近江不忍の「今日の一句」による 作品
二〇一六(2016)年
芳 春
二月四日
立春やこぼれる笑顏に會釋する 不忍
りつしゆんや こぼれるゑがほに ゑしやくする
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初案は「立春や笑顏こぼれてお辭儀(じぎ)する」であつた。
暦の上では、寒さも底を打つて今日から春である。
二十四節氣の第一に當(あた)り、正月節とも言はれる立春は、この日から立夏の前日までを春と呼ばれる初日の日であり、節氣としては雨水前日までを指す。
この日が寒さの頂點で、翌日からの寒さを「殘寒・余寒」といつて手紙や文書等の時候の挨拶などで用ゐられ、「寒さが増さなくなる時期」として春を捉へられてゐる。
『會釋(ゑしやく)』とは、佛教語で一見矛盾してゐるやうに思はれる混亂(こんらん)した内容を、掘下げて矛盾しない眞實(しんじつ)を明らかにする事で、「會通・和會・融會」とも言はれる。
また、相手に心配りをする事とか、思いやり、斟酌(しんしゃく)の意味もあり、さうかと思へば事情を納得して理解する事で、平たく言へば趣旨を呑み込む事である。
更に、事情を説明したりする事でもあるが、一番解り易いのが輕く挨拶や禮を交す事。また、その挨拶や禮を示す所作をも意味する。
庄内驛の近所にある『TSUTAYA』へDVDを借りに出かけたが、天竺川の堤防を歩いても、何がなしか春の氣配を感じてしまふ。
それといふのも、春といふ言葉の靈力によるのかも知れない。
二月五日
寒々とした景色殘して梅便り 不忍
さむざむ とした
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けしきのこして うめだより
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この句、上句が七音の字餘りとなつてゐるが、「とした」を三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))にする事で、一小節を四拍子に出來てゐ、發句は四拍子の三小節といふ問題は解決されてゐるものと思つてゐる。
梅の季語に關(くわん)しては、
「好文木(かうぶんぼく)・花の兄(え)・春告草・匂草(にほひぐさ)・風待草・初名草・野梅(やばい)・白梅・臥龍梅・青龍梅・殘雪梅・殘月梅・枝垂梅・飛梅(とびうめ)・鶯宿梅(あうしゆくばい)・箙(えびら)の梅・老梅(らうばい)・梅が香・梅暦(うめごよみ・ばいれき)・梅園・梅の宿・梅の主(あるじ)・梅林・梅の里・梅屋敷・夜の梅・梅月夜・紅梅(こうばい)」
と樣々なものがある。
新聞の『北攝』によれば、服部緑地に梅の花が咲き始めたといふ記事が寫眞と一緒に載つてゐた。
古來から梅は春を告げる花として愛でられて來て、『萬葉集(まんえふしふ)』の時代では花と言へば梅を指してゐた。
それが『古今集』の頃には櫻へと變化(へんくわ)をして仕舞つた。
けれども、寒さの中で咲く梅のいぢらしさは捨て難いものがある。
二月六日
初午と聞きて致せし事もがな 不忍
はつうまと ききていたせし こともがな
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歳時記代りに愛用してゐる高島易斷の『九星本暦』によれば、今日は初午(はつうま)の日ださうである。
『初午』とは、二月の最初の午の日の事で稻荷社の祭の日で、勿論一月の午の日こそが最初ではあるのだが、伏見稻荷神社のご祭神である宇迦御霊神(うかのみたまのかみ)が伊奈利山へ降りた日が、和銅四(七一一)年二月十一日が初午であつた事から祀るやうになつたと言はれてゐる。
舊暦(きうれき)で行ふ場合は新暦の三月となる事もあるといひ、蚕や牛とか馬の祭日とする風習もあるといふが、その意味では元々は春先の行事であつた。
また、二月の二囘目の午の日を「二の午」、三囘目を「三の午」と言つて、これらの日にも祭禮を行ふ地方もあるといふ。
その年の豊作祈願が「初午」の原型で、それに稻荷信仰が結びついたものと言はれてゐるが、四月初めの「巳の日」の『菜の花祭』の夜と「初午」のいづれかに雨が降らないと火に祟られるといふ俗説もある。
地方によつては子供達が藁でできた馬(午)の頭を持つて家々を廻つて、それぞれの家のから御禮にご祝儀として菓子や蜜柑を貰ふところは、西洋の諸聖人(ハロウイン)に似たものと言へ、「しもつかれ」を食べる風習があつたり、稻荷に因んで「初午いなり」と言つて稻荷寿司を供える風習もあるやうである。
「しもつかれ」とは辭書(じしよ)によれば、下した大根に炒り大豆を加へて酢醤油をかけた料理(れうり)で、『酢憤(すむつかり)』と言ひつたが、後に鹽(しほ)鮭の頭や人參とか酒粕を加へて煮た料理で、「すみつかり」とも「しみつかれ」ともいふとある。
このやうに『九星本暦』に記載されてあるものは、古いものからこれからさうなるであらうかと思はれる仕來(しき)たりがあつて、その一例として明日は、
『北方領土の日』
といふ政治色の強い内容もあつたりする。
そこら邊(あた)りも面白いが、だからと言つて句になるかどうかは、また別の話である。
『初午』は「節分・雛祭・端午の節句・七夕」などと違つて、習慣(しふくわん)として身についてゐないので、どう接すれば良いのかといふよりも、近くに稻荷神社でもないと知らぬ間に來て、氣がついたら過ぎ去つて仕舞つてゐたといふ感が強く、對應(たいおう)し切れない行事であると言へよう。
二月七日
土手に出て山見つ風の冴返る 不忍
どてにでて やまみつかぜの さえかへる
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「冴返る」とは、春さきに暖かくなりかけたかと思うとまた寒さがぶり返す事を指すが、一度暖かさを體驗(たいけん)しただけに、その寒さも身に沁みるものがある。
藤原爲家(1198-1275)の『玉葉集』に、
さえかへり山風あるる常盤木に
降りもたまらぬ春の沫雪
といふ一首が知られてゐ、發句でも『花火草(1636)』の所出だとあり、
「しみ返る・寒返る・寒戻り」
とも言ひ、
「餘寒」
といふ表現もある。
「勝つて兜の緒を締めよ」といふ言葉があるが、難が去つた後ほど氣を引締めなければならないものであるが、この時期の寒さもそれと同じやうに思はれる。
二月八日
求めれど見つけられなや迎春花 不忍
もとめれど みつめられなや げいしゆんくわ
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今日は舊正月(きうしやうぐわつ)で、言ふまでもなく舊暦の正月の事であるが、新暦では一箇月遲れる事になり、一部の神社の祭典や寺などでは未だに行事として殘つてゐるやうである。
『迎春花』とは「控え目な美」といふ花言葉を持ち、モクセイ科ソケイ屬の落葉性半つる性低木の「黄梅」の事で耶悉茗(ヂヤスミン)の仲間である。
「黄梅」は「梅」とはいふものの、ウメは花の形が似てゐるだけでバラ科の植物なのだと言ひ、花に香りは殆どないといふ。
さう言へば、三年前に月ヶ瀬に梅を身に行つた時に鉢植の『黄梅』求めて、今も店先に置かれてはゐるのだが、今年は花が咲いてゐない。
去年は咲いてゐたのにとうらめしく思つてゐたので、店から庄内驛まで出かけるのに、いつもなら出來るだけ近い道を選ぶのだが、今日は「青い鳥」を見つけでもするかのやうに、極力遠廻(とほまは)りの道から堤防を探るやうに歩いた。
勿論、黄梅を一目見たかつたからであるが、遂に出逢へなかつた。
因みに、去年の『二〇一五年 春』の句を調べて見たら、
鉢植ゑの梅黄色くて夜の雨 不忍
はちうゑの うめきいろくて よるのあめ
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といふ句を詠んでゐて、それは「二月二十一日」の事だつたから、十日も前に咲けといふのは『黄梅』には酷だつたかも知れない。
らいら 2016年2月9日 21:49
ジャスミンのお仲間なのに、香りがないのも面白いですね。どんな花なのか、私も見てみたいものです。国内にはたくさんの花の品種があるでしょうが、その大半を生涯見ぬまま過ごすのだろうなと、ふと思いました。
らいら さん。
えゝ、多くの人が知らぬ儘に、だと思ひます。
動物園や植物園はその爲にあるのでせうが、動物を栖息地から別の場所である一箇所に集めるといふのには、利己主義(エゴ)を感じて仕舞ひます。
嘗ては遠方に容易く出かけられなかつたといふ事情もあつたでせうが、今はゐながらにして世界の情報を個人が得られる時代となりました。
それも文字も寫眞(フオト)も動画でさへ、氣樂に手に入れられるのですから。
さう言へば實物を見なければその感動は解らないといふ主張も聞かれさうですが、それこそ現地へ赴く移動手段も飛躍的に向上してゐるのですから、狹い場所に閉込めるのはどうかと愚考します、ツて何を書込んでゐるのやら。
二月九日
春淺く陽射しは風に追ひつけず 不忍
はるあさく ひざしはかぜに おひつけず
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二階降りて一階の店で内へと移動して晝食(ちうしよく)を攝る。
窓の日覆ひ(ブラインド)の隙間からの明るい陽射しを客席に受けて、穩やかな春の一日を感じて食事をした。
けれども、ひとたび表へ出ると、日射しは大氣を暖かくするには及ばなかつた。
迂闊にも室内から室内へと移動しただけなので、その事に氣がつかなかつたのである。
何事も上邊(うはべ)だけでは圖(はか)る事が出來ないものである。
風よりも陽射しの温もりを感じるには、まだ少し時間が必要であるやうだ。
二月十日
くりかへす絲や早春の日は遙か 不忍
くりかへす いとやさう しゆんの
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ひははるか
