近江不忍の句 2015年 玄帝
十一月八日
今日から立冬である。
世に降るも正子過ぎれば冬の雨 不忍
よに ふるも しや う しすぎれば ふゆ のあめ
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初案は「降る雨も子三(ねみつ)つよりは冬の雨」で、次に「地を濡らす子三刻(みつどき)よりは冬の雨」と推敲を重ねて最終案となつた。
昔は二時間を一刻としてゐて、二十三時から夜中の一時までを「子(ね)」といつたが、晝(ひる)の十二時を「正午」といふのに對して、深夜十二時を「正子(しやうし)」といつた。
十一月九日
ぬばたまの闇に聲する時雨かな 不忍
ぬばたまの やみに こゑする し ぐれ かな
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初案は「ぬばたまの闇の聲聞く時雨かな」であつたが、奇を衒(てら)ひ過ぎるやうなので推敲した。
和歌の枕詞(まくらことば)である「ぬばたまの」は『射干玉』と表記するが、別に『烏羽玉(うばたま)』とも「うばたま・むばたま」とも言つて、
「黒・夜・夕・月・暗き・今宵・夢・寢・妹」
に掛る詞である。
植物の檜扇(ひのきあふぎ)の事を「射干玉」といふが、その種子が黒いところから黒色に關聯した語にかかるやうになつたといふ。
また、ホトトギスの異稱(いしよう)で「射干玉鳥(ぬばたまどり)」ともいふ。
昨日から降り續いた雨が、今日の午後から降つたり止んだりして、そんな中を夕方に家に風呂に入りに行つた。
どんよりとした灰色の空に覆はれた街は薄暗く、時折ぽつりと頬に水滴が當り、また降り出しさうな氣配に足を速める。
根際(ねき)の細い路地を見ると、闇が黒く廣がつてゐて、かすかに雨の音が聞えてゐる。
十一月十日
去年、結婚四十周年に一泊旅行に出かけた時の映像
華燭より四十一年淺き冬 不忍
くわしよ く より しじ ふいちねん あさ きふゆ
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かう言つた内容は個人的過ぎて、發句にするには問題があるのかも知れない。
それが幾ら事實であつたとしても、客觀(きやくくわん)性に缺(か)けるならば、讀み手に傳へられる情報には感興を抱き難(にく)いものとなる。
さういふ事は理解はしてゐるのだが、今日は結婚して四十一年目となり、四十二年目が始まるので、思はず句に詠んで仕舞つた。
二人に後どれ程の時間が殘されてゐるのかは不明だが、振返ればよくもまあ、といふ氣分で、詠まずにはゐられなかつた。
けれども、まだまだといふ氣持もあつて、それが下五句の「淺き」に現はさうとしたのだが……。
十一月十一日
風落ちて水にたゆたふ木葉かな 不忍
かぜおちて みづにたゆ たふ このはかな
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上五句の「風落ちて」とは風が止んだといふ意味で、木葉が風に散つて地面に落ちると同時に、その場に留まつた状態をさういつたので、結構氣に入つた言葉である。
「たゆたふ」は『搖蕩ふ』とも表記して「Tayutou」と讀み、あちこちに搖れ動いて定まらない事を指すが、折角、風から逃れられたのに水の流れに身を任さねばならない木葉は、まるで人生を運命に弄(もてあそ)ばれてゐる人のやうでもあらう歟(か)。
少しばかり寒さも身に沁みて來て、特に夜などに店で客の來店を待つてゐると、しんと鐵板の冷たさを感じて仕舞ふ。
ミク友のらいら さんからのコメント。2015年11月12日 23:08
「風落ちて、ああ・・・良い言葉ですね。たゆたふと共に、心に留めて置きたいものです。しかして使うとなりますと、情けない位に忘却の彼方にて、語彙を増やすには至りません。
でもいつか、ふと耳にし蘇る、そういう言葉も素敵ではと。
らいら さん。
「風落ちて」はお気に入りの言葉で、若しかしたら他にあるのかも知れませんが筆者の造語です。
多分。
そこで早速調べてみると、「風落(かざお)ち」といふ表現があり、「果實(くわじつ)が風の爲に落ちる事、若しくは落ちた果實」こ事と廣辭苑にありましたが、「風落(かぜお)ちて」はさういふ意味で用ゐてゐませんから、やはり造語といふ事になるでせう。
十一月十二日
濁る世に隱れすみたき吉野かな 不忍
にごる よに か く れすみたき よ しのかな
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初案は上句が「濁り世に」であつたが改めた。
店の休日(きうじつ)を利用して、予(かね)てから行かうと思つてゐた秋の紅葉(こうえふ)時期の吉野へ出かけた。
春の櫻の時には十囘は行つゐて、その時に土産物店の人達から秋も紅葉が綺麗ですよと奨められてゐたので、長女の提案で重い腰を上げて妻との三人で訪れたのである。
吉野は「下千本・中千本・上千本」とあつて、更に上の「奧千本」がある。
句は奧千本にある「義經の隱れ塔」で、義經と辨慶が追手から逃れる爲に隱れた事で有名で、また、屋根を蹴破つて外へ逃れ出た事で「蹴抜けの塔」とも云はれてゐる。
檜茅葺(ひはだぶ)き方形造(はうぎやうづく)りの堂の前に彳(たたず)んでゐると、源義經(みなもとのよしつね・1159-1189)は平家から逃れる爲であつたが、この世の動靜を倩々(つらつら)鑑(かんが)みるに、出來るならば一層の事このまま隱者の生活も惡くはないかと思はないではない。
西行庵を訪ねて
訪ねしは紅葉となりし吉野かな 不忍
たづね しは もみぢ とな りし よ し のかな
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そのまま足を延ばして「西行庵」まで行つたが、途中の景色は所々に紅や黄色の木々がちらちらとある許りで、全體に紅葉はそれ程でもなくて氣落ちしてゐた。
けれども、「義經の隱れ塔」から往復で一時間ぐらゐの處にある「西行庵」に近づくと、その邊(あた)りにだけ見事な紅葉が廣がつてゐて、ここまで來た甲斐があつたと興奮すること頻りであつた。
櫻は言ふに及ばないだらうが、紅葉もまた良いものだと漸く納得が出來た。
紅き葉を重ねて苔の清水かな 不忍
あかき はを かさ ねて こけの し みづかな
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「西行庵」の近くに、「やまとの水」の三十一選のひとつにも選ばれてゐるといふ『苔清水』がある。
西行の「山家集」にある、
とくとくと落つる岩間の苔清水
汲みほすまでもなき住居かな
と く と く と おつるいはま の こけ しみづ
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く みほすまでも な きすまひかな
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といふ和歌があり、それを受けた「笈の小文」にある芭蕉の句に、
露とくとくこゝろみに浮世すゝがばや
つゆと く と く ここ ろ みに う きよ すすがばや
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といふ句碑があつた。
吉野へ出かけるのに朝五時に店の仕事を終へて、みゆきちやんが辨當(べんたう)の用意を濟ませると、六時過ぎに車で阪神高速から西名阪を經由して「香芝」で降りて、途中休憩をはさんだものの、一路、吉野へと向つたのだが、九時半には奧千本に到着(たうちやく)してゐた。
十一半頃に高城山の展望台で見晴らしを愉しみながら、晝食(ちうしよく)の辨當を廣げた。
十二時過ぎに吉野を離れて、流石に疲れたので歸らうかと思つたのだが、折角ここまで來たのだからと、法隆寺へ行かうと提案して仕舞つた。
一時半ごろに駐車場を見つけて散策をしたのだが、學生のバス旅行が何臺(なんだい)も來てゐて、引率の先生に從つた生徒達とあちこちで出合つた。
夢殿で救世觀音菩薩(ぐせくわんおんぼさつ)が公開されてゐたのだが、人集(だか)りが氣になつたので諦めた。
二時になると鐘の音が響き渡つて、長閑な奈良のいにしへへと思ひを馳せた。
冬晴て手水ゆらすや鐘の音 不忍
ふゆはれて て うづ ゆらすや かねのおと
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初案は「鐘鳴れどフオトに映らぬ法隆寺」とおどけ氣分で詠んで見たが、「手に取らば手水を搖らす法隆寺」と變化(へんくわ)させて、更に「鐘鳴つて手水搖らすや法隆寺」と詠むも季語がないので、「冬晴て手水ゆらすや寺の鐘」と推敲してから最終案となつた。
歸路の運轉は、國道二十五號線の混雜してゐたので、疲れたのかとても眠くなつてしまつたが、何とか身體(からだ)を操りつつ自宅に著いた。
もう夕方の五時を過ぎてゐた。
問題は冬なのに秋の紅葉を詠んだ二句と、三句目には「無季」の作品を詠んで仕舞つた事だが、「旅・名所・舊蹟(きうせき)」に關(くわん)しては、季が無くても苦しからずと言はれるので、それでご容赦をといふ事にする。
ミク友の「らいら」さんからのコメント。 2015年11月13日 21:19
吉野の紅葉から法隆寺まで、お写真の旅にご一緒させて頂きました。
吉野が桜の名所だと、忘れてしまいそうな艶やかさです。冬の吉野、夏の吉野・・・きっとそれぞれ美しいのでしょうね。
お疲れ出ませんように。
らいら さん。
四季折々を愉しめるのは、異郷の地ばかりでないのは誰もが承知してゐるのですが、日常の中にも愉しむといふ氣さへあれば、それを味(あぢ)はへるのではないでせうか。
十一月十三日
冬ざれて雨を孕みし雲に風 不忍
ふゆざれて あ めをは らみし く も にかぜ
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今日は三箇月檢診で、曇り空の中を庄内の驛向うにある病院まで出かけた。
病院といふものは生命を救つてくれて、患者にとつては有難いものではあるが、一方で待ち時間の異常な長さには呆れてしまふ。
時には半日から丸一日が潰れてしまふ事もあるので、その時にはどうしてくれようかと思つてしまふ。
天氣豫報によれば夕方から雨だとの事であるが、病院歸りの十二時過ぎにはポツリと顏にかかるものが認められた。
これは夕方まで持ちさうもないやうに思はれて、足早に店へと歩を進めた。
十一月十五日
親の縁薄く
我が事は知らず子に孫の七五三祝 不忍
わが ことは し らず こに ま ごの しめいはひ
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七五三(しちごさん)は「七歳・五歳・三歳」の子供の成長を祝ふ行事で、一説に江戸幕府第五代將軍である徳川綱吉の長男の健康を祈つて始まつたとされ、主に關東圏における風俗であつたやうで、次第に京都や大坂でも行はれるやうになつたといふ。
面白いのでは、「七+五+三=十五」で十五日となり、十一月十五日になつたといふ説もあつたりするが、筆者はそれよりも何故時系列での「三五七」ではなく「七五三」なのか、といふ言ひ方に問題があるやうに思つてゐる。
多分、語呂がいい方を選んだのだらうと思はれるが、三歳が髪を剃る習慣を終へる「髪置きの儀」から女兒(男の子が行ふ場合もある)で、五歳が袴を著用し始める「袴儀」で男兒、七歳が成人とみなされて帯を結び始める「帯解きの儀」として女兒を祝ふのが元となつてゐるやうだ。
三囘のいづれをも性別を問はなく行はれる場合もあるやうで、以前は數(かぞ)への年齡であつたものが、現在では滿で祝ふやうである。
筆者は時代に影響されたばかりでなく家庭環境にも惠まれず、その關係でさういつた行事とは無縁であつたが、我が子には妻のお蔭でそれなりの事を濟ませて來られた。
初孫は三歳の男兒だが、何も言つてこないままその日を終へてしまつた。
十一月十六日
身體の中も小春日和や土手の風 不忍
から だの なか も こはる びよ り や どてのかぜ
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初案は「内も外も小春日和に垣根なし」であつたが、理窟つぽくて抹香臭いので諦めた。
どちらかと言へば、筆者は理に勝ち過ぎる傾向があるので、詩情に缺(か)けること夥しい。
自戒としなければなるまい。
この句の聯想の過程を述べれば、最初は季語の「小春日和」といふ語が浮んだ。
それは本當(ほんたう)に天氣が良くて、將(まさ)に「小春日和」といふに相應(ふさは)しかつたからであるが、それが自身の外にある宇宙がさういふ状態であるばかりでなく、筆者の内部にある宇宙さへも温もりが傳はつて來て滿たされた感覺を詠まうと思つたからであるが、その状況を「内も外も」と表出してみたのであり、そこには最早、外に廣がつてゐる宇宙と自我との間には「垣根」がないといふ理窟になつたのである。
けれども、初案の上五句の「内も外も」はいかにも唐突で、何を指してゐるのかを直ちに諒解出來ない憾(うら)みがあり、そこに「垣根なし」といふ表現に理窟を見て仕舞ふのである。
そこで「内」か「外」のいづれかの一方を讀む事で、もう一方を暗示させるといふ表現にして、上句を「身體(からだ)の中」といふ言葉に、物事を列擧する助詞の「も」を添へて、外の世界を具體的な「土手の風」といふ下五句で對比し、その中心に中句の「小春日和」といふ季語を配して「や」といふ切字で區切つて見た譯である。
無論、句を詠むに當(あた)つては季語が最初に浮ぶといふ譯ではなく、興味のある事象-―例へば雨が降つてゐたとか、花を見たとかに感興を得て、そこから發展させて行くのはいふまでもない。
更に、上七句の「字餘り」に就いては、「なかも」が「三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))」の扱ひになつて、全體は四分の四拍子の三小節といふ發句の拍子(リズム)に適つてゐるのだが、本來「字餘り」は正しく助詞を使用する場合はいふに及ばず、感情の破綻を來(きた)した事を表現する手段としても應用されるのである。
……今日も『TSUTAYA』でDVDを借りた歸りに、天竺川の土手を逍遙しながら自宅へ風呂に出向いた。
穩やかな陽射しは、下界も我が内界にも隔てなく照り輝いてゐる。
この句、冬なのに暖かな風を讀者が感じて貰へれば成功と言へるのだが、いかがだらうか。
十一月十七日
傘の柄に冬の重さの響きけり 不忍
かさ のえに ふゆのお もさ の ひび きけり
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初案は「傘の柄に傳はる重さ冬の雨」であつたが、下句の「雨」が語り過ぎで、「傘の柄に傳はる冬の重さかな」と改め、更に「傘の柄に響くは冬の重さかな」として最終案となつた。
今日は晝(ひる)頃から雨が降り出して、外出を控へてしまつた。
雨は嫌ひではないのだが睡眠不足が續いてゐたので、二階で假眠の心算(つもり)が、ついそのまま夕方まで眠つてゐた。
材料の不足で四軒隣の店に買ひ物に出かけるにも、傘を差さなければならない程の雨で、冬の到來を傳へるかのやうに雨の音が柄を通じて響いて來た。
「らいら
冬の雨は殊の外、雲の暗さと共に重みを感じさせますね。
響くという言葉を用いられることにて、振動、共鳴、音色、と色々なイメージが頭に浮び、楽しい空想の一時を得ました。」
らいら さん。
北國の空程の心象(イメエヂ)は大坂には求められる筈もありませんが、言葉の魔術で冬の空がさうなつて眼前に現れたりするもんですよね。
十一月十八日
とてもかくても雪に變らぬ浪花雨 不忍
とて も かくて も ゆきに かはらぬ なにはあめ
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調べて見ると『なには』は大坂の古稱(こしよう)で、萬葉假名(まんえふがな)では、
