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2015年 白帝(White Emperor) 近江不忍(あふみのしのばず・Oumino Sinobazu)

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2015年

白帝(White Emperor)

 

『白帝』とは秋の事である。

 

八月八日

 

   透明な水澄む川の今朝の秋 不忍

 

 とうめいな  みづすむかはの けさのあき

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 八日は立秋であつたが、秋とは名ばかりの暑さで八日聯續(れんぞく)の猛暑となつた程である。

 けれども、こまかく觀察すると、そんな中にも秋の氣配が潜んでゐるものである。

 例へば、雲の形や風のそよぎ、或いは路地の日蔭に身を寄せた時などに、ふつと夏以外の季節、則ち秋とまでは行かないが、その分身のやうなものを知覺する。

 特に、澄んだ川の流れの上に映る雲のを見ると、そんな氣にさせられるものである。

 天竺川の堤防を歩きながら、川を眺めてそんな取留めもない事を考へてゐた。

 

 

八月九日

 

   くりかへす過ちいくど原爆忌 不忍

 

 くりかへす  あやまちいくど げんばくき

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 三日前の廣島の時の『原爆忌』の句は夏の季語として詠んだのであつたが、この長崎の句は秋の季語として扱つてゐる。

 『原爆忌』といふ同じ言葉が夏と秋の二つに跨(またが)つて別々に季語として採用されるといふのは、大變(たいへん)珍しい事である。

 數十萬人の死者を出したといふ原子爆彈を人の住む地域に投下したのは廣島・長崎だけであつたが、一九四五年から約十瓲(トン)のプルトニウムが核實驗(じつけん)で地球上に放出され、他に原子力施設等の事故や再處理工場からの排出により、地表面の土壌に含まれるばかりか、局地的な汚染が存在して、世界中の人體中にプルトニウムが蓄積されて仕舞つてゐるとも言はれてゐる。

 地球上にある放射能は天然のウラン礦石中に極く微量が存在はするものの、全て核兵器の材料と原子爐燃料として用ゐられるウランの中性子照射でつくられた人工放射能といつても過言ではない。

 核によつて齎(もたら)された放射能である『プルトニウム239』は、半減期が二萬四千年だといふ。

 負の財産といふか、その借金を未來の子孫に残して仕舞つた事に、震えるやうな恐怖を感じてしまふ。

 何かにも書いたが、放射能の實驗(じつけん)結果である情報(デエタ)は、一九四五年から始まつたものであるから、高々七十年程のものしかなく、それもこれは私見であるが、廣島・長崎の資料は明らかにされてゐるとは言ひ難いと思はれる。 

 チエルノブイリでは中絶が多く、生まれた子の異常を調査するといふ統計が生れる前に淘汰されてしまひ、僅(わづ)かに甲状腺癌の増加が認められはしたが、それも事故發生から二十年を經過してからの事だといふ。

 福島の原發事故も、兒童に對して甲状腺障害などの放射線被爆の影響を檢査する可きではないか、といふ良心的な意見が出る程の状態なのであると考へられる。

 これらが杞憂であるならば、どれほど安堵出來るであらう事か。

 

 

八月十日

 

   身にあるは好色だけか西鶴忌 不忍

 

 みにあるは  かうしよくだけか さいかくき

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 八月十日は、江戸時代の大坂の浮世草子及び人形淨瑠璃作者であり、俳諧師でもあつた井原西鶴(1642-1693)が歿した日である。

 年表によれば、別號を「鶴永・西鵬・二萬翁」とも言ひ、談林派を代表するとも言はれるが、談林派の中心人物である西山宗因(1605-1682)を「紅毛(オランダ)流の張本」として、西鶴の阿蘭陀流を「阿蘭陀西鶴」と批判されてゐる處からも、これを納得するのは筆者には難しい。

 ただ、西鶴自身が宗因を阿蘭陀流の幹に位置づけてゐるので信じる外ない。

 彼は矢數俳諧(やかずはいかい)の獨吟で、一晝夜(いつちうや)に「千句・千六百句・千八百句・三千句・四千句・二万三千五百句」の記録を打立ててゐて、二萬翁と自稱してゐる。

 その後は作家に轉じて、『好色一代男・世間胸算用』などを發表したのは有名な話であるが、江戸末期には彼の存在は忘れ去られてゐて、明治期になつて『言文一致運動』の文體(ぶんたい)の手本として見直されるやうになつて、再び世に浮上したのである。

 言ふまでもないが筆者の及ぶところではなく、恥かしながら西鶴よりも馬齡を重ねたといふ一點のみを以て己が身の手柄とするばかりである……。

 享年五十一歳で、墓所は大阪市の誓願寺にある。

 

 

八月十一日

 

   いつまでも暑さ殘りて通院す 不忍

 

 いつまでも   あつさのこりて つうゐんす

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 昨日は入院してゐる繼母(はは)を見舞ひ、今日は自身の檢査の結果と入院の爲の手續きに市立病院に出かけた。

 同じ病院に入院してゐる、發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』の會員(くわいゐん)を見舞つた。

 明日は墓參(はかまゐ)り、明後日は妻の實家の美作へ里歸りと、豫定(スケヂユウル)は目白押しである。

   殘暑お見舞ひ申し上げます。

 この場をお借りして皆様に御挨拶致します。

 

 

八月十二日

 

   白晝の聲もまばらに殘り蟬 不忍

 

 はくちうの   こゑもまばらに のこりぜみ

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 暑さが殘つてゐるものの流石に鳴き聲は聞かれなくなつたなと思つてゐると、天竺川沿ひの墓參(まゐ)りの途中で、何處かから微かに弱々しい蟬の聲が一匹だけ鳴いてゐるのが聞えた。

 命の最後に何かを振り絞るかのやうに鳴いてゐるのだが、周りには木が一本もなく、あるのは混凝土(コンクリイト)の電柱が等間隔に竝んでゐるばかりで、蟬は哀れにもそのいづれかに止つてゐるのであらう。

 『殘り蟬』とは筆者の造語である。

 

 

八月十三日

 

   墓守を義兄に甘えて盆歸り 不忍

 

 はかもりを  ぎけいにあまえて ぼんがへり

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 初案は「妻の父の墓守里へ盆歸り」であつた。

 次は「墓守は義兄掃除に盆歸り」となつて、最終案となつた。

 更に、これらの句はいづれも、

 「妻の父の墓守」「里へ盆歸り」

 「墓守は義兄」「掃除に盆歸り」

 と、中句で切れてゐる。

 その事に問題がある譯ではないが、句としては拙い事この上ない。

 店の定休日の木曜日に妻の實家(じつか)の美作に歸省した。

 けれども、一泊はせずに深夜の十一時になつて中國自動車道路に乘つた。

 朝の四時から夜中の一時頃までのお出かけである。

 雨に降られて、高臺(たかだい)にある義父の墓へ參(まゐ)つた。

 前日に筆者の父の墓參りを濟ませてゐたので、連日の墓掃除となつた。

 

 

八月十四日

 

   つくねんと店に獨りあれば蚯蚓鳴く 不忍

 

 つくねんと   みせに ひとり  あれば みみずなく

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 辭書(じしよ)によれば、「蚯蚓」とは、

 「ミミズ綱(貧毛類)の環形動物の總稱(そうしよう)で、釣餌としても使はれるが、漢方生藥名を地龍(じりゆう)と言ひ、解熱・鎭痙・利尿・解毒藥としても用ゐられ、赤龍ともいふ」

 とある。

 また『蚯蚓鳴く』とは、土中で「じいい」鳴く聲をそれと云つたもので、實(じつ)は「螻蛄(おけら)」の鳴き聲だと言はれてゐて、季語としては秋になる。

 民俗學者の柳田國男(1875-1962)が、

 「その昔、歌が上手かつた蛇には眼がなく、蚯蚓が歌を習ひに行つて目と聲を交換した」

 といふ民間の説話があつたと紹介してゐる。

 店に客がゐなくなつて、ひとりぽつねんと無聊を託(かこ)つてゐると、深夜に物音もしないのに耳鳴りのやうに聞えるものがある。

 時に、耳が都合よく聞いて仕舞ふやうな幻聽(げんちやう)なのかも知れない。

 それは未来に對(たい)する根據(こんきよ)のない希望に似てゐるやうな氣がする。

 

 

八月十五日

 

   たましひの往きて還らん盆踊 不忍

 

 たましひの   ゆきてかへ らん ぼんおどり

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 十四日の土曜日は自宅の地區の小學校で盆踊があつたので、撮影に行つて來た。

 日曜日もあるのだが、二日聯續(れんぞく)は店の營業もあるのでさすがにきついから、一囘だけで濟ましてしまふ事になつた。

 夕方からは風もあつて、幾分は蒸し暑さは抑へらてゐた。

 

 

八月十六日

 

   生きた身にも道を示せや魂送り 不忍

 

 いきた みにも   みちを しめさ ん たまおくり

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 『魂送り』とは「霊(たま)送り」とも表記し、別に「精靈(しやうりやう)送り」とも言ひ、盂蘭盆(うらぼん)の最後の日に先祖の靈を送る爲に門前などで焚く所から「門火(かどび)」とも呼ばれてゐる。

 死者の魂を弔つてお盆のお供へ物や燈籠(とうろう)を海や川に流す習俗も見られるが、この原型は雛祭りの「流し雛」との類似性があるとされるものの、近年は汚染問題でそのまま海に流すのを禁じられてゐる地域もあるといふ。

 この「送り火」は、それがある以上その前に當然(たうぜん)「迎へ火」もある譯で、これらは先祖の靈が迷はないやうに火を焚いて、道を指し示す爲のお盆の風習であると言はれてゐる。

 迷ふのは何も死者ばかりではないのに、その魂に對して氣遣を示す日本人の思ひやりには頭が下がる。

 生者の爲にもと思ふが、よく考へれば、その行爲(かうゐ)こそが心を平安に保つ最大の妙藥なのであらう。

 

 

八月十七日

 

   身を寄せる病棟白し雨の秋 不忍

 

 みをよせる  びやうとうしろし あめのあき

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 今日は午後二時から發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』の日なので、生徒さん達の待つ庄本へ出かけた。

 偶(たま)に自轉車の場合もあるが、大抵は歩いて行く。

 けれども、繼母(はは)の病院へ見舞ひに行かなければならないので、移動手段に自動車を選ばなければならなかつた。

 自宅で風呂を浴びてゐると雨の音がしたので窓の外をみると、可成の勢(いきほ)ひで降つてゐるのが見えた。

 近くにある駐車場から庄本へ向つて、二時間弱の發句の講義と添削を終へると、店へ戻つて妻を拾つてから、天滿にある病院へ向つた。

 その間も黒い雲の一部が時々明るくなる事はあつたが、雨の止む樣子はなかつた。

 明日から筆者が一週間の入院なので、今日行かなければ當分見舞ひが出來ないので、何としても出かけなければならなかつたのである。

 これからは、一雨ごとに秋らしくなつて行くのだらう。

 

 

八月十八日

 

   入院の支度をたのむ妻の秋 不忍

 

 にふゐんの  したくをたのむ つまのあき

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 初案は「連合ひを頼みに秋の」と下五句を缺(か)いてゐた。

 

 思へば、妻は筆者などと一緒にならなければ、こんな秋を迎へる事もなかつたのにと考へると、申し譯ない事この上ないのだが、四十年の結婚で五度の入院を繰返して來たにも拘はらず、今度も甲斐甲斐しく用意を整へてくれてゐる。

 午後一時に間に合ふやうに、長男夫婦と孫が車で送つてくれた。

 入院に際して、筆者は個人用電腦 (パソコン)と作曲の爲の『YAMAHA QY100』の持込みの許可を得て、寢臺(ベツド)に坐る間もなくそれを廣げて作業に入つた。

 こんな好き勝手な事を許されてゐるなんて、何と有難い事だらうか。

 

 

八月十九日

 

   眠りから覺めて現世は曇り秋 不忍

 

 ねむりから   さめてげんせは くもりあき

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 上記が初案であつたが、手術後の麻醉の眠りからの目覺めであり、それが傳はらないと考へて、「手術後の眠り覺めれば曇る秋」と推敲したが、初案の儘とした。

 

 しゆずつごの   ねむりさめれば くもるあき

C ♪ ♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 但し、「術後から目覺めれば」と詞書(ことばがき)を添へておく事にする。

 朝の五時過ぎから、吐きさうになるやうな藥を二立瓦(リツトル)も飲まされて、まな板の鯉よろしく晝(ひる)過ぎから手術室へと護送される。

 何か注射をされると、コロツと意識が飛んで仕舞つたやうである。

 目覺めれば、どんよりとした重さうな曇り空に壓(お)し潰されさうな現實の世界が、病室の窓の外に廣がつてゐた。

 

 寢臺(ベツド)の周りには、手術前から長女と次女夫婦と妻の四人が圍んでゐた。

 頼んでおいた筆記用具や著替(きが)への他に、梨まであつた。

 

   メスを入れた内なる世界よ秋果かな 不忍

 

 めすを いれた  うちなるせかいよ しうくわかな

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 病院に食べ物の差入れは不要なのにといふと、

「これは家で食べるから」

 と見せつけられて、持つて歸られて仕舞つた。

 

 

八月二十日

 

◎しくしくと痛むこころや晴れぬ秋 uvs150821-001

 

   しくしくと痛むこころや晴れぬ秋 不忍

 

 しくしくと   いたむこころや はれぬあき

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 朝五時前に目が覚めて、誰もゐない廣々とした歡談室から雨の水滴で濡れた窓の外を眺めた。

 病室が七階なので、風景位置(ロケエシヨン)としては申し分はない。

 雨は激しく降つてゐて、箕面の山々に灰色の雲が覆(おほ)ひかぶさつてゐる。

 本當(ほんたう)は夜中に寢る癖をつけるのは、店で深夜の營業をする上で困るのだが、夜の十時が消燈なので止むを得ず、何とか個人用電腦 (パソコン)を開きながら、作業をして眠らないやうにしようとしても、いつのまにか眠くなつて横になり、氣がつくと朝になつてゐるといふのが、ここに入院してからの生活態度である。

 雨の降る今日の天候と同じで、しくしくと身體(からだ)の一部が疼いたりする。

 

 

八月二十一日

 

   鬪病といふより友と思ふ秋 不忍

 

 とうびやうと  いふよりともと おもふあき

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 この句、一見して主語が解り難(にく)いのではないかと思はれるが、いふまでもなく筆者が病に對して接する氣持である事は諒解せられるであらう。

 年齡と共に色々な病氣を患ひ、何年かに一度は異なる病名で都合五度の入院に追ひやられ、無事生還を果たして來た。

 とは言つても、生還といふ程の病ひはその内の二度だけで、あとは大仰(おほぎやう)に騷ぐまでもない事ではあつた。

 病室の寢臺(ベツド)で過しながら、看護師の接待のやうな歡待を受けて、穩やかな氣分で毎日を迎へられてゐる。

 

 

八月二十二日

 

   秋晴れて點滴からは自由の身 不忍

 

 あきはれて  てんてきからは じゆうのみ

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 初案は「點滴のとれて秋晴れ身の輕さ」と詠んで見たが氣に入らず、續けて「點滴から解き放たれて晴れる秋」とも推敲するが納得出來ずに最終案となる。

 漸く、今日は左手の點滴から解放される。

 昨日の晝(ひる)からお粥さんの食事も出されるやうになつた。

 何しろ、それまでは絶食だつたので、全ての栄養源を賄つてゐたのは、腕からの點滴だけが頼りであつた。

 その意味では感謝してゐるが、だからといつて一寸出歩くにしても、化粧室(トイレ)に行くでさへ點滴の支柱臺(しちゆうだい)をガラガラと引張つて行かなければならず、これではどちらが主人だか判つたものではない。

 第一、寢る時の不便さは言語に絶する事この上ない。

 とはいへ、支柱臺もこれで役目を終へ、筆者もそれに繋がれた囚人から釋放される事となつた。

 感謝の念はあるものの、先づは芽出度い事と受取つておかうと思ふ。

 「晴れて~」といふ成句(フレエズ)を生かす事が出來たと考へてゐる。

 

 

八月二十三日

 

   退院も處暑なればなり明日を待つ 不忍

 

 たいゐんも  しよしよなればなり あすをまつ

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 初案は「明日の退院も處暑なればなり夜は更けぬ」と上句八音の字餘りであつて、その事に重要な問題がある譯ではなかつたが、物欲しさうだつたので改めた。

 『處暑』とは二十四節氣の第十四で、舊暦(きうれき)だと七月であつた。

現在では八月二十三日頃となり、西洋占星術では處女宮(をとめ座)の始まりとされ、『暦便覧』に、

 「陽氣とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」

とある。

 「處」は収まるといふ意味があるので、「殘暑」は『處暑』までであると思はれる。

 病も暑さと共に峠を越え、燈火親しむ秋の夜を迎へるのである。

 

 

八月二十四日

 