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陰暦では新年と春がほゞ同時であつたのが、明治期に新暦になつてからは、所謂(いはゆる)舊(きう)正月が「初春」となる可きを、春らしさを期待する季語とされるやうになつたと言へよう。
それと同じで、『早春』は二月から三月初めの頃を指し、
「春先・春早し」
といふも同じであるが、
「春淺し・淺き春・淺春・春淡し」
とも時期を同じうする。
これらはいづれも明治期の正岡子規(1867-1902)の一派によつて季語として採用されたとあり、「早春」は時期を示し、「春淺し」は感慨といふ氣持を含んでゐるやに思はれ、比較的近年のものであるから松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)は知る事はなかつた。
「繰返す」の「繰」は綿や絲を卷取る事で、それを更に何度も反復する行爲(かうゐ)をいふが、
「繰戻す・掻返す」
といふも同じである。
季節の春は毎年繰返すが、一人個人の人生に於いて若さに満溢れた『早春』は、誰人も繰返される事はない。
二月十一日
手拭を湯に沈めをる餘寒かな 不忍
てぬぐひを ゆにしづめをる よかんかな
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初案は「手拭が湯に沈む程餘寒かな」で、次に切字が二つもある「手拭を湯に沈めてや餘寒かな」であつた。
今日は店の定休日で、就中(なかんづく)次女も休日(きうじつ)だつたから、家族四人で伊丹にある『HIRO珈琲』へモオニングを食べに出かけた。
もしも次女の旦那も休みだつたら一緒に行くところだつたのだけれども、殘念な事に仕事だつた。
晝(ひる)からは庄内の天滿座の二階にある『ねね』といふカラオケ喫茶へ出向いた。
今度は繼母(はは)も誘つて、五時近くまで一人四曲づつを歌つて樂しい時間を過ごした。
折角だから次女の旦那と夕食をする事になり、それならと江坂の『王將』で合流すべく自宅へ歸つて時間調整をして、七時半に會食を始めて小一時間で腹を滿たした。
事はそれでは終らず、このまま温泉に行かうと十時頃に尼崎にある『極樂湯』に出かけて十二時まで羽を伸ばした。
『餘寒』とは、立春後の寒が明けてもなほ殘る寒さの事で、季節の挨拶として「餘寒見舞ひ」で親しい人に便りを出して近況を報告し合ふが、別に「殘寒」とも言つて「立秋」後の暑さを表す「殘暑」と對(つい)になる言葉と言へよう。
二月十二日
まだ見えぬ譯知り顏で春を問ふ 不忍
まだみえぬ わけしりがほで はるをとふ
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庄内の繁華街へ向ふ途中、天竺川の堤防を歩きながら、立春から九日しか經つてゐないのに、何處かにそれらしい春の痕跡はないものかと探してみるが、それらしいものは見つけられなかつた。
時に人は理解出來もしない事を、呟いてみたりするものである。
春になつたらその實體(じつたい) があると考へて、當然(たうぜん)のやうにそれを眼前に要求して見せる。
傲慢な事である。
ゆつくり自然の營みに身を任せてゐるゆとりが、最も大切な對應(たいおう)であるにも拘はらず……。
二月十三日
晴れるよりも服を脱がすや春の雨 不忍
はれる よりも ふくをぬがすや はるのあめ
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上句は六音の字餘りであるが、字餘りは「弖爾乎波(てにをは)」などの助詞を無暗に省いて言葉足らずにしないやうにする爲と、感情の破綻を表現するといふ場合などに用ゐられるので、決して疎(おろそ)かにしてはならない。
この句は、まだ春らしさを認められない晴れの日に、雨が降りだして寒さの和らぐのを感じ、思はず服を脱いでも過せ、いや、脱いだ方が心も輕やかになつたといふ氣分を表現したものである。
これで思ひ出したのが、伊曾保(イソツプ)物語の「北風と太陽」といふ寓話で、ただ違つてゐるのは太陽は北風に勝つたが、この場合は負けたのは太陽で勝つたのが春の雨であつたといふところであらうか。
元は「太陽神(アポロン)と北風神(ボレアス)」の話であるといふが、北風と太陽の勝負は二囘戰であつたと言ひ、初戰は旅人の帽子をとる事で、旅人に對し太陽が燦燦と照りつけると、旅人は逆にしつかりと帽子をかぶつて陽射しを遮(さへぎ)つたので失敗し、次は北風が目一杯吹いて帽子は輕々と吹飛んで北風が勝利した。
その後の二囘目の戰は、旅人の上着を脱がすといふ周知の勝負で太陽の勝ちとなつたので、結果は傷み分といふ鹽梅(あんばい)だつたのである。
といふ事で、太陽が勝つた場合は物事には嚴罰と寛容といふ對比で臨む態度を、太陽と北風の二囘戰の場合はその場に應じた適切な對應(たいおう)が必要だといふ教訓が讀取れるが、これは故事附けも過ぎるかも知れない。
けれども、九州では氣温が二十度以上もあつて、半袖姿で往來を往來(ゆきき)する姿が目についたと報道されてゐた。
我が豐中でも、晴てゐた晝(ひる)よりも雨が降りだした夕方の方が暖かかつた。
將(まさ)に、春の雨である。
二月十四日
前の季節を吹飛ばしてや春一番 不忍
まへの きせつ を ふきとばしてや
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はるいちばん
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この句の上句は「はや冬を」であつたが、ふたつの季語を使ふのが氣になつたので改めた。
調べて見ると、『春一番』の語源は各地方に於いて諸説があるといふものの、九州地方で「春一」と呼ばれてゐたといふ。
それが一八五九(安政六)年に漁師が出漁中、強風に煽られて船が顛覆(てんぷく)して五十三人の死者を出し、「春一番」と呼ぶやうになつたとの事である。
けれども、一八三一(天保二)年の『稲束家日記(池田市史 史料編)』に「春一番東風」の記載が見られ、なほも遡つて一七七五年の『物類称呼』に「ハルイチ」が掲載されてゐるとの指摘があるといふ。
また、『春一番』の條件(でうけん)として、北海道及び東北と沖縄を除く地域の太平洋側で觀測され、立春から春分の間に初めて吹く南寄りの強風を言ふが、『春一番』が吹いた日の翌日は西高東低の冬型の氣壓(きあつ)配置となつて寒さが戻る事が多いといふ。
ただ、『春一番』は必ずしも毎年發生するといふものではなく、氣象臺の認定基準によつて「觀測なし」の年もあり、更に觀測された場合でも、それ以降に同樣の南風が發生した時には、その囘數に應じて「春二番・春三番」と呼ぶ事があるのだといふ。
『春一番』が季語として使はれるやうになつたのは一九五九年の事だといふ。
『春一番』が吹いた日は暖かいといふが、餘想に違(たが)はず氣温が高かつた。
二月十五日
如月の別れといふも道遠し 不忍
きさらぎの わかれといふも みちとほし
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歳時記の代りに愛用してゐる高島易斷『九星本暦』によれば、今日は涅槃會(ねはんゑ)である。
涅槃會は「涅槃講・涅槃忌」とも稱され、陰暦の二月十五日に釋迦が入滅した日として法要されてゐるが、新暦の三月十五日に行なはれる場合もある。
「涅槃」とは、「ニルヴアアナ(Nirvana)」の譯語で、心に迷妄のない境地を指すが、それが釋迦が亡くなつた日といふ意味でも用ゐられるやうになつた。
ただ、正確な釋尊が入滅した月日は不明だから、南傳佛教で定められた日から換算して二月十五日と定めたものであるといふ。
釋迦は娑羅雙樹の下で頭を北にし、西を向き右脇を下にした姿で臥し涅槃に入り、その際に周圍(しうゐ)には十大弟子から諸菩薩や天部や獣畜蟲類までが嘆き悲しんだといふが、そこから北枕を不吉として忌む謂(いは)れとなつた。
『如月の別れ』とはその涅槃會の事を指すが、詩的な表現であるばかりでなく、艷つぽい言葉でもあると思はれ、なかなか煩惱(ぼんなう)から逃れられない自身の氣持に、ピタリと當嵌(あてはま)つたやうに感ぜられた。
二月十六日
料峭に命痛めど身を任す 不忍
れうせうに いのちいためど みをまかす
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初案は「料峭に命痛んで身を任す」であつたが、理由や原因を示す「で」よりも、後に續く事態に反する「ど」といふ助詞で、それでも「身を任す」とした方が納得出來ると思はれたので推敲した。
『料峭(れうせう)』
の「料」とは肌を撫で觸れる意を表はし、「峭」は「けわしく」山の尖つた姿を表すことから嚴しい事の意であり、
「春寒料峭」
といふ四字熟語もあることから、春風が肌に寒く感ぜられるといふ意味である。
「三寒四温(さんかんしをん)」
といふ言葉があるが、寒い日が三日ほど續いた後に四日ほどは温暖な日が續いたかと思ふと、また寒くなるといふ寒暖が七日周期で繰返される現象をいふものの、最近では春先に使はれる事が多くなつたやに見受けられるが、これは冬の季語である。
ただ、「三寒四温」が日本ではつきりと現れる事は一冬に一度あるかないかといふ程度ださうである。
また、
「寒の戻り」
といふ言葉もあり、調べて見ると、寒が明けた立春以降の寒さを示す「餘寒・春寒」の場合と、暖かくなつた晩春の頃の櫻の花の咲く頃の「花冷え」と言はれる寒さを指す場合とがあるとの事である。
「春一番」の後は寒くなるとはよくいつたもので、本當(ほんたう)に冷込んだ一日だつた。
天竺川の土手に立つて冷たい風に身を晒す時、その痛みに生きてゐるといふ事を實感(じつかん)してゐるのに氣がつく。
普段は通り過ぎて行く時間をやり過ごすだけで、病氣でもしない限り命の鼓動に耳を傾けたりはしない。
尤も、それとてものど元過ぎればであらうが……。
二月十七日
聞くも見るも郷土にえんぶり殘せしや 不忍
きくも みるも きやうどにえんぶり のこせしや
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高島易斷の『九星本暦』によれば、二月十七日は『えんぶり』だとあつた。