「奈尓波・奈仁波」
と表記され、
「難波・浪速・浪花・浪華」
と漢字で表記されるが、『日本書紀』に「なみはや(浪速)」から轉訛したと記載されてゐる。
古くから難波や浪花の表記もあり、近世になつて「浪華」の表記が定著(ていちやく)し出したといふ。
夜になつて雨は止んだが、日中はずつと降り續いてゐた。
冬の雨は「凍雨(とうう)・寒雨」とも言つて、冷たくて細かく降るので音も微かで淋しさを募らせ、雪國では雨が降る事の方が珍しく、逆にその方が温かく感ぜられるが、關西などでは寒くて暗い印象が強いので、侘しさも一入(ひとしほ)身に沁みる。
關西では時に雨が雪に變る事もあるが、それも年に一度あるかどうかといふところである。
十一月十九日
雲どけて上弦の月冬細く 不忍
く も どけて じやう げんのつき ふゆほそく
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初案は「上弦の雲動かすや冬の月」で、次に「上弦の雲動かする冬の月」と詠んで「雲間より上弦の月冬の空」から、「雲どけて上弦の月細き冬」、「雲どけて上弦の月冬細し」と定まらぬ儘に最終案となつた。
今囘は迷ひに迷つてしまつた。
店が休みなので晝(ひる)から「109シネマズ箕面」へ出かけて、紀里谷和明監督の『ラストナイツ』を觀て來た。
彼の『CASSHERN』も『GOEMON』も面白くて特異な監督だといふ印象を抱いてゐて、今囘の映畫も期待してゐたが、ここでは感想は述べずにおく。
今囘は妻も長女も附合つてはくれず、筆者一人で見る事になつた。
その後、スウパア錢湯の「湯本『水春』箕面」で温泉で寛(くつろ)いだ。
駐車場から歩いて自宅へ向ふ道すがら、空にかかる上弦の月が雲を押しのけるやうに光つてゐた。
食事を濟ませてから、再び二十一時四十分の最終上映の『ジヨン・ウイツク』を觀に出かけた。
殘念な事に一人であつた。
夜になつても、まだ冬らしい嚴しさはない。
十一月二十日
他は知らず世はこともなくひなたぼこ 不忍
たはし らず よはこ と もなく ひな たぼこ
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初案は「事もなく他はしらぬまま日向ぼこ」であつた。
今日は秋のやうな青い空から穩やかな陽射しが降つてゐて、世界情勢から言へば歐羅巴(エウロツパ)での政治的暴力主義(テロリズム)が頻發してゐたり、狹く日本に限つても子供の虐待や事故による死者の報道もされてゐる中を、筆者は隱遁者よろしく日向ぼつこに身を任せて仕舞ふ。
全てに目を瞑(つぶ)つて、陽の温もりを瞼に受けながら超然と公園の長椅子に坐しながら、恍惚の時を過ごす。
それが假令(たとへ)逃避だと言はれても……。
十一月二十一日
何も棲まぬ空に波打つ鱗雲 不忍
なにも すまぬ そ らにな みう つ うろ こぐも
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推敲の句が「何も棲まぬ空に波打つ冬の雲」であつた。
何故さうなつたかといふに、「鱗雲」が秋の季語だつたからで、もう冬となつてしまつてゐるのに季節が異なつてゐるのはどうかと、氣になつて仕舞つたからである。
けれども、實際に見えたものをそんな事で變へてしまつても良いのかと思ひ到つて、初案のまま提示する事にした。
無論、その方が「波」との縁語として「鱗」が生き、句意としても納得出來ると考へたからであるのは言ふまでもない。
一方で季を大切にしなければならないと言ひ、返す言葉で眞實(しんじつ)を述べるのが必ずしも藝術として完成されたものではない。
時に裏腹な事を述べ、無辜(むこ)の民を惑はしつつ人心を掌握するやうな振舞ひは、嚴に愼まねばならない。
などといふのは容易(たやす)く、融通無碍といへば聞えは良いが、ご都合主義と言へなくもない。
實(げ)に表現の技法(メソツド)といふものの玄妙を垣間見るやうな心地がしないだらうか。
十一月二十二日
幸に似て陽の射しきれぬ冬の空 不忍
さ ちににて ひのさ し きれぬ ふゆのそら
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初案は「覆ふ雲に陽の射しきれぬ冬の空」と、有觸れた句姿であつた。
人は誰でも幸せになる權利があるといふ。
けれども、この地球上でそんな惱天氣な事を考へてゐるのは、人類ぐらゐのものであらう。
といふ事は、廣く宇宙においても稀有の存在の宇宙人の筈であると言へる。
空を翔ける鳥も、地を往く獅子も、地中に棲む土龍(もぐら)さへも幸福への權利を主張などしはしない。
第一、倖せといふ曖昧なものを定義もせずに權利を與(あた)へて仕舞つたので、譯も解らずに主張し始めてしまふのである。
人は基本的に現状を幸ひとは思はずに、多くの場合、そこから先に上昇(ステツプアツプ)して後に幸福を手に入れたと認識する動物ではないかと考へられる。
しあはせとは、「幸せ・倖せ」と書いたりするが、別に「仕合せ」とも表記されて、この場合は「合(あは)せ仕(つかまつ)る」といふ意味からも、結婚して家族を形成する事で、その事が幸福の實態(じつたい)であるのではないかと思はれる。
勿論、これは私見であるから信用しなくても構はないが、「果報者(くわほうもの)」といふ意味のある表現からもそれは追隨されるのではなからうか。
結婚出來た事を幸福と思ひ、それが日常化すると子供が生れてまた幸福が手に入つたと喜び、生れるまでは五體滿足であればと願つたにも拘はらず、勉強の成績がもう少し良ければと不滿を持ち、それもこれも自分はさて置いて連合ひの出來が惡いからだと相方に苛立ち、もつと勉強してゐれば生活も安定し、良い伴侶にも恵まれただらうにと人生を歎く。
曖昧模糊(あいまいもこ)とした幸福の追求に日々を費やせば、碌な事にならない。
輪廻(ルウプ)にも似たその地獄のやうなところから脱出するには、ただ今を感謝するといふ事以外にはない。
今日はどんよりとした曇り空で、天竺川の堤防を散歩しながら夏目漱石(1867-1916)よろしく、そんな事を考へながらぼんやりと過してゐた。
關聯記事
GNH(國民總幸福量)に就いて
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1473020902&owner_id=25109385
幸福に就いて
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1344333323&owner_id=25109385
十一月二十三日
小雪や止んでまた降る雨ばかり 不忍
せうせつや や んでま たふる あめばかり
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初案は「曇れども雨さへ降らぬ小雪よ」で、曇つてはゐたが雨は降つてゐず、これで良いと思つてゐたら頬にぽつりとあたるものがあつた。
そこで「曇りてや雨は降れども小雪よ」と改めたが、また直ぐに降り出したので「止んでまた降るは雨なり小雪よ」と推敲し、更に最終案が決定した。
小雪(せうせつ)は二十四節氣の第二十番目に當り、舊暦(きうれき)だと十月になるが、現在の新暦では十一月二十二日頃となり、この日から次の節気の大雪前日までを言ひ、『暦便覧』によれば、「冷ゆるが故に雨も雪と也てくだるが故也」と説明されてゐる。
このところ健康の爲に散歩をするやうにしてゐるが、今日はマイナンバアの不在者聯絡の通知が入つてゐたので、それを郵便局まで取に行きがてらの外出であつた。
十一月二十四日
生きるとはさういふものさ河豚汁 不忍
いき るとは さ う いふも のさ ふく と じる
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ここ二、三日、夕方邊(あた)りになると流石に肌寒く感じられ、そろそろ鍋が戀しくなるやうな季節になつた感がある。
『河豚汁(ふくとじる)』は古くは「ふくじる」とも言ひ、フグの肉を實(み)にした味噌汁の事で、『鐵炮(てつぱう)汁』とも云つたさうである。
多分、當ると死ぬといふ意味であらうかと思はれる。
また別に、落語の演目の一つにもある『河豚鍋(ふぐなべ)』とも言つたが、河豚料理(ふぐれうり)は美味ではあるものの毒による死亡事故があつたりするので、死と隣合せで味(あぢ)ははねばならない。
寶籤(たからくじ)は反對(はんたい)に當(あた)るのを希望するものだが、どちらも當り外れの確率が極めて微少である。
ただ、當れば死を覺悟しなければならないか、分限者になれるかの差は大きいものと言はねばならないだらう。
十一月二十五日
冬しんと月なきけふの雨見かな 不忍
ふゆし んと つき なき けふの あま みかな
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それまでどんよりとした灰色の空から、案の定、晝(ひる)過ぎから雨が降り出した。
高島易斷の「九星本暦」によれば、今日が明ければ「望」である。
雨が降らなければ、それなりの月が見えただらうに、世の中は思ひ通りには行かないものである。
尤も、さうなればなつたで、それなりの對應(たいおう)をするのが大人の度量といふもので、何事においてもそれぐらゐの心構へを身につけてゐたいものである。
と、説教がましい事を述べて煙(けむ)に捲いておく。
十一月二十六日
望月の光り冴えたり妻の里 不忍
も ちづきの ひか り さ えた り つ まの さと
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店が休日なので、今日は朝六時から妻の實家(じつか)の岡山懸の美作へ行つた。
この世界で少し時代と場所がずれたといふだけで、お互ひの出逢ひが今とは違つたものとなつてゐた筈で、それが偶然といふか必然といふかは解らないが、うまく巡り逢へて四十一年といふ時を過ごす事が出來た。
これからどれ程の時間が殘されてゐるのかは不明だが、その連合ひが生れ育つた場所へどれほど出かけた事か。
妻の實家(じつか)の家族で、今年八十三歳になる母親と兄と兄嫁とで、妻の妹からの差入れで軍鶏鍋を圍(かこ)んで夕食を濟ませ、夜の十一時に大坂へ歸つて來た。
冴え渡つた空には、綺麗な冬の滿月がかかつてゐた。
十一月二十七日
眞青な空に貼りつく枯木立 不忍
まつさ を な そらに はり つく かれこ だち
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初案は「空間に枯木貼りつく」と浮び、「枯枝の空に貼りつく」と推移してから、氣分として「灰色の空に貼りつく枯木立」と詠上げた。
けれども今日の空は「灰色」ではなく、果敢無いぐらゐの青さが廣がつてゐた。
朝の九時頃に目を覺ますと、いつになく寒さが身に沁みて、報道では各地で雪の觀測を傳へてゐた。
十一時過ぎに店へ向ふと、青空が遠くにあるやうに感じられる程の寒さで、風も冷たさを増してゐるやうに思はれた。
木葉を風で吹落された木は、絶望してゐるのか、それとも諦めてゐるのか、將又(はたまた)何かを待つてでもゐるか、靜かに空に貼りついてゐた。
十一月二十八日
ぽかぽかは光合成か日向ぼこ 不忍
ぽかぽかは くわう がふせいか ひなたぼこ
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炭酸同化作用(たんさんどうくわさよう)とも言はれた『光合成(くわうがふせい)』は、主(おも)に葉緑素を持つ植物が光の活氣(エネルギイ)を用ゐて、吸収した二酸化炭素と水分から有機化合物を合成する生化學反應(はんのう)の事であり、水を分解する過程で生じた酸素を大氣中に供給もしてゐる。
残念ながら動物は植物のやうに光合成の機能を持合せてはゐないので、植物を攝取する事でそれを補つてゐる。
けれども晴れた日には、風が強くてもそれを避けて陽當(ひあた)りの良い所で腰かけながら日向ぼこをするのは、至福の時間であるのに異論はないだらう。
十一月二十九日
迎へたき福や再來年の三の酉 不忍
むかへたき ふ くや さ らい ねんの さ んのとり
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初案は「取込んだ福や再來年の三の酉」であつたが改めた。
といふのも、世智辛い社會で生きるのは大變(たいへん)で、再来年どころか來年の事さへどうなるか解らないが、それでも迎へられるのならば、さうありたいと願ふのは人情であらうと考へたからである。
歳時記として愛用してゐる高島易斷の『九星本暦』によれば、今日は『三の酉』だとの事である。
無宗教の筆者であるが、「七五三」も「聖誕祭(クリスマス)」も「除夜の鐘」も、あからさまに拒絶などはせずに出かけて行つたりする事もあるが、さういへば「酉の市」には出向いた記憶がない。
「酉の市(とりのいち)」とは例年十一月の酉の日に行はれ、「酉の祭(とりのまち)」とも「大酉祭(おほとりまつり)」とも「お酉樣(おとりさま)とも言はれてゐ、關東地方の多くの神社や寺社の年中行事として知られてゐるが、現在では大坂や京都、愛知懸などの一部でも開催されてゐるといふ。
「酉の市」の由來は諸説あつて、神道では日本武尊が東征の戰勝祈願を鷲宮神社で、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行ひ、日本武尊が亡くなつた日の十一月の「酉の日」に大酉祭が行はれるやうになつたと言ひ、佛教では鷲妙見大菩薩の開帳日に立つた市を酉の市の起源とするといふ。
「酉の市」の日には、福を「掃き込む・かきこむ」として「縁起熊手」を賣る露店が立竝び、手締めなどをする賑はひは年末の風物詩ともなつてゐる。
「酉の日」とは日毎に十干十二支を當(あて)る日附法で、その日が「酉」に當る事であるが、これは十二日おきに巡つて來て、およそ一箇月は三十日なので、日の巡り合せにより十一月の「酉の日」は二囘の年と三囘の年があり、初酉を「一の酉」と言ひ、次を「二の酉」、三番目を『三の酉』と言ふ譯である。
また、『三の酉』は大體(だいたい)一年おきにあるので、それほど珍しくはないのだけれども、その年は火事が多いとの俗説がある爲に、火の用心に注意が拂(はら)はれるのだといふ。
面白い説に、淺草の神社などには遊郭の吉原が近かつたので、「酉の市」に託(かこつ)けて旦那衆が家を空けて遊びに行くのを防がうと、女房が『三の酉』は火事が多いと言つたのだといふ話もある。
いづれにしても、『三の酉』である限りは、一年おきにしかその効果は得られない事になる。
と、ここまで解説で引張つて來たが、それもこれも頭で考へた句を詠んだのを糊塗する手段でしかなく、見透かされる前に白状してしまふといふ愚擧(ぐきよ)に出る次第である。
十一月三十日
狼や抑へ切れずに渇愛す 不忍
おほかみや お さへき れずに かつ あいす
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初案は「狼や抑へ切れない人として」であつたが、心定まらず「狼や渇き抑へて和の心」とふらつき、猶も「狼や抑へ切れない砂に水」とさまよつて最終案となつた。
人は、いや、筆者は周りに感謝しながらも、本當(ほんたう)にこの生き方で良かつたのかと來し方を振返つてしまふ傾向がある。
それは若い時分からさうであつたが、人生の晩年を迎へてからは一層さう考へる事が、強くなつたやうに思はれる。
だからと言つて、一切を捨てて一からといふ覺悟もない。
實行に移すといふ譯ではなかつたとしても、さう思ふといふだけで、これまでや今現在を支へてゐる人達には無禮で不快な話ではあらうが、さう考へてしまふ自分がゐる事もまた事實なのである。
佛教用語に「凡夫が五欲に愛著(あいちやく)する事」を『渇愛』といふが、悟り切れない異生(いしやう)の身には、絶滅をも受容れる狼のやうな孤高の存在を望む可くもない。
十二月一日