   ただよふは夜更けの店に秋の聲 不忍

 

 ただよふは  よふけのみせに あきのこゑ

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 初案は「ただよふは靜かな夜に秋の聲」だつた。

 芭蕉の「言ひおほせて何かある」ではないが、「靜か」と述べて仕舞つては元も子もない。

 推敲するに如(し)くはない。

 月曜日の朝、病院の食事を濟ませると看護師から入院時の費用の合計が計算出來たと報せられた。

 これで會計を終(を)へれば出所、いや退院が可能である。

 それを傳へられたのが九時半であつたが、十時になつても妻が一向に現れない。

 前日に退院の時間と入院費用の金額は教へておいたのに、どうしたのかと心配になる。

 電話をすると、今家を出るところだといふ。

 もう少し早めに到著(たうちやく)するやうに手配してくれるものだとばかり考へてゐたので、妻の顏を見ると不滿を洩らしたものの、無事、退院が出來た。

 一週間(しうかん)ぶりの店に著くと、そんな短い期間だつたのに懷かしい感じがした。

 浦島太郎ではないが、大袈裟にいへば浮世に戻つたといふ氣分であつた。

 そのまま晝食(ちうしよく)を濟ませ、二階で假眠(かみん)をしてから夕方の七時頃に晩飯を攝つて、仕事をした。

 十時前に休憩をして、十二時前に妻と交代をして深夜の營業を再開する。

 久し振りの店の感觸を味はひながら、個人用電腦 (パソコン)をひらける。

 だが、誰も來店する樣子がない。

 外の何處からともなく蟲の聲が聞えてくる。

 日中はあれほど暑かつたのに夜はとても涼しく、寒暖の差がはつきり感ぜられる。

 先の句を更に推敲すれば、かうなつた。

 

   店に一人せめて蟲の音を客とする 不忍

 

 みせに ひとり  むしのねせめて きやくとする

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 といふ事で、これを最終案とする。

 

 

八月二十五日

 

   天泣いて水溜りには秋の色 不忍

 

 てんないて  みづたまりには あきのいろ

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 初案は「天泣いて水溜る地に秋の色」で、一句に「天地」を配して置かうと考へたが、餘りにも狙ひ過ぎなので素直に詠む事にした。

 颱風十五號が猛威を奮つて各地に被害を及ぼしてゐる。

 大坂では雨風があつたもののそれほど大きな被害も出なくて、午前中は晴間も見えた。

 横の大きな露店の駐車場は、土瀝青(アスフアルト)などもない地面のままだから、あちこちに水溜りが出來、そこを通りすがりに見るともなく覗くと、青空の中に浮ぶ雲が泳いでゐるやうで、何處となく秋の氣配がする。

 不圖(ふと)周(まは)りに氣がつけば、木々にもそれなりの秋の色を宿してゐるやうに見えるから不思議である。

 

 

八月二十六日

 

   病人が病人を乘せ秋を往く 不忍

 

  びやうにんが  びやうにんをのせ あきをゆく

C ♪ ♪♪♪†ζ┃ ♪ ♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 自身の手術から退院して二日目で、繼母(はは)の退院の爲に病院に迎へに出かけた。

 世間では年老いた夫婦の妻が良人若しくは良人が妻を看病するといふ、所謂(いはゆる)老々介護が社會問題化してゐるさうであるが、駐車場から車を走らせて病院で繼母(はは)を乘せると、思はずそんな事を考へて苦笑してしまつた。

 からりと晴れた青空に浮ぶ雲は、最早、夏のそれではなかつた。

 その中を妻と繼母(はは)をを乘せながら、それでも生きて往く。

 生きて往けるところまで……。

 

八月二十七日

 

   天高く照る日は山に雲の影 不忍

 

 てんたかく  てるひはやまに くものかげ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「天高く照る日に山は雲の影」であつた。

この違ひは、主語が日なのか山なのかといふ差があるのは諒解されるだらう。

 店が休みなので、入院の準備で長らく觀賞してゐなかつた映畫(えいぐわ)を、退院してから四日も經つたので晝(ひる)から見に出かけた。

 出かけるのは殆どが箕面の『109シネマズ』で、服部緑地から新御堂を車で驅つて行くと、箕面の山々が見える。

 本當(ほんたう)ならば山の輝きが眼前に廣がる筈なのであるが、晴れたがゆゑに湧き出したぽつかりと浮ぶ雲のお蔭で山の大方が影に覆はれてしまつてゐる。

 雲はそれほど見事に、まるで散歩でもするかのやうに空いつぱいに遊んでゐた。

 今日は夕方からも見に行かうと思つてゐる。

 一作目は十二時五分から始まる、『ミッション・インポッシブル  ローグ・ネイション』を觀て來た。

 二作目は十八時三十五分に開始の『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』を觀た。

 全てを照らし出すやうに思はれる陽射しも、それによつて必ず影が生れるものである。

 それは丁度、「卵が先か鶏が先か」ではないが、惡があるから正義があるのか、正義があるから惡が生れるのかといふ問題にも似てゐるやうな氣がする。

 恐らく、それは秩序の爲の規則を作つたばかりに生じたのであらうが、いづれにしても句を詠むにしても理窟つぽい事である。

 もつと素直によめないものだらうか。

 

 

八月二十八日

 

   名を秋といふも殘らん暑さかな 不忍

 

 なをあきと   いふものこらん あつさかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 立秋から二十日も經ち、そこそこ氣配に秋は感じられるとはいふものの、日中の暑さは中々おさまる樣子を見せない。

 晝間(ひるま)の店の營業は長女に任せて、夜を擔當(たんたう)する身としては日中に睡眠をしなければならないので、店の二階へ上がるのだが、蒸し風呂みたいで冷房を利かさないと、とてもではないがぢつとしてゐられず、寢るどころの話ではない。

 部屋が冷えたからといつて、直ぐに眠られるといふ譯のものではなく、筆者はその爲には儀式を必要とする厄介な性分で、布團に入つてももんどり打ちながら寝る努力をしなければならない。

 何時間も挌闘(かくとう)して、漸く眠りに就いたかと思ふと、もう仕事の時間だと起されて仕舞ふのが常である。

 何だか、秋なのにいつまでも暑さが殘るのに似たやうな氣がする。

 

 

八月二十九日

 

   地を叩き夏を流すや雨の音 不忍

 

 ちをたたき   なつをながすや あめのおと

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「地を叩く夏の穢(けが)れを落とす雨」であつた。

 けれども、今日(けふ)びは葬儀の時後に自宅へ入る場合に清めの鹽(しほ)を身體(からだ)にかけてゐた通過儀禮(イニシエエシヨン)でさへ、死者を不淨の存在として扱ふのは不當(ふたう)だといふ考へから、忌避されるのが一般的となつてゐる。

 況(ま)して、夏を穢れといふなど以(もつ)ての外に違ひはあるまい。

 毎度の事ながら、眠れないのでDVDを觀てゐる内に夜の十一時頃に寢てしまつたやうだ。

 目が覺めても十一時半にもなつてゐなかつたので、大した睡眠ではなかつたが、疲れが取れたやうな氣にはなつた。

 窓の外に雨の音の氣配がしたので、日覆ひ(ブラインド)を開けて見ると激しい雨脚が勢(いきほ)ひよく地面に叩きつけてゐた。

 これで、ぐつと夏は遠のくに違ひない。

 

 

八月三十日

 

 

   叢や小つちに宿る秋竊か 不忍

 

 くさむらや  こつちにやどる あきひそか

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「叢や小つちに宿る秋潜む」

 占ひや易には興味はないが、發句の歳時記の代(かは)りに愛用してゐる『高島易斷』の「九星本暦」によれば、三十日は「小つち」だとある。

 「小つち」とは選日の一つである『犯土(つち・ぼんど)』に含まれ、「土・椎・槌」とも表記し、甲子(きのえね)から數へて七番目の庚午(かのえうま)から丙子(ひのえね)までをの七日間を『大犯土(おほづち)』と言ひ、戊寅(つちのえとら)から甲申(きのえさる)までの七日間を小犯土(こづち)といふと辭書(じしよ)にある。

 その間の十四番目にあたる丁丑(ひのとうし)を「間日(まび)」若しくは『犯土間日(つちまび)』とし、「中犯土(なかづち)」ともいふが、この日は犯土には含まれず禁忌は存在しないと言はれてゐる。

 犯土の期間は土公神(どくじん)が本宮或いは土中にゐるので土を犯してはならず、「穴掘り・井戸掘り・種蒔き・土木工事・伐採」等の土いぢりは一切愼まなければならないとされ、地鎭祭の建築儀禮は兇日とされる。

 また、その内容は『土用』とも共通してゐて、本來は土を犯す行爲(かうゐ)は地鎭祭の儀式をする事であつたやうだが、それを禁じる禁忌へと意味が變化(へんくわ)したと言はれてゐるぐらゐであるから、占ひや呪(まじな)ひといふものがどれほどのものか理解出來ようといふものである。

 

 所で、同じく「高島易斷」によれば今日は『望』である。

 『望』とは地球が太陽と月との間で、その黄經(くわうけい)の差が百八十度になる時の月であり、則ち滿月の事をいふと辭書(じしよ)にある。

 『望』といへば、筆者は「望蜀」を思ひ浮べて仕舞ふ。

三國志で曹操が積極策をとろうとする司馬懿を戒める句として引用した文章、

 「人苦不知足 既平隴 復望蜀 毎一發兵 頭鬚為白」

 詰り、人は足る事を知らないので苦しむ。それは隴を平定したのに、復(ま)た蜀を望んで、一たび兵に號令を發するが毎(ごと)に、頭鬚は白く爲(な)つて仕舞ふ。

 折角苦勞してあるものを得たのに、それに滿足出來ずにまた直ぐに別のものを欲しがり、欲望に限りがない人の虚しさをいふ故事成語である。

 京都の龍安寺の蹲踞(つくばひ)の眞中(まんなか)は四角い形をしてゐて、そこの上に「五」、右横に「隹」、下に「疋」の「一」がない形、左横に「矢」が刻まれてゐて、それを合せると、

 「吾唯足知(われただ足るを知る)」

 といふ意味が讀取れるのである。

 殘念な事に夜中の一時に外へ出て空を見たが、そこに月は見られなかつた。

 

   願へれば月よ彼の日に清くあれ 不忍

 

 ねがへれば   つきよかのひに きよくあれ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 因みに、十五夜は陰暦の八月十五日の滿月をいふのであるが、今年の新暦による十五夜は九月二十七日である。

 

 

八月三十一日

 

   秋雨や月のをはりは初めなり 不忍

 

 あきさめや   つきのをはりは はじめなり

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「降る雨や月の終りも初めなり」と無季であつたので推敲した。

 今年の立秋は新暦の八月八日であつたが、舊暦(きうれき)だと六月二十四日となる。

 「九月盡(くぐわつじん)」といふ秋の季語があるが、これも九月の末日の事を言ひ、俳諧では秋の終りを惜しむ言葉である。

 けれども、新暦では十一月十一日が舊暦の九月三十日となつて仕舞ひ、立冬はその二日前の十一月八日となつてしまつてゐる。

 新暦と舊暦との季節の差は一箇月以上もあつて、季感に齟齬が生じてしまふのも宜(むべ)なるかなといふところである。

 夜中の十二時前に二階から下りて、妻と店を交代をした。

 裏口の扉から外を見ると雨が降つてゐて、さういへば今日で八月も終りだと思ひながらもう一度外を覗いて見ると、まだ雨は降り續いてゐる。

 月が代つて九月になつても、雨は止む氣配を見せない。

 人間の決めた暦通りには、自然は動いてはくれないものである。

 

 

九月一日

 

   秋白く虚空にきらり日照雨かな 不忍

 

 あきしろく  こくうにきらり そばへかな

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 大腸の茸腫(ポリイプ)で一週間入院して、退院してから一週間經(た)つたので結果を聞きに市民豐中病院に出かけた。

 醫師(ゐし)がいふには、癌ではあつたが九九釐(パアセント)切除出來たとの事。

 幅廣く、べつたりと三、五糎(センチ)もの大きさだつたとかで、切取るのは大變(たいへん)だつたと言はれたが、まだ大小合わせて十箇以上も殘つてゐるので、また今月中に入院である。

 全ての手續きを終へて病院を出ると、晴てゐるのに雨が降つてゐた。

 日照雨(そばへ)である。

 別に「戲雨」とも表記し、狐の嫁入とも言はれてゐる。

 雨の水滴が陽に白く光つてきらきら降つて來る。

 秋の雨は夏のそれと違つて、爽やかさをまとつて降つて來る。

 それは情緒的な時雨とも異なつた感覺である。

 表現とは面白いもので、

 「秋の雨は夏のそれと違つてゐるばかりでなく、情緒的な時雨とも違つて、爽やかさをまとつて降つて來る」

 と、二章に分けずにひとつの複文(センテンス)で示す事が出來る。

 息の長い文章が結構好きな筆者は、そちらを好んで使用するが、だからといつて何でもさうするとは限らない。

 丁度、今囘の場合のやうに……。

 

 

九月二日

 

   黄泉に續く浮世や噂も風の盆 不忍

 

 よみに つづく  うきよやうわさも かぜのぼん

C♪♪♪ ♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「浮世路つづく噂や風の盆」で、上五句を「うきよみち」と平假名表記にして「浮世」と「黄泉路(よみぢ)」を掛詞(かけことば)とし、中句と下五句にかけて「風の噂」を配さうとしたが、あまりにも技巧に頼り過ぎてゐるので改めた。

 それでも「六音・八音・五音」の十九文字の字餘りの句となつて仕舞つた。

 高島易斷の「九星本暦」によれば、今日は富山八尾の『風の盆』である。

 一般には「おわら風の盆」として知られてゐて、九月一日から三日間かけて行はれる富山懸を代表する祭りで、その二日目に當(あた)るのが今日である。

 その起源は江戸期の元禄時代に遡ると傳へられてゐ、流出したある文書を取戻した事を喜んで、三日三晩踊り明かした事が由來であると言はれてゐて、風鎭祭からとかお盆の行事から「風の盆」の名稱となつたらしい。

 一部に森昌子の「先生(1972)」に似てゐる樂句(フレエズ)があると思はれる、石川さゆりの歌で「風の盆恋歌(1989)」といふ曲があるが、この情感たつぷりの音樂や同名小説のお蔭もあつて、全國的に名が知られるやうになつた。

 それにも況(ま)して、哀感たつぷりの『越中おわら節』の旋律に合せて網笠を目深にかぶり、可憐に踊るしつとりとした仕科(しぐさ)の女性が、夜の闇の中から浮び上がる幻想的な姿を見てゐると、もしあるとするならば現世とあの世とが繋がつてさへゐるやうな氣がする。

 踊る人も觀客も含めてあれだけ大勢の人々が集まるのに、他の盆踊と違つて哀切感ただよふ特異な祭りだと言へる。

 いつかは行きたいと願つてゐるものの、いまだに筆者は出かけた事がないので、この作品は正岡子規(1867-1902)のいふ寫生(しやせい)の句ではない。

 寫生句とは、句を詠む時に過去の作品の影響を受けずに見たままに句作するという姿勢を指すものであるから、現場第一主義に外ならず、空想の句の餘地を認めないといふ事になる。

 現實には、目の前の風景を見たからといつてそれだけを詠む譯ではなからうと思ふのだが、子規先生は畫家(ぐわか)が素描(スケツチ)するやうに句を詠めと仰有(おつしや)るのである。

 「後拾遺集 羈旅」に能因法師(988-?)の、

 

   都をばかすみとともに立しかど 秋風ぞふく白河の関

 

 みやこをば  かすみとともに たちしかど

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 あきかぜぞふく  しらかわのせき

 ♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪♪♪†┃

 

 といふ有名な一首がある。

 實(じつ)は、作者は陸奥(みちのく)の入口で現在の福島懸白河市には行かずに、都にゐた儘で詠んだと言はれてゐる。

 而(しか)も、暫く姿を晦(くら)ませてから頃合ひも良しと、恰(あたか)も陸奥から歸つてでも來たかのやうな演出まで用意したといふのである。

 これではまるで「男はつらいよ」の一情景(シイン)ではないか。

 彼には似たやうな話がもう一つあつて、内裏歌合(うたあはせ)で詠まれた、

 

   嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり

 

 あらしふく  みむろのやまの もみぢばは

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 たつたのかはの   にしきなりけり

 ♪♪♪♪♪♪†┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃

 

 といふ歌があり、これも龍田川に散る景色を見て詠んだものではないのである。

 ことほど左樣に、寫生句は百害あつて一利がない。

 第一、文學と繪畫(くわいぐわ)は音樂と繪畫程には共通項を見出せないものだと考へられる。

 ツて、結局これつて壮大な言ひ譯でしかないのである。

 

 

     關聯記事

十五、空想の句の視點に就いて 『發句雑記』より

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4637715&id=63350638

 

 

九月三日

 

   差傘やささへ切れない雨の秋 不忍

 