調べると、『えんぶり』とは初春の神事で、青森懸八戸市を中心とする東北各地で廣く行はれる藝能の一種とあり、田植の前に田を均すのに用ゐる「えぶり」といふ農具に起源を持ち、「柄振・朳(えぶり)」とも表記するとある。
動畫(どうぐわ)で觀たが、元は儀禮性の強い田樂(田植踊)の一種であるといふ。
明治維新直後に「卑しい物乞ひの行爲(かうゐ)」と看做(みな)されて禁止されたが、再び「長者山新羅神社」の神事として復興されたといふが、この行事がよくぞここまで殘つたものである。
昨今(さくこん)の情報(ニユウス)で、寺でさへ住職のゐない無住寺院の數が二萬にも及ぶといふから、いつまたさういふ催し物も跡絶えてしまふ事になるか判つたものではない。
繼續は力であるが、それを維持するといふ事もまた力がゐるのである。
二月十八日
見えもせぬ幸求めてや春遲し 不忍
みえもせぬ さちもとめてや はるおそし
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初案は「見えもせぬ幸せあるや春遲し」から、「見えもせぬ幸せあれど春遲し」とするも最終案となつた。
この間の報道(ニユウス)で、靈が憑いてゐると嘘をついて現金を騙し取つた通信販賣の、
「開運商法」
が話題になつた。
この詐欺には、實在の佛教寺院が關與(くわんよ)してゐるかも知れないといふので、更に衝撃が走つた。
これがもし事實だとするならば、佛教は何の爲に存在するのか。
煩惱(ぼんなう)を消すといふ佛教は、幸せを追求するといふ處からは最も對極に位置にするのではないのか。
誰でも幸福になる權利があるといふが、開運首飾り(ネツクレス)を購入する事で人はどれほど幸福になれるといふのだらう。
GNH(國民總幸福量)に就いて
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1473020902&owner_id=25109385
二月十九日
川底に春を育てて煌けり 不忍
かはぞこに はるをそだてて きらめけり
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「水底を透かし煌くや春の川」といふ凡庸なものであつた。
「水温む」といふ春の季語がある。
春先の冷たい「雪解け水」が、陽射しを浴びて次第に手を浸(ひた)しても氣持良く感ぜられるやうになり、小魚やお玉杓子も見られたりする。
風もなく穩やかな日和の中で天竺川の土手を歩いてゐると、川面にキラキラと反射する樣を橋の上から眺めて、思はず彳(たたず)んで仕舞ふ。
そんな風景に春は育つてゐるんだと確信しながら……。
因みに、この句の主語は隱れてはゐるけれども「春の川」である。
二月二十日
肌で見る景色解けん雨や春 不忍
はだでみる けしきほどけん あめやはる
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上五句の「肌で見る」も可笑しな言廻しであるが、この中七句の「景色解(ほど)け」るそれに劣らず奇異な言葉である。
謎々に、
「雪が解けると何になる」
といふのがあり、その答へは、
「春」
なのであるが、ピインと張りつめた冬の冷たい空氣が春になつて、光に希望が見えたやうな温もりが感ぜられた時の樣を、「景色」が「解け」たと表現したのである。
今日は朝から雨が降つてゐて、天竺川の土手を歩きながら、その景色を目で見たといふよりも、體感(たいかん)した事を「肌で見」たと述懷したのであるが、景色の中に温もりを察して、それを雨が更に春を呼んで暖かくしてゐるといふ句意であるのはいふまでもない。
二月二十一日
ふらここの光り途切れる彼方まで 不忍
ふらここの ひかりとぎれる かなたまで
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「ふららこ」とは「ぶらんこ」の事で、漢字で「鞦韆」と表記して「しうせん」とも音讀され、「秋」といふ漢字が使用されてはゐるが、歳時記では春の季語となつてゐる。
古く中國から日本へ傳はり、雅語を「ふらここ」といつて嵯峨天皇の詩にも詠まれ、江戸時代になつてから「ぶらんこ」と呼ばれ、『倭名類聚抄(931-938)』にも記述がみられるといふ。
嘗(かつ)て「鞦韆」は、中國の宮女が使用した大人の爲の遊具であつたといひ、「春夜」といふ蘇軾の漢詩にも出てくるといふ。
店から天竺川の堤防に行くまでに小さな公園がふたつある。
今日は日曜日だつたので、近所の子供等の姿よりも先に聲が、その存在を教へてくれる。
ぶらんこは靜かに漕ぐよりも、勢(いきほ)ひよく乘りこなした時の方が高揚感があつて、光と風を感ぜられて好もしい。
二月二十二日
白梅や見上げる土手に晴間見ゆ 不忍
しらうめや みあげるどてに はれまみゆ
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「曇り空に白梅香るうそ寒さ」であつたが、「うそ寒」が秋の季語なので改める事となつた。
天竺川の土手に上る細い石段の横に、白梅が咲いてゐる。
生憎の曇り空であつたが、白梅の香りに誘はれて暫し土手の下で眺めてゐると、灰色の途切れた雲間からまるで瑞兆ででもあるかにやうに、幽(かす)かな光が洩れて來た。
梅の里 Village of plum blossoms smell 作詞 村崎文男 作曲 高秋美樹彦
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4663861&id=77873995&comment_count=2
二月二十三日
何處がどうといふ譯もなく風光る 不忍
どこが どうと いふわけもなく かぜひかる
C♪♪♪ ♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
朝の五時に店を終へて二階で寢ようとするが、羊を數へたり、目を瞑つて抱枕に頼るとか、果ては安眠マスクをつけてるといふ樣々な儀式も、總(すべ)て潰(つひ)えて仕舞つて、そのまま晝食(ちうしよく)となつた。
遉(さすが)に、食事と麥酒(ビイル)に白葡萄酒(しろワイン)を飮んだら、直ぐにうとうとし出したが、それでもDVDを再生しながら頑張つて見てゐると、いつの間にか眠りの底に沈んでゐた。
であるから、今日は作品を提示するのにどうにもならなくて、苦し紛れに詠んだ一句がこれである。
氣がつけば光に春は宿つてゐた。
二月二十四日
陽が落ちてさらに冱て返りたる雲の色 不忍
ひがおちて
C♪♪♪♪†ζ┃
さらに いて かへり たる くものいろ
♪♪♪ ♪♪ ♪♪♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
この句は中句が十音もあつて、全二十文字の字餘りとなつてゐるが、上五句と下五句の五音の音型は變(かは)らず、中句の「さらに」と「返り」が三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))となる事で、發句の拍子(リズム)による形式である四分の四拍子の三小節となつて解決される事となつてゐる。
今日は日中から寒かつた。
それが日暮れになつて更に寒さが増し、夕燒の殘つた雲は雪を孕んでゐさうな淡紅色(ピンク)に染まつてゐた。
自宅の風呂歸りに、思はず外套(コオト)の襟を立てて足早に店に向つた。
明日はまだ寒くなるといふ。
二月二十五日
それで善いのかと問ひかけるがごとく龜の鳴く 不忍
それで いいの かと とひかけるが ごとく
C♪♪♪ ♪♪♪ ♪♪ζ┃♪♪♪♪♪♪ ♪♪♪┃
かめのなく
♪♪♪♪†ζ┃
この作品は上句八音で中句九音、下句が五音となつて全二十二文字の字餘りの句となつてゐる。
それでも四分の四拍子の三小節といふ發句の基本的な拍子(リズム)は、ビクともしてゐない。
「龜鳴く」とは耳慣れぬ言葉であるが、歳時記の季語では春となつてゐる。
これは藤原爲家(1198-1275)の、
川越のをちの田中の夕闇に
何ぞと聞けば亀のなくなり
が典據とされてゐるが、龜には聲帶となる器官がないので、實際には鳴く事が出來ないけれども、夕暮れに何處からともなく聞えて來る聲を訝(いぶか)り、龜が鳴いたと興じてみせる。
その聲が讀經(どくきやう)と似てゐる處から、『龜の看經(かんきん)』とも言はれ季語ともなつてゐる。
この歳になつても、達觀も悟りの境地もまだ身についてはゐない。
我が事ながら困つたものである。
二月二十六日
佇むは影も香りし梅林 不忍
たたずむは かげもかをりし うめばやし
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初案は「梅林の影も香るや身動げず」であつた。
今日は服部緑地の花壇の手前にある梅林に出かけた。
前日の夜十一時から店に出て、朝の五時まで仕事をしてから病院へ藥を貰ひに行つたが、そこから家で今日の朝の五時過ぎまで寢られずにゐた。
そこから何とか九時半まで睡眠が得られて、昨日の午後から妻と長女が緑地へ梅を見に行つて綺麗だつたからと、
「今から行つたら」
と妻から言はれたので、億劫ながらも出かける事にした。
やや肌寒くはあつたが、陽射しは大氣を明るく照らして觀梅日和だと言へた。
梅の木々も地面に影を落し、それさへも匂ひ立つやうで、梅林は宛(さなが)ら馥郁たる香りの里と化して、我が身も身動(みじろ)げずに木々と同化してゐるかのやうであつた。
――結局、歸つたのは晝(ひる)の二時を廻つてゐた。
『萬葉集(まんえふしふ)』の頃は花といへば梅であつたのが、『古今集』になつてからはその繚亂(れうらん)とした見場によつて、壓倒(あつたう)的に櫻が優位(いうゐ)となつてしまつた。
けれども、梅には櫻に勝(まさ)るその香りがある。
こればかりは、如何に櫻と雖(いへど)も追隨を許さないといへるだらう。
中でも、夜の闇に漂ふ香りに誘はれて、白く浮ぶ清楚な梅に出逢つた時の感動は、格別なものがあると言へまいか。
二月二十七日