人氣なき噴水しんと枯木星 不忍
ひと けなき ふんすいしんと かれき ぼし
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初案は「水もなく冬の噴水木も閑散」だつたが、「噴水」は夏の季語なので敢(あへ)て「冬」を配したのにはさういひ經緯(いきさつ)があつたからで、それを重たいと感じたから「人氣なき噴水止りて木も閑散」と變化(へんくわ)させて、その上になほ「人氣なく噴水止むや枯木立」と推移して最終案となつた。
『枯木星』とは枯木越しに見える星の事で、さういふ景觀を云つたものである。
十二月二日
客もなし遣らずの雨といふ師走 不忍
きやく も なし やらず のあめと いふ しはす
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初案は「客もなき遣らずの雨といふけれど」で都都逸みたいだし、第一に季語がなく、次に「客もなき遣らずの雨といふや暮」としたが全體(ぜんたい)に弱く、そこで「客もなき遣らずの雨といふや冬」とするも、「冬」だと如何にも茫洋としてゐるので最終案となつた。
『師走』は十二月の異稱(いしよう)で、「爲果月・四極月」といふ説もあるが、別に、
「極月(ごくげつ)・臘月(らふげつ)・春待月・梅初月・三冬月・弟月(おとごづき)・親子月・乙子月(おとごづき)」
とも言はれてゐる。
何時(いつ)からの事だらうか、一年がこれ程に疾く終へてしまふと感じ出すやうになつたのは……。
「もう幾つ寢ると」
と、あれほど時の過ぎるのを遲いと感じて正月を待つてゐたのに、今や殘りの時間を考へるまでになつてしまつた。
『遣らずの雨』とは、人を歸さない爲であるかのやうに降る雨の事であるが、そこから戀しい人を留めてくれるものとして、粹(いき)な雨であるものと解されてゐるといへるだらう。
――もう師走である。
十二月三日
地に敷いた葉を蹈む音や枯銀杏 不忍
ちに しいた はを ふむおとや かれいちやう
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初案は發表されたものであつたが、その後に「敷きつめた道の葉を蹈む枯銀杏」と改めて、これを決定稿としようと思つたが蹈み止まつた。
理由は、發句は
「一句二章」
が發句の基本形であり、この句の場合は上句から中句までを一章とし、下句の一章をそこから遠寫(ズウムアウト)した全景へと移行する爲の「切れ」が必要だと考へたからである。
因みに、『銀杏』は「公孫樹・鴨脚樹」とも表記し、「いてふ」と假名を振るのが歴史的假名遣(れきしてきかなづかひ)だと思はれてゐるが、實(じつ)は「一葉」をあてた慣用によるもので、「いちやう」が正しいものであるといふ。
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十二月四日
見送るが見送られたる喪や冬 不忍
みおく るが みお く られたる さ うやふゆ
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初案は「見送つてゐるのか見送られたる冬のひと日」であつたが、「見送るが見送られたるや家族葬」と變じて後、「見送るが見送られたるや葬の冬」とするも、最終案となつた。
下五句の音型は三文字目の「や」が切字であるがゆゑに、四分音符(†)の一拍を與(あた)へてゐる處が通常と異なつてゐるが、四拍子内で納まつてゐるので問題はない。
「葬(さう)」は死者を葬(はふむ)る事で、「喪(さう)」は死者を哀悼(あいたう)する禮(れい)を意味する所から、いづれも相通(あひつう)じるものである。
「家族葬」は密葬に似て身内だけで葬式を濟ませる事であるが、葬儀を行つて火葬した後に日を改めて本葬を行ひ、密葬と本葬を合せて一つの葬儀となつてゐるので本葬を行はずに密葬だけといふのは基本的に有得ず、近親者以外の儀禮的または社交辭令的な弔問客の參列を斷つて葬儀を完結した形態の「家族葬」とは根本的に違つてゐ、別に「家庭葬」とも言はれてゐる。
因みに、獨立した葬儀を行はずに、火葬場で參加者がごく少數の近親者に限られたり、身寄りのない人の場合には葬儀社だけで火葬だけを行ふ「直接火葬」を略した『直葬』といふ形態もある。
近頃では宗教形態にも變化(へんくわ)が見られ、無宗教式の「自由葬」と呼ばれるものまであり、死者を不淨と考へる爲に自宅の玄關先で行ふ清めの鹽(しほ)も、不自然で死者を貶める行爲(かうゐ)として退けられる傾向にある。
そればかりか、香奠(かうでん)や弔慰金の受取についても辭退(じたい)されたりするが、執拗に受取を求めない事も禮儀であらうかと思はれ、どうしてもといふ場合は、お供へとして供花やお菓子を贈る方法もあるだらう。
「家族葬」は「葬儀は近親者のみで行う」といふ遺族からの意思表示であるから、近親者以外は假令(たとへ)人情的に見過ごせなかつたとしても參列しないのが禮儀である。
住まひの三軒お隣さんの家で、老齡の御婦人が亡くなられた。
「家族葬」だと直ぐ横の奥さんが報せに來て戴いたものの、對應(たいおう)に苦慮するが、先方の意嚮(いかう)に從つて道で出合つた時の弔意だけで勘辨(かんべん)を願はうと決めた。
死は誰にでも訪れ、見送るといふ行爲(かうゐ)は見送る心算(つもり)が、實(じつ)は見送られてゐたりするのかもと考へたりする。
なほ、「喪」は「葬」ではなく「喪失」といふ意味も込めたかつたのでこの漢字を選擇したのであり、「さう」といふ讀みを「も」としなかつた所以(ゆゑん)でもある。
十二月五日
モオツアルトを追ふ方もなき師走かな 不忍
モオツ アルト を おふ かたもなき し はすかな
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初案は發表されたもので、改作したのが「神童の追ふ方もなき師走かな」であつたが初案のままとした。
小林秀雄(1902-1983)の「モオツアルト」といふ作品に、
『もう二十年も昔の事を、どういふ風に思ひ出したらよいかわからないのであるが、僕の亂脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時』
といふ文章の後、
『モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追ひつけない。涙の裡(うち)に玩弄(がんろう)するには美しすぎる。空の青さや海の匂(にほ)ひの樣に、萬葉の歌人が、その使用法をよく知つてゐた『かなし』といふ言葉の樣にかなしい。こんなアレグロを書いた音樂家はモオツァルトの後にも先にもない。』
といふ有名な言葉がある。
この曲は交響曲(Symphony)四十番と絃樂五重奏で、いづれも調性はト短調であり、その音樂は心を囚へてはなさない。
本當(ほんたう)は、彼の曲は長調の中で轉調された短調の素晴しさを味(あぢ)はふことこそが基本であるやに思はれるが、短調の曲の切なさも手放す事は出來ない。
十二月五日は莫差特(モオツアルト・1756-1791)が沒した日である。
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十二月六日
アダアジヨや音の日となり冬響く 不忍
アダアジヨや おと のひ とな り ふゆひびく
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十二月六日はトオマス・エジソンが一八七七年に世界で初めて蓄音機「フォノグラフ」を發明した日で、文化について多くの人々に認識を深めて貰はうと日本オオデイオ協会が、音響装置(オオデイオ)の誕生日となるこの日を「音の日」と制定したのだといふ。
思はず、店でも電視臺(テレビ)を消して音樂をBGMとして流した。
冬の夜の冴えた空間に音が響き渡つた。
因みに、獨逸(ドイツ)語圏の國々では、今日が「サンタ・クロオス・デイ」と呼ばれてゐて、その理由は「聖ニコラウス」の命日であるからだといふ。
「聖ニコラウス」は三世紀から四世紀に實在した人物で、阿蘭陀(オランダ)語の「シンタクラアス」が、亞米利加(アメリカ)に渡つて「サンタクロオス」と訛つたものだといふ。
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十二月七日
濁世とや影法師さへ日向ぼこ 不忍
ぢよ くせ とや かげぼ う しさへ ひ なたぼこ
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初案は「濁世とや影の法師も日向ぼこ」であつた。
中句の「影法師」を「影」の「法師」と分解する事に可笑(をか)し味を感じたものの、奇を衒ひ過ぎと考へて改めた。
第一月曜日は、毎月「發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』があるが、十二月だから今年最後の集會となるので、張切つて片道四十分を歩いて出かけた。
先生と呼ばれる事に中々慣れないもので、面映い氣持で添削や俳諧の歴史とか、日本語に就いての見解を披露しながら、何とか今年最後と來年への抱負を皆で語り合つてお別れした。
老人介護施設での遣取(やりと)りは、素直に樂しい時間を過ごさせて貰つてゐる。
『濁世(ぢよくせ)』とは佛教用語で「だくせい・だくせ」とも讀み、「ぢよく」は「濁」の呉音であり、
「五濁惡世(ごじよくあくせ)」
とも言はれる。
世界の成立から破滅若しくは無に到るまでを四劫(しこふ)と言ひ、
「成劫(じやうこふ)・天體が出來て生物などが出現する期間」
「住劫(ぢゆうこふ)・出來上がつた世界が存續する期間」
「壊劫(ゑこふ)・すべてのものが崩潰(ほうくわい)し、無に歸して行く期間」
「空劫(くうこふ)・形あるものが一切なくなつた無の期間」
と四つの期間に分類したもので、「劫」とは、
「天女が舞ひ降りて羽衣で撫で、岩が摩り減つて完全になくなるまでの時間」
を指すのだといふ氣の遠くなるやうな單位である。
その四劫の内の住劫の減劫に起る五つの惡い現象を「五濁惡世(ごじよくあくせ)」と云ひ、
「劫濁(飢饉・惡疫・戰爭)」
「衆生濁(心身が衰へ苦しみが多くなる事)」
「煩惱濁(愛慾が盛んで爭ひが多くなる事)」
「見濁(誤まつた思想や見解が蔓延(はびこ)る事)」
「命濁(壽命が十歳まで短くなつて行く事)」
といふ事で、則(すなは)ち、
「濁(にご)つた世の中・道徳や政治が亂(みだ)れた世の中。汚れた世の中」
これを『濁世(ぢよくせ)』といふ。
老人施設には經營上の介護者に對する運營の問題などが擧げられるが、飜(ひるがへ)つてその苦勞は察して餘りあるだらうが、家族による介護の抛棄(はうき)の方にも問題があるやに見受けられる。
とは言へ、各家庭の事情もあらうから輕々(けいけい)に論じられる問題ではないのかも知れない。
けれども、『鳰の會』に參加されて來られる方達は、その時間だけは屈託のない笑顏で接し合ひ、和んだ空氣に滿たされ場が構築されてゐるやうに感じられた。
歸りに公園の長椅子(ベンチ)に腰掛けながら、そんな事をぼんやり考へたりした。
十二月八日
失つた儉しさせめて針供養 不忍
う し なつた つま し させめて は り くやう
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初案は「せめてもの儉(つま)しき暮し針供養」であつた。
高島易斷の『九星本暦』によれば、今日は「こと納め」であると同時に「針供養」でもあるとあつた。
本來は舊暦(きうれき)の十二月八日と二月八日を「事八日(ことやうか)」といつて、事を始めたり納めたるする大事な日として行事が行はれてゐた。
詳しく調べると、「事」は祭り若しくは「祭事」を指し、「コトノカミ」という神を祭つて、それが「年神様」か「田の神様」かにより、この年に二囘ある「事始め」と「事納め」の時期が逆轉するのだといふ。
また、江戸時代に江戸城の「御煤納め」が十二月十三日と定められた事から、この日を「正月事始め」として定著(ていちやく)したとある。
「事八日」に行はれる「針供養」は、針に感謝して裁縫上達を祈る祭りとして江戸時代に廣まつて、折れた針や古くなつた針に勞ひの氣持を込め、豆腐や蒟蒻(こんにやく)に刺し、川に流したり神社に納めたりして裁縫の上達を願つたといふ。
筆者が子供の頃には、繼當(つぎあ)てをした服を著(き)るのは恥かしい事でも何でもなくて、お祝ひ事でもない限り新品の服を著る事などはなかつた。
お尻や肘とか膝に、色違ひの大きな當切れの布を施した衣服を著用して遊び廻つてゐたものである。
それは可成(かなり)徹底してゐて、靴下でさへ親に繕つてもらつたものを履いてゐた。
それが今ではユニクロなどで安價な商品が手に入る所爲(せゐ)か、そんな服を著た子供達を見かける事はなくなつた。
そればかりか、裁縫道具も家庭から消えて仕舞つたのではないかと思はれる程、家族の誰かが針で縫ふ姿を見る事がない。
そんな事をするより、購入した方が早いとばかりに……。
十二月九日
似たとこは癇癪ばかり漱石忌 不忍
にた とこは かんしやくば かり そ う せきき
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初案は「癇癪が似てゐるばかり漱石忌」であつた。
今日は、一九八四年(昭和五九年)から二〇〇四年(平成十六年)まで發行された千圓札(せんゑんさつ)の肖像でも名を知られた、明治の文豪夏目漱石(1867-1916)の命日である。
名前を金之助といふが、この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信のある「庚申」の日に生れた事から、厄除けの意味で「金」の文字が入れられたといふ。
帝國大學(後の東京帝國大學、現在の東京大學)時代に出合つた正岡子規(1867-1902)に、彼の數多い筆名(ペンネエム)の内のひとつであった「漱石」からこれを譲り受けたと言ひ、別に俳號は「愚陀佛」といふ。
「漱石」とは、唐代の『晋書』にある「漱石枕流(石に漱(くちすす)ぎ流れに枕す)」から取つたもので、本來は「枕石漱流」である處を、間違つたと認めるのが癪でそのまま押通した故事から、負け惜しみの強い事とか變(かは)り者の例への意として用ゐられる。
又、子規との交流から「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に發表し、これが評判となつて作家としての道を進む事となる。
「高踏派」と呼ばれた森鴎外(1862-1922)に對(たい)して、漱石は「低徊派(餘裕派)」と言はれた。
明治期の作家は、漢詩や和歌・發句(ほつく)の素養があるばかりでなく創作にも手を染めてゐたが、大正昭和初期の作家は和歌と俳句の創作となり、昭和の戰後期からは俳句を嗜む作家が僅かに存在するばかりとなつて仕舞つたといふ。
漱石に
「則天去私(そくてんきよし)」
の言あれば、孤城忍太郎に
「拾公捨私(しふこうしやし)」
のあるなり(どんな自慢)。
死後、遺體は東京帝國大學醫學部解剖室において解剖されて、摘出された腦と胃は寄贈され、腦は酒精(エタノオル)に漬けられた状態で現在も東京大學醫學部に保管されてゐるといふ。
彼は癇癪持ちとして有名であつたといふが、筆者も箸が轉(ころ)んでも怒つてしまふといふ程の、それに負けないぐらゐの癇癖(かんぺき)である。
ただ、殘念なのは、似てゐるのがそれしかないといふ事ではある。
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『座右の銘』 2、拾公捨私(しふこうしやし)
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十二月十日
灰色に街を染めてや雨の冬 不忍
はいいろに ま ちをそ めてや あめのふゆ