  さしがさや   ささへきれない あめのあき

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「雨傘やささへ切れない秋の空」であつた。

 傘は日傘もあるが、普通に考へれば雨の時に用ゐるので敢(あへ)て雨傘といふ事はなく、また傘は「からかさ」とも云つて頭にかぶる『笠』に對(たい)して、「柄(から)」がついた傘を意味してゐ、昔は割竹の細い骨組に油紙を貼つて柄をつけて開閉出來るやうにしたもので、晴雨兩用のものは「兩天」若しくは「照降(てりふり)」といひ、別に「手傘・差傘(さしがさ)」ともいふと辭書(じしよ)にある。

 更に、この句の上句は「傘差して」とすると中句を支へ切れず、語順としても可笑(をか)しな表現になるので、切字の「や」にご登場願つたといふ譯である。

 今日は店の休日(きうじつ)なので、店の二階で假眠してから十時過ぎに自宅へ行かうと外へ出ると、生憎な事に昨夜からの雨が止む事も無く降り續いてゐた。

 いつもの事だが移動するのに荷物が多く、その上に傘も差さなければならないとなると難行苦行である。

 壓(お)しつけるやうな重苦しい虚空が、建物や道行く車や人までも薄墨色に染めて行くやうである。

 灰色の空は、とてもではないが雨傘如きでは支へ切れはしない。

 

 

九月四日

 

   かき曇り空落ちて來て秋の闇 不忍

 

 かきくもり  そらおちてきて あきのやみ

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 今日はマイミクの「ワーデル」さんから、

 「9月4日11時、マナーモードでも強制的にあなたの携帯が鳴り響く!(原文の儘)」

 として、

 「今年も大阪880万人訓練が実施される(原文の儘)」

 との書込みがあり、その時間になると携帶電話が我鳴り出した。

 加へて、電視臺(テレビ)では午後から集中豪雨の報せまで流れ出した。

 晝(ひる)までは陽が射してゐたのに、次第に曇り出して、空が黒く覆はれたかと思ふと雨が激しく降つて來た。

 世界は闇に覆(おほ)はれたやうに思つてしまふ。

 まるで自分のゐる場所が世界の全てでもあるかのやうに感じてしまふ。

 人間の認識力といふのもは、所詮その程度のものでしかないのであると自嘲しながら……。

 

 

九月五日

 

   たつ卷の何をはこぶや秋思かな 不忍

 

 たつまきの   なにをはこぶや しうしかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 現實(げんじつ)に見た事はないが、その形状が天に昇る龍に似てゐるのでさう呼ばれてゐて、その正體は積亂雲(せきらんうん)の下で地上から雲へと細長く延びる空氣による細長い渦卷上の上昇氣流で、突風に類するものだといへる。

 調べて見ると陸上龍卷と海上龍卷とがあり、陸上龍卷は地面に接したものと、さうでない空中龍卷がある。

 似たやうな現象で旋風(つむじかぜ)といふものがあり、別に辻風とも言はれてゐるが、これは地表が熱せられて發生したもので、母雲である積亂雲によらないものであるから、根本的に仕組(メカニズム)が違つてゐる。

 但し、冬に生じる水上龍卷には、時に母雲がなくても発生する場合があるといふ。

 龍卷は積亂雲に起因するので、秋に多く發生するのであるが、季語としては承認されてゐる譯ではない。

 何かを運んで來る譯でもなく、何かを運んで行くものでもない。

 地上から奪つてゆくもの、それが龍卷なのであらう。

 

 

九月六日

 

   暗さ覆ふ秋のひと日を雨泣かな 不忍

 

 くらさ おほふ   あきのひとひを うきうかな

C♪♪♪ ♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 今日は一日中、雨が降つて薄暗かつた。

 雨は激しく降る素振を見せず、しとしとと心に沁み通るやうに街を覆ひ盡してゐる。

 それはまるで一九三三年に洪牙利(ハンガリイ)で發表されたヤアヴオル・ラアスロオ作詞でシエレツシユ・レジエ作曲による、

 『暗い日曜日』

 宛(さなが)らであつた。

 原題はハンガリイ語で『Szomorú vasárnap』で、飜譯すれば「悲しい日曜日」となる。

 この曲は作曲者自身の自殺とも相俟(あひま)つて、自殺者の出る事で有名である。

 旋律の暗さから世に出ず、一九三六年にダミアによる仏蘭西(フランス)語の録音でシヤンソンとして世界的に知られるやうになつた。

 人間はこのやうに音樂や雨などに影響を受けて、悲しんだり喜んだりするものである。

 けれども、重く引摺るやうな氣持は音樂や雨の所爲(せゐ)ではなく、それ以前に個々に問題が生じてゐたからであり、それゆゑにこそ自然現象にも心が動かされたのである。

 

 

九月七日

 

   目の前で道を示さん蜻蛉かな 不忍

 

 めのまへで   みちをしめさん とんぼかな

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「目の前で行方(ゆくへ)示さん蜻蛉かな」で、中句を「行方示すや」と變へて見たが氣に入らず、最終案となつた。

 今日は筆者の主催する發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』があつたので、一時間弱ほど歩いて出かけて來た。

 途中、目の前を蜻蛉が案内でもするかのやうに飛んでゐて、それが數分も續いたので驚いてしまつた。

 夏の季語で斑猫(はんめう)といふ蟲がゐて、山道に多く、近づくと人の行く先へと飛ぶところから「道教(みちをし)へ」とも「路導」とも呼ばれてゐるが、それと似たやうな氣分を味はつた。

 とんぼは、「蜻蛉(せいれい)・秋津(あきつ)」とも言はれ、筆者が幼い頃は川縁(かはべり)に大量に赤とんぼの群れが飛交つてゐたものである。

 自然破壊――。

 これが「とんぼ」の我々人類に指示(さししめ)したものなのであらうか。

 

 七日は泉鏡花(1873-1939)が亡くなつた日である。

 彼の本名は鏡太郎といつたが、筆者の長男は彼と芥川龍之介(1892-1927)の名前とを足して鏡之介といふ。

 子供の頃は恥かしかつたらしいが、長ずるに及んでこれで良かつたと納得してゐるらしい。

 

   聖さへ這這の體鏡花の忌

 

 ひじりさへ  はふはふのてい きやうくわのき

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九月八日

 

   雨暗く秋の重さや薔薇赤し 不忍

 

 あめくらく   あきのおもさや ばらあかし

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「どんよりと秋の重さや赤い薔薇」と詠み、續いて「秋雨や切取られたる赤い薔薇」とし、更に「薔薇」は夏の季語なので候補としては下五句を「赤き花」する考へもあつたが、最終案はかうなつた。

 「春雨」に對して「秋雨」といふ言葉を用ゐるが、『角川俳句大歳時記』によれば「秋の雨」は秋全般の雨の事を指し、これと「秋雨」とは區別するものとある。

 それは夏に降る「夏の雨」と、「梅雨」の雨とは同列に論じないのと似てゐて、「秋雨」を「秋霖」とか「後の村雨・秋の村雨」などと言ひ、「秋黴雨(あきついり)」といふ言葉もある所から考察するに、「秋の雨」は「夏の雨」に、「秋雨」は「梅雨」に對應(たいおう)されるものであると思はれる。

 「秋雨」は舊暦(きうれき)の八月に降り續く雨を言ひ、「あきさめ」と訓じて「しうう」と音讀を好まないとある。

 午前中であるにも拘はらず小雨降る薄暗い天候の中、近所の開業醫の所へ切れた藥を調達しに出かけた。

 行く途中、道路の植込みに薔薇が咲いてゐた。

全體(ぜんたい)を覆(おほ)ふ暗い空間に、切取られたやうにその部分の薔薇だけが眞赤だつた。

 

 

九月九日

 

   習はしも埋れて見えず秋の雛 不忍

 

 ならはしも  うもれてみえず あきのひな

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 八日は『白露』であつたが、けふ九日は五節句のひとつである『重陽(ちようやう)』の日である。

 日本の暦の一つである節句は、年中行事を行う季節の節目となる日で、傳統的な日本の文化及び風習の事であり、節供(せつく)とか節日(せちにち)とも言はれ、

 「人日・上巳・端午・七夕・重陽」

の五節句がある。

 重陽は九月九日の事で、舊暦(きうれき)では菊が咲く時期で「菊の節句」とも呼ばれ、陰陽の思想では奇數は陽數とされて、陽数の極である九が重なることから「重陽」と呼ばれる。

 奇數の重なる月日は陽の氣が強すぎて不吉とされ、それを拂(はら)ふ目的で節句が行なわれてゐたが、後に陽の重なりを吉祥として祝ひ事となつた爲に、邪氣を拂つて長壽を願ひ、菊の花を飾つたり菊の花瓣(はなびら)を浮かべて酒を酌み交はしたりするやうになつたといふ。

 五節句の日には、宮廷において節會(せちゑ)と呼ばれる宴會が開かれ、祝儀料理とでもいふやうな「御節供(おせちく)」と呼ばれた節句料理が振舞はれたが、軈(やが)て、「御節(おせち)」として最も重要とされる『人日』の節句の正月料理を指すようになつたと言ひ、節句に飾られる人形は節句人形とも称されて、

 「雛人形、五月人形」

 などがある。

 この春に飾つた雛人形を、「秋の雛」としてもう一度飾る風習があるといふ。

今はその習慣(しふくわん)も、和服を著(き)るといふ行爲(かうゐ)よりも廢(すた)れてしまつてゐて、かういつた傳統的なものは目に見えない内にいつの間にか消失し、それに氣がついた時にはもう手遲れになつてゐるものである。

 

 

九月十日

 

   稻妻や音は遲れてきらめけり 不忍

 

 いなづまや   おとはおくれて きらめけり

C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「五八五」の字餘りで「稻妻やきらめきて音は遲れけり」であつたが、時系列過ぎて面白くないので改めた。

 「稻妻」は「雷(神鳴)」ともいつて、大氣中の放電現象であると同時に發光現象でもあり、雲の中で起こる放電を「雲放電」と呼び、雲と地上との間の放電を「落雷」と呼ぶ、光と音を發生する自然現象の事である。

 また別に、「稻妻」は「いなびかり・いなたま・いなつるび」といふひ、「雷」は「かみなり・いかづち・なるかみ」ともいふと辭書(じしよ)にある。

 本來、音と光を伴ふ現象を『雷電』と呼び、その「雷」の時に起こる音は「雷鳴」といひ、「雷」の時に起こる光を「稻妻」と呼び、『雷電』の「電」に當る事になる。

 現代では「雷」も『雷電』も同じ意味で使はれ、「稻妻」の後に「雷鳴」がするが、その音は地面に落下したときの衝撃音ではなく、空氣の急速な膨張よつて生じる音速を超えた時の衝撃波であるといふ。

 「稻妻」は光速で傳はり、それに對して「雷鳴」は音速で傳播する爲に「稻妻」よりも遲れて到達し、雷の發生した場所が遠いほど「稲妻」から「雷鳴」までの時間が長くなるので、その時間を計ればその距離も解明できる。

 舊暦で稻が稔る夏から秋の始めにかけて雷がよく發生したので、その落雷が稻穂感光して實を結ぶと考へられて、「稲の妻」則ち「稻妻・稻光」といふのが語源であるといふ。

 因みに、積亂雲(せきらんうん)から發生するので「雷」は夏の季語だが、稻の妻と言はれるところから「稻妻」は秋の季語とされてゐる。

 朝の五時に店を終(を)へれば今日は休日(きうじつ)なので、二階で假眠をとつてから九時過ぎに自宅へ行かうと店を出ると、雨が降りだしてゐた。

 さうかと思ふと、稻光は見えなかつたが雷の音が聞えて來て、雨の中を急いで家へ向つた。

 別に雷が怖い譯ではないが、何か理由もなく心の中に光が明滅するやうな不安に驅られた。

 

 

九月十一日

 

   見えるものみな秋空に溶込んで 不忍

 

 みえるもの  みなあきぞらに とけこんで

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 初案は「土手に登ればみな秋空に煌(きらめ)けり」であつたが、

「土手に登つて寢轉(ねころ)べば」

といふ詞書(ことばがき)を添へる事で納得した。

今日は午後から二軒の病院に藥をもらひに出かけたが、天竺川の堤防から箕面方面を眺めると、爽やかな秋空に一切の景色が空に向つて吸込まれてゐるやうに見えた。

 藥を手にした歸りにDVDを借りて來て、今日の外出は終了した。

 

 

九月十二日

 

◎ ◎行く風のゆくへ芒に聞けぞかし uvs150913-001

 

   吹く風のゆくへ芒に聞けぞかし 不忍

 

 ふくかぜの   ゆくへすすきに きけぞかし

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 人は何處(いづこ)からいづこへ行くのだらう。

それは與(あづか)り知らぬ事だといはれさうだが、哀れさと侘しさを誘ふ秋風にでも聞いて見ようか。

 「愁思」といふ言葉があるが、それは「春愁」といふ感覺的な言葉よりも遙かに哲學的な趣を含んでゐるやうに思はれる。

 店の前の神刀根線の道路を隔てた向ひ側にある坂本病院の屋上に、今年も芒が風に搖れてゐる。

 その病院は、主に終末醫療を扱つてゐるとの事だが、妻に言はせると、

 「それにしても、病院に芒なんて、どうなのかしら」

 といふ事らしい。

 めつきり秋らしい風が吹き出した。

 更に一句。

 

   いづこからいづこへ行かん秋の風 不忍

 

 いづこ から  いづこにゆかん あきのかぜ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 

九月十三日

 

   八朔の願ひは褪せぬ思ひかな 不忍

 

 はつさくの  ねがひはあせぬ おもひかな

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「八朔の願ひは今も榮えかな」で、その後下五句を「不變かな」とするも諦めて最終案となつた。

 九月十三日は舊暦(きうれき)の八月一日のことで、この日を『八朔(はつさく)』といふと辭書(じしよ)にある。

 新暦だと八月二十五日ぐらゐから九月二十三日あたりまでを往來(ゆきき)し、この頃に早稻(わせ)の穗が實(みの)るので、初穗を恩人などに贈る風習があつたといひ、これを「田の實の節句」ともいう。

 これを「頼み」にかけて、日頃お世話になつてゐる人に贈り物をする風習も生れたやうであり、江戸期には正月に次ぐ祝日として扱はれたといふ。

 この日は、各地で五穀豐穣や子孫繁榮を願つて「八朔祭」が行はれてゐる。

 因みに、果物の「ハツサク」も八月一日頃に食べられるようになつた爲に、この名がついたさうである。

 それにしても、このやうな行事といふものの本質は繁榮であるといふ事に變りがないやうである。

 

 

九月十四日

 

   雲間より光の階照らす秋 不忍

 

 くもまより  ひかりのきざは し てらすあき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「雲間より光の階射すや秋」であつたが、下句の「サ行」の聯續(れんぞく)が鋭すぎると氣になつたので改めた。

 夕方、天竺川を越えて庄内驛の近くの『TSUTAYA』へDVDを借りに出かけたら、箕面連山の稜線の邊(あた)りに灰色の雲がかかつてゐた。

 天候はそれほど惡くはなく、ただ空の一角を覆(おほ)ふやうにどんよりとした雲が停滯してゐるといふ風景であつた。

 そこからひと筋の階(きざはし)のやうに陽射しが洩れてゐて、それが空に向つて何者かが登つて行けるのか、それとも降りて來るのかは不明だが、そんな想像をしてしまひさうな風景であつた。

 秋の氣配は確実にその下にあつた。

 

 

九月十五日

 

   夕燒の光さびしく蜻蛉飛ぶ 不忍

 

 ゆふやけの   ひかりさび しく とんぼとぶ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 この句の中七句の「さびしく」といふ形容詞は問題のある言葉で、筆者が主催する發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』で會員の作品に、形容詞と形容動詞、それと固有名詞の使用には注意が肝要だから、初心の人は敬して遠ざける可きであると釘を刺してゐる。

 それをここで筆者は臆面もなく採用してゐる。

およそ六十年近くも發句を作つてゐるのだが、それゆゑに許されるのだと大見得を切る心算(つもり)はない。

 ただ、動かしやうのない言葉としてそこに収めるのは、とても難しいものだと考へてゐる。

 だからといつてこれが搖るぎのないものであるかどうかを、一體(いつたい)誰が判定するのかといふ問題は、當然(たうぜん)の事として殘つてはゐるのだが、「寂しく」の代りに「一筋(ひとすぢ)」といふ表現でそれを傳へる事も、例へば英語のやうに單數形と複數形との區別のない日本語では、下句を「とんぼ一匹」と字餘りにするのも不自然で、「とんぼ一(いち)」といふのもどうかと思ふだらう。