部屋にあれどなほ冴え返る獨り寢て 不忍
へやに あれど なほさえかへる ひとりねて
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今日は氣持が乘らなくて、何處へも出かける氣がしなかつた。
けれども、そんな時に限つて店が忙しく、晝(ひる)から麥酒(ビイル)や燒酎の註文(ちゆうもん)が相次ぎ、定食なんかは二つぐらゐしか出ず、單品のお好み燒や燒ソバと酒の肴の一品で埋盡くされた。
そんな慌しさから解放されたのは、午後の三時を廻つてゐた。
これは夜中の十二時から朝の五時までの營業に影響が出るので、二階で休まうと獨りで布團に潜り込んだが、例によつて中々眠りに就けない。
さうかうしてゐる内に、電話の工事があると一階の店から聯絡があり、慌てて布團を押入れに隱し、結局眠れない儘に雜事で時間をやり過ごす破目になつた。
夕食後、今度こそと二階で膝を抱へながら布團の友となつたが、しんしんと冬のやうな冷込みに、春はどうなつてゐるんだらうかと考へてゐる内に眠つて仕舞つた。
二月二十八日
東風吹いて幻影の花の散るを見ん 不忍
こちふいて げん えいの はなの ちるをみん
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初案は「幻の飛ばすものなき春の風」で、次に「幻の散らすもの見ん春の風」となつたが、主語は「春の風」であつた處から、「吹く風に幻影の花の散るを見る」と「花」を主語に据ゑる事となり、更に「春の風」を早春の風へと變化(へんくわ)させて納得を見た。
昨日までの寒さが嘘のやうに穩やかな天候であつた。
けれども、まだ何處かに寒さを殘して、戸惑ふやうに春の兆しを見せてゐる。
春淺いといふ感じの肌寒さに、齡(よはひ)を重ねた筆者にとつては、早くも櫻の花が散つて行くやうな幻想に捉はれてしまつた。
櫻は梅と違つて繚亂(れうらん)と咲く姿も然(さ)る事ながら、散る樣にこそその美しさが發揮されてゐるのではなからうか。
これほど散るのが美しい花には、滅多にお目にかかれないのではないか。
二月二十九日
青饅の酸いを殘すや旬の味 不忍
あをぬたの すいをのこすや しゆんのあぢ
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初案は「青饅の口に殘るや春の味」であつたが、「青饅(あをぬた)」が春の季語なので、下五句の「春の味」とで季重なりとなつて仕舞ふので、「青饅の口に殘りし旬の味」と改め、更に最終案へと變化(へんくわ)させた。
「青饅」とは、茹でた芥子菜や浅葱(あさつき)を酢味噌で和(あへ)たものであるが、我が家では具については烏賊や薄揚げを加へてゐる。
糅(か)てて加へて、筆者が愛知懸出身だから白味噌ばかりでなく、赤味噌も食卓に竝んだりする。
「旬」とは漢音で「しゆん」と讀み、呉音で「じゆん」と發音するが、一般にはある食材が他の時期よりも新鮮で美味しく食べられる出盛り期といふ意味で使用されてゐる。
抑々(そもそも)、「旬」は、十日間を意味し、「上旬」「中旬」「下旬」などと使はれるやうに、1箇月である三十日を十日づつに分ける事で、そこから食物が最も旨いと思はれる時期の十日間を意味するのだといふ。
古くは天皇が紫宸殿に出御し、臣下に酒を賜るといふ政務を聞く宮中で行はれた年中行事の一つとしての儀式で、毎月一日・十一日・十六日・二十一日に行はれ、次第に四月と十月の一日だけとなり、四月を「孟夏(まうか)の旬」、十月を「孟冬(まうとう)の旬」といひ、合せて「二孟の旬」といふが、「朔旦(さくたん)冬至の旬」といふ臨時の旬もあると辭書(じしよ)にある。
慣用語で、
「酸いも甘いも嚙み分ける」
といふ言葉があるが、人生での旬を過ぎた筆者には、倩々(つらつら)と來し方を振返つてみると、甘いものよりも酸いものの方が壓倒(あつたう)的に多かつたやうに思はれて仕方がないのである。
多くの人がさうであるならば、それは樂しい事よりも苦しい事の方が記憶に殘り易いからに違ひないだらう。
多分……。
三月一日
光りあれといざ待ち兼ねん彌生かな 不忍
ひかり あれと いざまちかねん やよひかな
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三月も始まつたばかりだといふにしても、この寒さはどうなつてゐるのだらう。
北海道ばかりでなく、兵庫県や山陰地方でも積雪の被害が出てゐるといふ。
報道によれば、『天空の城』として知られる竹田城の石段に四十糎(センチ)も積つたので、危險を豫測して公開を諦めたとの事である。
現在、筆者は個人用電腦(パソコン)を重くしない爲に、出來るだけ情報(デエタア)を外づけの記憶媒體(ハアドデイスク)で處理してゐて、それも一太(テラ)と二テラが二臺づつで計四臺(よんだい)を繋げてゐるので、處理動作は輕快(けいくわい)である。
その光明ともいへるハアドデイスクを繋げる「USB」の分配器の電源接觸が、不良を起したので新しいのを購入しようと『EDION』へ出かけた。
屋外は天候には惠まれてゐたが、風は強く、襟卷(マフラア)と手袋を必要とする程の寒さであつた。
春はまるで氣を持たせる女のやうに、行きつ戻りつしながら近づいて來る。
三月二日
暮ゆゑか身を切る風に春を問ふ 不忍
くれゆゑか みをきるかぜに はるをとふ
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初案は「問はざらむ身を切る風や春の暮」であつた。
けれども、ここには表現としての傳へ切れない問題もあつて、それについてのもどかしさも感じてゐる。
それは創作者の拙(つたな)さも相俟(あひま)つて、更に作品に昏迷(こんめい)を深めて仕舞ふ。
どういふ事かといふと、傳統的な日本の和歌や發句(ほつく)の表現には、現代詩のやうに疑問符(?・インタロゲエシヨンマアク)や感歎符(!・エクスクラメエシオンマアク)を配する習慣がない事で、それは時代背景からも無理からぬことであつたが、問題は「か」とか「とは」などの推量表現ではなく、初案の時の「春の暮」などのやうな體言止めの場合で、本當(ほんたう)ならば、
「春の暮?」
とでも表記したい處なのである。
さう出來ないからこその推敲であつた。
とはいふものの、逆に「か・とは」などに「?」を配するのは目障りである。
今日は風は冷たかつたが昨日ほどではなく、陽射しのある日中には過し易かつたが、自宅からの風呂歸りの夕方には冷込みが半端ではなかつた。
春の見えない夕闇を、急いで店へと歩を進めた。
三月三日
咲き切れぬ他を壓する枝垂れ梅林 不忍
さき きれぬ たを あつするしだれ うめばやし
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初案は「冷え込んで他の七分を壓(あつ)する枝垂れ梅林」といふもので、これは句といふよりも文章といふべきものであつた。
今日は言ふまでもなく雛祭である。
都合良く店が定休日なので、晝(ひる)から豊能税務署へ出かけてから萬博の梅を見に行つた。
ここは中央にある二本の枝垂れ梅は、とても美しい。
それにここの梅饂飩(うどん)はご機嫌である。
來れば必ず註文(ちゆうもん)をして、目で梅を鑑賞しながら舌で味はつて家族と過ごすのである。
四時過ぎにそこを離れてから、近くにある温泉の「おゆば」へ行つて七時まで身體(からだ)を解(ほぐ)した。
自宅では飾つてある御雛樣が迎へてくれた。
普段は何もない有觸れた日常が待つてゐるだけの我が家であるが、今日は御雛樣がある。
それもこれも、女の子がゐればこそである。
尤も、我が子とはいへもう中年になつて仕舞つてゐるが……。
普段よりもこの日ばかりは雛の宿 不忍
ふだん よりも このひばかりは ひなのやど
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三月四日
ふんはりと陽射しに宿る匂ふ春 不忍
ふんはりと ひざしにやどる にほふはる
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つい二、三日前まで何て寒いのだらうと言つてゐたのに、昨日あたりからすつかり過し易くなつてゐる。
三月は「彌生」といつて、
「彌生の空は見渡すかぎり」
と古謠の『さくら』にもある通り、櫻の花が咲いてゐるのが當り前といふ心象(イメエヂ)があるが、それは舊暦(きうれき)の話で、新暦とは一箇月の開きがあつて、まだ梅を愛でる季節なのである。
とはいへ、この分だと櫻の開花も間近だと期待して仕舞ふ。
梅に比べて櫻には匂ひがないが、何よりも華やぐやうな明るさがある。
今から心騷ぐ思ひである。
三月五日
啓蟄や心にも雲の湧上る 不忍
けいちつや こころ にもくもの わきあがる
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初案は「啓蟄や湧上るものまだあるや」で、次に「啓蟄や我が中に雲湧上れ」から最終案となつた。
啓蟄(けいちつ)とは二十四節氣の第三番目で、廣辭苑によれば「啓」は「開く」を、「蟄」は「蟲などが土中に隱れ閉籠る」意から、
「冬籠の蟲が這出る」
二月節で、(舊暦(きうれき)だと一月後半から二月前半の期間で春の季節となる。
蟲でさへ冬籠から解放されようと地中から這出るのだから、齢を加へたとはいへ、人間である筆者だとて春に浮れても良からうもん。
三月六日
夜目に浮く匂ひ溶かすや雨の梅 不忍
よめにうく にほひとかすや あめのうめ
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初案は「しとしとと匂ひ溶かせし梅の雨」で、この句だと主語は「雨」であるが、最終案は「梅」が主語となつてゐる。
夕方に自宅へ風呂に行つたが、空は雨を含んだやうに灰色の重苦しさを湛(たた)へてゐた。
案の定、その歸りには雨がぽつぽつと身體(からだ)にそれを教へてくれた。
その儘、雨は降つたり止んだりしながらを繰返した。