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天氣豫報では今日は雨だといつてゐたから覺悟を決めてゐたのに、降り出したのは午後三時を過ぎてからだつた。
それでも朝、目を覺まして珈琲を飮みに出かけた時の空は灰色だつた。
そんな天候に氣分も塞ぎ込んで、その倦怠感(アンニュイ)にまとはりつかれてゐる事自體を、結構愉しんだりしてゐる。
十二月十一日
人氣もなく師走といふに薄著かな 不忍
ひと けも な く しはす といふに う すぎかな
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今年は暖冬である。
そんな時は大雪が降るといふ。
けれども、とても信じられさうもない氣候である。
加へて、人の行交(ゆきか)ひが非常に少ない。
豐南町は庄内驛から離れてゐるとしてもである。
と、ここまで書いて來て、いつもなら複文(センテンス)の長い文章を書くのだが、どうした譯かと考へた。
とはいへ、むずむずして來て直ぐ元に戻つて仕舞ふのだが、庄内の繁華街でも大阪驛前の界隈でないとは言へ、もう少し人通りがあつても良ささうなものなのにといふぐらゐの混み具合である。
さういつた事は十年以上も前から、いや二十年にはなるかも知れず、それほど不知不識(しらずしらず)の内に寂れて行つたのであらう。
それは丁度、自身の年齡に老いを感じた時のやうに……。
十二月十二日
年の瀬のたて續けにや友集ふ 不忍
と しのせの たてつづけにや と もつ どふ
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以前に二十數年も營業してゐた店で、「花見」や「紅葉狩」と樣々な行事(イベント)を開催してゐたが、その中で「聖誕祭(クリスマス)」に集まつて云々といふのがあつて、その頃からの仲間が、
「この時期になると、つい集まりたくなつてしまふ」
と、そこから徒歩で三十分はかからうかといふにも拘はらず、有難い事に店まで顏を出しに來てくれる。
取留めのない話ではあるが、ひとつの洋卓(テエブル)を圍んで氣心の知れた四、五人が、和氣藹々と數時間を過ごした。
こんな飲み會が、あとどれほど續けられる事やら。
十二月十三日
配る餅をつきたり今年が終る音 不忍
く ばる もちを つきた り こ と しが をはるおと
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初案は「配り餅つきたり今年仕舞ふ音」であつたが、ご覧のやうに上句と中句の字餘りとなつたものの、「配る餅をつきたり今年を終へる音」から「配る餅をつきたり今年が終へる音」と變化(へんくわ)して最終案となつた。
豐南町に店を構へてから三年餘となつたが、この地區は殆ど毎月行事(イベント)が開催される程、他の地域に比べて熱心な土地柄であるやうに思はれる。
さういつた事を以前にも書いた記憶があるのだが、この餅搗きを終へたら、後は神社でのカウントダウンと新年を迎へる行事を殘すばかりである。
けれども今年は大晦日が木曜日で定休日だから、撮影に行くのは中止して、家で緩(ゆつく)り年を越さうかと考へてゐる。
何しろ毎年正月の朝まで營業をして來たから、休むなんて事は何十年となかつたやうに思はれるから……。
十二月十四日
主と從を友情とせむ義士祭 不忍
しゆ とじゆうを い うじやう とせむ ぎし まつり
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江戸の世間を震撼させた赤穗浪士の討入りに關する事件を扱つた文藝や戯曲は、時の幕府を憚(はばか)つてといふよりも、そのまま事件を取上げたり實名の使用を禁じられてゐたので、時代背景を置換へて脚色し、室町幕府の事件として上演されたといふ經緯(いきさつ)がある。
有名な『假名(かな)手本忠臣藏』といふ演目の「假名手本」とは、「伊呂波(いろは)四十七文字」を赤穂四十七士に準(なぞら)へたもので、この「伊呂波(いろは)四十七文字」を七行書きにすると、「沓冠折句(くつかぶりをりく)」における「沓」に、
「とかなくてしす(咎なくて死す)」
といふ文字が折込まれてゐて、それは無實の罪で切腹に處せられた赤穗の主君・淺野長矩(1665-1701)の無念を傳へたものだといふ。
なお、赤穗事件は「仇討ち」事件と看做されてゐるが、元來「仇討ち」とは子が親の仇を討つ場合を指すもので、この赤穗事件のやうに主君の仇を家臣が復讐したのであるから、これを「仇討ち」と呼べるかは議論があるとの事である。
糅(か)てて加へて、この事件は當時(たうじ)の武家の慣習からいへば、「喧嘩」の際には「喧嘩両成敗」の法が適應され、淺野と吉良は雙方(さうはう)が切腹となるのが順當(じゆんたう)である可き筈であつた。
けれども、吉良が脇差しに手をかけなかつたという理由で、事件を喧嘩として扱はずに淺野内匠頭の一方的な「暴力」として處理したのである。
ところが、平穏な時代が續いた江戸の庶民はこの事件に喝采を送つた事から、上演は大成功となつてこんにちに到り、現在でも浪士が葬られた泉岳寺では義士祭が催(もよほ)されてゐる。
だが、筆者は自身が納得盡(づ)くであつたとしても、忠臣といふ言葉に拒否反應(はんおう)を持つてしまふ。
人が誰かを家來にしたり、誰かの家來になつたりするといふ事そのものが不快に感ぜられる。
自分が諒(りやう)としてゐるのだから良いではないかと思はれるかも知れないが、さう思つた根據(こんきよ)が、選擇を許された教育によるものであるならば問題も少ないだらう。
さうでない場合が多いと思はれるから、對等の條件(でうけん)である友人としての附合ひの方を優先させたいと願つて仕舞ふ。
それにしても、相(あひ)も不變(かはらず)理窟つぽい事である。
十二月十五日
心持ちを暮から託す葉書かな 不忍
こ ころ もちを く れから たくす はがき かな
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初案は「心持ちを暮から形に賀状かな」であつたが、「暮」と「賀状」の季重なりがあるので改めた。
今日から「年賀郵便特別扱い開始」がされ、この日から十二月二十五日までに投函すると、翌年一月一日に年賀状が届く鹽梅(あんばい)となるのである。
年賀状とは新年に送られる挨拶状の事で、舊(きう)年中の厚誼の感謝と新年となつても變らぬ厚情を依願する氣持を傳へる日本獨自の風習であるが、通常の「葉書」よりも、この時期だけの「年賀葉書」を用ゐられる事の方が多く、その歴史も古くて奈良・平安に遡(さかのぼ)るといふ。
忠臣藏の「松の廊下」の刃傷も、その年の京都からの勅使饗應の儀式は年始の挨拶の返應の爲であつたから、新年の年始の行事はしつかりと根づいてゐたと思はれるが、文書などは遠方の人への年始の挨拶に代るものとして行はれたやうで、明治維新以降には郵便制度が確立した爲に、それまでの飛脚や使用人から脱却すると同時に、次第に書状から年賀状へと移行して行つたといふが、年賀状での賀詞は、年長者や世話になつた相手には「賀正・迎春」などの二文字熟語は避けるのが禮儀であるといふ。
それと、年以内に身内を亡くして喪に服してゐる人は年賀状を出さない風習があり、「喪中の缺禮(けつれい)」として年賀の挨拶を遠慮する旨の葉書を出したりするが、元は皇室の大喪に對して年賀欠礼を行つてゐたものが、年賀状の普及に伴つて一般家庭の喪中でも年賀の缺禮をするやうになつたと見られる。
ただ、喪中の人の家に年賀状を出さない方が良いとされてゐるが、年賀状を送つたからといつて失禮(しつれい)にはならず、單にその家からは年賀の挨拶が出來ない事を傳へる爲のものであると考へた方が無難であらう。
勿論、相手の氣持を慮(おもんぱか)つて年賀の時期を外し、代りに「寒中見舞」の葉書を出す事でそれに準ずる場合もあつたりする。
といふ事で、「虚禮廢止」といふほど大げさではないが、筆者も「喪中缺禮」よろしく年賀の挨拶は、ここ何十年と省略させて戴いてゐる。
但し、受取つた年賀状の返事則ち「返り年賀」は出させていただきます。
十二月十六日
留置けず煙と消ゆるや暮の葬 不忍
と めおけず けむり と きゆ るや く れのさう
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「留置けぬ煙と消えし師走かな」であつたが、「留置けず煙と消えし年の暮」と移行し、更に「留置けず煙と消ゆる暮の喪」としてから最終案となつた。
以前にも述べたが「喪」と「葬」は同義語で、今囘は「葬」を配した。
店の竝びで商賣をしてゐる方が突然亡くなつた。
悲しみもさる事ながら、年の瀬の時期も重なつて心勞も如何許りかと察して餘りあるが、その通夜に參列してして來たが、燒香する時に初案が突然と浮んだ。
上句の「留置けぬ」の「ぬ」は、知つてはゐるが儘ならぬ世の常を歎いてゐる樣だが、「留置けず」とすると、それでも何とか生きて欲しいと希求する思ひが優る感情を強調出來るやうに感ぜられまいかとの思ひで改め、更に中句を字餘りにして切字の「や」を加へたのは、感情の破綻を示す爲であるのは言ふまでもない。
十二月十七日
病ひ同士の安否に應へて暮に友 不忍
やまひ どう し の あんぴにこ たへて く れにとも
C♪♪♪ ♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「同病の安否氣にした友來たる」であつたが、親友の彼は人工透析で筆者は癌なので、病ひ同士ではあるものの同病とは言へないし、第一に季語がないので發句としては不適切であるから最終案となつた。
上句は「病ひ同士の」と七文字であるが、「病ひ」と「同士」を三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))にする事で解決が出來る。
彼との附合ひは二十五年にもなるが、店が省内から豐南町に移つてからは開店の時に立派な花が届いた切り疎遠になつてゐた。
それが數日前、妻が花屋を開店した彼が花に水をやつてゐる夢を見たといふので、急に氣になつて電話をしたところ、久し振りに聲を聞いたら無事だととの事。
そんな經緯(けいゐ)もあつて、二日前に彼が店にやつて來たが、何處も變はつた樣子もなく、元氣な姿を見せてくれた。
彼とは年齡も近く、住んでゐる地域もそれほど離れてゐなかつたが、にも拘らず出合つたのは小學生や中學生ではなく社會人になつてからで、それも四十代を過ぎてからの附合ひとなつてしまつた。
とは言へ、近所だから言つて附合ひがある人間ばかりとは言へず、中には知らない儘に擦違つた状態で、生涯疎遠の存在の人達もゐるのだらうから、縁といふものの不思議さを感じて仕舞ふ。
今囘の訪問にも、花屋をしてゐた彼は胡蝶蘭を持つて來てくれた。
十二月十八日
孫の眼に星の過りて暮の街 不忍
ま ごのめに ほし のよ ぎ りて く れのまち
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃
初案は「君の眼に星の過りて冬の街」であつた。
「君」だと相聞のやうで艷つぽくはあるが、氣障であると同時に「取合せ」としても「孫」の方が良いと思はれたので改めた。
この所、一箇月以上も孫と會つてゐない。
今日も來るとの事であつたが、生憎と病院へ藥を貰ひに行かなければならないので、また會へなくなつて仕舞つた。
全く病院の待ち時間といふものは、無駄に遣切れないこと夥しい。
待つてゐる時間は小一時間もあるのに、診察は三分程で終了である。
六時半頃に出かけたのに歸りは八時前になつてゐて、聖誕祭(クリスマス)前の夜の街は放電燈(ネオンサイン)が踊つてゐた。
ここに孫でもゐれば、その圓(つぶ)らな瞳にはネオンばかりでなく空の星まで映つてゐたに違ひないだらうと考へて一句を詠上げてみたが、これは完全に「空想の句」でしかない。
「一日一句」といふのも時に行詰つたりするもので、偶(たま)にはこんな句があつても良からうと思つたりするのである。
關聯記事
十五、空想の句の視點に就いて 『發句雑記』より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63350638&comm_id=4637715
十二月十九日
年の瀬や追ふもの白き己巳 不忍
と しのせや おふも のし ろき つち のとみ
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
初案は「年の瀬や白き蛇追ふ己巳」であつたが、「巳(み)」が蛇の事なので重複を避ける爲に改めた。
高島易斷の『九星本暦』によれば、今日は「己巳(つちのとみ)の日」である。
十二日ごとに巡る十二支の「巳(み)の日」は、辨財天(べんざいてん)の遣ひである白蛇(巳)に願ひ事をすれば辯財天に届くと言はれてをり、金運・財運に縁起の良い日のひとつとされてゐる。
その中でも干支の組合せは六十年に一度巡ると還暦といふやうに、日で言へば六十日に一度やつてくる、則ち二箇月に一度の「己巳の日」は、「巳の日」の中でも更に縁起が良いとされてゐる。
辯財天は藝術も司つてゐて、この日には財布を新調したり、寶籤(たからくじ)を購入するのに吉とされるが、財布の新調は兔も角、宝籤の場合は買つた人の全員が當(あた)る事は有得ないので、眉に唾をつけて聞いておく方が無難であるのはいふまでもない。
十二月二十日
急かされて追はれるもののなき師走 不忍
せかさ れて おはれる ものの なき し はす
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
今年は例年になく年の瀬といふ感じがしない。
若い頃は年末になるとワクワクするやうな感情と共に、何ものかに追ひかけられる切羽つまつたものを背中に突きつけられた氣分を味(あぢ)ははされたものである。
それが年々さういふ感覺が弱まつて行くが、それは梅田などではなく豐南町といふ地域性の故なのか、それとも加齡による感覺の摩耗によるものか。
さういへば、今日は『スタア・ウオオズ フオオスの覺醒』を觀て來たが、「箕面109シネマズ」は人集(ひとだか)りでごつた返してゐた。
日曜日といふ所爲(せゐ)もあるかも知れないが、普段はゆつたりと映畫觀賞を滿喫出來てゐるのにと、驚くこと頻りであつた。
特にIMXによる3Dと通常の字幕版と日本語吹替版との三つの館での上映で満席であつた。
豫約(よやく)を取るのも大變(たいへん)であつたが、大柄な外國の人の姿も目についた。
カルフウルからイオンに代つて十年近くになり、一箇月に一度は來てゐるがこれほど人が集まるのを見た記憶がない。
といふ事は、やはり地域での差によるものなのだらう。
負惜しみではないが、それでもこの箕面のイオンの混雜には、ただ人が行事(イベント)に集合してゐるといふだけで年の瀬の感じはしなかつた。
十二月二十一日
終ひ弘法生きてる内に行かばやと 不忍
し まひ こ う ぼふ い きて る うちに いかばやと
C♪♪♪ ♪♪♪♪ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「終ひ弘法生きてる内にいざ行かむ」と上句の七音の字餘りであつたが、「終ひ弘法せめて行かばや生きてあれば」と字餘りも極まつて、「終ひ弘法いつか行かばや絶えぬ間に」とするも、納まりを見つけられずに最終案となつた。
毎月二十一日は弘法大師の命日で、京都の東寺の境内で「弘法市」が催されるが、その年の十二月の最後の市を「終ひ弘法」といつて、古著や骨董品の他に苗とか干し柿、翌年の干支の置物などの正月用品を賣る露店が千軒以上も竝び、多くの人で賑はひを見せる。
それが夕方の電視臺(テレビ)の報道(ニユウス)で流れるのを見て、豫(かね)てから一度は行きたいと願つてゐたこの「弘法市」に、今年も遂に行く事が出來なかつたと確認させられた。
普段の月の「弘法市」にも行つては見たいのだが、何といつても出かけて行きたいのは「終ひ弘法」である。