 勿論、「寂しい」といふ言葉を翳に隠して「光の中で我と蜻蛉」といふ方法もあるにはあるが、にしても語り過ぎにならないだらうか。

 かくして、一句は成つたのである。

 自宅へ風呂を浴びに行つた歸り、裏道にある稻穗の撓(たわ)わに實(み)のつた田圃根際(ねき)を通ると、他所よりも開けた空間に夕燒が雲に映え、蜻蛉が一匹だけ筆者の周りを廻つてから夕燒に向つて消えて行つたのが、とても切なくて美しい情景であつた。

 

 

關聯記事

 

詩作に就いて

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二十四、『憂きわれを寂しがらせよ 閑古鳥』について『發句雜記』

http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4637715&id=75218782

 

 

九月十六日

 

   流鏑馬の射るものやなに國の秋 不忍

 

 やぶさめの  いるものやなに くにのとき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 愛用の高島易斷の『九星本歴』によれば、この日は鎌倉鶴岡八萬宮で流鏑馬の神事が催され、その行事を遡れば源頼朝(1147-1199)にまで行き著くといふ。

 流鏑馬(やぶさめ)とは「鏑流馬」とも表記し、疾走する馬上から鏑矢(かぶらや)を射て的に當てる騎射の技術の事で、儀式であると同時に稽古をも含んでゐて、初めは「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれてゐたのが、「やぶさめ」と呼ばれるやうになつた日本の傳統的な行事である。

 この流鏑馬は、鎌倉鶴岡八萬宮では毎年四月と九月に開催されるのださうで、元はと言へば武士の嗜みとしてゐたのだが、個人の武勇による戰鬪から兵法や兵器の進化による鐵炮(てつぱう)などの集團の戦闘の時代に移るにつれ廢れて行き、形骸化されたものとなつたものであるから、基本は武力行爲以外のなにものでもなかつた事になる。

 いま國會で「安全保障關聯法」の審議で紛糾してゐる。

 集團的自衛權といふものも含めて、憲法第九條をどう解釋するのかではなく、どう扱ふのかを論議すべきであらう。

 この下五句にある「秋」は季節を指すと同時に、諸葛亮孔明(181-234)の水師の表に、

 

 「危急存亡の秋(とき)なり」

 

 といふ文章があるが、この「秋」の事をも示してゐるのである。

 文藝作品である、しかも最も短詩形の定型詩である發句に、政治絡みの内容を盛るのはいかがなものかとの批判もあらうが、それさへも表現が可能である事を示唆出來ればと、かくは詠んで見る事にした次第である。

 

 

     關聯記事

 

『自衛隊』と『集團的自衛權』に就いて

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九月十七日

 

   雨落ちて山は空へと霧を生む 不忍

 

 あめおちて   やまはそらへと きりをうむ

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 初案は「雨落ちて山から空へと霧を生む」と中句が八音であり、「から」よりも「は」とした方が下五句で受けた「生む」感覺が強くなると思つて推敲した。

 今日は定休日だつたので「箕面109シネマ」へ映畫(えいぐわ)を觀に出かけ、『ジュラシツク・ワアルド』を鑑賞(?)した。

 相も變らぬご都合主義の作品で、虚假威(こけおど)しの感は否めなかつた。

 唯一、箕面連山の一部から霧が空へと吸上げるかのやうに昇つてゆく樣子を車中から眺められたのが収穫であるといへた。

 

 

九月十八日

 

   ぽつねんと陽だまりにある老いの秋 不忍

 

 ぽつねんと  ひだまりにある おいのあき

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 初案は「要らざるに老いたと知れと秋高し」と、川柳の如き冷笑的(シニカル)なものであつた。

 世間をかかる斜めから見るやうな態度が、結構氣に入つてゐる筆者ではあるものの、流石に發句としての完成度を考慮すれば改めざるを得ず、かくは新案となつた。

 國民の祝日に關する法律によつて、

 「多年に亙(わた)り社會に盡してきた老人を敬愛して長壽を祝ふ」

 その事を趣旨とする「敬老の日」が、二〇〇二年(平成十四年)までは毎年九月十五日であつた。

 それが二〇〇一年(平成十三年)の祝日法改正により、所謂(いはゆる)幸月日(ハツピイマンデイ)制度の實施(じつし)で、二〇〇三年(平成十五年)から九月の第三月曜日となりつた。

 けれども、第三月曜日に移す事を高齡者團體(だんたい)から反撥(はんぱつ)が相次いだことにより、二〇〇一年(平成十三年)に老人福祉法を改正して「九月十五日」を『老人の日』とし、同日より1週間を『老人週間』として今日に到つてゐる。

 抑々が、一九四七年(昭和二十二年)に兵庫懸の村長と助役の提唱で「としよりの日」が始まつたのであるから、「こどもの日」や「成人の日」と同じうして日本獨自のもので、輸入された「母の日」とは一線を劃(くわく)する記念日といへる。

 また、その一週間を『黄金週間(ゴオルデンウイイク)』に對して和製英語で『老人週間(シルヴアウイイク・Silver Week・ SW)』とも言ふが、現行法では恆久(こうきう)的なもの、則ちで毎年連休ではない爲に『白金週間(プラチナウイイク)』とも呼ばれるといふ。

 かくまで騷がしく、祝日としてどうかうといふのも大きなお世話といふ氣がしないでもないが、そこまで依怙地になる事もあるまいかと思ひ直したりする。

 

 

九月十九日

 

   秋を往く身を引締めて風に乘る 不忍

 

 あきをゆく  みをひきしめて かぜにのる

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 昨日も言つた事だが、十九日の今日は『老人週間の日』である。

 近頃では、老人週間といふよりも「シルヴアウイイク」といふ方が耳障りが良いといふ配慮からか、こちらが主流となつてゐるやうだ。

 自宅の校區の小學校で「敬老の集ひ」の葉書が來てゐたので、撮影も兼ねて出かける事にした。

 店から自轉車だと一〇分もかからないので、態と高川の堤防を走つて遠廻(とほまは)りをした。

 晴天といふ程でもないが、そこそこの天候の中を風を切つて走るのは氣持良かつた。

 この句に「老人會に自轉車で撮影に」といふ詞書(ことばがき)を添へる事にした。

 

 

九月二十日

 

   問うて見ん彼岸の墓に捨子花 不忍

 

 とうてみん  ひがんのはかに すてごばな

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 上五句の「問うて」は「問ひて」のウ音便化したもので、「問ふて」とはならないのであるが、『捨子花』とは曼珠沙華の異名で、この問ひかけの内容は親は何處にゐるのかといふ事であるのは論を俟(ま)たない。

 高島易斷の九星本暦によれば九月二十日は「彼岸の入り」で、彼岸は歳時記では春の季語で、秋の場合は「秋の彼岸」若しくは「秋彼岸」といふ。

 そこで曼珠沙華こと『捨子花』の登場と相成つた譯である。

 であるから、これは季語が二つある、所謂(いはゆる)「季重なり」といふ類(たぐ)ひのものではないと諒解されたい。

 彼岸は春分と秋分を中日として前後各三日を合せた各七日間の事で、雜節のひとつで「彼岸の入り」から「彼岸明け」まであり、この期間に行ふ佛事を彼岸會(ひがんゑ)と呼ぶと辭書(じしよ)にある。

 彼岸とは梵語(サンスクリツト)語で「波羅蜜(Pāramitā・パラミタア)」の意譯であり、「至彼岸」に由來して此岸(しがん)に對する言葉である。

 詰り、般若心經にもあるやうに、此方(こつち)の岸から智慧(ちゑ)の筏に乘つて煩惱(ぼんなう)の川を越えて、彼方(あつち)の涅槃のある岸へと到るといふ意味である。

 毎年、春と秋の彼岸にはみゆき(妻)ちやんが「おはぎ」を作つて墓へ參(まゐ)つて御供へをする。

 「おはぎ」は「ぼたもち」とも言ひ、いづれも同じもので彼岸の供へ物であるが、春に咲く「牡丹」と秋に咲く「萩」からの命名であると物の本にある。

 午後三時に自宅で風呂を浴びてから、みゆきちやんと墓參りに行つて來た。

 

 

九月二十一日

 

   敬ふ日いつもあればと老いの秋 不忍

 

 うやまふひ   いつもあれば と おいのあき

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 初案は下五句の「老い」が「思ふ」で、それはそれで普遍的ではあつたが漠然としてゐるので改めた。

 「老い」に關しては、SNS上に於いて筆者は本名は兔も角、年齡や生年月日を非公開にしてゐる。

 その理由のひとつとしては上下關係を取拂(とつぱら)ひたかつた事と、もうひとつは誕生日に人樣から祝はれるのが面映いといふ事が擧(あ)げられたからであるが、無論、互ひを敬ふ氣持の現れとしての言葉遣は維持しなければならないだらうし、筆者以外の方の誕生日を祝福するのに勞を惜しむものではなく、寧ろ、積極的に祝辭を述べて來た心算(つもり)である。

 ただ筆者に關しては、年齡を公開するほどのものとは考へてゐなかつた事と、幼少の頃から誕生日を祝はれた經驗が乏しかつた事もあり、反應(リアクシヨン)に窮してしまつて素直に喜べないので、さうしてゐる次第である。

 それでもこの場だけで敢(あへ)て云ふならば、一九四九(昭和二十四)年五月四日の生れで、今年六十六歳になるが、自身ではそんなに年を取つたとは普段は考へてゐず、いま何歳だと指を折つてみて始めて、もう六十六歳なのかと殘りの生命に思ひを致すのである。

 光陰矢の如し――。

 

 

九月二十二日

 

   愛護するその中にあるや人も秋 不忍

 

 あいごする  その なかに あるや ひともあき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪ ♪♪♪ ♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「愛護するその中にあるや秋の人」と下五句が違つてゐた。

 今囘の句は中句が八音の十八文字の字餘りで、中句にある「中に」を『三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))』に扱ふ事で處理する型(パタアン)があり、切字の「や」の効果を考慮すれば、それに『四分音符(†)』の一拍を與(あた)へたいので、こちらの方が妥當であると考へられるが、俳譜にはもう一つ別の版(ヴアジヨン)があつて、それは、

 

 あいごする  そのなかにあるや ひともあき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふもので、中句に『八分音符(♪)』を八つの四拍子にする事で成立するが、「立板に水」と流れるので引込める事にした。

 高島易斷の九星本暦によれば、今日二十二日は、動物愛護週間(二十日~二十六日)だといふ。

 今から三十年ほど前になるが、雜誌に動物愛護協會の會長の自宅の應接室での會見(インタビユウ)の記事があつて、そこに動物の剥製が堂々と飾られてゐたのに驚いた記憶がある。

 それは動物の愛護といふ觀點(くわんてん)からは、どうなのかといふ氣がしたからである。

 その中に人間も入つてゐるのだらうかと、不圖(ふと)考へて仕舞つた。

 愈々(いよいよ)龝(あき)は深まつて行く。

 

 

九月二十三日 

 

   かにかくに風に言はせて川柳忌 不忍

 

 かにかくに   かぜにいはせて せんりうき

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 今日九月二十三日は『川柳忌』である。

發句で川柳の祖である柄井川柳(からゐせんりう・1718-1790)の句を詠まうとは、何だか畑違ひの可笑(をか)しな氣分であるが、雜俳の一つである狂句が川柳と言はれるやうになつたのは、明治になつてからだと言はれてゐる。

 柄井川柳は七十二歳まで生き、五十歳まで生きた松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)に遲れること七十有餘年の後で、調べると川柳の名は初代から十五代まで受繼がれてゐるといふ。

 

 川柳は連歌の平句の體(てい)で、前句の「七七」を受けて詠むのが基本である處から「前句附」といふのであるのに比べ、發句は連歌の最初の「五七五」で詠まれ、季語も切字も必要とされるので、同じ十七文字でもその性質が異なつてゐる。

 この句の上句の副詞「かにかくに」は、「とやかく・あれこれ・いろいろと」といふ意味であると辭書(じしよ)にある。

 この言葉は、大伴坂上大嬢(おほとものさかのうへのおほをとめ)の有名な和歌で、

 

   かにかくに人はいふとも若狭道の

   後瀬の山の後も逢はむ君

 

 かにかくに   ひとはいふとも わかさぢの

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 のちせのやまの   のちも あはむ きみ

 ♪♪♪♪♪♪†┃γ♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪┃

 

 といふのがあり、「人といふものは色々といふものだが」といふのを受けて、中句の「風が言ふ」とは風聞の事で「噂・風評・風の便り」を言ひ、世間では俳句や川柳と囂(かまびす)しいが、ひとり筆者は「川柳忌」に思ひを致さうといふ意味である。

 今日は秋分の日でもあつたので、もう一句。

 

   頂は秋を分けてや箕面山 不忍

 

 いただきは   あきをわけてや みのおやま

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 晝(ひる)と夜の長さが同じになるといはれる秋分の日は、一九四八年(昭和二十三年)に公布・施行・制定された日本の國民の祝日の一つで、その趣旨は、

 「祖先を敬つて、亡き人々をしのぶ」

 といふ意味では彼岸と大した違ひはないやうである。

 今日から二度目の大腸茸腫(ポリイプ)の手術の爲に市民豐中病院に入院したが、七階から見える箕面の山も所々に紅葉が認められる。

 

 

九月二十四日

 

 

   秋雨や癆咳といふ妣の病ひ

 

 あきさめや  ろうがいといふ ひのやまひ

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 初案は「妣(はは)遙か癆咳といふ病ひかな」であつた。

 「癆咳(らうがい)」とは結核の事で、高島易斷の『九星本暦』によれば今日は「結核予防週間」であるといふ。

 一八八二年に獨逸(どいつ)の細菌學者ロベルト・コツホ(1843-1910)によって發見された結核菌によつて発症する感染症で、結核患者からの咳や嚏(くしやみ)によるの飛沫である唾などにより空氣感染し、一時期は世界人口の三分の一が感染されたとの記録がある。

 國民病とまで言はれた結核も抗生物質(ペニシリン)の普及によつて激減したが、再び結核の危険性に注意が喚起されているのだといふ。

 『妣』は「亡き母」といふ意味で、對(つい)の言葉に『考』があつて「亡父」を指し、「考妣(かうひ)」といふ言葉がある。

 顏も憶えてゐないぐらゐの幼少時に母が亡くなつたので、恥かしながら、どちらかといふと筆者は母親劣等感(マザアコンプレツクス)氣味である。

 

 朝五時前に目を覺まして、入院してゐる七階の病室の窓から外を見ると雨だつた。

 『秋雨』は、

 「秋雨・秋黴雨(秋入梅・あきついり)・秋霖」

 とも言はれ、温もりのある華やいだ『春雨』に比べて、寂しさに包まれた雰圍氣(ふんゐき)が感ぜられる。

 ただ、秋の雨は秋に降る雨の總稱(そうしよう)で、『秋雨』は梅雨のやうに降り續く雨の事であるが、秋雨は「あきさめ」と傍訓して「しうう」といふ音讀を好まないと古書にある。

 

   行く人も後の村雨翳む街 不忍

 

 ゆくひとも   のちのむらさめ かすむまち

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 『後の村雨』は「秋の村雨」とも言はれ、「村雨」が、

 「夕立・白雨(はくう・しらさめ・ゆふだち)・驟雨・繁雨(しばあめ)」

 の同じ意味として夏の季語とされてゐるところから、秋の季語として扱はれてゐる。

 「叢雨・群雨」とも表記される村雨は、風と共にさつと降り出して直ぐに止み、風鈴の音も相乘効果として爽やかな涼を運んでくれるが、古書に曰(いは)く、

 「連歌に『村雨』は四月、『後の村雨』は八月に降る」

 とある。

 而も、これは新暦ではなく舊暦によつてゐるのである。

 今日九月二十四日は陰暦だと、八月十二日となつてゐる。

 病室から外の景色を眺めてゐると、まるで下界を見下ろす不敵な存在になつたやうな氣がする。

 朝から降り出した雨は、正午の十二時に手術を受ける頃には、かすかに陽が射してゐるのが見受けられた。

 

 

九月二十五日

 

   曇り空の下に街あり退院す 不忍

 

 くもり ぞらの   したにまちあり たいゐんす

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 かく詠みたのちに中句を「曇り空の下に住まふや退院す」として、更に「曇り空の下に住まんと退院す」とするも、蹶起(けつき)文のやうで詩的ではないと思つてその儘にした。

 今朝の九時半ごろに會計處理の通知が來て、それを濟ませて十一時前には店に歸つてゐた。

 一週間の豫定が三日の入院で終へる事が出來、體調(たいてう)は頗る良好である。

 ただ、食事が前の入院から粥ばかりで、ほとほと閉口してゐる。

 天気の日も曇りの日も、風の日も雨の日も「日々是平安」といふ境地には、なかなかなれさうにない。

 

 

九月二十六日

 

   取立ててふるものもなき八雲の忌 不忍

 

 とりたてて  ふるものもなき やくものき

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 今日九月二十六日は「小泉八雲(1850-1904)」が亡くなつた日である。