山の奧ではまだ咲いてゐないだらう梅も、平地にある近所の公園の根際(ねき)には咲き殘つてゐる梅があつて、それがそぼ降る雨に夜目にも白く光つて見える。
地面に匂ひが沁み込むやうであつた。
三月七日
遠山に春は光りて川面映ゆ 不忍
とほやまに はるはひかりて かはもはゆ
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初案は「遠山に春は光りて川面かな」であつた。
下五句の「川面かな」の「かな」といふ助詞は、平安時代以前は「かも」が主流で、疑問の「か」に詠歎の「も」を添へた助詞であり、詠歎と疑問を、また已然形の「め」に續けて反語の意を、更に連體形の「ぬ」に續いて願望を表はした。
それが詠歎の意味を表現する終助詞として、發句では『切字』として扱はれるやうになり、
「だなあ……ものだなあ」
といふ意味を表はしてゐる。
であるから、
「遠くの山から春らしい光が川の流れに乘つて川面を煌かせながら近づいてくる事だなあ」
といふ意味になるが、「かな」を「映える」の文語の「映ゆ」を最終案とした。
天竺川の堤防を逍遙(せうえう)すると、もうそれだけで汗ばむ程の陽氣である。
川の遙か北方には箕面の連山が春の光に輝いて眺められ、その光は川面を照らしながら近づいて來る。
今年も何とか生延びて世間を探索する事が出來てゐる。
ついに春である。
三月八日
洗ひものにふと氣づいたる春の水 不忍
あらひ ものに ふときづいたる はるのみづ
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初案は「いつの間にか食器洗つて春の水」で、それから「いつの間にか洗ひものにて春の水」とするも、自然の流れで春になつてゐたといふ感じを求めて最終案となつた。
最近では何處でもさうだと思ふが、店では食器やお好み燒の道具を洗ふ時には湯沸器を使用するので、冬場の水の冷たさを實感(じつかん)する事がないやうである。
けれども、食材を扱ふ時にはさうは行かず、例へば甘藍(キヤベツ)を刻む前に水洗ひをする時や、烏賊や海老を解凍する場合には湯を通す譯には行かない。
殊に海老などは皮を剥かなければならず、冬場は指が痛いのを我慢しながら作業をしなければならない。
それが當り前の事として續けてゐるので、「さういへば」といふ感じでいつの間にか水が温(ぬる)んでゐる事に氣がつく。
とはいひながら、それがいつからだつたかといふ事を判然(はつきり)と傳へられる譯ではない。
不圖(ふと)氣がつけば、さうなつてゐたといふ外はないのである。
三月九日
音に目覺め昨夜には知らぬ春の雨 不忍
おとに めざめ さくや にはしらぬ はるのあめ
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朝の九時頃に暗い窓の外からの音で目覺めた。
それは緩(ゆつく)りとしたもので、今何處にゐて何時かも解らず、外から聞える音が雨である事も直ぐに意識の中には入つて來なかつた。
最初は晩御飯かと思つたのは窓の外の暗さからであつたが、時計を見て朝だと理解し、次に店を閉める朝の五時には降つてゐなかつたのにと思ひながら雨なんだと諒解した。
であるから、正確には字餘りの中句の八音である「昨夜には知らぬ」の「昨夜」は、「今朝」とあるべきなのだが、それでは説明するのに煩雜なので諦めて仕舞つたといふ事情がこの句の成立にはあつた。
上六音の字餘りは兔も角、下五句の、
「春の雨」
は松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)の頃には、舊暦(きうれき)の「正月から二月の始め」の事を指し、「二月末」からは「春雨」と區別して用ゐてゐたとあるが、こんにちではそれらを特別に分ける事はなくなつた。
それに倣へば、今日の雨は新暦の三月にしては冷たく、寒さもぶり返したやうで、「春雨」といふよりも「春の雨」といへるだらう。
三月十日
霾るや見えるものをや見えもせず 不忍
つちふるや みえるものをや みえもせず
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この句の中七音にある「をや」とは、ひとつには格助詞の「を」に係助詞の「や」がついたもので、
「~を~であらうか」
を意味する。
またひとつには、間投助詞の「や」に係助詞の「や」がついて、
「~ものを・~であるのになあ」
といふ意味を強めるもの。
いまひとつに、間投助詞の「や」に係助詞の「や」がつき、程度の輕いものを揚げたのを受けて、程度の重いものを揚げて反語の意味を表す漢文訓讀から來た表現で、「況や~」若しくは「~において」を受けた「をや」の形をとるのが普通で、
「況(ま)して~當然(たうぜん)であらう」
といふ用法がある。
「霾(つちふ)る」とは黄沙(くわうさ)が降る事で、
「霾(ばい)・霾晦(よなぐもり)・霾天(ばいてん)・黄沙・黄塵萬丈(くわうぢんばんぢやう)・蒙古風・胡沙來る・胡沙荒る」
と歳時記には記されてゐる。
ここでは、
「普段は見えないものが見えぬのは當り前であるが、黄沙によつて見えてゐるものでさへ見えなくなつてしまつた」
といふ、時に人生の途上で生じる不都合な事態ででもあるかのやうな意味合ひが表現出來ればと思つた次第である。
三月十一日
和ぐや春の海を墓標に早や五年 不忍
なぐや はるの うみをぼへうに はやごねん
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初案は上の句で、修正案として「早や五年墓標も和ぐや春の海」と詠んで見たが、すらすらと流れて仕舞ふのが氣になつて初案の儘とした。
あれから五年――。
早いもので東日本大震災(1911年)から、もうそんなに經(た)つてしまつた。
振返つて、阪神地區に在住する筆者にとつても、阪神淡路大震災(1995年)から二十一年である。
とはいへ、身内に亡くなつた者がゐなければ、痛みは遠ざかり、傷の癒えるのも早いのだらう。
更に、住み慣れたその地域を離れる事で、表面的には穩やかな日常が手に入つたやうに見えるものである。
けれども、心の奧には生きてゐる限り消え去る事のない澱(おり)のやうに殘る、經驗して仕舞つた事への盡きない痛みが刻まれてゐる。
中句の「和(な)ぐ」は「凪ぐ」と同じ意味で、「平和」であれとの祈りを込めたかつたからである。
關聯記事
霊性への目覺めについて(東日本大震災を契機とする宗教的な私感)
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獨(ひと)りぽつちの狐
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三月十二日
今につづきこの先も闌けるやお水取 不忍
いまに つづき
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この さきも たける や おみづとり
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今日は奈良東大寺の「お水取」であつた。
一般に「暑さ寒さも彼岸まで」と言はれてゐるが、關西では別に「お水取」が終らないと寒さが去らず、それが濟んだら本格的な春が來るといふ春を告げる行事ともなつてゐる。
この東大寺修二會は七五二年から始められ、現在まで一度も途絶えずに續けられてゐるといふ。
今まで續けられてゐたのだから、これからも繼續されるかといふと、移ろひ易いこの世において、その保證などは何處にもない。
中句にある「闌(た)ける」は「長ける」とも表記し、熟してゐる樣を表はすが、「闌」は「たけなは」とも讀み、盛りとか眞最中(まつさいちゆう)といふ意味がある。
せめて個といふ存在が消失しても、次の世代へと繋げて行くといふ行爲(かうゐ)が殘せるならば、さうしてそれが「お水取」といふ行事であるかどうかは別にしても、さういふもののある事は誇つても良い事のやうの思はれる。
三月十三日
意に違へ身體に殘る寒さかな 不忍
いにたがへ からだにのこる さむさかな
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この句、初めは「思ひはすでに」とか「いつまでも」とか、果ては「頭では」といふ風に上五句が定まらなかつた。
奈良の「お水取」が終つたばかりでは、流石(さすが)にまだ暖かくはならず、今日もけふとて肌寒かつた。
夕方から雨が降りだして、それが運よく自宅の風呂から店に歸つて來て直ぐの事だつたのだが、そこからは寒さも和らいだやうに感じた。
人肌の軒降る雨に春の聲 不忍
ひとはだの のきふるあめに はるのこゑ
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この句も初案は「軒傳ふ雨の温みや春の聲」であつたが、これとて隨分と推敲した擧句にかうなつたものの、中句の「温み」が春の季語と重なると考へて改めた次第である。
ここからは一氣に暖かくなるのだらうが、櫻の季節にはまだ「花冷え」があるので、心得ておかねばなるまい。
三月十四日
見えぬ春の風を殘して雨上る 不忍
みえぬ はるの かぜをのこして あめあがる
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始めは朝から夕方までの一日中降つてゐた雨が夜になつて止んで、店の暖簾を搖らす風を見るまでは、「雨上る」と「春の風」といふ言葉しか浮んで來なかつた。
寒さは稍(やや)和らぎ、ひと雨ごとに春らしくなつて行く様を、見えぬ春と風が皮膚に温もりを殘して行くやうだと詠んで見たのであるが、こんな事はいらぬ解説であるのかも知れない。
三月十五日
眞青な夕燒あとの春冷えて 不忍
まつさをな ゆふやけあとの はるひえて
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初案は「眞青な夕燒あとの春の空」と、如何にも凡庸なもので面白くも何ともなかつたので、「空冷える」ともしてみたが、それだと「冷える」が冬の季語だから季が合はず、そればかりか「冷えて」ゐるのは空だけではなく、大氣に包まれた下界も含まれてゐるといふ表現には到つてゐない憾(うらみ)みがある。