何とか生きてゐる内に出かけたい氣持を、係助詞の「や」に接續助詞の「ば」をつけた「ばや」といふ言葉に托して見た。
十二月二十二日
粥南瓜冬至りなば蒟蒻と 不忍
かゆかぼちや ふゆいた り なば こんにやくと
C♪♪♪♪ † ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪ ♪ ♪†ζ┃
二十二日は二十四節氣の第二十二番目の『冬至(とうじ)』で、一年の内で最も日の出から日沒までの時間、則ち晝(ひる)が短い日である。
この日の朝に小豆粥を食べると疫病にかからないと言ひ、これを「冬至粥」と言ふが、また體内の惡いものを掃除する「身體(からだ)の砂拂(はら)ひ」に蒟蒻を食べたり、『冬至』の「と」に因んで「と」のつく食べ物、
「豆腐・唐茄子(南瓜)・唐辛子・泥鰌」
などを食べると長生きし、中でも南瓜を食べる風習は全國的なものであるといふ。
更に、この日は「冬至風呂」と稱して「柚子湯」に入つたりする。
廣々と柚子搖れてゐる午後の風呂 不忍
ひろび ろと ゆずゆ れてゐる ごごのふろ
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
調べると、天保九年(1838)に江戸の銭湯から流行し始めたとものの本にあつた。
今日は折角だから、自宅には歸らずに近所の錢湯に出かけた。
午後二時過ぎだつたので人も疎(まば)らで、柚子の浮んでゐる湯船にゆつたりと浸(つ)かる事が出來た。
ゆつたりと柚子湯歸りや晝の月 不忍
ゆつた りと ゆずゆがへ りや ひる のつき
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
風呂屋から店までは直線で百米(メエトル)程の距離であるが、空には白い月が浮んでゐた。
映像で撮るならば、湯船に浮んだ柚子の搖れから二重寫し(オオバアラツプ)で空の月へと移行させ處である。
因みに、『冬至』はこの日から次の節氣の「小寒」前日までをいふ。
十二月二十三日
助け合ふ思ひはとくに暮なれば 不忍
たすけあふ お もひはと くに く れなれば
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪ †ζ┃
今日は「天皇誕生日」であつたが、別に十二月中は「歳末助け合ひ運動の日」でもある。
取立てて年末だけを「助け合ふ」といふのも僞善的であるが、普段からさういふ氣持がない譯ではなからうから、嫌味つたらしく非難するには當(あた)らないのかも知れない。
本當(ほんたう)にお困りの人に、少しでもいい正月を迎へて貰ひたいと願ふのは、自身の無事である事への感謝ででもあらうかと思はれる。
とはいへ、押しつけがましい一句である事よ。
十二月二十四日
取敢へず家族集まる聖夜かな 不忍
と り あへず かぞ くあ つま る せいや かな
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃
日本人は所有(あらゆる)宗教の垣根を乘り越えて、それを祝ひ事として集まる理由を恬(てん)として恥ぢるどころか愉しんでゐる節が伺へるやうに思はれる。
そのひとつとして聖誕宵祭(クリスマス・イヴ)があるのはいふまでもないだらう。
我家でも子供達や孫が夕食に集まつた。
アダムよりクリスマスイヴ先にあり 不忍
アダム より ク リスマ スイヴ さきに あり
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「亚當(アダム)より夏娃(イヴ)が先なり聖誕祭」であつたが、この作品自體が駄洒落の一句であるので、笑つて看過されん事を願ひつつ詠んでみた次第である。
十二月二十五日
二人もゐる馬小屋生れや降誕祭 不忍
ふたり も ゐる う まごや う まれや か う たんさい
C♪♪♪ ♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ † ζ┃
初案は「傳へ聞く馬小屋生れの聖誕祭(クリスマス)」であつたが、それこそ傳へ聞く所によれば、といふか子供の頃に聖徳太子の出生の話に、
「母親が聖徳太子を身籠つた時、口から救世觀音菩薩が胎内に入つた」
とか、
「厩戸で生れた」
と聞かされて、耶蘇基督(イエスキリスト)を思ひ浮べて仕舞つた記憶を思ひ出した。
これぐらゐの事は誰でもが考へる事なのだらうが、研究者たちも、
「中國の景教(基督教のネストリウス派)が日本に傳へられた」
と尤もらしい説を唱へたりしてゐるが、他に、
「甲午(きのえうま)の午年である」
だとか、
「蘇我馬子の家で出産した」
からとも言はれたりする。
第一、それよりも脇から生れたと言はれてゐる釋迦の出生の逸話にも酷似してゐる。
聖誕祭は「Xmas」とも表記されるが、「X」は基督の希臘(ギリシア)語表記の頭文字で、「mas」は祭日の意味であると辭書(じしよ)にある。
貴い家柄の人が流浪して、苦難を動物や女性の助けられながら克服するといふ貴種流離潭の説もあるが、それとは逆に豐臣秀吉のやうに立身出世の場合もある。
馬小屋で生れて人を救ふ存在となつた耶蘇基督に對(たい)し、佛陀は釋迦族の王子であつたが、彼は泥沼にさへ蓮の花が咲く事で救はれる可き道を示した。
さう言へば、耶蘇も猶太(ユダヤ)の王である大闢(ダヴイデ)の末裔といふ事になつてゐるから、彼の出自も貴種であつたといふ事になる。
けれども大闢の末裔である耶蘇の父親の大工の郁泄布(ヨセフ)は、確かに馬利亞(マリア)の良人ではあつたが、馬利亞は精霊によつて處女で身籠つたといふのだから、大闢との血の繋がりはない事になる。
と、ここまで書いて見たものの、聖誕祭と大きな關係がない事に氣がついた。
今夜は聖菓(クリスマスケエキ)と珈琲を愉しまう。
十二月二十六日
枯葉地へなほ陽だまりに舞ふ風を受け 不忍
かれはちへ なほひだま り にま ふ かぜをうけ
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃† ♪♪♪♪†┃
この句は一氣に詠上げたので、いつもと違つて初案も何もない。
ただ、中句が九音で全體(ぜんたい)が十九文字の字餘りになつてゐるので、
「C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃」
といふ中句が「四音・三音」の場合や、
「C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃」
といふ「三音・四音」の中句のやうな通常の音型を使へないばかりか、
「C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃」
といふ「四音・四音」のやうな中句を八音の字餘りの音型さへ對應(たいおう)出來ず、二小節目の最後の「ふ」が三小節で初頭の四分音符(†)の一拍を確保して仕舞ひ、四分休符(ζ)の餘韻を與(あた)へる事が出來なくなつたが、延長記號(フエルマアタ)といふ案で對處(たいしよ)が可能なので心配には及ばない。
これで發句の四分の四拍子の三小節といふ基本は遵守された事になる。
庄内驛の『TSUTAYA』へDVDを返却に行く途中で天竺川の堤防へ上る時、風もないのに木から枯葉が地面に落ちたと思つたら、突然に一陣の旋風(つむじかぜ)が落葉を舞上げた。
年の暮も迫つた、陽だまりの穩やかな筈の午後の風景である。
關聯記事
Ⅰ.發句(ほつく)拍子(リズム)論 A Hokku poetry rhythm theory
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
十二月二十七日
第九より救世主(メサイア)を聽く店の暮 不忍
だい くより メ サイ アを きく みせのくれ
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
日本では年末になると貝多芬(ベエトオヴエン・1770-1827)の『交響曲第9番ニ短調作品125』を聽く機會が増える。
一般に「合唱附き」とも言はれてゐるこの曲が暮になると演奏會場で聽かれるのは日本獨特のものであるといふ。
「第九」が維納(ヴイン)で初演されたのが一八二四年だといひ、日本ではそれから徳島懸の俘虜(ふりよ)収容所で、第一次世界大戰の際に日本軍の捕虜となつた獨逸(ドイツ)兵達によつて、演奏が行はれたのが一九一八年六月一日の事だといふ。
その理由も諸説あるものの、筆者は戰後の貧しかつた樂團員達の餅代稼ぎの爲で、これだと合唱團の成員(メンバア)も年が越せるからと定著(ていちやく)したのだといふ挿話(エピソオド)を良とする。
今では「第九」に限らず、歐米に倣(なら)つて、韓徳爾(ヘンデル・1685-1759)の『救世主(メサイア)』や、巴哈(バツハ・1685-1750)の『馬太(マタイ)受難曲』なども演奏されるやうになつた。
韓徳爾を愛好してゐる身としては有難い事である。
關聯記事
6、この曲似てゐる 『交響曲第九番 ニ短調 作品125 「合唱」』と「Offetorium(奉獻唱)」
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4663861&id=66481397
十二月二十八日
狂ふほど求めたるものあれ年も暮 不忍
く るふ ほど も と めたる もの あれ と しも くれ
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃ † ♪♪♪♪†┃
初案は「狂ふほど求めたるものあり年も暮」であつた。
この作品は昨日の句と同じで、中句九音による十九文字の「字餘り」であるが、その音型も本來は二小節目にある可き中句が三小節目にまで及ぶ「節跨り」の句姿となつてゐる。
青春時代は將來に對する希望よりも暗然と横たはる不安に、狂ほしいまでに求めたのは、出世でもなく、裕福さでもなかつた。
それは恐らく、孤獨を癒す爲の愛ではなかつたか。
馬齡ばかりを加へて求めるものは果して得られたのだらうか。
希求するものばかり多くして、つひに今年も二日を殘す而己(のみ)にて暮れんとしてゐる。
關聯記事
25、孤獨 『異端者に非ざる異端者』
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4699373&id=56941930
十二月二十九日
定めをば乘越えてみん年の暮 不忍
さ だめをば の りこ えてみん と しの くれ
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪ †ζ┃
人生の目的は、不取敢(とりあへず)目的を持つ事ではなからうか。
さうすれば、それを據所(よりどころ)として次から次へと枝移りしながら目的を持ち續けられるのだから……。
それが生きて行く上で必要な唯一の乘越える術ではないかと思はれる。
十二月三十日
ほつこりと迎へる用意暮晴れて 不忍
ほつこ りと むかへる ようい く れはれて
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪ †ζ┃
この句は連歌の第一句の發句から二句の脇に移り、第三句の「て止り」の體(てい)なれば發句としては整はざるなれども、今年を一日殘すを鑑(かんが)みて諒(りやう)と思ひ到るなり。
他に第三は「らん止り・もなし止り」の體もあるなり。
晝(ひる)過ぎになりて溝掃除をして、墓参りなども濟ませんと外に出でれば、陽射し暖かにしてうららかなる新春を迎へんが如き樣なれば、妻と共に天竺川の堤防をのんびりと逍遙せむ。
十二月三十一日
まだ今年の殘りし除夜の鐘を聞く 不忍
まだ こ と し の のこ り し じよやの かねをきく
C♪♪ ♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪ ♪ ♪ †┃♪♪♪♪†ζ┃
今年は大晦日が木曜日なのでお店が休みで嬉しい限り。
何しろ怠け者の筆者であるから、みゆきちやんからの叱責を受けてもお構ひなしに、晝(ひる)から家の居間(リヴイングルウム)の長椅子(ソフアア)でゴロゴロ過ごしてゐた。
少し晩(おそ)め八時に夕食となり、その前に相方と麥酒(ビイル)を嗜んで雜談をしてから、またまたごろ寢。
十一時半を過ぎて、やをら近くの長嶋神社へ行かうと誘はれて出かけたら、天竺川の向かうにある寺から除夜の鐘が聞えて來た。
神社に居ながらにして除夜の鐘を聞くといふ、何だか不思議でお得な氣分を味はつて終へて行く今年の最後であつた。
一月一日
言祝ぎて福茶振舞ふ山の神 不忍
こ と ほぎて ふくちやふる まふ やまのかみ
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪ ♪ ♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃
正月は午前樣ならぬ午後樣で、目を覺ましたのは晝(ひる)過ぎであつた。
とは言つても、神社でお詣りをして何處ぞの寺の除夜の鐘の音を聞いてから歸宅したのだから、嚴密に云へばすでに朝歸りではあつたのであるが、起きて洋卓(テエブル)に坐れば殿樣よろしく、みゆきちやんから「お芽出たう」の言葉とともに福茶を振舞はれた。
「ことほぐ」は「言祝ぐ」とも書くが、普通は「壽ぐ」とも表記し、言葉で祝福する事を意味する
「福茶」とは、正月に縁起を祝つて飮む茶の事で、元旦に初めて汲む水を『若水(わかみづ)』と言つたが、こんにちのやうに水道を捻れば水が得られなかつた時代には、井戸から汲むか、それがなければ近くに湧く清水から桶に汲んで來て、神棚に供へてからその水で年神への供物や家族の食事を作つたり、口を漱いだり茶を立てたりして一年の邪氣を除いたといふ。
本來は立春の日に宮中の主水司から天皇に奉じた水を指したが、後に元日の朝に始めて汲む水をも指すやうになり、それも元日の朝早くに、まだ人に會はないうちに汲みに行き、もし人に會つても口を利かないのを仕來りとしたのだといふ。
若水を汲む役目は年男とされたり、その家の女性が汲んだりするのだが、「黄金の水を汲みます」など縁起の良い言葉を唱へたのだと言はれてゐる。
けれども、季語としては春と新春との搖れがあるやに見受けられる。
「山の神」は言はずとしれた、恐妻家には頭の上がらない細君の事である。
結婚して何年も經つと、妻の尻に敷かれる旦那といふ心象(イメエヂ)が定著(ていちやく)するものであるらしい。
一般に女神であるとされてゐる「山の神」は、『古事記・日本書紀』の伊弉冉(いざなみ)とも一致し、そこから妻の事を謙遜していふやうになつたと言はれてゐるが、一方で女神であるところから嫉妬深く、恐ろしく口喧(くちやかま)しい妻の呼稱(こしよう)の代表として用ゐられるやうになつたのではなからうか。
因みに、「元旦」とは「元日」の「旦(あさ)」の事である。
一月二日
夜は更けはて目覺めては今日春よ 不忍
よ るはふけ はてめざ めては けふはるよ
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪†ζ┃
「初夢」といふものがあるが、これは新年の夜に見る夢で一年の吉兇を占ふものではあるものの、それでは正月の何日の夜に見るものであるのかといふと諸説あつて、新年の最初に見る夢であるからといつて、必ずしも一月一日の元日の夜に見るものといふものではなささうである。
もつと言へば、大晦日の夜から元日の朝までに見る夢をいふ譯でもないやうである。
然(しか)らばいつになるかといふと、どうやら現在では二日から三日の夜に見る夢とされてはゐるが、それだとて、
「大晦日から元日」
「元日から二日」
「二日から三日」
といふいづれの日かを決定してゐるとは思はれず、曖昧な事この上ない。
とは云ふものの、この日と決定したとしても、その夜に夢が見られると確約された譯のものではないので、これらの日のどれかの夜に見た夢を「初夢」と呼ぶ事で問題はないやうに考へられる。