 彼は、一八五〇年当時英吉利(イギリス)領であったレフカダ島(一八六四年に希臘(ギリシア)に編入)で、愛蘭(アイルランド)人の軍醫の父と希臘人の母との間に生れた所から希臘の出身の新聞記者と紹介される事が多く、父母の離婚後、父方で仏蘭西(フランス)及び英吉利で教育を受けてから渡米し、出版社の通信員として來日したのを切掛けに、日本で英語教師として教鞭を執るようになつて、一年後に結婚した。

 一八九六年(明治二十九年)に日本國籍を取得して「小泉八雲」と名乘るが、島根懸の松江市に在住してゐたので、出雲にかかる枕詞の「八雲立つ」に因んだものといふが、一説に音讀みすると「ハウン」になる事とが指摘されたりする事があるといふ。

 彼の作品では「耳なし芳一」や「雪女」が有名であるが、この句は雪どころか雨さへ降らないと詠んだものである。

 けれども、夜になつて、いきなり雨が降り出したので、

  

   降る雨の白くなれやと八雲の忌 不忍

 

 ふるあめの  しろくなれやと やくものき

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 思はず、かくは詠んで見る。

 さういへば、十年近くになるかと思ふが、島根に旅行に出かけた事があり、小泉八雲記念館へも訪れ、そこでも句を詠んでゐる。

 曰く、「ラフカデイオ・ハアン小泉八雲かな」であつたが、これでは季語がない。

 今なら出來は兔も角、間違ひなくかう詠むだらう。

 

   ラフカデイオ・ハアン小泉八雲の忌 不忍

 

 らふ かでお  はあんこいづみ やくものき

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 お粗末ながら、今日は入院前にも食した栗御飯が再び食前に出た。

 それも晝(ひる)と晩の二囘ともである。

 

   西方に淨土あらばや栗御飯 不忍

 

 さいはうに  じやうどあらばや くりご はん

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 松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)の『奥の細道』の、

 「栗といふ文字は西の木と書て 西方淨土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも      柱にも此木を用給ふとかや」

 とあるのを受けて、斯くは詠んで見た。

 終助詞の『ばや』は「希望・意志・打消」の用法があるが、この場合は「打消」として、

 「あればいいのだが、そんなものはありはしない」

 といふ意味を採用して貰ひたい。

 

     關聯記事 

山陰の旅

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九月二十七日 

 

   天空にただあるだけで良夜かな 不忍

 

 てんくうに  ただあるだけで りやうやかな

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 九月二十七日は、愛用の高島易斷の「九星本暦」に「十五夜」とある。

 「觀月(くわんげつ)」とも言はれる月見は、本來は舊暦の八月十五日から十六日の夜及び九月十三日から十四日の夜に行はれ、單に「十五夜・十三夜)」と言はれる。

 月を愛でる慣習は中國や日本に於いて古くからあるものの、反對に月見を忌む思想も見受けられたやうで、この風習は唐代の頃からと推察される。

 貴族から解放されて民衆にまで浸透したのは、宋代の頃の記録に殘つてゐて、それが平安時代の日本の貴族社會に傳へられ、宇多法皇の時に和歌や管絃を奏でて酒を酌交して「十三夜」の月見を催したといふ記録があるさうだが、ただ、その頃は月を直接見ずに、杯や池にそれを映して樂しんだのだと言はれてゐる。

 軈(やが)て、里芋の収穫時期とも相俟つて芋を供へたり、芋煮を食べる所から「芋名月」と言ひ、それに對して十三夜は「栗名月・豆名月」と言はれ、それが月見團子などの供へ物へと變化(へんくわ)して行き、少し前まではそれぞれの家庭で月の見える場所へ薄(すすき)を飾り、「月見團子・里芋・枝豆・栗」などを盛つて、御酒を供へて月を眺めるてゐたが、今では見られる事も少なくなつた。

 面白いのは「お月見泥棒」といつて、子供達が近隣の各家の供へ物(月見團子・栗・柿・枝豆・芋・菓子)を家人に見つからないように盗んで廻り、家人もその行ひを見て見ぬ振りをしたといふが、西洋の「諸聖人(ハロウイン)」の日牴牾(もどき)で、如何にも微笑ましい風習があつたものだと思ふ。

 十五夜の月を「中秋の名月」と呼ぶが、秋を「初秋(舊暦七月)・仲秋(同八月)・晩秋(同九月)」の三つに區分した時の舊暦八月全體の月を指す「仲秋の名月」とは別のもので、「中秋」とは「秋の中日(舊暦八月十五日)」而己(のみ)の月を指すものであると辭書(じしよ)にある。

 また、八月十五夜に對して日本獨自の十三夜は「後の月」とも言はれ、十五夜と十三夜の兩方を祝つて、どちらか片方の月見しかしないのを「片月見・片見月」といつて縁起が惡いと嫌はれるのだといふ。

 舊暦は一年を閏月で調整しなければならず、「閏八月」または「閏九月」が挿入される場合があつた時、一年に十五夜または十三夜が二度現れる事があつて、二度目についてはそれぞれ「後の十五夜」、「後の十三夜」と呼ばれるのだといふが、それが丁度去年の二〇一四年十一月五日に百七十一年ぶりに「後の十三夜」が出現してゐたので、憶えてゐる方もをられるだらう。

 調べた事を更に述べると、舊暦の十月十日の月は「十日夜の月」と呼ばれ、「中秋の名月」と「後の月」に對して「三の月」と言つて、この夜の月がその年の収獲の最後を告げるものとされたのだといふ。

 因みに、滿月を「望」と言ひ、月が雲に隱れて見えない事を「無月」、雨が降つた状態を「雨月)」と言ふ。

 いろいろと煩(わづら)はしいかも知れないが、八月十四日の夜の月を「待宵(まつよひ)」と言ひ、十六日を「十六夜(いざよひ)」、十七夜を「立待月(たちまちづき)」、十八日を「居待月(ゐまちづき)、十九日を「寢待月(ねまちづき)」、二十日を「更待月(ふけまちづき)」というが、「二十三夜待ち」とか「二十六夜待ち」まで行つたとも言はれてゐる。

 

 

九月二十八日

◎なほ我にかがやき見せん十六夜 uvs150929-001

 

   なほ我にかがやき見せん十六夜 不忍

 

 なほわれに  かがやきみせん じふろくや

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 「既望(きばう)」とも「いざよひ」ともいふ『十六夜』は、舊暦(きうれき)の八月十五日の『十五夜』の次の日の八月十六日の月の事であるが、今年は『衝望(スウパアムウン)』に當(あた)り、月が通常よりも大きく光り輝くのが見られる。

 スウパアムウン(Supermoon)とは、天文學的には「太陽・地球・月」において、月が地球に對する近點(きんてん)にあると同時に、太陽と地球に對して月が衝(しよう)となった時の事をいふとあるが、具體的には滿月または新月との楕圓軌道(だゑんきだう)が、地球へ最接近して重なり、地球から見た月の圓(ゑん)が最大に見える事をいふ。

 ただ、これは占星術に由來し、天文學用語では近點の滿月を『近點滿月(ペリジイ・フル・ムウン・Perigee full moon)』と言ひ、新月は『近點新月(ペリジイ・ニユウ・ムウン・Perigee new moon)』といふのださうである。

 これほど世間に廣まつてはいないが、その反對の現象である遠點(ゑんてん)での惑星直列を『遠望(マイクロムウン(Micromoon)』と呼ばれるが、この用語の『衝望(スウパアムウン)・遠望(マイクロムウン)』の漢字による當字は筆者の造語であるが、これに就いては、單に「超滿月」とすれば良かつたとのだらうが、餘りりにも安易で直譯よりも意譯に重きを置いた次第である。

 根據(こんきよ)はないが、月は地球の潮汐に関与してゐるので、衝望(スウパアムウン)の時期には地震や火山噴火の危険度が高まるとの主張もあるらしいが、都市傳説のひとつに加へられるもののやうである。

 二〇一四年はスウパアムウンの當り年で、「七月十二日・八月十日・九月九日」と年に三囘も見られる幸運に惠まれたが、今年は二日續けての觀月が愉しめるものの、月の最大の大きさが確認出來る日本での時間は、午前十一時五十一分頃と言はれてゐるので、殘念ながら月は晝間(ひるま)なので觀賞は諦めざるを得ない。

 それでも深夜になつて白く涼し氣な月を眺めてゐると、何だか憑物が落ちて行くやうに清々しい。

 病み上がりに取つては、せめて己が身に代つて耀(かがや)いて貰ふしかない。

 

 

九月二十九日

 

   長居すれどたちまち月のかかる空 不忍

 

 ながゐ すれど  たちまちつきの かかるそら

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 舊暦(きうれき)の八月十七日は十七夜で、それを「立待月(たちまちづき)」といふ。

 月の出が立ちながら待つ内に出てくる意味で、十五夜以後は次第に遲い月の出となり、十六夜(いざよひ)の月は山の端に、十七夜は立ち待つ程に出でて、十八夜は座して待ち、十九夜は臥して待ちつつ、二十日には夜半近くと更けて待つ程に遲くなる。

 一説に、これらの呼稱は「七夜待ち」といつて十七夜より二十三夜までの月を七觀音に配したものといふ。

 十六夜(いざよひ)以降はまだかと待つやうになるものの、それでも立待月といふぐらゐだからそれ程でもない。

 思つたよりもといふ氣分である。

 

   いづれともに缺けてはならじ兩祖の忌

 

 いづれ ともに  かけてはならじ りようそのき

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 曹洞宗(さうとうしゆう)の信仰の上で大切な人物として、五十四歳で沒した道元禪師(1200-1253)と、六十二歳で沒した瑩山(けいざん)禪師(1268-1325)の二人を、兩祖忌(りようそき)として九月二十九日に報恩の法要をするが、明治十年(1877)に制定されたものだといふから比較的新しいものである。

 第一、道元は八月二十八日、瑩山は八月十五日で、どちらも亡くなつた日は異なつてゐる。

 鎌倉初期の禪僧で曹洞宗の開祖である道元により只管打坐(しくわんたざ)を説かれ、「永平寺・總持寺」を大本山とする。

 因みに、道元は「佛性傳東國師・承陽大師」、瑩山には「弘徳圓明國師・常濟大師」の諡號が贈られてゐる。

 今日の句は、二句ともに出來がもうひとつであるが、日によつて斑(むら)があるのは已む得ない事だと、讀者には諦めてもらふしかないだらう。

 

 

九月三十日

 

   居待月よ苦しうからず近う寄れ 不忍

 

 ゐまち づきよ  くるしうからず ちこうよれ

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 けふ九月三十日は陰暦の八月十八日で十八夜となり、「居待月(ゐまちづき)といはれてゐる。

 昨日に引續き、何處(どこ)かしら川柳牴牾(せんりうもどき)の感がある句姿となつてしまつた。

 「居待」とは月は待つてゐる間に月が昇るという意味で、前夜の「立待月」の立つて待つよりも遲くなつてゐる譯である。

 和歌の「枕詞(まくらことば)」では、その月の明るさから「明かし・明石」に掛るが、この句の場合は、俳諧の俳味が先祖歸りのやうに顯(あらは)れたといふところであらうか。

 にしても、『一日一句』の重壓(ぢゆうあつ)による苦し紛れの作品であるに違ひなく、我が身の未熟さを思ひ知る許である。

 

 

十月一日

 

   雨止んでそれでも見えず寢待月 不忍

 

 あめやんで  それでもみえず ねまちづき

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 『寢待月』とは昨日の陰暦八月十九日の夜の月の事で、「居待月」よりも更に遲くなつて、寢て待つ程になつたといふ意味で、別に「臥待月(ふしまちづき)」ともいふがいづれも内容は同じである。

 十月の初日は木曜だから店が休みで、朝の九時から藥が切れて病院へ出かけなければならなかつた。

 雨を含んだ空は曇つてゐて、降り出すのは時間の問題だと思はれた。

 命を助けて貰つてこんな事を言ふのも何だが、病院といふ所は人の時間を何だと思つてゐるのだらうか。

 といふのも、九時半から込合つた街合室で十一時まで待たされて、恩人であるとは言へ醫者(ゐしや)と面談をしたのは僅かに二分足らずである。

 その間、そこにある雜誌を讀んだり、こんな事もあらうかと持込んだ新書版の本を讀んだりして、待ち時間を遣繰りしてゐたが、時間とは命と同義語である。

 それを貴重な休みの午前中を病院の待合室で拘束されるなんて、何とも業腹な事である。

 餘程(よほど)、喫茶店でモオニングでもと思つたが、病院を終へてからでも良いかと泣く泣く前を通り過ぎて來たのに、これでは十一時までといふ期限のあるモオニングに間に合はなくなつてしまつて、恨めしいこと甚だしい。

 御負けに、漸くの思ひで表へ出ると雨が降つてゐた。

 慌てて店の前へを通り過ぎて、自宅へと自轉車で向つた。

 傘を差して、二時から店の常連さんの經營してゐるカラオケ喫茶へ家族三人で出向いたら、満席状態で大繁盛であつた。

 相席で五時前まで三曲も歌つて外へ出たら、曇り空を殘した儘ではあつたが雨は上がつてゐた。

 「丸龜製麺」で輕く釜揚げうどんを食べてから、喫茶店のママから誘はれてゐたので店の近くの居酒屋で合流。

 結局、今日は夜の八時前まで外で過して仕舞つた。

 それでもその時まで傘は不要であつたが、いつのまにか雨が降り出してゐた。

今日は幾ら寢ながら待つてゐても、月にはお目にかかれない。

 人は勝手なもので、病院での待ち時間には文句を言ふが、月の出を待つのに不滿を述べるのは無粹だと甘んじて待ち續けたりするのである。

 

 

十月二日

 

   幾年も數へて更待月を見ん 不忍

 

 いくとせも  かぞへてふけまち つきをみん

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 けふ十月二日は陰暦でいふと八月二十日で、この夜に出る月は『更待月(ふけまちづき)』といふが、別に「二十日月(はつかづき)」とも「亥中(ゐなか)の月」とも呼ばれてゐる。

 「亥中」とは亥の刻の上刻と下刻との間といふ意味で、二十四時間を十二支に割當てた内の第十二番目になり、現在の午後十時の前後二時間頃を指してゐる。

 午前三時に外へ出て見ると、月は稍(やや)缺(か)けながら天心にあつた。

 月を見るといふ行爲(かうゐ)は乳幼兒以外は別にして、物ごころがつきさへすれば、自身が生きて來た數だけ經驗出來るはずであるが、それをいちいち覺えてゐる譯のものではない。

 自身の歴史を時系列で振返つてみても穴ぼこだらけで、繼接(つぎはぎ)だらけの生涯でしかないやうに覺束なく思はれ、それは一年を通して見られる月が『十五夜』に重きを置くのと似てゐるやうな氣がする。

 

 

十月三日

 

   惑ひつつ行くべき道も秋の暮 不忍

 

 まどひつつ  ゆくべきみちも あきのくれ

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 今日は高島易斷の『九星本暦』にも「八せん始め」とあるだけで、これといつて詠む可き題材もなく、強ひていへば十月三日は飯田蛇笏の「蛇笏忌」であるが、この人物については語る程の作品との附合ひはないので、自づと句作の對象(たいしやう)とはなり得ない。

 こんな時は、その季そのものを詠む外はなく、かくて斯樣(かやう)な仕儀と相成つた次第である。

 

 

十月四日

 

   竝べて世は皆育てれば里親の秋 不忍

 

 なべてよは  みな そだて  ればさと おやのあき

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 歳時記代りに利用してゐる高島易斷の『九星本暦』のよれば、十月四日は「里親デイ」とあつた。 

 平安時代から『里親』といふ名稱があつたといはれるが、その頃から昭和初期まででも誰でもが里親を利用出來た譯ではないく、初期には名譽(めいよ)とされてゐたので報酬などは少なく、どちらかと言へば身分の高いものとか、下働きを雇へるぐらゐのゆとりのある庄屋や商家の子供がその恩恵に與(あづか)れたので、嘗てあつた「水飲み百姓」といふやうな身分の者にはそんな餘裕どころか、逆に里親になつた事での名譽(めいよ)や、得られる収入で生活が助かつたりする事もあるので、有難がられたものと思はれた。

 『里親』は「里子」とも言はれ、下村湖人(1884-1955)の『次郎物語』でも主人公の次郎の境遇がそれであつた。

 「養ひ親」とか愚圖(ぐづ)る子供を寢かしつける「褥(しとね)親」であるとかもそれに當るが、親權とは關係なく兒童(じどう)を養育したり、見捨てられた兒童を引取つてゐる場合もさう呼んだりするといふ。

 この慣習は、里親と里子との間に親子關係が發生せず、里子は家督や財産などの相續權を有さないので、法制度の元の養子縁組とは違つた生活の智慧(ちゑ)ともいふやうな獨特の制度と言へた。

 里親や丁稚奉公などが當り前であつた時代は、私生兒や捨子の對處(たいしよ)としても利用されたりしたが、勞働力としての役目が強く、虐待などの問題も浮上してゐたりして良い面ばかりとは言へない。