さりとて「春冷えて」と推敲して見たものの、「春」と「冷えて」との二つがあつて季重なりとなつて仕舞つてゐる上に、「て止り」といふ連歌の「第三」の體となつたが、かうするより外に手はなかつたものと考へてゐる。
夕方――といつても陽は落ちてしまつてゐたが、明日は三箇月檢診があるので、家に帰るのが億劫になつたから近所の錢湯に出かけた。
露地の突當りにある「喜樂湯」の煙突が張附いた空が、寒さを湛へるかのやうに眞青で、まるで春を押退(おしの)けるかのやうであつた。
關聯記事
四、連歌の作法
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51146773&comm_id=4637715
三月十六日
見事なり上弦の月春にゐて 不忍
みごとなり じやうげんのつき はるにゐて
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高島易斷の『九星本暦』によれば、今日は「上弦」とあつたので、夜中に勝手口から路地に出ると、弦を上にした見事な半月が確認出來た。
「上の弓張・上つ弓張」とも言はれる「上弦」は、新月から滿月に到る半月の事で、日沒時に南中で月の右半分が輝き、眞夜中に弦を上にして月の入りへとなり、太陰暦だと毎月七、八日頃に當つて、「初弦」ともいふ。
三月十七日
山里の墓登り行く彼岸かな 不忍
やまざとの はかのぼりゆく ひがんかな
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今日は彼岸の入で、朝の三時に店を切上げて妻の實家(じつか)の美作へ墓參(まゐ)りに出かけた。
彼岸とは雜節の一つで「春分・秋分」を中日とし、前後各三日を合せた各七日間を指すが、この期間に行ふ佛事を彼岸會(ひがんゑ)と呼び、最初の日を「彼岸の入」、最後の日を「彼岸明」と呼ぶ。
日本で初めて彼岸會が行はれたのは八〇六年の事ださうで、彼岸に供へられる餡で包んだ餅菓子は、「ぼたもち」とも「おはぎ」とも言はれるが、名前の由來は彼岸の頃に咲く牡丹(春)と萩(秋)からだとの事だと言ひ、俳諧では「彼岸」は春の季語となり、秋の時には「秋彼岸」といふ。
何と妻の實家(じつか)には五時半に著(つ)いたら霜が降りてゐて、久し振りに見た都會では珍しい現象に感心しながら、寒さに震へてこつそりと離れの部屋で布團を敷いて潜り込んだ。
不眠症氣味の筆者だが、燈りを消して布團をかぶつてぢつとしてゐたら、いつの間にか寢て仕舞つたやうで、晝食(ちうしよく)前に目が覺めた。
それでも天候には惠まれて、午後から小高い山の上にある墓へ參つて歸つて來た。
三月十八日
紙箱の崩れ落ちてや春の雨 不忍
かみばこの くづれおちてや はるのあめ
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夕方から雨が降りだした。
朝から曇つてゐたし、天氣豫報でも今日は雨が降ると言つてゐたので覺悟はしてゐたが、日中は何とかもつてゐたものの、
「到頭(たうとう)きたか」
といふ感じで、それが降るのを店の出窓から眺めてゐた。
暫くしてから、勝手口の外にある護美箱(ごみばこ)の横に、新聞紙を入れた瓦楞紙(ダンボオル)箱を不圖(ふと)見ると、雨に濡れて無慙な樣相を呈してゐた。
その崩れた姿を見て、紙といふものの性質の一端を見、それが水に溶けて惡い時と良い場合とがあり、段ボオルは駄目な場合で、化粧室紙(トイレツトペエパア)は溶けて欲しい状況であると言へるだらう、などと考へを巡らしたりした。
因みに「紙箱」を瓦楞紙箱と詠まなかつたのは、「ダンボオル箱の」と語數が八音になるからといふのが理由ではなく、「ダンボオル」といふ外來語に違和感を抱いたからである。
――雨は、深夜二時には止んでしまつた。
三月十九日
得心は我が裡にあり春の墓 不忍
とくしんは わがうちにあり はるのはか
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初案は「得心は我が裡にある墓參(まゐ)り」と下五句が違つてゐたが、「彼岸」の季語が春で秋は「秋彼岸」と言はなければならないのとは逆に、「墓參り」は秋の季語だから改めざるを得なかつた。
今日は墓參りを兼ねて、電化製品を購入する爲に大型家電の店へ出かけた。
妻や娘達は昨日に濟ませたので、一人で行つて來いとの仰せである。
恭しくそれに從つた。
櫁(しきみ)に水をかけながら熟(つくづく) 考へれば、墓を詣でるのは親の爲ではなく、我が心を納得させんが爲に外ならないと思ひ到るのである。
三月二十日
けふの日が春を分けると言はれても 不忍
けふのひが はるをわけると いはれても
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春分の日である。
「暑さ寒さも彼岸まで」といふが、春分の日は「彼岸の中日(ちゆうにち)」に當(あた)り、寒さは去るどころか今日も冷え込んでゐ、また「晝(ひる)と夜の長さが同じになる」といはれてゐるが、實際には晝の方が長いのださうである。
春分の日は日本の國民の祝日の一つで、明治期には『春季皇靈祭』といふ名稱(めいしよう)であつたが、一九四八年に「自然を稱(たた)へ、生物を慈(いつく)しむ」事を趣旨として制定されたものである。
いづれにしても、祝日は天皇に關聯したものであると言へようか。
この句、「振る振れる」の問題から言ふと、中句が、
「秋を分けると」
と秋分の日でも通用する所が大きな瑕疵(かし)となつてゐる。
三月二十一日
生き方に振替休日はなき薄霞 不忍
いきかたに ふりかへきう じつは なき うすがすみ
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祝祭日が日曜日及び他の祝祭日などと重なつた時に、月曜日以降を休日にして休日が減らないようにする制度を「振替休日(ふりかへきうじつ)」と言ひ、これは一九七三年に法律が改正された事で、月曜日が休日となる所謂(いはゆる)「ハツピイマンデイ」が)制定されたが、法律の用語としては「振替休日・振替」の字句はないので、飽くまでもこれらは通稱であるといふ。
この「振替休日」は日本では制定されてゐるが、當然(たうぜん)それのない國もあつて、あるからといつて先進國だといふ譯のものでもない。
逆に、國が國民に媚を賣つてゐるやうで、何か企みがあるのではないかと氣を廻してしまふ。
こんな事で目眩(めくら)ましにかかる程、國民は愚かではないと思ふのだが……。
何だか生臭い内容で、川柳のやうになつて仕舞つた。
三月二十二日
春とは言へ近況のこゑ訃報かな 不忍
はる とはい へ きんきやうのこゑ ふほうかな
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初案は「春とは言へ近況の音訃報かな 不忍」であつたが、近頃は手紙や電報などよりも携帶電話での聯絡が主流となつて仕舞つたので改めた。
晝(ひる)過ぎに――突然、携帯電話が鳴つた。
著信(ちやくしん)名を見ると前の店からの常連で、何だらうと思つて出ると、若い女性の聲で誰だらうと訝(いぶか)つた。
どうしてかといふと、この電話の主は八十歳を疾(と)うに過ぎてゐる女性の筈だからである。
相手もこちらの正體が不明であるらしく、お互ひ話の遣取りに齟齬(そご)が生じてゐて、筆者が携帶の持主の名前を告げると、さうだといふ返事が返つて來たので、前の店の名前をいふと直ぐに諒解したらしく、マスタアでしたかといふ安堵の聲の後に、
「實(じつ)は、義母が亡くなりました」
と感極まつて、恐らくその兄弟のどちらかの嫁であらう女性が聲を詰らせた。
去年の十一月頃に、空樂音(カラオケ)か芝居を見に行かうと電話をしたら、都合が合はなかつたので、いづれ機會があればとその儘になつてゐたので、今にして思へばあの時に無理をしてでもと、ありがちな運命の皮肉を感じて仕舞つた。
これから花も盛らうといふのに……。
明日、告別式に行かうと思ふ。
因みに、中句の「こゑ」を漢字にしなかつたのは、「聲訃報かな」と下句への繋がりが交錯してしまふからで、さういふ場合が面白い場合もあるが、ここでは紛らはしいので平假名とした。
三月二十三日
誘ふ風葬る者へと花の咲く 不忍
さそふかぜ はうむるものへと はなのさく
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初案は「誘ふ風葬る者へも花の咲く」であつたが、死者にも生者にもといふ氣持であつたものの、奇を衒(てら)ひ過ぎだと思ひ直した。
昨日の發句で、知人で老齡の婦人が亡くなつたといふ事を述べた。
その告別式が今日の十一時半から執り行はれたが、最近の傾向なのか通夜はしないとの事だつた。
晴れた空は静寂を湛(たた)へて何事もなく時を刻む中、最後の別れに際して親族のすすり泣きを柩の前で聽くばかりであつた。
人類の發生と同時に幾度も死者を送つて來たが、その葬儀には、
「土葬・水葬・火葬・風葬・樹上葬・洞窟葬・鳥葬・曝葬・空葬」
といふ埋葬の仕方があつた。
現在でもさうだが、さつきまで話してゐた相手が、その存在を消失して仕舞ふといふ現實が信じられないと同時に、受容れなければならないといふ理不盡から、徐々に悲しみが廣がつてくるのであるから、古代の人は理解するのに時間がかかつたのではないかと推察される。
それでこれらの葬儀は、再生法としての弔ひの方法であつたのではないかと考へられまいか。
これは飽くまでも私見であるが、「土葬」や「風葬・樹上葬・洞窟葬・曝葬」は、遺體(ゐたい)を風化させるのが基本でその置く方法によりながらも、若しかすれば蘇生するのではといふ願望が窺はれるし、「水葬」は、巨大な羊水からの再生を、「火葬」は不死鳥のやうに火から蘇り、「鳥葬」も他の生物に食べられる事での食物連鎖の果の復活を目指すといふ具合にである。