第一に、それ程に重きを「初夢」に托さなくても良からうもののやうに思はれる。
尤も、文献での「初夢」の初出は鎌倉時代と言はれ、そこでは新年ではなくて節分から立春の夜に見る夢を指してゐて、これは『若水』の場合と同じであつた。
また、「初夢」には、
「一富士二鷹三茄子」
といつて縁起が良いものを表す諺がある。
更に、良い夢を見るには「七福神」の乘つてゐる寶船の繪とか、
長き夜の遠の眠りの皆目覺め
波乘り船の音の良きかな
といふ廻文の歌を書いたものを枕の下に入れて眠るのが良いとされたといふ。
けれども、これでも惡い夢を見た場合には、翌朝に寶船の繪を川に流して縁起直しをしたとある。
斯(か)くて、筆者も廻句などせむと試みん。
さればの一句が上記のもので、この句の下句の「春」とは、言はずと知れた「新春」の事である。
關聯記事
初 夢
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1653616640&owner_id=25109385
俳廻は? (上(右)から下(左)から讀んでも同じ) 『雜俳考』
一月三日
正月も早や三日なり墓の石 不忍
しやうぐわつも はやみつかなり はかのいし
C ♪ ♪ ♪ ♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「正月も早や三日なり墓所の石」であつたが、餘所餘所(よそよそ)しいので改めた。
一月三日は閏年でなければ、あと三百六十二日で年末となるが、こんな事を書くと、オリンピツク開催まであと何日だとか、阪神タイガアス優勝まであと何日かといふのと同じやうに思はれて面映いが、その通りであるので一言の申し開きもない。
國民の祝日としては一月一日の元日のみとしてゐるが、この日までの三箇日を慣例的に祝日扱ひとしてゐるやに思はれる。
正月とは暦の年初の事であり、舊年(きうねん)が無事に終つて新年を祝ふ行事の事で、正月飾りや御節料理を食べたり正月行事を行つて盛大に祝ふが、元々は舊暦(きうれき)では一月の事を「正月」と呼ぶのが正式名で「一月」は異名で、
「お正月・祝月・元月・眦月・端月・初月・嘉月・王月・上月・謹月・年端月・初春月・暮新月・初空月・霞初月・太郎月・初見月・子日月・端正月・年見月・正陽月・王春月・春正月・人正月・王春・開春・發春・首春・獻春・規春・首歳・初歳・肇歳・開歳・芳歳・華歳・方歳・發歳・獻歳・初節・青陽・孟陽・上陽・新陽・初陽・孟陬・王正・月正・天正・地正・人正・初正・夏正・春孟・春首・歳首・歳初」
と樣々な異稱がある。
「三箇日」または「松の内」という意味で使用される事の多い正月であるが、
元來は一月十五日までであつたが、それが七日までに短縮されたやうである。
別に一月二十日までを正月とする事もあつて、その日を『二十日正月・骨正月』と呼ぶといふ。
昔は數へ年であつたから一月一日に歳を加へた事を祝つてゐたが、滿年齡を使ふようになつてからはその意味合ひはなくなつて、單に新年を祝ふ行事となつて仕舞つた。
一月四日
櫛の齒が拔け行く訃報年始め 不忍
く し のはが ぬけゆ くふほう と しは じめ
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今朝、義母の姉則(すなは)ち伯母(をば)の訃報があつた。
三箇日(さんがにち)が過ぎたところだつたが、同居してゐる兄夫婦から母親の落膽(らくたん)振りを訊いて、妻の心配さうな顏に言葉も出なかつた。
生きて行くといふ事は、周圍(しうゐ)の人達が年々亡くなつて寂しくなる事であり、恰(あたか)も最初は揃つてゐた櫛が年を經(へ)る毎に缺(か)けて行き、軈(やが)ては全ては拔落ちてしまふといふのに似た事なのだらうが、多くはそこに到る前に櫛の持主である本人の壽命が盡(つ)きてしまふものである。
その意味では、その本人の櫛の齒は自分の周りの人の持つ櫛の中に存在する事となるのだらう。
また、それぞれが保有してゐる櫛の齒の數は、その人の交際範圍の幅の廣さによつて決定されるのものと思はれる。
筆者自身の櫛も不揃ひとなつて久しいが、今のところ知人の櫛の齒の中には殘つてゐられさうである。
この句の下五句は切字の「かな」を配して「年初かな」とする案もあつたのだが、「かな」には達觀とか悟つたやうな感じがあつたので、この場合は遠慮する事にした。
因みに、「伯」がつくと「兄・姉」で、「叔」の場合は「弟・妹」に對して使用される。
一月五日
凍て雨の降つたと知らす濡れた道 不忍
いてあめの ふつたと しらす ぬれたあめ
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初案は「いつの間に降つたと知るは止んだ後」とか、「いつの間に降つたと見せぬ止んだ後」などと定まらなかつた。
また、「凍て雨」とはいふものの、今年の冬は暖かく、過し易いといへばさう言へるのだらう。
明日の六日(水曜日)の朝四時に、早めに店を閉めて妻の伯母の告別式へ行く爲に美作へ向ふ豫定である。
その準備の一環として喪服を取りに行くのと、身綺麗にする爲に風呂に入りに夕方の四時過ぎに店を出たら、路面に水滴の乾いた後が點々と殘つてゐた。
何時(いつ)の間にか雨が降つたやうである。
それもこの樣子だと、ほんの一時の事であつたのだらう。
多くの場合、人が生きた證(あかし)をこの世に止めるのは難しく、大抵は名もなき存在として墓にその名を刻むぐらゐの事でしか殘せはしない。
名前があつても「名もなき人」との認識しかされない民……。
その中の一人として筆者もあるし、ありたいと思つてゐる。
一月六日
小寒やかさこそと最後の骨拾ひ 不忍
せう かんや かさ こそ と さい ごの こつひろひ
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初案は「小寒やこれが最後の骨拾ひ」であつたが、「小寒やかさかさと最後の骨拾ひ」とするも、急遽(きふきよ)思ひ至つて推敲する事となつた。
小寒(せうかん)とは二十四節氣の第二十三番目で、舊暦(きうれき)だと十一月後半から十二月前半になる。
新暦の現在だと一月五日頃になり、次の節氣の大寒前日までの事であるが、暦の上からも寒さが最も嚴しくなる時期と言はれてゐる。
この日から節分までを「寒中・寒の内」と言ひ、小寒のこの日を「寒の入り」と言ふが、「寒中見舞ひ」はこの日から出し始める。
六日のこの日、妻の伯母の告別式だつた。
午後一時半から美作の作東インタアの近くで葬儀があつた。
一旦引返した火葬場へ、再び骨揚げに出向いたが、この世に残された最後の遺骨を壺に納める時、かさかさと乾いた音が靜かな空間に響いてゐた。
一月七日
美作の伯母の法要藥水寺 不忍
みま さかの をば のほふえ う や くすいじ
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初案は「美作は妻の里なり藥水寺」であつた。
昨日の葬儀の骨上げの時間の關係上、翌日である今日に初七日を兼ねた「還骨法要(かんこつほふえう)」の供養をした。
場所は、岡山懸美作の高野山眞言宗美作八十八箇所靈場の第八番靈場である『藥水寺』であつた。
妻と連合ひになつてゐなければ、この地を訪れる事も、叔母との縁さへなく、第一美作といふ地名も宮本武藏(1584?-1645)との關聯でしか知る由もなかつた筈である。
「合縁奇縁(あひえんきえん)」とはよく云つたものだと熟(つくづく) 思ふ。
「還骨法要」とは宗派によつては「還骨勤行・安位諷經」とも言ひ、お骨になつて歸つて來た故人を葬儀式場か寺若しくは自宅に戻つて追悼する儀禮の事である。
清貧の身體に優し若菜の日 不忍
せいひんの から だにやさし わか なのひ
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一月七日は人日の節句で、朝に七種粥(ななくさがゆ)を一年の無病息災を願つて食べる風習があり、この行事はすでに平安時代には行はれてゐたさうで、別に『若菜の日』とも言ふが、新年を迎へた祝膳や祝酒で弱つた胃を休める目的もあつたものと解され、家族への思ひやりが感ぜられる。
關聯記事
18、七草考・『日本語で一番大事なもの』大野晋 丸谷才一 中央文庫 摂取本(セツシボン)
一月八日
一月の何事もなく陽も翳る 不忍
いちぐわつの なにごと も なく ひ も かげる
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初案は「一月の何事もなく陽も消えて」であつたが、第三句の體(てい)であつたので改めた。
正月は元旦の芽出度さを味はひながらも、突然の訃報で慌(あわただ)しく松の内を過したが、八日(やうか)になつて漸(やうや)く落著(おちつ)いた一日を終へる事が出來たやうに思はれた。
一九八九(昭和六十四)年一月七日の朝の昭和天皇の崩御を受けて、翌八日の今日から「平成」といふ新しい元號が始まつた日である。
それからもう平成二十八年の月日を數へるに到つてゐる。
また、一か八かの勝負といふところから『勝負事の日』とも言はれてゐるやうだが、そんな事を感じさせないやうな穩やかな一日であつた。
一月九日
出かけるにはまだ控へたり宵戎 不忍
でか けるに は ま だひかへたり よひ えびす
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『戎』といふと大坂では「えべつさん」と呼ばれて商賣繁盛の神樣として知られてゐて、聖徳太子が四天王寺建立の際に西方の守護神として建てられたと傳へられ、浪速區にある今宮戎神社が有名である。
調べると、京都の八坂神社の氏子が今宮に移り住んで現在の地に祀つた事に始まり、現在も雙方の神社は交流を續けてゐるのださうである。
「えべつさん」は、九日の宵宮祭(宵戎)と十日の大祭(本戎)と、最後に十一日の後宴(殘り戎)とがあるが、基本は江戸時代中期から十日戎が盛んになつて行つたやうである。
服部神社へは、筆者も十日に出かけようかと思つてゐる。
一月十日
貰ふ後に次は與へん本戎 不忍
も らふ のちに つ ぎはあたへん ほんえびす
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大阪府豐中市ある服部天神宮の十日戎へ出かけた。
いつも周りに要求ばかりしてゐて何だか申し譯ない氣がするので、今年は心を入替へて見ようと決意はするのだが、よく考へえば毎年似たやうなものではなかつたかと、また新年から反省をして仕舞つてゐる。
「戎」は七福神の一員の中に於いて唯一の日本の福の神で、その他は印度や中國からの外來の神であり、漁業の神でもあり、商ひの神とも言はれ、
「夷・戎・胡・蛭子・蝦夷・惠比須・惠比壽・惠美須」
など、表記も樣々であるが、
「えびつさん・えべつさん・おべつさん」
と、一般には呼稱されて親しまれてゐる。
けれども「えびす」という神には、伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)の子である蛭子命(ひるこのみこと)とか、大國主命(大黒)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)であるとか、少彦名神や彦火火出見尊とする説もあるかと思へば、中央政權が東國の地の者を「えみし・えびす」と呼び、「戎・夷」と書いた事でも明らかなやうに、異邦の者を意味すると同時に漂流者としての「寄神信仰」の對象(たいしやう)ともなつたのである。
狩衣姿で右手に釣竿を持ち、左脇に鯛を抱える滑稽(ユウモラス)な姿の「えびす樣」に、このやうに複雜な背景が窺へて驚いて仕舞ふ。
笑顏ありてそれを傳へん福むすめ 不忍
ゑがほ あ りて それをつたへん ふく むすめ
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服部天神宮では、満十八歳から二十三歳の女性を「福むすめ」として毎年公募で選出してゐるが、二〇〇七(平成十九)年度から外國人留學生の枠が設けられ、今年も二名の女性が選ばれたといふ。
殘念な事にお目にかかる事は出來なかつたが……。
裏の戸をここぞと叩く本戎 不忍
う ら のとを こ こぞ と たたく ほんえびす
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「えびす神」は耳が遠いとされてゐて神社本殿の正面を參拜する外に、今宮戎神社では本殿の裏側に廻つて銅鑼(ドラ)を叩いて祈願したり、服部天神宮では板に槌を叩いて來た事を報せるのだといふ。
「參(まゐ)りました、參りました」
と、更に念を入れて聲をかける事もあるといふ。
因みに、「えびす」は「ゑびす」とも表記する事があるが、これは「惠比須・惠比壽・惠美須」と書く時の「惠」が「ゑ」である爲に生じたもので、「え」が正しいものであると考へられる。
一月十一日
和服なら懷手なり寒櫻 不忍
わふく なら ふと ころ でなり かんざ くら
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初案は「逍遙(せうえう)の土手に見つけた寒櫻」であつたが、餘りに平凡で「懷手の氣分滿足り寒櫻」とするも、これもごちやごちやしてゐるので改めた。
今日は今年最初の發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』の日であつた。
本當(ほんたう)は第一月曜日だから四日の日なのだが、幾ら何でも正月早々は控へようと、去年の暮に年明けは第二月曜日にするやうに全員で決めてゐた。
自轉車で高川の堤防を驅けて行くと、土手の根際(ねき)に『寒櫻』を見つけた。
「冬櫻」とも呼ばれる『寒櫻』とは「緋寒櫻(ひかんざくら)」の事で、「ひかん」の「か」は「が」と濁らず、舊暦(きうれき)の正月邊(あた)りに咲く事から「元日櫻」とも呼ばれるといふが、バラ科サクラ屬の植物でサクラの原種の一つで、「寒緋櫻(かんひざくら)」とも「臺灣櫻(たいわんざくら)」、また「緋櫻」とも言ふさうである。
土手の少し下つた處にひつそりと咲いてゐて、注意しなければ見過ごされて仕舞ふやうな寒櫻を見つけた時は、一寸ばかり心が和んだ。
時間の關係で長くは居られなかつたが、眺めてゐる間は懷手の出來る和服であれば良かつたのにと、その風景を自身も含めて客觀的な風景として思ひ浮べて仕舞つた。
一月十二日
冬晴て天上天下唯我獨尊 不忍
ふゆはれて てんじやう てんげ ゆいが どくそん
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今日は何も浮ばないといふか、いや浮んだのが、
「天上天下唯我獨尊」
といふ言葉だけで、これをそのまま句にした譯である。
けれども、この句は「五七七」と十九文字もあり、而(しか)も下句が七音といふ「片歌」の體(てい)だから、發句としては最も避けなければならない形なのだが、これ以上は短縮のしようがないので諦める事にした。
ただ、四分の四拍子の三小節である基本的な形式は守られてゐる。
「唯我獨尊」は釋迦が摩耶夫人の右脇から生まれた時に、七歩進んで右手で天を指し、左手で地をさして言つたとされる言葉とされるが、釋迦以前に出世したといはれる過去七佛の第一佛である毘婆尸(びばし)佛が誕生した際だとも言はれてゐる。
これには二つの説があつて、ひとつは、
「全世界で私(釋迦)が一番尊ひ」
といふ意味と、
「全世界で私(と感じる個々一人一人が)一番尊ひ」
といふいま一つの故事(こじ)つけのやうな意味があつたりするが、胡散臭ささ滿點(まんてん)の筆者は無論後者の方を支持してゐる。
一月十三日
降りだして雪に變らぬ夜の底 不忍
ふり だして ゆきに かはらぬ よる のそこ
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初案は「降りだして雪に變らぬ暗さかな」であつた。