 子育ては個人によるものではなく、社會全體が育てるといふ考へを根づかせないと、このやうな問題は解決しないのではなからうか。

 

 

十月五日

 

   笑み浮べお好み燒で集ふ秋 不忍

 

 ゑみうかべ  おこのみやきで つどふあき

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 今日は午後二時から老人施設(ホオム)で、所謂(いはゆる)講師として發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』の句會に出かけた。

 會に參加する人數は少ないけれども、皆から呼び慣れない先生といはれて戸惑ひつつも、早や十三囘目を迎へてゐるので、ぎこちないながらも聞き流せるやうになつて來た。

 十三囘目にして漸く、我が店のお好み燒を會の皆様に提供する事が出來た。

 それは前囘に、

 「さういへば、まだ皆さんに我が店の商品を食べて戴いてゐないので、次囘に持參します」

 と約束をしてからで、いつも集會する四階の娯樂室を兼ねた廣間(ロビイ)の洋卓(テエブル)を圍み、歓談しながらの「おやつ(には少し早いが)」の時間となつた。

 いつもは開催時間の目安を一時間にしてゐるのだが、二時から始まるのを一時半からお好み燒を食べて、二時から四時までの二時間も廣義に費やしてしまつた。

 今日は興が乘つたといふ外はない。

 

 

十月六日

 

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   悠然と雲泳がする秋の空 不忍

 

 ゆうぜんと  くもおよがする あき のそら

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 初案に中句の文語系の下一段活用の未然形に接続する使役の助動詞の「せる」とするか、下二段活用の「する」とのいづれが適切かを考へたが、素直に初案に從つた。

 この句、これに良く似たものを以前に詠んでゐるやうな氣がする。

 既視體感(デジヤヴ)のやうな錯覺(さくかく)が殘つてゐて氣持が惡い事この上ない。

 『一日一句』ともなると、さういつたものがあつたとしても已むを得ない事だと諦める外はないのかも知れない。

 秋の空が透明度を増す理由は、夏の空が南の太平洋を中心とする高氣壓(かうきあつ)に覆はれるのに比べ、秋は大陸から移動してくる高氣壓によつて晴れるので、空氣中に含んでゐる水蒸氣の量が少ない爲に、空の青さが濃くなつて空が澄んで見えるやうになるのだといふ。

 同じやうに春も大陸育ちの高氣壓に覆はれてゐるのだが、雪や氷が融けて土や砂が舞上がり、中國からの黄沙(くわうさ)でも視界を遮られるので、草が生茂つて埃が立ち難(にく)く、陽射しも弱まつて気温も低くなる秋とは異なつてゐる爲、秋の方が空が高く感ぜられる原因ともなつてゐるやうである。

 また、「卷雲(けんうん)」のやうに鳥の羽根のような雲とか、「卷積雲(けんせきうん)」のやうな「鱗(うろこ)雲」が空の高いところに現れ、上昇氣流が弱くなつて入道雲のような夏らしい雲は少なくなつて秋らしさに拍車をかけてゐる。

 この日、午前十一半に市民豐中病院で二囘目に受けた大腸茸腫(ポリイプ)の切除をした結果報告を聞きに出かけ、次の檢診の豫約(よやく)を濟ませて店へ歸つてから晝食(ちうしよく)を終へて、氣分直しに『TSUTAYA』へDVDを借りに出かけた。

 いつもと道を變(か)へて、細い路地を拔けながら天竺川への急な階段を上つたら、爽やかな秋らしい風に吹かれて白い雲が悠然と青い空に浮んでゐた。

 それはまるで大海原を泳いでゐるかのやうであつた。

 

 

十月七日

 

   草も人も地の影長し秋の風 不忍

 

 くさも ひとも  ちのかげながし あきのかぜ

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 午後四時前に風呂に入りに自宅へ歸つた。

 西に傾いた陽が鋪道にある草や歩いてゐる筆者の影を、現實のものよりも大きな虚像として地面に貼りついて、風に搖れる草も、自身の分身である影も實物が動くにつれて一緒に移動してゐる。

 陽射しはもはや夏のそれではなく、赤く染められた雲もゆるやかに空に搖蕩(たゆた)うて、風はしつとりと肌に觸れて行く。

 その氣配は明らかに心寂(うらさび)しい秋のものであつた。

 その昔、まだ高層の建造物もなく、目の前にあつた川や、その直ぐ先には大きな池が廣がつてゐた幼い頃-―。

風に搖れる草が夕日につつまれ、地面に落したその影を眺めて、獨りぼんやりと感傷のやうなものに浸つてゐるのが好きだつた。

そんな事をふと思ひ出した。

 

 

十月八日

 

   ゆく川の葉陰も動くや秋の暮 不忍

 

 ゆくかはの  はかげもうごくや あきのくれ

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 初案の上五句は「水澄みて葉陰も動くや秋の暮」であつた。

中句は七音よりも一音多くなつて八音となつたが、八分音符(♪)に一音を充(あ)てる事で、四分の四拍子として成立してゐて問題は解決(クリア)されてゐる。

 連日の『TSUTAYA』通ひで庄内の驛前へ行く途中、天竺川の堤防から川を眺めてゐると、水の色がいつになく透明感を増したやうに感ぜられ、覆ひ茂る草が風に戰(そよ)ぎながら川面に映ってゐて、深まる秋の中に身を置いてゐるやうな氣がした。

 ただ、前日の句の「草も人も地の影長し秋の風」と境涯が似た作品となつてしまひ、「等類」の誹(そし)りを免(まぬか)れないかも知れない。

 中句の「動く」は、上五句の「ゆく」から「葉陰」へと移行し、落し處が「暮」となつてゐる。

 初案の使用しなかつた「水澄みて」は、このまま「詞書(ことばがき)」として句の前に示しておかうと思ふ。

 

 

十月九日

 

   暮れてなほかすかに空に紅き秋 不忍

 

 くれてなほ  かすかにそらに あかきあき

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 初案は「暮れてなほ空に殘りし秋赤し」であつた。

 一日置きにDVDを借りに出かけてゐて、今囘も五本の映畫を選擇(チヨイス)して來た。

 木曜日に『アントマン』を劇場で鑑賞してばかりだといふのに、映像がないと落著かない。

 糅(か)てて加へて、圖書館からこのあひだ『黒澤明 樹海の迷宮』といふ四千三百圓(ゑん)もする硬表紙本(ハアドカバア)の書物を借りて來た。

 副題が『映畫「ゼルス・ウザアラ全記録1971~1975」』といふもので、隨分以前に新聞で發賣の廣告を見て氣になつてゐた。

 活字も中毒のやうに頭が欲しがるので、とはいつても時間がないので出かける時に、二宮金次郎(1787-1856)ではないが歩きながらとか、腰かけたり出來た時に讀むやうにしてゐる。

 『TSUTAYA』へ向ふのに、暮方だつたので流石に本は持つて行かなかつたが、天竺川の堤防から西の空を眺めると、日は完全に落ちて仕舞つてゐて、紅葉にはまだ時期が早くてそれを報せでもするかのやうに、それほど燃えるやうな色ではなく、まるで命の最後の炎ででもあるかのやうに微かに紅い色が暮殘つてゐた。

 

 

十月十日

御社の梢にひびくや秋祭 uvs151011-001

 

   御社の梢にひびくや秋祭 不忍

 

 みやしろの  こずゑにひびくや あきまつり

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 秋祭の時期になつて、店のある町會の長島神社でも宵宮が始まつた。

 この句の上下句は通常の五音の音型となつてゐるが、中句は八音の字餘りではあるものの、八分音符(♪)が八つで四拍となつて四分の四拍子としては解決されてゐる。

 けれども、切字の「や」には延長記號(フエルマアタ)を配した餘情が必要であると考へてゐる。

 何處の神社でもさうだが、長島神社でも天を突くやうな立派な楠(くすのき)が幾つも見られる。

 一般に、この木が多く神社にある理由としては、楠正成一族の所縁(ゆかり)から御神木としてゐるからだと思はれる向きもあらうが、多くは實(み)を食べた鳥が種をところ構はずに播き、何處でも生えて來てゐるだけで、さういつた縁起や由來とは無縁であるやうだし、特に植ゑられたりしたものではないといふ。

 また、楠は巨木に成長し易い爲に神社では神域に生えた木は無暗に伐採出來ず、大きくなれば注連縄(しめなは)を張つたりするので、一層意味ありげに見えたりするのであるが、そこから枝を切るだけでも怪我や、酷い時には命を落とすと言はれて、お拂(はら)ひの作法を行つた後に樣子を見ながら伐採をするのだけれども、それでも忌はしい事故があつたりし、それが偶然だとしてもそこへ原因を見出して、敬して遠ざけるといふ手段に頼つたものではなからうかと推察される。

 抑々(そもそも)、日本人は庭や里山の樹を大事に管理して、『切る』という言葉を忌み嫌つて剪定(せんてい)則(すなは)ち「剪(はさ)む」といつてゐる程で、そこからその道具を鋏(はさみ)とも剪刀(はさみ)ともいふのである。

 一説に、楠から防蟲劑の樟惱(しやうなう)が採れ、蟲も寄りつかない事から厄除けとしての意味合ひも感ぜられさうで、別に「樟」とも表記され、いづれも「くすのき」と讀まれる。

 

 

十月十一日

 

先觸れの幸ふ路地や獅子の舞ふ uvs151012-001

   先觸れの幸ふ露地や獅子の舞ふ 不忍

 

 さきぶれの  さきはふろじや ししのまふ

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 初案は「先觸れの幸(さち)呼ぶ露地や獅子の舞ふ」であつたが、

 「志貴島の日本(やまと)の國は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」

 と『萬葉集(まんえふしふ)』にあるやうに、「さち」よりも「さきはふ」といふ言葉の方が神事には合ふやうに思はれたので改めた。

 昨日に引續き今日は秋祭の本宮であつたが、昨日の店の近くの長島神社とは違つて、今囘は自宅の地區にある若竹神社の方の撮影に出かけた。

 二年前にも二日間に亙(わた)つて撮影し、その一部は『YouTube』にも送信(アツプ)したが、何しろ完全版は四時間もあるので九分弱に纏めるのに苦勞した。

 今回は朝の九時から夜の十時まで附切(つきつき)りで撮影したので、編輯(へんしふ)するのが大變である。

若竹神社の秋祭は『獅子舞ひ』が出るので、この地域でも珍しい行事となつてゐる。

 この獅子に就いては以前に、

 

 獅子が自分の子を谷に投げ落として、這い上がつて來た場合にのみ育てるといふ、

 「獅子は子を産んで三日を經る時、萬仞(ばんじん)の石壁より母これを投ぐるに、その獅子の機分あれば、教へざる中より身を飜して、死する事を得ずといへり」

と『太平記』をその出典とすると辭書(じしよ)にあつた。

 けれども、これは私見だから間違つてゐるかも知れないが、獅子は所謂(いはゆる)西洋の百獣の王のライオンの事ではなく、恐らくライオンを元にした想像上の靈獣の事であらうかと思つてゐる。

 その論據(ろんきよ)を述べれば、古くは「しし」は猪(いのしし)や鹿(かのしし)のやうな動物を指し、それと區別していふ爲に中國傳來の獅子は「唐獅子」といつたと物の本にある。

 一説に、中国の虎豹をも食ふといふ狻麑(さんげい)若しくは猊(げい)の事だといふとある。

 また、神社にある對(つい)になつた獅子に似た靈獣の狛犬は、高麗則ち狛から來たといふ意味で、左右の狛犬のうち、角が無いもの或いは向つて右側が獅子であると言はれてゐる。

 

 と『三、國立文樂劇場で『花弘會』を鑑賞して 第二部』でも述べた事がある。

 夜になつて九時過ぎに、獅子を來年の爲に最後の奉納をしに若竹神社へ行つたのだが、もう自轉車で走つて夜風を切ると冷たく感ぜられた。

 流石に今日は疲れた一日であつた。

 

 

十月十二日

 

   生きてゐるとあらためて知る蟲の聲 不忍 

 

 いきて ゐると  あらためてしる むしのこゑ

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 初案は「生きてゐると教へるごとき蟲の鳴く」であつたが、説教臭いので改めた。

 店から庄内驛のある繁華街に行くのに幾つもの道筋があり、最近は人通りの多い道を避け、專ら昔ながらの古い建物の竝んだ聚落(しゆうらく)の狹い通路を通り拔けるやうにしてゐる。

 その地域には幾つもの寺があり、その内のひとつの寺をの横を通つたら、涼やかだが悲しげな蟲の聲がか弱く聞えて來た。

 ここ半年の間に二度も入院して手術をした所爲(せゐ)か、今更ながらその蟲の聲を今年も聞かれた事に、何年先までこのやうな状況に遭遇出來るのだらうかと思つて感慨深かつた。

 明治以前の日本文學の要諦は「あはれ」にあると言はれてゐる。

 存在する全ての生きものは有限で、必ず消滅する定めを自身の中に内包してゐる。

 花や蟲はいふに及ばず鳥獣や人間に到るまで、生れた限りは死を迎へる運命を宿してゐるがゆゑに、有情の生物である人が、花散り――草葉の蔭でか細く鳴く蟲の音-―空行く鳥–飢ゑてさまよふ獣、滿たされぬ魂に飜弄された旅人がそれらを見聞きした時、思はず心に浮ぶ「あはれ」な感情が詩となつて呟かれる。

 さうして、言葉が發せられなかつたとしても、詩情は心の中に豐かに溢れてゐる筈で、その感覺は決して詩人だけに許された特權ではなく、等し竝に與(あた)へられたものである。

 

 

十月十三日

異郷への飛行機見つつ秋の珈琲 unnamed (9)

 

   異郷への飛行機見つつ秋の珈琲 不忍

 

 いきやうへの  ひかうきみつつ  あきのかふえ

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 今朝は長女の提案により、店から車で十五分程の所にある伊丹の猪名川添ひの『HIRO珈琲‎』にモオニングを食しに行つた。

店の入口 unnamed

 洒落た造りの建物で、二階の猪名川に向つた露臺(テラス)からは大阪国際空港(といふか筆者などは未だに伊丹空港と呼んでゐる)が一望出來、飛行機の往来(ゆきき)を仰ぎながら朝食を愉しんだ。

モーニングセット二種類 unnamed (4)

今日の日替り珈琲は克以利曼甲羅(キリマンジヤロ)であつた。

 この句は「朝」とか「モオニング」「異國の如き」と浮び、初案は「秋の朝異國のごときカフエテラス」であつたが、更に「異國への飛行機見つつ秋の珈琲」へと思索は移行した。

 けれども、よく考へれば伊丹空港から飛立つ飛行機は國内線で、異國への飛行機は國際線である關西空港からの便である事に思ひを致し、それでも昔は攝津の國から尾張などに行くといふ事も言へようから、國と言つても問題はない筈だと強辯(きやうべん)して煙に卷く事も考へたが、餘りに拘泥するのもどうかと思つて推敲する事にした。

 

 

 

 

 

關聯記事

 

三、國立文樂劇場で『花弘會』を鑑賞して 第二部

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十月十四日

 

   生きるとは暗號に似て秋深し 不忍

 

 いきるとは  あんがうににて あきふかし

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 二〇一五年十月から國民個人個人への「番號制度(マイナンバア)」の通知が始まる。

 個人を特定出來れば、災害などの救援の際により早く便宜が圖(はか)れるといふ長所(メリツト)を強調する事で、この番號制が如何に優れたものであるかと爲政者(ゐせいしや)はしたり顏で演説をぶつが、長所(メリツト)があれば短所(デメリツト)も當然(たうぜん)ある譯だから、單純に諸手を擧げて喜ぶのもどうかと思ふ。

 一體(いつたい)、全國民に個人番号をつけて個人を特定する事は、誰にとつて都合が良いのだらうか。

 支配者が統治された人民から萬遍(まんべん)なく税を集める爲に、所在を把握しておく必要があり、高い山から四方の國を見廻して竈(かまど)からの煙が見えないので、三年の間は租税と勞役を免除したといふ美談があつた。

 この場合は竈の數が民の所在地であつたのだが、これだとてそもそも統治する者がゐなければ、税を集金する必要などなかつた譯で、これまで散々収奪しておいて、可哀想だから少しの間だけ許してやろうといふのも業腹な事で、案の定、民の家々の竈から炊事の煙が立昇るのを見て課税と勞役を再開してゐるのである。

 それ以降だつて、荘園制度や檢地とか寺請制度(てらうけせいど)などによつて民衆を縛りつけ、檀家となる事で宗門人別改帖などの住民調査をされてゐ、明治期からは戸籍制度によつて國民は管理されてゐるのである。

 ここに來て、國民總背番號制によつて更に監視體制は整つて來るのであるが、さうは言つても受取を拒否する譯にも行かないのだらう。

 それならば一層のこと情緒がないこと甚だしいが、名前を廢止して野球の選手よろしく背番號制にしてしまへば良からうものを。

 生きるといふ事自體が謎のやうなものであるのに、背番號をつけたからといつて、何程の事が解決出來ようか。

 