また、「空葬」は遺體(ゐたい)の發見されない儘に行はれる葬式の事で、「假(か)りの葬儀」若しくは「空葬(からとむら)ひ」ともいふさうである。
現在、日本では衛生的な理由で火葬であるが、佛陀もさうであつたと言はれてゐるし、基督(キリスト)教社會でも火葬化が見られるといふが、土葬の方が時代的には長かつたと言へるだらう。
因みに、昨日の句で、
「中句の「こゑ」を漢字にしなかつたのは、「聲訃報かな」と下句への繋がりが交錯してしまふからで、さういふ場合が面白い場合もあるが、ここでは紛らはしいので平假名とした」
と書いたが、この句の、
「誘ふ風葬る者へと」
といふ上句から中句への「風葬」といふ流れが、「ふうさう」といふ單語との二重構造となつてゐる事で、作品として面白くなつたと考へてゐる。
尤も、「風葬」ではないのだが……。
三月二十四日
天に向けて傳へるは何ぞ鬱金香 不忍
てんに むけて つた へるは なんぞ
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チユウ リツプ
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『鬱金香』とは「チユウリツプ」の和名でユリ科の植物であるが、形態は有皮鱗莖で球根が出來、花の香りが食品を黄色く染めるのに使はれる「鬱金(ウコン)」のような匂ひに由來し、別に「ぼたんゆり」という和名もあるといふ。
花の色は、
「赤・黄・橙(オレンヂ)・白・緑・紫」
などの單色や複數の色のものなどがあるが、青い色の「チユウリツプ」の品種は開發途上との事である。
その外觀は、伸びた莖の尖端(せんたん)にある花瓣(はなびら)が空に向つて開化するので、花壇などに群生してゐるのに遭遇すると壓倒(あつたう)されてしまふ程である。
因みに、花言葉は「思ひやり」ださうである。
三月二十五日
國も信仰も屍の上や蓮如の忌 不忍
くにも しん かうも かばねのうへや
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れんによのき
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初案は「屍(しかばね)の上に築くや蓮如の忌」で、次に「蓮如忌や屍の上に築くもの」と變へたが、氣に入らずに最終案となつた。
今日は「蓮如上人」の忌日である。
親鸞からの直系である「蓮如(1415-1499)」は、室町時代の淨土眞宗中興の祖で本願寺第八世を繼ぎ、衰退の一途を辿つてゐた本願寺を再興し、現在の本願寺教團(本願寺派・大谷派)の基礎を築いた人物であるが、その生涯は、延暦寺から「佛敵」と認定されたり、「僧侶・武士・農民・商工業者」によつて形成された宗教的自治による一向一揆を畫策(くわくさく)したり、五度の婚姻で「男子十三人・女子十四人」の計二十七子を儲けたりと發展家でもあつた。
筆者にはこの教團の存在は白土三平の『忍者武藝帖・影丸傳』での、
「信仰を權力獲得の手段に用ゐた」
といふ心象(イメエヂ)が強烈で、正直なところ詳しく知つてゐるとは言ひ難い。
けれども、宗教といふものの本質は發展して行けば行く程、いづこの宗教においてもさういふ傾向が見られるやうな氣がしてならない。
後年、「蓮如」は明治天皇から「慧燈(ゑとう)大師」の諡號(しがう)を追贈されてゐるが、「蓮如」の「蓮」は正字の「二點(にてん)之繞(しんねう)」である可きであるが、環境依存文字なので文字化けを考へて表記を避けざるを得なかつた。
關聯記事
二十、漫畫(まんぐわ)讀後(どくご)感『忍者武芸帳 影丸伝』 Op.8 『摂取本(セツシボン)』より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4699373&id=62661856
三月二十六日
生きるとは遊ぶことなり春の鳥 不忍
いきるとは あそぶことなり はるのとり
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天竺川のに鴛鴦(をしどり)や五位鷺(ごゐさぎ)がゐて、それが橋の上を通る時には鴛鴦は兔も角、五位鷺は必ず確認出來る。
ただ、どちらの鳥もその名前に間違ひはないかと言はれれば責任は持てない。
その程度の知識しかない事には恥入るが、鷺は時に優雅に羽を伸ばして見事なまでの滑空を披露し、さうかと思ふと橋の下の一角で羽を休めて、修行僧のやうに默然と一點を見詰めて身動(みじろ)ぎもしない。
聖書の「馬太(マタイ)傳による福音書 六章二十五-二十六節」に、
「空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや」
といふ箇所がある。
自然の一部として存在する彼等は、生きるといふ事がどういふ事かを、筆者なんぞよりも能(よ)く理解してゐるに違ひない。
その鳥もここ二、三日、見かけなくなつて仕舞つた。
國木田獨歩(1871-1908)に『春の鳥』といふ小品がある。
筆者の大好きな作品で、彼にはこの外に『牛肉と馬鈴薯・運命論者』といふ優れた小説もあつて、これを舞臺で上演すれば面白いのにと幾度か思つた事がある程である。
春に向けて、いざ筆者も遊び戲れに身を任さん歟(か)。
三月二十七日
縁一期足らぬも善しか利休の忌 不忍
えんいちご たらぬもよしか りきうのき
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初案は「春寒く一期一會(いちごいちゑ)や利休の忌」で、暖かい筈の春が寒くて、その事を「不足の美(不完全の美)」として傳へられるのではないかと考へたのだが、「利休忌」と「春」が季重なりとなるので改めた。
本來は舊暦であるが、高島易斷の『九星本暦』によれば、今日は茶の湯の祖で『茶聖』とも言はれる千利休(1522-1591)の命日である。
彼は茶人として「信長・秀吉」といふ權力者に仕へたが、結局は勘氣を蒙(かうむ)つて切腹を命じられて仕舞ふ。
調べて見ると利休の名は、禁中茶會の際に町人の身分では參内(さんだい)出來ないといふ理由から、正親町天皇より與(あた)へられた居士號であるといふが、「利休」の名は晩年での名乗りで、多くは宗易と言つてゐたとの事である。
「利休忌」は「菜の花忌」とも言ふが、それは利休が生涯菜の花を好んだとか、最後の茶室に活けられてゐたからとか言はれてゐる。
さうして、「利休忌」には茶席には菜の花を活けないのだといふ。
また「菜の花忌」については、司馬遼太郎に對しても言はれてゐて、こんにちでは司馬氏の方が一般的となつてゐるやうである。
三月二十八日
訪ね來てまた逢ふ枝垂櫻かな 不忍
たづねきて またあふしだれ ざくらかな
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初案は「あと幾度(いくたび)めぐり逢へるや枝垂櫻」で、さうとすると下五句が字餘りになるから「紅枝垂」とか「絲櫻」との案も浮んだが、更に「次もまた逢ひたき枝垂櫻かな」として最終案となつた。
次も逢へればといふ物欲しげな表現に卑しさを感じての結果ではあつたが、芭蕉の「言ひおほせて何かある」といふ意味でも、これで良かつただらうと思ふ。
この時期になると驛から少し離れた清閑な場所で、防犯(セキユリテイ)のしつかりした瀟洒な邸宅の庭に、その建物を壓(あつ)する程の『枝垂櫻』が咲く。
その事を知つてから二十年近くになり、毎年愉しみにしながらそこへ出かけるのだが、あとどれぐらゐあの櫻と見(まみ)える事が出來るのだらうか。
そんな考へに囚(とら)はれる年齡となつた事に、自身が驚いて仕舞つてゐる。
三月二十九日
花冷えや助け合ふ如く酒を酌む 不忍
はなびえや たすけあふ ごとく さけをくむ
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初案は「花冷えや語り助け合ふ酒を酌む」と諄(くど)いものであつた。
花見は日中はそれ程でもないが、夕暮れ邊(あた)りから急に冷え込んで、こんな時は熱燗などがあればご機嫌であるものの、生憎の野外なので屋内とは勝手が違ふ。
簡易に熱燗が出來るカツプ酒があつた筈だと思つたら、どうやらもう發賣されてゐないとの事であるが、それでも調べて見ると、水酸化反應を利用した發熱劑があるとの事で、それを利用すれば火氣厳禁の公園などでも、問題なく燗の酒を仲間で愉しめるといふ。
三月三十日
見えもせぬ春を探すや迷ひ出て 不忍
みえもせぬ はるをさがすや まよひでて
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人は求めるから迷ふのか。
さりとて向上心がなければ發展もなく、さうするには設定を高處(たかみ)へと掲げる意欲も必要となり、その結果として迷いが生じて仕舞ふ。
何ものにも囚(とら)はれない精神を見につけなければならないのだが、さうなると最後には捕はれないといふ考へからも解放されなければならなくなる。
精神の囚人にはなりたくないものである。
ひるどきの風しづかなる花の下 不忍
ひるどきの かぜしづかなる はなのした
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今日は三月も最後の日で、店の休日(きうじつ)を利用して服部緑地で花見がてら晝食(ちうしよく)した。
風も穩やかで、櫻日和とでもいふ言葉が吐いて出るやうな天候であつた。
繼母(はは)も誘はうと思つたのだが、晝(ひる)過ぎまで用事あるとの事なので、それならと午後から萬博の「EXPOCITY」へ行く事になつた。
その理由のひとつは、そこの「109シネマズ」には「4DX」の設備で、
『バツトマンVSスーパーマン ジヤステイスの誕生』
が上映されてゐるからで、託(かこつ)けて觀に行きたかつたといはれても、言ひ譯出來さうもない。
四月一日
雨の後の輝く道は春射して 不忍
あめの あとの かがやくみちは はるさして