夕方とはいつても、二階から呼ばれて店に下りて來たのは六時を過ぎてゐたので、外はもう眞暗であつた。
御負けに雨まで降つてゐて、さういへば晝食(ちうしよく)後に庄内驛前の『TSUTAYA』へ出かけた時も、今にも雨が降りさうな空模様であつたし、いつにも増して底寒いものを感じる天候であつた。
それが到頭(たうとう)覆つてゐた黒い雲に負けて、夕方には雨となつたやうである。
横の勝手口から外の路地を見ると、夜の底にある路面は黒く、かすかに濡れ光つてゐた。
一月十四日
土手の風が見得をきるなり寒九郎 不忍
どての かぜが みえを きる な り かんく らう
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初案は「土手を往けば見得をきるなり寒九郎」であつた。
『寒九郎』とは「小寒」則ち「寒の入」から九日目の事で、「寒九の水汲み」と言つて、「この日に水を汲むと腐らない」とか「一年で一番水が澄む日」と言はれてゐるが、またこの日に雨が降ると「寒九の雨」と言ふさうで、その年は豊作だと言はれてゐるものの、残念ながら昨日だつたら雨だつたのにと、不圖(ふと)思ひ浮べて仕舞つた。
今日も今日とて、『TSUTAYA』へDVDを借りに出かけたが、外出すると思ひの外に寒く、別けても天竺川の土手に登ると寒さは一入(ひとしほ)身に沁みた。
身を切る冷たい風は、土手を往く人に「どうだ」と言はんばかりに吹いてゐる。
因みに、寒の入りから四日目を「寒四郎」と言ひ、この日の天候が晴れだと豊作で、雨や雪だと兇作になると言はれてゐる。
一月十五日
粥ならぬ善哉にする小正月 不忍
かゆな らぬ ぜんざいにする こしやうぐわつ
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正月十五日は『小正月』と言はれるが、それは元日から七日までを「大正月」と呼ぶのに對するもので、『小正月』までが松の内で門松を飾つたものであつた。
それが徳川幕府の命で一月七日の「大正月」までとされたが、主に關東が主流であつたので、地方では、
「小年(こどし)・二番正月・若年・女正月・花正月・返り正月・戻り正月」
とも呼ぶやうであり、一月に於ける祝ひとしての正月の終りと考へられてゐたやうである。
また「左義長」の日でもあり、門松や注連飾りとか書初めの物を持ち寄り、火を焚いて燒く火祭りの行事で、別に「とんど燒」とも言はれてゐるが、實(じつ)は近所の神社でその撮影に行かうと思つてゐたのだが、寢過してしまつて撮れなかつた。
何しろ、目を覺ましたのが晝(ひる)を過ぎてゐたのであるから。
十五日は、以前は「成人式」の日でもあつたが、二〇〇〇(平成十二)年に一月の第二月曜日へと祝日法改正で移動となつてゐる。
この日の朝の習慣(しふくわん)に「小豆粥」を食べる事が、『土佐日記』や『枕草子』に記(しる)されてゐるが、これは元日から小正月の期間中に、獣肉などの赤い色をしたものを食する事が禁忌(タブウ)とされてゐ、その中には小豆も含まれてゐたので、それがこの日から許されたといふ合圖(あひづ)ででもあつたものと思はれる。
我が家でも毎年さうであつたのに、
「今年はこれですよ」
といつて出されたのは、善哉だつた。
みゆきちやんの作つたものに、否やはない。
默つて押頂いて食べる而己(のみ)である。
一月十六日
藪入のしきたりいづこ澆季かな 不忍
やぶい りの し きた り いづこ げ う きかな
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その昔、商家などに丁稚や女中などとして住込みで奉公してゐた者が實家(じつか)へ歸る事を許された休日を『薮入』と言つたが、それには一月十六日と七月十六日の二囘がその日に當り、『薮入』と言へば歳時記では新年の季となつてゐて、七月は「後の藪入」と言つた。
と同時に大奥の女性達が實家に歸る事は「宿下がり」と呼ばれてゐた。
この習慣(しふくわん)は江戸時代からのものであるが、日曜日が休日となる事で『藪入』は廢(すた)れて、「正月休み・盆休み」の歸省へと變化(へんくわ)して行つた。
また、この日を「賽日(さいにち)」と言つて、地獄で閻魔大王が亡者を責苛(せめさいな)む事を止めるのだといふ。
この『藪入』も勤める先があればこそで、それも内職(アルバイト)などではなく正社員としてでなければ意味をなさず、企業が勞働者に責任を持つといふ氣構へがなければならない。
嘗(かつ)て、武家の棟梁は國土を廣げれば家來に對(たい)して、その一部を家臣に與(あた)へて勞に報いた。
家來である限り生涯に亙(わた)つて責任を負ひ、その子供は無論のこと子孫に到るまで召し抱へ、それはまた無念にも戰爭で敢無(あへな)く戰死した事があつたとしても、子供がゐなければ親族へ、それも存在しなければ養子によつて家名を受繼ぐ事で名を残して名譽(めいよ)を守つた。
それは後の世になつても、暖簾分けといふ形で長年仕へた奉公人に分け與(あた)へてゐたりしたものであつた。
所が、現在でかう言つた終身雇用制度が殘つてゐるのは、最早大手企業でさへ珍しく、何かを産み出す事もない公務員ばかりがその制度で蔓延(はびこ)つてゐるばかりである。
そればかりか、こんにちの企業は社會保險や福祉などの社員への費用を割愛でもするかのやうに、それらの一切を不要とするアルバイトに頼らうとして、責任を果さうとしてゐるとは言へないのではないだらうか。
世は不況で就職難である。
正社員になる事も難しく、またその社員も樂な仕事や賃金の高い方へと會社を代つてしまふ。
勿論、古來の武家や商家に仕へる者の中にも他家の主人へと移る場合もあつたであらう。
或いは優秀な人材を我が元へと引拔くのも、當然(たうぜん)の事としてあつた。
それは今の企業間や國家間での頭腦流出にも似てゐるが、ただ違つてゐる事があて、それは昔は金錢の額の高低だけではなく、その相手にどれだけ魅力があつたのかに重點(ぢゆうてん)が置かれてゐた。
そこの所に違ひがあつたのであるが、この差は大きいと言はねばならない。
それは甘言に騙されて雇はれた場合に、その會得(ゑとく)した技術が劣下したり、持つてゐる情報が入手出來て、最早役に立たないと解れば切捨てられてしまふのは必定であり、その時に、金錢が目的であれば忽ちの内に収入の道は斷たれてしまふ事になるが、それは丁度、販売員(セエルスマン)を雇つて親族が勸誘出來て、その後に成績が振るはなければ辭(や)めるやうに仕向け、また次の販売員を入社させて、それを繰返して行けば會社の成績は維持出來るといふ事になるのである。
これが収入といふ事だけが理由であつた場合で、もしも雇ひ主の人間性に動かされた場合だと、さういつた事で信頼關係が崩れる事はないものと思はれ、また、もしそれでも解雇されたとなれば、己が目の曇りを恥ぢれば良いばかりなのである。
『澆季』とは道徳が衰へて、人情の稀薄となつて亂(みだ)れた世といふ意味で、「澆」は輕薄を「季」は末の事を表し、世の終り則ち末世の事を指す。
これを乘切るには義と情に頼る外はないやうに思はれるのだが……。
因みに、筆者は「臣」といふ主從の觀念は嫌ひで、師弟といふ關係ならば許せると考へるものである。
一月十七日
人氣なき夜の心に凍雨かな 不忍
ひと けなき よる の ここ ろに と う う かな
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『凍雨(とうう)』とは、落下中の雨の滴(しづく)が地上附近の冷たい大氣に觸れて氷結し、透明或いは半透明の氷の粒となつて降る氣象現象、またその氷の粒の事を指すが、雨が上空で凍ったものと考えると分かりやすいものの、嚴密には雪が解けて再び凍るといふ雪が雨に變(かは)る際に見られるものであるといふ。
けれども、單に氷のように冷たい冬の雨の事でもあると言はれてゐる。
ここでは後者の方で扱つてゐるのは言ふまでもない。
といふのも、關西圏でも特に大坂などでは滅多に雪などは降らず、それは年に一度でもあればといふ程の珍しい事で、先の意味での『凍雨』にお目にかかれよう筈もないのであるから。
雨に降られた人氣のない店先は靜かで、心まで冷込んで仕舞ふ。
斷つておくが上五句の「人氣」は、決して「にんき」の事ではない。
一月十八日
鰻いづこ冬にさへある土用かな 不忍
う なぎ いづこ ふゆに さへ ある どよ う かな
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『鰻』も『土用』も夏の季語である。
けれども、寒さ嚴しき冬にだつて精をつけなければなるまい。
一體(いつたい)、『土用』とは暦の雜節で五行に由來し、一年の内の四立である、
「立春・立夏・立秋・立冬」
の直前約十八日間づつあるものである。
四立の各土用の最初の日を土用の入りと呼び、五行では、
「春=木氣・夏=火氣・秋=金氣・冬=水氣」
が割當てて、殘つた「土氣」を季節の變り目として『土用』と呼んだ。
『土用』の間は土の氣が盛んになるので、「動土・穴掘り」等の土を犯す作業や殺生が忌まれたが、ただ『土用』に入る前に着工した場合は、その期間中も作業を續けられるとされた。
冬の『土用』の日から十八日目が節分で、次の日が立春である。
一般には立秋直前の「夏の土用」を指すことが多く、歳時記もそれに倣(なら)つてゐ、その日は「土用の丑」といつて鰻を食べる習慣がある。
さう思つたお蔭か、晝食(ちうしよく)に散らし鮨が出て、具に鰻を見つけたら、
「今日は土用だから」
と、みゆきちやんの氣の利いた解説(コメント)が聞かれた。
遉(さすが)は我が連合ひである。
莞爾!
註) 本當(ほんたう)を言へば今日は「亥」の日で「丑」の日ではなく、『土用』の入りといふだけの事である。
「丑」の日は二日後の一月二十日がそれに相當する。
一月十九日
寒風に身を任せてや竝木道 不忍
かんぷ うに みをまかせてや なみきみち
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初案は「木枯に身を任せてや竝木道」であつたが、『木枯(こがらし)』とは、晩秋から初冬にかけて北から西北西に吹く風の事で、風速八m/s以上の風を指す冬型の氣壓(きあつ)配置になつた現象であり、「木を枯らす」とも「木の嵐」いふところから、「木枯・木嵐」と表記するが、別に「凩」の文字もあるがこれは國字で、先に述べた通り和歌では「秋・冬」に詠むが、歳時記では冬の季語として扱つてゐるが、初冬といふ心象(イメエヂ)が強いので改めた。
昨日から風が強く、店の暖簾が幾度も吹飛ばされてしまふので店先にかけないでゐる。
今日も天氣は良かつたが、引續いて風の勢(いきほ)ひは治まらない。
このところ毎日のやうに『TSUTAYA』へ『水滸傳』のDVDを借りに出かけてゐるが、國道一七六號線の鋪道の竝木は、まるで耐へるかのやうに吹荒(ふきすさ)ぶ風に默然(もくぜん)と立盡(たちつく)してゐる。
我もまた風に逆らはんが如く、世の習ひに從はん歟(か)。
一月二十日
休めてや骨正月の物憂さよ 不忍
やすめてや ほねしやうぐわつの もの う さよ
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今日は二日前に述べた、四立の内の「水氣」に當る冬の『土用の丑』の日であるが、それよりも行事としては正月の終りとなる節目としての『二十日正月(はつかしやうぐわつ)』の方を忘れてはなるまい。
調べると、この日は正月の祝ひ納めとして仕事を休む物忌みの日で、京阪神地方では正月に用ゐた鰤の骨や頭を「酒粕・野菜・大豆」などと一緒に煮て食べる事から、
「骨正月・頭正月」
とも言はれ、別の地方では、
「乞食正月(石川懸)・棚探し(群馬懸)」
などと言ひ、正月の御馳走や餅などを食べ尽くす風習があるといふ。
芽出度きといふ正月も終へて、何がなし齢(よはひ)を加へた事を實感すれば、虚脱感にも似た物憂き氣分なり。
一月二十一日
不退轉に性根を据ゑて寒の水 不忍
ふたい て んに しやう ねをすゑて かんのみづ
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初案は「移ろはず性根を据ゑて寒の水」であつた。
今日は二十四節氣の第二十四の大寒(だいかん)で、次の節氣の立春前日までを指し、小寒から大寒へと過ぎて立春前日までを『寒』と言ひ、寒さが最も嚴しくなる頃であり、寒稽古が行はれる時期でもある。
「寒の水」とは、大寒の朝の水は一年間腐らないとされてをり、容器などに入れて納戸に保管する家庭があつたといふが、今では餘り見られない習慣(しふくわん)のやうに見受けられる。
また、この時期は「寒仕込み」と言つて、味噌や醤油とか酒を仕込むのに適してゐるといふ。
「小寒・大寒」で思ひ出したが、童歌に『おほさむこさむ』といふ曲があつて、歌詞は、
「おおさむこさむ
山から小僧が
泣いてきた」
といふのだが、「小寒・大寒」を「だいかん・せうかん」と讀ませずに、「おほさむ・こさむ」と讀むのにはどれ程の根據(こんきよ)があり、思ひ入れがあるのだらうかと氣になつてしまつたが、もしかすると方言としてさういふ地方があるのかもと考へたりした。
といふのも、三橋美智也(1930-1996)に『岩手の和尚さん』といふ歌があり、その歌詞にも「大寒(おはさむ)小寒(こさむ)」の言葉が冒頭にあつたからである。
「寒の水」は腐らないといふが、獨り我が身に振返つて、果して己はどうかと面はざるを得ない。
一月二十二日
風を得て雲居はいづこ默阿彌忌 不忍
かぜをえて く もゐはいづこ も く あみき
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初案は「後の世の雲居に殘せ默阿彌忌」であつた。
新劇運動の先驅けの人物とも目された坪内逍遙(1859-1935)に「我國の沙翁(シエエクス・1564-1616)」とまで言はれた河竹默阿彌(1816-1893)は、江戸時代の幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者で、別名に古河とも言つたといふ。
立作者として三百もの演目を書いて、明治の半ばで七十六歳の生涯を閉ぢてゐる。
さう言へば、去年も同じこの日に『默阿彌忌』の句を詠んでゐた。
龍は沼に潜んで時が來るのを待つてゐるが、風と雲を得なければ龍は飛翔する事が出來ない。
臥龍といはれた諸葛亮孔明(181-234)は、劉備玄徳(161-223)によつて天空に昇り得たが、時機に惠まれぬ儘に生涯を終へた者の如何に多かつた事か。
我が身を臥龍と竝ばせるのは烏滸がましいが、そんな思ひに驅られて仕舞つた。
因みに、龍は秋になると淵の中に潜んで春には天に昇るとも言はれてゐる。
一月二十三日
臘日に取立てて喰らふものもなし 不忍
らふ じつに と り たて て く らふ もの もなし
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高島易斷の『九星本暦』によれば、今日は臘日(らふじつ)で、日本の暦の注記の一つである。
「つなぎあわせる」という意味のある『臘』から、新年と舊年(きうねん)の境となる舊暦(きうれき)の十二月の大寒に最も近い辰の日の事を「臘月」と言ひ、元は「臘祭」という中國の習慣で、年末に神と祖先の祭祀を共に行ふものであつた。
また『臘』は「獵(れふ)」に通じ、捕へた獣を祭壇に供へたといふ。
但し、選日法は諸説あつて一定しせず、また、この日を大晦日(おほつごもり)と呼ぶ事もあつた。
寒波到来なれど、今日といふ日にこれといつて特別に食す可きものもなく、夕食には鍋物を妻と圍んだ。
一月二十四日
問へば冬ただひと色に青い空 不忍
とへば ふゆ ただひと いろに あをいそら
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晝食(ちうしよく)後に、驛前の貸出(レンタル)店で映畫(えいぐわ)を返却しに出かけた。