 

     關聯記事

 

『税金』といふ言葉に就いて思ふ事

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1901625496&owner_id=25109385

 

 

十月十五日

 

   龍野路の先はいづこや赤とんぼ 不忍

 

 たつのじの  さきはいづこや あかとんぼ

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 初案は「龍野路の先に美作(みまさか)赤とんぼ」であつたが、次に「龍野路の先を示すや赤とんぼ」と推敲してから最終案となつた。

 この日-―木曜日は店が休日(きうじつ)だつたので、妻の實家(じつか)の美作へ里歸りした。

 朝八時に大坂を出發して名神豐中から西宮を經て龍野へと拔けた。

 龍野は大正十年に山田耕作(1886-1965)の作曲で發表された、『赤とんぼ』で有名な象徴派の詩人である三木露風(1889-1964)の生れた地である。

 以前、霞城とも呼ばれた龍野城跡には櫻の時期に幾度か訪れた事があるが、その附近の街竝もこじんまりとして素朴さの殘つたものであつたやうに思はれた。

 大抵の場合は車が混合ふので、街の外側の空(す)いてゐる道を選んで通り過ぎてゐて、今囘も觜崎屏風岩(はしさきのびやうぶいは)へと拔けて、彼の『赤とんぼ』歌詞を思ひ浮べながら美作へと向つた。

 子守に雇はれた「姐(ねえ)や」に「負はれて見た」、その「夕燒」に染まりでもしたかのやうな「赤とんぼ」が、「まぼろし」のやうに筆者の過去と未來を交錯させて眼前に出現して來る、そんな事を空想しながら……。

 

 

十月十六日

 

   有難き米粒光る早稻の飯 不忍

 

 ありがたき  こめつぶひかる わせのめし

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 初案は「有難き購(あがな)はず喰ふ早稻の飯」であつた。

 休日に妻の實家(じつか)の美作へ里歸りして、毎度のことだけれども収穫した野菜や米を車に積込んでから大坂へ戻つて來た。

 『早稻』とは今年新しく収穫した米の事で、「新米」とも「今年米」ともいふ。

 それまでは水稻粳(うるち)の育成品種の「こしひかり」だつたのが、今年はそれを更に品種改良した「あきたこまち」に變へたのだと言はれた。

 早速、近所にある有料の機械で精米して、店で御客さんに提供がてら晝食(ちうしよく)に食べてみる。

 茶碗によそほはれたご飯粒が光り輝いてゐて、見るからに美味しさうだつた。

 どんな事でもさうだが、當り前だと思はずに有る事が難しいものだと感謝の氣持を抱く事が大切だと、新米をいただきながら熟(つくづく) 思ふ。

 

 

十月十七日

圖書館に返し忘れた秋の夜 uvs151018-001

 

   圖書館に返し忘れてや秋の夜 不忍

 

 としよかんに   かへしわす れてや あきのよる

C♪ ♪ ♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃

 

 初案は「圖書館に返し忘れて秋の本」であつたが、下五句の「本」が諄(くど)過ぎるので、「圖書館に返し忘れた秋の夜(寫眞(フオト))」としてから最終案となつた。

 圖書館から『黒澤明 樹海の迷宮(映画「デルス・ウザーラ」全記録1971~1975)』を借りて來て、十月十七日に返さなければならなかつたのに、氣がついたら午後五時を過ぎてゐた。

 それも全六三九頁の内、まだ一七四頁までしか讀み進んでゐないのに、返却期日を超過して仕舞つた。

 この書籍は地區の圖書館にはなく、中之島圖書館から提供される事で讀む事が出來たものなので、返却は閉館後に夜間返却口では駄目で、受附まで直接手渡さなければならないのである。

 明日、未讀の儘で、平謝りに返さうと思つてゐる。

 世の中にはやり殘したままにこの世から引退しなければならない場合もあるが、圖書館の本ならばまた借りれば濟む話である。

 生きてゐるならばであるが……。

 

 

十月十八日

 

   秋色を窓に映して日の暮れぬ 不忍

 

 あきいろを   まどにうつして ひのくれぬ

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「秋色に夕日の映るビルの窓」で、「ビル」といふ單語に違和感を覺えたといふ事もあつたが、建物が夕燒の色に染まつてゐるるといふだけの寫生(しやせい)の句から、日暮れの殘したものを訴つたへる意味論的な主張が垣間見えるやうな作品に改めたいと思つて最終案となつた。

 筆者は景物や事物をありのままに映し撮るといふ、客觀的描寫(べうしや)を主とする寫生句には反對である。

 「洋畫の長所は寫生にあり」

 といふ正岡子規(1867-1902)が洋畫の理論に學んだ短歌や俳句における方法論は、繪畫(くわいぐわ)ならでこそ成立するものであつて、文章で繪畫のやうにありのままを表現するなど可能であるとは思はれない。

 それは繪畫においてさへ、近代になつて寫眞機の發明から、印象主義や立體主義(キユビスム)及び超現實主義(シユルレアリスム)といふ寫生からの解放によつて、新たな潮流が生れた事でも諒解されるだらう。

 況(ま)して、文章に繪畫のやうな寫生が可能であるといふ見果てぬ夢を託すなどは、聊(いささ)か浪漫主義者(ロマンチスト)に過ぎるのではなからうか。

 この句の下五句の「日の暮れぬ」の「の」は、「日は暮れぬ」と「は」にすると説明的となり、「日が暮れぬ」と「が」と變へると主觀的で、「日も暮れぬ」と「も」と變化(へんくわ)させると、外(ほか)に何かあるかのやうな勿體ぶつた嫌味なものとなるやうに感ぜられる。

 「日の暮れぬ」の「の」とすると、「場所・時・方角・對象(たいしやう)」や「所有者・所屬」を示す同格の關係、また「状態・状況」や「比喩」をも示すかと思ふと、「疑問・反語・詠歎」までも賄(まかな)ひ得る、極めて幅の廣い格助詞であるから、以上の事を鑑(かんが)み、穩やかな状況を傳へられたものと考へて最終案として決定したのである。

 因みに、「夕燒」は夏の季語だから扱ひには注意が必要である。

 

     關聯記事

孤城的な、餘りに孤城的な

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十月十九日

 

   聞かせてや誰とはなしに秋の聲 不忍

 

 きかせてや  だれとはなしに あきのこゑ

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 七十二候の一つに『蟋蟀在戸』といふのがあつて、これは「きりぎりすとにあり」と讀み、今年は十月十九日がそれに當る。

 調べると、七十二候(しちじふにこう)とは中國で考案された季節を表す方式のひとつで、二十四節氣を約五日づつの三つに分けた期間のことを指し、氣象の動きや動植物の變化(へんくわ)を知らせる短文になつてゐるのが特徴であると言へる。

 二十四節氣(にじふしせつき)は、太陰太陽暦において季節との擦れを調整する爲の指標として使はれるが、七十二候の名稱が何度か變更(へんかう)されてゐるのに比べ、二十四節氣は中國のものが未だにそのまま使はれてゐる。

 日本において七十二候は、日本の氣候風土に合ふやうに「本朝七十二候」として江戸時代に改訂され、現在は「略本暦」の七十二候が使はれてゐ、歳時記の季語では中國の七十二候によるものも殘つてゐる。

 『蟋蟀在戸』は二十四節氣の「寒露」の末候であり、

 「蟋蟀が戸の邊(あた)りで鳴く」

 といふ意味だが、これは「略本暦」における呼名で、元の中國の「宣明暦」では「菊有黄華」と呼ばれ、「菊の花が咲き出す」といふ意味である。

 ――靜かな夜に、蟲が最後の秋を鳴き切つてゐる。

 

 

十月二十日

 

   田を刈つて喜びの跡稻の株 不忍

 

 たをかつて  よろこびのあと いねのかぶ

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 初案は「田に殘る喜びの跡根株かな」であつたが、下五句にある「根株」に稻を刈つた後の切株の意味を押附けるには、少しばかり荷が重すぎると考へた。

 といふのも「根株」は木の切株の事をいふからで、とてもではないが「稻」の切つた後には使へないのであつて、本當(ほんたう)ならば「稻株(いなかぶ)」といふのが正しいのである。

 そればかりか、ここには季語が不足してゐから一句としての完成度に瑕疵(かし)がある。

 そこで上句の「田に殘る」を「刈取つて」若しくは「刈取つた」と詠んで見るが、これでも季語としては成立せず、次に「田刈(たがり)」といふ言葉から「田を刈つて」と置換へる事で秋の季語を配し、中句はその儘として下句を「稻の株」で最終案とした。

 風呂へ入ろうと午後の三時過ぎに自宅へ歸つた。

 その歸りに田圃の廣がる裏道を通つたら、つい二、三日前まで實(みの)つてゐた穗がすつかり刈取られた状態になつてゐた。

 妻の實家(じつか)の美作では一箇月も前に稻刈りは濟んでゐたのに、ここらはいつもながら緩(ゆつく)りしているもんだと、いつもこの時期になると思ひながら通つてゐた。

 あの稻の切株だつて、堀起して田圃の肥(こや)しになるのだといふ事を聞いた記憶があり、どんなものでも無駄にせず活用するんだなと感心したものである。

 近頃では流行らなくなつたが、昔は春から秋にかけて稻を作つて、それを収穫してから翌年の春までは麥(むぎ)などを作つたもので、所謂(いはゆる) 二毛作はそれほど珍しい事ではなかつた。

 調べると、歴史的には鎌倉時代から普及してゐたといふが、今では價格的に輸入穀物に對抗(たいかう)出來なくなつた所爲(せゐ)などで廢(すた)れてしまつたと見える。

 こんな所にも、時代の變遷による影が忍び寄つて影響を與(あた)へてゐる。

 

 

十月二十一日

 

   買物はちよいと足りない夕月夜 不忍

 

 かひものは   ちよいとたりない ゆふづきよ

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 初案は「買物は少し足りない夕月夜」から「買物は少しちよつと足りない夕月夜」となつて確定した。

 歳時記の代りに愛用してゐる「高島易斷九星本暦」によれば、今日は『上弦(じやうげん)』とある。

 弦月(げんげつ)ともいはれる半月(はんげつ・half moon)は、滿月に到るまでを上弦の月と言ひ、滿月から缺(か)けて新月に向ふ状態を下弦の月といふが、別に弓張月(ゆみはりづき)とも云つて、月の缺けてゐる側を弓が張つた弦に見立てる事から「弦月(げんげつ)・片割月(かたわれづき)」とも言はれる。

 殘念な事に、夕方になると西の空に見えて西側が明るく輝いてゐる上弦の月は、季語としては採用されてゐないので、作品としては詠み込みにくい。

 秋の季語である『夕月夜』は、古くは「ゆふづくよ」とも讀み、ほの暗いので地名の「小倉(をぐら)」とか、夕月は夜中に沈むので暁は闇である事から「暁闇(あかときやみ)」に、さうして月が沈む意から「入る」と同音及び類音を含む地名の「入佐(いるさ)」や「入野 (いりの) 」にかかる枕詞(まくらことば)である。

 夕方、店が忙しかつたので、この句はそんな状況の時に詠んだものである。

 だから「買物はちよいと足りない」までの中句で切れてゐて、その後に「ものがある」とその足りないものを近くの店に買ひに出かけたといふ意味を省略したもので、急いで外へ出ると、空には「夕月夜」が見えてゐて束の間の休息が味(あぢ)はへた氣分を表出したものである。

 

 

十月二十二日

  

   汚れると決めずに生きよ中也の忌 不忍

 

 よごれると  きめずにいきよ ちゆ うやのき

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 初案は「生きるとは汚れるものか中也の忌」であつたが、さうなのかといふ氣がしてゐたので改めた。

 それでも中句を「決めず生きるや」とか「決めずに生きる」といふ案もあつたが、採用するには到らなかつた。

 この句は言はずと知れた、詩人であり、『ランボオ詩集』の譯詩でも有名な中原中也(1907-1937)の詩の讃辭(オマアジユ)である。

 昭和十二年十月二十二日に三十歳といふ若さで夭折した彼の忌日で、短歌などの作品もあり、三百五十篇以上もの詩を殘してゐるが、何と言つても『汚れつちまつた悲しみに…』に止めを刺すだらう。

 句意は多くの言を要さないだらう。

 

 

十月二十三日

 

   生きて來た數だけ痛む秋深し 不忍

 

 いきてきた  かずだけいたむ あきふかし

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 初案は「きりきりと胃に痛みあり秋深し」であつたが、それがどうしたといふ内容でしかなかつた。

 「胃」の「痛み」が具体的表現で實體驗(じつたいけん)であつたとしても、個人の體驗は普遍化されて讀者に提示されなければ、「群盲像を撫でる」に似て、個々の經驗(けいけん)を述べたに等しく、自慢話を聞かされる讀み手に感動を傳へられはしないだらう。

 そこで抽象的ではあるが最終案となつた。

 人は喜びよりも悲しみの方が記憶に残り易く、それらは長い年月の間には恐らく半々であるかと思はれるのだが、悲しみや苦しかつた事の方が多かつたと認識してしまふやうである。

 その意味では、痛みこそが生を實感する最大の確認を示すものであるのかも知れない。

 

 

十月二十四日

 

   名ばかりの霜降なれや風吹けど 不忍

 

 なばかりの  さうかうなれや かぜふけど

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 けふは二十四節氣のひとつである霜降(さうかう)で、露が冷氣により霜となつて降り始める頃をいふが、楓や蔦が紅葉し始めて立冬までの間に吹く寒い北風を木枯らしと呼ぶとある。

 けれども、いつかな寒さの訪れは見えず、汗さへでて半袖で街を闊歩出來る程の陽氣である。

 

 

十月二十五日

◎可能なりたとへば月を手に乘せて uvs151026-003

 

   可能なりたとへば月を手に乘せて 不忍

 

 かのうなり  たとへばつきを てにのせて

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 高島易斷の『九星本暦』によれば、十月二十五日は舊暦(きうれき)で九月十三日となり『十三夜(じふさんや)』である。

 舊暦の八月十五日の『十五夜』の月に對して「後の月」とも呼ばれる『十三夜』は、日本獨自の風習であり、『十五夜』の月を「芋名月」、『十三夜』の月を「豆名月・栗名月」と呼ばれたりする。

 以前にも調べて述べたやうに、江戸時代の遊里では兩方の『十五夜・十三夜』を祝ひ、片方の月見しかしない客は縁起が惡く、「片月見・片見月」と言はれて遊女に嫌はれたといふが、客に足を運ばせる手段であつて、風流とは言ひながら、

 「遊女は客に惚れた」

 といふのと同じであるものの、とはいへ、それを問ひ詰めるのは野暮といふものであらう。

 舊暦は新暦のやうに太陽を基準とせず天體(てんたい)の月によつてゐる爲に、どうしても閏月を設ける必要が生じ、閏八月や閏九月が挿入される場合には、一年で『十五夜・十三夜』が二度現れる事があつて、二度目については「後の十五夜」とか「後の十三夜」と呼ばれてゐた。

 因みに、「後の十三夜」は二〇一四年十一月五日に百七十一年ぶりに出現してゐる。

 近所の小學校で市民體育祭があつたので朝から撮影に出かけてゐたが、半袖だつたので昨日と打つて變つて寒いと感ぜられた。

 朝九時から午後二時まできつちり附合つて、昨夜からの睡眠不足が祟つつたのか草臥れ果ててしまつた。

 けれども、店に歸ると長女から「風呂へ行け」とのきつ~い御達し。

 已むなく、疲れた身體(からだ)を家まで引摺つて歸つた。

 夕方五時過ぎに店に戻らうと外へ出ると、空には見事な月が目に止つた。

 「さうか、十三夜だつた」

 と思ひ出しながら、目で追ふやうにして店へ戻つた。

 生きるといふ事は儘ならぬものであるが、それでも生きてさへゐればと思ひつつ……。

 

 

十月二十六日

◎ 仕送りに手を合せたり栗御飯 IMG_7565

 

   仕送りに手を合せたり栗御飯 不忍

 

 しおくりに  てをあはせたり くりごはん

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 初案は「仕送りに妻の里から栗御飯」と詠んでから、更に「仕送りの栗を御飯に妻の味(あぢ)」とするも、最終案はかうなつた。

 調べて見ると、栗飯(くりめし)とも言はれる『栗御飯(くりごはん)』は、剥いた栗を白米と炊き込んだもので、小豆(あづき)と糯米(もちごめ)を炊き込んだ赤飯(せきはん)に似た、所謂(いはゆる) 炊き込みご飯の一種で、季語としては晩秋として扱はれる。

 先頃、岡山にある妻の實家(じつか)の美作へ里歸りした際に、「RPG」の主人公よろしく寶箱(たからばこ)を獲得(ゲツト)でもしたかのやうに、収穫した米や野菜を車に積込んで歸坂(きはん)した。

