゐづ」で「づ」となるのが歴史的假名遣(れきしてきかなづかひ)の表記法(へうきはふ)である。

 然(しか)るに、現代假名遣はいづれの時でも「ず」で濟ませて仕舞ふ。

 實(じつ)に歎かはしい事である。

 この實體(じつたい) と思はれてゐる肉體は有限のものである。

 ある時空間に突然現れて、時到れば霧消してしまふ存在である。

 生きてこの世を出た者はゐないといふが、この世は竝(な)べて、

 「色即是空 空即是色」

 で、「色」とは物質の事なのであるが、さう解つてみれば實相(じつさう)は「空」であるが諒解されるだらう。

 であるから、この「我」は釋迦に準(なぞら)へるのは憚られるが、

 「天上天下 唯我獨尊」

 の「我」で、一人稱である事は間違ひないものの、「我」と感ぜられる全ての存在そのものを指し示してゐる「我」の事なのである。

 從つて釋迦がその言葉を述べた時、その意味は全ての「我」が「尊(たふと)」いといふ事を言ひたかつたのだ、と筆者は考へるのである。

 誰もがいつか夏を迎へ――、いや四季を愛でられなくなる……。

 

 

八月二日

 

   魘されて獨りごといふ鬼貫忌 不忍

 

 うなされて  ひとりごといふ おにつらき

C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 攝津の國の伊丹の酒造業者の家に生れた上島鬼貫(かみじまおにつら・1661-1738)は江戸中期の俳諧師で、今からは考へられない程の、

 「東の芭蕉・西の鬼貫」

 と稱される存在であつた。

 年表によれば十三歳で發句を始めて談林派へ入門し、大坂で醫學(ゐがく)を志すが、仕官して京都留守居役を擔當(たんたう)したともある。

 蕉門の齋部(いんべ)姓とも言はれる八十村齋部路通(やそむらろつう・1649-1738)とも親交があり、刊行した『獨言(ひとりごと)』中で、

 「まことの外に俳諧なし」

 と述べてゐる。

 墓所は天王寺區の「鳳林寺」と伊丹市の「墨染寺」にあるといふ。

 伊丹市に『柿衞文庫』といふ財団法人による彼の記念館がある。

 因みに、歳時記では「鬼貫忌」は秋の季語となつてゐる。

 

關聯記事

 

柿衞文庫を訪ねて 『殘し柿』

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1658956589&owner_id=25109385

 

 

八月三日

 

   耳鳴りか病める都會にせみの聲 不忍

 

 みみなりか   やめるとくわいに せみのこゑ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪ ♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「耳鳴りに目覺める假の世にせみの聲」であつたが、次に「病める都會に耳鳴りのするせみの聲」となり最終案となつた。

 十三日に妻の實家の美作へ歸る豫定であるが、コンビニもバスも信號機さへなく、あるのは田圃と山と小さな川ぐらいしかないやうな、將(まさ)に都會に比べて何もない豐かさを滿喫する事が出來る。

 それに比べて、繁華街やその中にある各種の店舗とか、夜になつても人の動きが途切れない歡樂街があり、その中には不健康であるばかりでなく、違法のドラツグや非合法の團體(だんたい)まで暗躍する病んだ都會の闇が廣がつてゐる。

 さうして、そんな所でも晝間(ひるま)にはビルの亂立(らんりつ)する中の街路樹の一角から、せみの聲がひと頻り聞えて來たりする。

 

 

八月四日

 

   八専の初め晴ればあとは雨 不忍

 

  はつせんの     はじ めはれれば  あ とはあめ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 『八専』とは詳しく調べると選日の一つで年に六囘あり、陰暦で壬子(みずのえね)から癸亥(みずのとい)までの十二日間の内、「丑(うし)・辰(たつ)・午(うま)・戌(いぬ)」の四日を間日(まび) と呼び、殘りの八日の事をいふのだとあつた。

 その初めの一日を『八専太郎』といふが、この日が晴天ならばその期間中は雨がちで雨天なら晴天が多いといはれてゐ、氣が重なるので吉は増々吉となり、兇は更なる兇となると言はれてゐた。

 軈(やが)てそれが兇ばかりが強調されるやうになり、佛事などを忌む兇日の扱ひとされるやうになつたといふ。

 因みに、『世事百談(一八四三年)』によれば、

 「彼岸太郎(ひがんたらう)・八専次郎(はつせんじらう)・土用三郎(どようさぶらう)・寒四郎(かんしらう)」

 といつて、この日が晴れると豐作だと言はれたさうである。

 けれども、この句の初案は餘りにも不出來で、言ひたい事がいづれにあるのかさへ不確かである。

 第一、季語さへもない。

 

   八専の初め猛暑や望む雨 不忍

 

 はつせんの  はじめもうしよや のぞむあめ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪ ♪ ♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 そこで時は逸したが、斯(か)く改める事とする。