餘りの寒さに羽毛上著(ダウンジャケット)の頭巾(フウド)を被りながら歩いてしまつたので、我ながら傍目(はため)にも怪しいことこの上なかつたと思はれた。
天竺川の堤防にある樹の先に、人戀しくなるやうな青い空があつた。
更に舊家(きうか)の立竝ぶ露地を往くと、どんな人が住むのかと思はれるやうな立派な塀に、庭の木々が覆ひかぶさつた先にも青い空があつた。
問へば冬人も戀しき青い空 不忍
とへば ふゆ ひと も こひ しき あをいそら
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問はずとも冬なのだが、時に來し方を振返れば、戀しうて自問自答する場合がある。
思はず、素直にさう詠む可きだつたと思つた。
一月二十五日
知らぬ間に妬まれてもゐよう寒紅梅 不忍
し らぬまに ねた まれて も ゐよ う かんこ うばい
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二、三日前に京都の北野天滿宮で早咲きの梅が見頃だとの報道(ニユウス)があつた。
その才能ゆゑに、妬まれて九州の大宰府に左遷させられた右大臣菅原道眞(845-903)は、二年後に無念の思ひを抱いたまま亡くなつたといふ。
そこには、主を慕つて長年住み慣れた自宅の庭から飛び來つて根づいたと言はれる梅の有名な「飛梅傳説」が殘つてゐる。
『拾遺和歌集』によれば、
東風吹かばにほひおこせよ梅の花
主なしとて 春を忘るな
こちふかば にほひおこせよ うめのはな
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あるじなしとて はるをわするな
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が初出の表記であつたが、
東風吹かばにほひおこせよ梅の花
主なしとて春な忘れそ
と「な~そ」の歎願を含んだ方が、筆者は好みである。
俳譜は初出と同じである。
近頃は歳時記と共に愛用してゐる高島易斷の『九星本暦』の外に、世界通信網(インタアネツト)の『今日は何の日~毎日が記念日』も閲覧するやうになつた。
それといふのも、『今日の一句』を續けようとするには、固(もと)より菲才の身には似たやうな句を詠んでしまひさうなので、どうしても多くの情報(デエタア)に頼らざるを得ないのである。
それによれば、この日は菅原道眞に因んで『左遷の日』であるとあつた。
どれだけ察しの良い人間だとて、全てを見通せる譯ではない。
氣を使つて過してゐたとしても、時として思ひもかけずに恨まれたりする事もあるであらうし、噂によつても禍(わざは)ひは表面化する場合もあらう。
人の世は住みにくいものである事よ。
一月二十六日
行く川の流れの果や春見えず 不忍
ゆく かはの なが れのはてや はるみえず
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初案は「行く川の流れの果や春未だき」で、次に「行く川の流れの果や春未だし」と詠んだが改めた。
天竺川の土手を歩き、橋の上から川の上流を暫し眺めても、立春までは十日を切つてゐるのに、春の兆しの欠片(かけら)さへも邊(あた)りには見出せなかつた。
この春が來れば生涯の後半と言つても過言ではない時期となる。
振返つても、「よくぞ」といふ感を強くするが、嚴しい冬はまだ殘つてゐる。
「日暮れて道遠し」といふところであらうか。
一月二十七日
冬ざれに鷺身動がず川の中 不忍
ふゆざれに さ ぎみ じろがず かはのなか
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初案は「冬ざれに身動がぬ鷺川の中」であつた。
單に語順の問題だと思はれるかも知れないが、初案の「鷺川」の表記の流れが氣になり、さりとて「鷺かは」と「川」を平假名にしても首肯(しゆこう)出來なかつたので改めた。
足掻かず騷がず、さりとて諦めてゐる譯でもなく、何かを眺めてゐる様子も見せずに、一箇所に飽かずに立盡してゐる。
いつからかも忘れて仕舞ふ程に以前から棲息し出した鷺を、今日も川の中に見つけた。
日向ぼつこばかりでなく、曇りの日でも雨の日でも、鷺は修行僧ででもあるかのやうに身動ぎもしない。
我が身に照らしてみれば、忸怩(ぢくぢ)たる思ひばかりである。
一月二十八日
言の葉の風に震へて息白し 不忍
こ と のはの かぜにふるへて いき し ろし
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いつもなら朝の五時に店を閉めるのだが、木曜日の定休日を利用して妻の實家(じつか)の美作へ出かけるので、三時半に店を終へて中國自動車道に向つた。
午前四時までに高速道路に入れば割引があるといふので、節約の爲にさうしたのだが、よく考へれば、店に客を呼んだ方が利益は上がつた筈で、目先に捉はれれば本質を見失うといふ好見本も甚だしいといふ結果となつて仕舞つた。
水曜日は眞面(まとも)に寢られず、そのまま木曜日の朝まで仕事をして、二時間ほど車を運轉して六時前に美作土居に到着(たうちやく)し、そのまま倒れるやうに蒲団にもぐり込んだ。
それで結局、一句も出來ずに金曜日の午前一時を迎へてしまつた。
調べると一月二十八日は、七一二年に稗田阿禮の誦習により太安萬侶が『古事記』を筆録して獻上した日だといふ。
これと『萬葉集(まんえふしふ)』のお蔭で、日本語がどういふものであるかを研究する事が出來た。
らいら
真っ白な言の葉を、この目で見られるのは冬なのですね。厳しい季節の中で、か弱き生の震えるさまに切なさも感じました。ひたすら、美しい光景です。
らいら さん。命から發せられたかそけき言の葉。人間の音聲機能から發せられる音を分類して、物と音を相對的に捉へて原語化して行くといふ氣の遠くなるやうな作業から、文明を發展させて來て、こんにちがあるといふ事に驚きを禁じ得ません。
一月二十九日
人に仕へぬを誰に恥ぢるや冬の空 不忍
ひと に つかへ ぬを たれにはぢ るや
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ふゆのそら
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誰かの臣下になるとか、誰かの主(あるじ)となつて家來を從へるとかを好まない。
人を支配するといふ考へを、、筆者は基本的に諒としない。
『惡名』ではないが、「朝吉一人」である。
關聯記事
二、發句する 發句雑記より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=47630519&comm_id=4637715
一月三十日
非暴力と不服從とや冬暮れて 不忍
ひぼう りよ くと ふふく じゆ う とや ふゆ く れて
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初案は「非暴力と不服從とや聖人忌」としたが季語もなければ、第一に誰の事だか不明なので、「非暴力と不服從とやガンデイイ忌」としたが、これだとて歳時記には記載されてはゐない。
取立てて歳時記に拘(こだは)る必要はないと思ふので、「ガンデイイ忌」としても問題ないのだが、世界の現状を鑑(かんが)みるに身震ひをしさうな寒さを感じたので敢(あへ)て外して詠んでみた。
一般に「印度の父」と言はれてゐるガンデイイ(1869-1948)は、「偉大なる魂」といふ意味の「マハトマ・ガンデイイ」と呼ばれてゐるが、本名は『モオハンダアス・カラムチヤンド・ガンデイイ』といひ、一九四八年のこの日に暗殺されたので、印度では「殉教者の日」であるといふ。
ガンデイイは印度を英吉利(イギリス)からの獨立する運動を指揮したが、一體(いつたい)、英吉利はあれほど離れた國を侵掠(しんりやく)しておきながら、自國の領土だと主張する根據(こんきよ)を何處に求めたのであらうか。
人が人を奴隷として扱ふのと同じやうに、國家が他の國家を植民地とする行爲(かうゐ)の下劣さには、憤りを禁じ得ない。
ガンデイイの行動は民衆暴動の形をとらないが、言はれてゐるやうな「無抵抗主義」ではなく、彼のその行爲(かうゐ)は、
「非暴力・不服從」
を提唱した平和主義的手法であるから、誤解なきやうにしたいものである。
「非暴力・不服從」の運動に參加するといふ事は、敵對する相手に反撃も逃げもしないといふ、實(じつ)に修行僧のやうな忍耐の強さが要求される。
この「非暴力(アサンヒイ)」は印度(ヒンドウ)教や佛教及び耆那(ジヤイナ)教
に共通する概念で、これは十字架に磔にされた耶蘇基督(イエスキリスト)の行爲にも似てゐる。
ただ、印度の種姓制の血統(カアスト)制度では、
「婆羅門・王族及び武士(クシヤトリア)・平民(ヴアイシヤ)・隷屬民(シユウドラ)」
の四階層があり、更に不可觸民(ダリツト)の存在を見逃す事は出來ないが、ガンデイイは英吉利への留學や阿弗利加(アフリカ)で辯護士まで出來たといふ裕福なヴアイシヤ出身だつたので、この制度の排除への關心(くわんしん)は大きくなく、彼は「平等な分離」と捉へてゐたやうであり、軈(やが)て制度を習俗と考へて、なくなれば良いといふ意見を僅かに述べてゐるのは殘念である。
暗殺者によつて三發の銃彈を撃込まれた時、ガンデイイは囘教(イスラム)教で「あなたを許す」という意味の動作である自らの額に手を当て、「おゝ、神よ(ヘー ラーム)」と呟いて七八歳の生涯を閉ぢ、國葬の後に遺灰は海に撒かれたといふ。
一月三十一日
一月も晦日なれやぽかぽかと 不忍
いちぐわつも つご も りなれや ぽかぽかと
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初案は「正月も晦日なれやぽかぽかと」であつた。
辭書(じしよ)によれば「晦日」とは「つきごもり(月隱)」の約で、月の光が隱れて見えなくなる事を意味し、陰暦における月の終り頃とある。
美作に在住する妻の母親が、大坂へ出て來て二泊目の夜を迎へてゐる。
一日目は箕面のカルフウルへ買物とお茶をし、二日目は庄内で又々買物。
明日は庄内の元映畫館に『天滿座』といふ芝居小屋が出來たので、そこへ筆者の繼母(はは)も誘つて出かける豫定である。
生憎と月に一囘開催される、發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』があるので筆者は同行出來ないが、車での送迎は任せて貰ふので妻共々愉しんでくれば良いと思つてゐる。
それにしても今日は寒さも和らぎ、穩やかな陽射しで、まだ一月だといふ事を忘れて仕舞ふ程であつた。
二月一日
義母來るも二月初めの薄曇り 不忍
ぎぼ くるも にぐわつはじ めの うす ぐもり
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美作から妻の母親を大坂へ迎へて四夜が過ぎやうとしてゐるが、明日には義兄が連れて歸るので、それほど時間が殘されてゐない。
昨日はあんなに晴れて陽氣が良かつたのに、一轉して今日はどんよりとした曇り空で、御負けに寒さもぶり返して氣分が塞がり、晴れた曇つたで一喜一憂して仕舞ふ。
とはいへ、今日は十二時から芝居を見るので、天氣に左右され事はないだらう。
愉しい思ひ出と共に歸つてくれればと、願はずにはいられない。
二月二日
御先祖は系圖に殘るや春間近 不忍
ごせんぞは けいづに のこ るや はるま ぢか
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初案は「家系圖に先祖見据ゑん冬の果」であつたが、「今あるは系圖に殘るや春近し」と推移して最終案となつた。
岡山の美作に住む妻の母が大坂に訪ねて來た最初の日に、祖母の従姉弟(いとこ)が豐中市に在住されてゐるとの事で、服部天神驛で待合せる事になつた。
幼い日に美作で過し、別れ別れになつて數十年――。
お互ひ年を取つて白髮頭となつても面影は殘つてゐるのだらうか、ちらツと車から見ただけなのに間違へる事はなかつた。
驛の近くの『果琳』といふ喫茶店で、祖母と従姉弟は何十年振りの懐舊(くわいきう)を温めた。
聞けば、店から自轉車で十五分程の距離であるといふので、今日は歸るといふのならばと、我が店で再び會はうといふ事になつた。
その従姉弟の方は定年後の時間を系圖作りに專念されてゐて、どんな縁なのか解らないが、服部天神に所縁(ゆかり)のある菅原道眞(845-903)にまで先祖を遡る事が出來たとの事だつた。
その作成半ばの系圖を見ながら、迎へに來てゐた義兄夫婦と一緒に家族の話が彈(はづ)んで、あツといふ間に時間は過ぎ去つて仕舞つた。
晝(ひる)から二時過ぎまでの歡談を得て、義兄と一緒に義母は美作へと歸つて行つた。
短い間だつたが、滿足してくれただらうか。
人が今存在してゐるといふ事は、過去から斷續してゐないといふ事である。
謂(い)はば「萬世一系」の證左であると言へるだらう。
過去からの系譜の果に自身の存在がある。
能(よ)く考へれば、何とも不思議な事である。
二月三日
裡にある鬼を豆打ち追ひしかな 不忍
う ちに ある おに をま めう ち おひ しかな
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節分(せつぶん)とは雜節の一つで季節を分ける事を意味し、四季それぞれの變(かは)り目の事で、「立春・立夏・立秋・立冬」の前日の年に四度あるのだが、現在では立春の前日のみが重要視されるやうになつたのだと辭書(じしよ)にある。
平安時代には大晦日の宮廷儀禮の一つに「鬼遣(おにやら)ひ」とも呼ばれる「追儺(ついな)」が行はれてゐたといふが、後にそれが節分行事に變化(へんくわ)したものと言はれ、一部で大晦日や舊(きう)正月などに「なまはげ」などとして殘る地域もある。
筆者としては外部からの鬼よりも、自身の内部の鬼をこそ退治せねばならぬと思つてゐるのだが、これが外の鬼よりも中々に手強いのである。
註)「γは八分休符・†は四分音符・ζは四分休符 」の代用。
2015年 夏の句
http://www.miyukix.biz/?page_id=2784
2015年 春の句
http://www.miyukix.biz/?p=1603
∫
參考資料
「精選版 日本国語大辞典(小学館)・広辞苑(岩波書店)」
「ウキペデイア・EX-wordから引用」
關聯記
Ⅰ.發句(ほつく)拍子(リズム)論 A Hokku poetry rhythm theory
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
一日一句の發句集『朱い夏(Zhu summer)』二〇一一年度(mixiのつぶやきとTwitterに發表)
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_05_01_archive.html
Hokku poetry “Zhu has summer” 發句集「夏朱く」
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/08/hokku-poetry-zhu-has-summer.html
Hokku poetry ” White autumn 發句集「白い秋」
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_08_01_archive.html
Hokku Anthology “springtime of life” 發句集『春青く』
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_06_01_archive.html
二〇一四年版の發句 冬の部
二〇一四年版の發句 秋の部