 その中には栗もあつて、栗名月とも言はれる『十三夜』に肖(あやか)つてか、漸く、件(くだん)の『栗御飯』にありつけた。

 筆者には故郷と呼べるものないので、購(あがな)はなくても季節の味覺が味(あぢ)はへるのは、妻の實家(じつか)があつたればこそであるから、嬉しさが優るものの羨ましいこと頻りである。

 

 

十月二十七日

 

   久方の雨も色づく秋の暮 不忍

 

 ひさかたの   あめもいろづく あきのくれ

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 このところ一箇月前後も雨が降つてゐなかつた。

 それが日暮れになつて突然降り始めたので、中句の「雨も色づく」が不圖(ふと)浮んだ。

 本當(ほんたう)は高島易斷の『九星本暦』に「望」とあつたので、それを詠まうと思つてゐた。

 「望」とはいふまでもなく、二日前の『十三夜』から數へて『十五夜』となる滿月の事で、所謂(いはゆる)『望月』の事を「望」といふ。

 初案の中句が氣に入つてはゐたが、上五句の「久方の」に引き摺られて、

 

   ひさかたの光や雨も秋の色 不忍

 

 ひさかたの  ひかりやあめも あきのいろ

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 とするも、中句の「雨も色づく」を離れ難(がた)く初案のままとする。

 和歌における枕詞(まくらことば)の「ひさかたの」は、理由は未詳ながら天空に關係のある、

 「天(あま・あめ)・雨・空・月・日・晝(ひる)・雲・光・都」

 などにかかり、「光や雨も」と中句を押へたものの、先程の理由により却下とした。

 一體(いつたい)、和歌に於いては語を調へる爲に枕詞を使用するのが主なる目的であるが、和歌の下句の「七七」の不足する發句にそれは表現を窮屈にさせる以外のなにものでもない。

 木々は心做(こころな)しか色づいて晩秋を教へてゐるやうで、それを吸ひ取るやうな雨は夜中の三時には止んでゐたが、まだ降りさうな気配を殘してゐる……。

 

 

十月二十八日

 

   妻の里芋のつるんと口に落ち 不忍

 

 つまのさと   いものつるんと くちにおち

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 妻の在所の美作から貰つて來た里芋が調理されて、芋の煮轉(にころ)がしが食卓に竝んだ。

 芋は薩摩芋も馬鈴薯も好きだが、里芋は粘り氣のあるつるんとした食感が特に好きである。

 料理上手のといふか、自分の好みの味に合せてくれる妻の心使ひはいつも感謝してゐる。

 

 

十月二十九日

 

   銀杏の苦みに似たる娑婆苦かな 不忍

 

 ぎんなんの  にがみににたる しやばくかな

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 繁殖力が強い裸子植物の銀杏は別に「公孫樹・鴨脚樹」とも表記し、嘗ては「いてふ」と假名(かな)を振つてゐたが、一葉(いちえふ)から引摺られてゐたもので、正しくは「いちやう」である。

 筆者もこれまで「いてふ」と表記してゐたが改める事にした。

 銀杏は街路樹などによく見かける針葉樹だが、イチヤウ科の植物は氷河期にほぼ絶滅してゐる中で唯一現存する種であるといふ。

 『廣辭苑』の編纂・著者として知られる新村出(しんむらいづる・1876-1967)は、「新假名遣」に反對であるばかりでなく、『廣辭苑』が『広辞苑』に變更(へんかう)になると知ると一晩泣き明かしたと言ひ、その爲に辭書(じしよ)の前文は、「新假名遣」でも「舊(きう)假名遣」でも同じになるように書き、また形容動詞を認めなかつたので、『広辞苑』には形容動詞の概念がないのである。

 その彼に銀杏についての一文があり、詳細は避けるがとても興味深く讀んだ事がある。

 銀杏を「ぎんなん」と讀むのは唐音の「ギン・アン」に由來するやうで、實(み)は食べ過ぎると嘔吐や痙攣などの中毒症状が出るから注意が必要であるが、死亡する例もあるといふ。

 銀杏を使つた料理と言へば、言はずと知れた『茶碗蒸し』がある。

 それは溶き卵に出し汁を合せ、種物(たねもの)として「魚介・鷄肉・松茸・三葉・蒲鉾」などを茶碗に入れて蒸した料理であるが、それに「饂飩(うどん)」を加へたものを『苧環(をだまき)饂飩』といひ、具に豆腐を使つて蒸しあげた上に葛餡(くずあん)をかけたものを『空也蒸し』といふのださうである。

 黄緑色の美しい銀杏は惡臭が強く、苦みさへある。

 人生は苦しい事ばかりだけでもなく、樂しい事ばかりでもない。

 丁度、銀杏の苦みと「魚介・鷄肉・松茸・三葉・蒲鉾」などが次々と味(あぢ)はへる『茶碗蒸し』のやうに、程好く混合(ミツクス)されてゐるものなのであらう。

 

 

十月三十日

 

   金色に日も暮れて行く紅葉忌 不忍

 

 きんいろに  ひもくれてゆく こうえふき

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 十月三十日は尾崎紅葉(をざきこうえふ・1868-1903)の命日である。

 調べると本名を徳太郎と言ひ、「縁山・半可通人・十千萬堂」などの號があり、帝國大學國文科を中退したとある。

 一八八五年には山田美妙らと硯友社を設立(明治18年)して「我樂多文庫」を發刊して、幸田露伴と竝んで「紅露時代」を築いた。

 一八九七年には有名な未完の大作『金色夜叉』を書き、門下生に「泉鏡花・田山花袋・徳田秋聲」などがゐ、正岡子規(1867-1902)に對しては、「秋聲會」を興して俳人としても名を殘してゐる。

 『金色夜叉』については、最近の研究で米國の小説からの飜譯だとの指摘もある。

 彼の忌日がその名の通り、秋の季語となつてゐるのも妙に納得してしまふ。

 

 

十月三十一日

 

   晦日や馴染まぬハロウイン今はまだ 不忍

 

 つごもりや  なじまぬはろういん いまはまだ

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 初案は「いまはまだ馴染まぬハロウイン晦日」であつたが、下句が四音で字足らずであつた。

 語順を入替へただけであるが、安定感と意圖(いと)の傳達は増したと思ふ。

 『前夜諸聖人の日(ハロウイン)』は古代ケルト人が起源と考えられてゐて、日本では亞米利加(アメリカ)ほどには民間行事として定著(ていちやく)してゐないが、次第に廣まつてゐるやうに思はれる。

 調べて見ると、ケルト人の一年の終りが夏の最後の十月三十一日で、死者の靈が家族を訪れるとの信仰があると共に、この時期に精靈や魔女が出て來るので、それから身を守る爲に假面を被つて魔除けの焚火をしたといふ。

 南瓜(カボチヤ)を刳り拔いた「ジヤツク・オ・ランタン」は、當初(たうしよ)は蕪(かぶ)だつたといふが、魔女やお化けに扮裝した子供達が近くの家を一軒ずつ訪ねては菓子を強請(ねだ)り、お菓子が貰へなかつ時は、惡戯をしても良いのだといふが、その成果であるお菓子を持寄つて子供達が宴席(パアテイ)を開くのだといふ。

 日没から一日が始まるとする文化においては「十一月一日の夜」とは、現在から見ると十月三十一日の日没からとなり、「諸聖人の日(古くは萬聖節)」と言はれてゐたものが、こんにちのものへと變化(へんくわ)して行つたのだといふが、日本では東京デイズニイランドやユニバアサル・スタジオ・ジヤパンでの行事(イベント)と共に、菓子メエカアが商戰に參入した事で普及して、店頭とか街中での假裝(かさう)も頻繁に見られるやうになつた。

 その經濟(けいざい)効果は千百億円に上り、バレンタインデイの千八十億圓(ゑん)やホワイトデイの七百三十億圓を拔去り、六千七百四十億圓のクリスマスに次ぐイベントとなつているといふ。

 まだ季語として歳時記には採用されてゐないやうであるが、筆者は充分その資格ありとして詠んでおく事にする。

 その理由については季語論で述べたいと思ふので、詳細は省略させて貰ふ事にする。

 

 

十一月一日

 

   路地裏で見上げる空も秋の雲 不忍

 

 ろじうらで  みあげるそらも あきのくも

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 ここ何日か冬の到來を告げるかのやうに冷え込みが續いて、愈々(いよいよ)秋も終へようとしてゐる。

 庄内驛の方面にある病院へ出かけようと、露地側にある店の勝手口から外へ出て、家の立竝んだ細い露地を歩きながら空を見上げたら、まだ秋らしい雲が留まつてそこにあつた。

 その雲を見てゐると、冬の寒空にあるそれと違つて、何かほつとさせられるやうな心持になつた。

 

 

十一月二日

 

   雨上り空の果から白い秋 不忍

 

 あめあがり   そらのはてから しろいあき

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 仰(のつ)けから生臭い話で恐縮であるが、中心にその國を統べる王が存在し、その王の遺徳に服(まつろ)はぬ民を東西南北から「夷(い)・戎(じゆう)・蠻(ばん)・狄(てき)」、則ち、

 「東夷(とうい)・西戎(せいじゆう)・南蠻(なんばん)・北狄(ほくてき)」

 といふ概念的思想で、徳の優れた者が劣る者を指導するのだと征服する口實(こうじつ)したのを中華思想といふ。

 けれども、世界は自分を中心に廻つてゐるといふ自民族中心主義(エスノセントリズム)の考へは中國一國に限らず、多くの國家がさうである事は歴史が證明(しようめい)してゐる。

 抑々(そもそも)、「中華」の「華」は「夏」に通じ、「夏」とは「漢」の事でもあり、中國の史書に記された三代の「夏・殷・周」の「夏」の事で、その昔は漢民族は華夏族と稱されてゐたといふ。

 その「東西南北」に「青・白・朱・玄」といふ色があり、それは四季にもそれぞれ「青・朱・白・玄」といふ色があつて、

 「青春・朱夏・白秋・玄冬」

 といふことになるのだが、ここからが本題である。

 けふ十一月二日は北原白秋(1885-1942)の命日である。

 彼の名前の「白秋」を導き出す爲に、ここまで引張つて來て仕舞つた。

 昨日から降り出した雨が晝(ひる)過ぎに止んで、月初めの第一月曜日に開催する發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』へ出かけた。

 冬がすぐそこに控へてゐるとは言へ、まだ秋の空が白んでそこにあつた。

 

 

十一月三日

 

   いつもながら下弦の月や文化の日 不忍

 

 いつも ながら  かげんのつきや ぶんかのひ

C♪♪♪ ♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「いつも通り下弦の月や文化の日」であつた。

 戰前は十一月三日が明治天皇の誕生日である事から「明治節」という祝日であつた。

 戰後になつて、一九四六(昭和二十一)年に平和と文化を重視した日本國憲法が公布され、それを記念して一九四八(昭和二十三)年に公布・制定の祝日法で、

 「自由と平和を愛し、文化をすすめる」

 文化の日(National Culture Day)として國民の祝日に定められたものであるが、日本の祝日の多くは天皇に纏わるものが殆どである。

 文化の日とは言へ、いつもと取立ててどうといふ事もなく一日が過ぎて行く。

 それといふのも、日曜日や祭日に縁のない自營業の所爲(せゐ)かも知れない。

 ただ、空に冴冴えとした下弦の月があるばかりである。

 

 

十一月四日

 

   寒暖の間なりけり霜の月 不忍

 

 かんだんの   はざまなりけり しものつき

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 霜月則ち本來は舊暦(きうれき)の十一月の事を言ふが、現在では新暦の別称としても用ゐられはゐる。

 それにしても、もう冬も目前だといふにも拘はらず、晝(ひる)と夜の温度差が十度以上といふのには驚いて仕舞ふ。

 何しろ、日中が二十三度で夜が十二度だといふのだから、體調(たいてう)管理が難しい。

 勿論、難しいのは體調(たいてう)管理ばかりではなく、世の中に漕ぎ出す舟の舵も更に厄介である。

 けれども、店の休日(きうじつ)である木曜日には、久し振りに旅行にでも出かけようかと思つてゐる。

 

 

十一月五日

◎きらきらと枝より散らす風は秋 uvs151106-003

 

   きらきらと枝より散らす風は秋 不忍

 

 きらきらと  えだよりちらす かぜはあき

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 初案は「はらはらと枝より散らす秋の風」であつたが、藤原敏行(?-901)の、

 

   秋來ぬと目にはさやかに見えねども

   風の音にぞおどろかれぬる

 

 あききぬと   めにはさや かに みえねども

C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 かぜのおとにぞ おどろかれ ぬる

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 といふ歌に想を得て、秋の正體(しやうたい)を風と見たといふ意味を込めて最終案とした。

 いづれにしても、散つてゆく落葉については表現されてはゐず、言外に封印された儘(まま)である。

 休日を利用して、家族四人で惠那峽まで一泊の旅行に來た。

 朝の七時に家を出て、新大坂からバスで名神高速の休憩以外は何處にも寄らずに、一直線で目的地の惠那峽までやつて來て、午後一時には湯快リゾオトの『惠那峽國際ホテル』に到着(たうちやく)した。

 紅葉にはまだ早かつたが、それでも天候には惠まれて、穩やかな旅行の初日を迎へられた。

 ホテルのフロントに教へられて、「傘岩」まで出かけ、少し上の方まで足を延ばすと「千疊敷岩」があつて、そこから遊覧船を浮べた湖が一望できる眺めは壓卷(あつくわん)であつた。

◎千疊敷 uvs151106-002

 

   腰かけて秋を見下ろす千疊敷 不忍

 

 こしかけて   あきをみおろす せんでふじき

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◎腰かけて秋を見下ろす千疊敷uvs151106-001

十一月六日

 

 「何年も問うてみて」

 

   生きるとは何かと問うて秋深し 不忍

 

 いきるとは  なにかととうて あきふ かし

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 初案は「生きるとは何かとと問うてや秋深し」であつたが、次に「生きるとは何かと問ふや秋深し」と變化(へんくわ)して最終案となつた。

 かういふ事を思索するのも、龝(あき)なればこそであらうか。

 簡單に答へを出せさうもないものを、つい考へて仕舞つたりしてゐる。

 秋の夜長に眠りもせずに獨り言(ご)ちる、とある風景である。

 因みに、「問うて」は、「問ひてから問うて」へと「ウ音便化」したものであるのはいふまでもないだらう。

 

 

十一月七日

 

   降り止まぬ雨人生の秋の暮 不忍

 

 ふりやまぬ  あめじんせいの あきのくれ

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 二〇一五年の秋も遂(つひ)に終りとなりぬ。

 夜になりて雨の降り出したるなり。

 されど今この時、確かに我の生あるを認識せり。

 軈(やが)てはうつろひて消滅せざるを得ない命なれば、

 せめて束の間を愉しまん。

 更に一句を詠めば、

 

   秋の雨映す色なき夜の底 不忍

 

 あきのあめ   うつすいろなき よるのそこ

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十一月八日

 

   たそかれと問ふ人を問ふ暮の秋 不忍

 

 たそかれと  とふひとをとふ くれのあき

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 「たそかれ」とは漢字で「黄昏」と表記し、夕方の事であるのは御存知の通りであるが、この時分は暗くて顏が見分けられないので「誰そ彼」といふところから、さうなつたのであり、それに對して明方を「かはたれ時」と言ひ、「彼は誰」といふ。

 「暮の秋」は將(まさ)に秋が果てようする秋の終りの事で、

 「逝く秋・行く秋・秋惜しむ・晩秋」

 と同じ意味であるが、秋の夕暮を指す「秋の暮」とは違ふ意味になる。

 

 

 

註)「γは八分休符・†は四分音符・ζは四分休符 」の代用。

 

 

2015年 夏の句

http://www.miyukix.biz/?page_id=2784

 

2015年 春の句

http://www.miyukix.biz/?p=1603

 

 

 

 

參考資料

「精選版 日本国語大辞典(小学館)・広辞苑(岩波書店)」

「ウキペデイア・EX-wordから引用」

 

 

 

     關聯記

 

Ⅰ.發句(ほつく)拍子(リズム) A Hokku poetry rhythm theory

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html

 

 

一日一句の發句集『朱い夏(Zhu summer)』二〇一一年度(mixiのつぶやきとTwitterに發表)

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_05_01_archive.html

 

 

Hokku poetry “Zhu has summer” 發句集「夏朱く」

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/08/hokku-poetry-zhu-has-summer.html

 

 

Hokku poetry ” White autumn 發句集「白い秋」

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_08_01_archive.html

 

 

Hokku Anthology “springtime of life” 發句集『春青く』

http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_06_01_archive.html

 

二〇一四年版の發句 冬の部

http://www.miyukix.biz/?p=755

 

二〇一四年版の發句 秋の部

http://www.miyukix.biz/?p=137

 

TEL 06-6334-2218 午前11時~午前12時30分

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