 

 

八月五日

 

   縁側も床几も失せて部屋涼み 不忍

 

 えんがはも  しやうぎもうせて へやすずみ

C♪♪♪♪†ζ┃ ♪ ♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 何といふ事だらうか。

 子供の時分には、夕暮れになると家の縁側や露地に床几を出して夕涼みをしてゐたもので、團扇を扇ぎながらご近所の人が集まつて話をしたり、ご隱居同士が將棋に興じてゐたものである。

 さうして、夏だから當然(たうぜん)暑い事は暑かつたが、こんにちのやうな事はなかつたやうに思はれる。

 ひとつには冷房機器がなく、またあつたとしても精々が扇風機ぐらゐで、表に水を打つたり日除けを軒からかけ、服裝も浴衣やステテコなどの樂な格好で往來(ゆきき)してゐた。

 第一、もつと夕立が多かつたやうに思はれる。

 さうでなかつたとしても、かき氷を食べたり西瓜を頬張つたりして、少なくとも、部屋にゐて冷房で涼むなどといふやうな事はなかつた。

 

 

八月六日

 

   人類に傷を殘せし原爆忌 不忍

 

 じんるいに  きずをのこ して げんばくき

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 いふまでもなく、この日は廣島に原子爆彈が投下された日である。

 しかも、その三日後には長崎にも投下されてゐる。

 その被害は、廣島ではその年の一九四五年十二月までにおよそ十二萬人、長崎は七萬人だといはれてゐるが、原爆被災は年々増えて行き、その上、その被害は放射能が原因であるといふ因果關係を證明するのが容易ではないので、正確な數字を知るのは難しく、無念の思ひを殘したまま亡くなつた人も多いやうな氣がする。

 原爆が落とされる前に、亞米利加(アメリカ)は實驗(じつけん)として形や重量だけ本物そつくりにして火藥を詰めて作つた『模擬原爆』を、日本各地に五十發ほど落したと言はれてゐる。

 戰爭するごとに科學は發展して來たのは事實だが、人類の精神に消し去る事の出來ない多大な傷を殘し、國家と國家による殺人といふ罪深い行爲(かうゐ)に戰慄を禁じ得ない。

 合掌――。

 因みに、『原爆忌』は廣島の場合は夏で、長崎は秋の季語となつてゐる。

 

 

八月七日

 

   また逢へる夜や滿天の七夕祭 不忍

 

 またあへる  よやまんてんの たなばたさい

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪† ζ┃

 

 この句、切れとしては「また逢へる夜や」で切れて「滿天の七夕祭」と讀めるのだが、初案の通常の讀み方で問題はない。

 愛用の高島易斷によれば、仙臺(せんだい)七夕まつりは七月七日の月遲れの八月七日を中日として、八月六日から八日の三日間に驛周邊の商店街などで大規模な飾り付けをして開催されるといふ。

 何でも東北三大祭の一つに數へられるが、仙臺藩祖の伊達政宗(1567-1636)が七夕を廣めて年中行事になつたとされる。

 『七夕』は、日本では舊暦(きうれき)の七月七日に行はれ、お盆前の行事としての意味合ひがあつたが、一八七三年(明治六年)の改暦で從來通りの舊暦で行ふ地域と、新暦(グレゴリオ暦)の七月七日に行ふ地域に分かれた。

 その爲にお盆との關聯が薄れて行つたばかりではなく、舊暦の七月七日の場合は立秋以降だつたので秋の季語であつた『七夕』が、新暦の時は夏になつて仕舞つて齟齬が生じる事となつた。

 にしても、そのお蔭で牽牛織女の逢瀬が増えた事を以て、良しとしようではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 註)「γは八分休符・†は四分音符・ζは四分休符 」の代用。

 

 

2015年 夏の句

http://www.miyukix.biz/?page_id=2784

 

2015年 春の句

http://www.miyukix.biz/?p=1603

 

 

 

 

參考資料

「精選版 日本国語大辞典(小学館)・広辞苑(岩波書店)」

「ウキペデイア・EX-wordから引用」

 

 

 

關聯記

 

Ⅰ.發句(ほつく)拍子(リズム) A Hokku poetry rhythm theory

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html

 

 

一日一句の發句集『朱い夏(Zhu summer)』二〇一一年度(mixiのつぶやきとTwitterに發表)

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_05_01_archive.html

 

 

Hokku poetry “Zhu has summer” 發句集「夏朱く」

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/08/hokku-poetry-zhu-has-summer.html

 

 

Hokku poetry ” White autumn 發句集「白い秋」

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_08_01_archive.html

 

 

Hokku Anthology “springtime of life” 發句集『春青く』

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_06_01_archive.html

 

二〇一四年版の發句 冬の部

http://www.miyukix.biz/?p=755

 

二〇一四年版の發句 秋の部

http://www.miyukix.biz/?p=137 

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