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初案は上記のもので、ただ中句が「道に」であつたものを「道は」と變へて、次に「雨の後の春射して道輝けり」と推敲して見たが、矢張元に戻す事とした。
いつ頃かは知らなかつたが、昨夜から雨が降りだしてゐたやうで、氣紛れな雨は氣分に任せて降つたり止んだりを繰返してゐて、午後一時を過ぎて店に行く時には陽が射してゐた。
路面は輝き、春を傳へるかのやうに煌いてゐた。
四月二日
手の上の風が盗むや花吹雪 不忍
てのうへの かぜがぬすむや はなふぶき
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初案は「手の上の風が盗みし花吹雪」で、次に「手の上の風が盗みて花吹雪」としてなほ違和感があつたので最終案となつたが、この微妙な差こそが、一句の命を左右するやうに思はれる。
櫻はバラ科モモ亞科スモモ屬の落葉樹の總稱(そうしよう)で、その語源も不明であるが、一説に、
「「咲く」に複数を意味する「ら」を加えたもの」
といふのがある。
また、櫻は稻作神事に關聯して穀物の神が宿るとされ、「田植・種蒔」の農業開始の指標とされたともいふ。
その呼名は、
「朝櫻・夕櫻・夜櫻・山櫻・彼岸櫻・老櫻・里櫻・染井吉野・八重櫻・楊貴妃櫻・薄墨櫻・枝垂櫻」
と樣々あり、
「花明り・花影・花時・花の雨・花便り・花の宿・花盗人・殘花」
と、花としての扱ひも多岐に亙る。
櫻は咲く樣も見事だが、その散り際も潔いとされ、華麗さと儚さのゆゑに愛されてゐるが、一方で諸行無常の意味から家が長續きしないので、武家では家紋とするのは控へられたといふ。
櫻の花の季節は短く、今年もその時を享受出來る事を喜びたいと思ふ。
四月三日
越え行けば國の境も隱元忌 不忍
こえゆけば くにのさかひも いんげんき
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今日は隱元(1592-1673)禪師の忌日だ、と高島易斷の『九星本暦』にあつた。
彼は黄檗山の開祖であるところから「開山忌」とも言はれ、中國の明の時代の禪僧であつたが、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じ、先に渡日してゐた興福寺住持の逸然性融(1601-1668)が、隱元を日本に招かうとした。
けれども、隱元は當初(たうしよ)は弟子を派遣したものの、途中で船が暴風雨で坐礁して沒して仕舞つたので、止むを得ず自らが二十人程の弟子を率いて承應三年(1654)に長崎へ來港したが、隱元は三年間の約束での渡日であつた事から、中國本土からの再三の歸國要請に應じようとするが、弟子達が引止め工作に奔走し、四代将軍徳川家綱(1641-1680)との會見の結果、山城國宇治郡大和田に寺地を賜つて黄檗山萬福寺と名附けた。
隱元は八十二歳で亡くなつたが、「大光普照國師」號が特諡され、大正六年(1917)には大正天皇から「眞空大師」の號を追贈されてゐるが、隨や唐の時代ならば兔も角、江戸時代になつてもなほ中國から渡日する僧がゐたといふのは驚きである。
人が異郷の地で生涯を終へるのはなかなかに嚴しい事で、それも日本國内であつても大變(たいへん)であるのに、況(ま)して異國の地ともなればその苦勞は察して餘りあらうかと思はれる。
その上に功績まで殘して生涯を全うするなどは、己が身に比して尊敬の念を禁じ得ない。
隱元忌は現在では新暦での扱ひであるが、正確には陰暦四月三日であるから季語としては「夏」となつてゐて、季節に齟齬が生じてゐる。
筆者は春であるにも拘はらず、夏の句を詠んで知らんぷりを決め込む事にする。
因みに、隱元が來日した際に持込んでその名がついた「隱元豆」は有名であり、また日本での煎茶道の開祖ともされてゐる。
四月四日
清明や風は光を透き通す 不忍
せいめいや かぜはひかりを すきとほす
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「清明」は二十四節氣の第五で「三月節」の事であるが、舊暦(きうれき)だと二月後半から三月前半となり、次の節氣の穀雨前日までである。
「暦便覧」には「三月節」に就いて、
「万物發して清淨明潔なれば、此芽は何の草と知れるなり」
と記されてゐるが、この「清浄明潔」という語を略して「清明」といふとある。
この「暦便覧」は「歳時暦便覧」とも言はれたりするが、太玄齊(たいげんさい・1756-1830)の著(あらは)した暦の解説書で、江戸時代の版元で「黄表紙・洒落本・浮世繪」などで知られる蔦屋重三郎(1750-1797)の經營する「蔦重」からの出版である。
「清明」は白居易(772-846)の、
「春風暑からず寒からずの天」
といはれるやうに萬物が若返つて清々しい季節で、中國では墓を掃除したり郊外を散策して「蹈青」する日でもあつた。
四月五日
行く雁の殘せしものや光り散る 不忍
ゆくかりの のこせしものや ひかりちる
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初案は「行く雁の殘せしものの心寂」であつた。
「心寂」とは「こころさび」若しくは「こころさぶ」とも讀め、「心淋(こころさぶ)し」とか「心淋しい」といふ言葉からの聯想であるが、飽くまでも筆者の造語でしかなく、また雁が歸るのを淋しいと言つて仕舞つたのでは興醒めだから、推敲せざるを得なかつたのである。
春の季語である「行く雁」には、
「歸る雁・歸雁(きがん)・去(い)ぬる雁・雁の名殘り・名殘りの雁・雁の別れ・今はの雁」
などがあるが、單に「雁(かり)」だけの場合は秋の季語で、
「かりがね・眞雁(まがん)・菱喰(ひしくひ)・沼太郎・酒面雁(さけつらがん)・雲居(くもゐ)の雁(かり)・小田の雁・病雁・四十雀雁(しじふからがん)・白雁(はくがん)・黒雁(こくがん)・初雁(はつかり)・雁渡る・天津雁(あまつかり)・雁(かり)の棹(さを)・雁行(がんかう)・雁(かり)の列・落雁・雁鳴く・雁(かり)が音(ね)」と、その表現は多彩である。
ところで、この句はその景色を見て詠んだものではないので、實景からは離れた想像の産物である。
いふまでもなく、下五句の「光散る」は櫻への幻想である。
四月六日
けふかぎり雨にそなへん櫻かな 不忍
けふかぎり あめにそなへん さくらかな
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豐中の稻津町には松下電器があつて、嘗(かつ)ては國道百七十六號線の兩側の一方が工場で、阪急寶塚線側が社員寮と運動場であつたが、そこが『さくら廣場』となつて市民に無料開放されてゐる。
明日は可成の激しい雨が降るとの豫報なので、恐らくこの邊(あた)りの櫻も見納めとなるような氣がして、觀ておかうと出かける事にした。
四月七日
くれなゐの雨の降りてや躑躅咲く 家の垣 不忍
くれなゐの あめのふりてや つつじさく
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初案は「くれなゐの雨の降りてや家の垣」であつたが、無季なので改めた。
「紅の雨」といふが、透明な雨に色などはない。
それが「紅の雨」とはどういふ事なのかと思はれるだらうが、實(じつ)は紅の色をした花などに降り注ぐ雨の事を指し、「紅の花」には、
「躑躅(つつじ)・木瓜(ぼけ)・石南花(しやくなげ)」
などがあり、また、
「桃・花梨(かりん)・杏(あんず)」
などの淡紅色の花がある。
これらの花に降り注ぐ雨を「紅の雨」と呼ぶのだといふのであらう。
ただ、「紅の雨」とだけでは季語とはならず、雨の色の正體を示す事で自づから季語も確定するといふ譯である。
あれほど降つてゐた雨も、氣がつけばいつもまにか深夜には止んでゐた。
四月八日
誰に頼る謂れを餘所に花祭 不忍
だれに たよる いはれをよそに はなまつり
C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
「花祭」とは釋迦の誕生日を祝ふ祭で、灌佛會(くわんぶつゑ)の別名である。
この佛教行事は、日本では毎年四月八日に行はれ、
「降誕會(がうたんゑ)・佛生會(ぶつしやうゑ)・浴佛會(よくぶつゑ)・龍華會(りゆうげゑ)・花會式(はなゑしき)」
などともいふ。
釋迦の生沒年は不明で、北傳佛教が傳來(でんらい)した地方では、中國暦四月八日とされてゐ、南傳佛教圏では、印度の太陽太陰暦を用ゐた二月十五日となるといふ。
ただ、印度暦の二月は中国暦で四月から五月に相當するので、中國暦四月に飜譯されたと思はれるが、日本では業列互利(グレゴリオ)暦の四月八日とし、寺院によつては月遲れの五月八日を灌仏會とするものの、他の亞細亞圏ではグレゴリオ暦へ置換へる事はしないやうである。
祭といふ限りは神事に關聯する行事であらうが、筆者にはそれ程の思い入れはない。
ここで私見を述べれば、佛教は他の宗教のやうな神への信仰を基本に置いたものとは同列に論じられず、寧(むし)ろ哲學的な精神の内面を考察する學問であると考へてゐる。
從つて、筆者にとつては釋迦への信仰は尊敬へと移行し、彼の言葉を經典として呪文のやうに唱へるのではなく、哲學的思索の教典となるのである。
それは丁度、相對(さいたい)性理論を創唱した愛因斯坦(アインシユタイン) の理論は活用し尊敬はするが、その本人を信仰の對象(たいしやう)とはしないといふ事と同じになるのである。
因みに、物が毀(こは)れた時に「お釋迦」といふ言葉を使ふが、火力が強過ぎて金屬が鈍つた場合に、「しがつよかつた(火が強かつた)」事から、「四月八日(しがつやうか)だ」へと洒落たといふ説がある。
嘘か本當(ほんたう)か。
嘘も方便といふ事で……。
四月九日
行く先を問うてみんかな花筏 不忍
ゆくさきを とうてみんかな はないかだ
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この句の中句にある「問うて」はウ音便であるから、歴史的假名遣(かなづかひ)と雖(いへど)も「問ふて」とはならない。
『花筏』とは、櫻が散つて、その花瓣(はなびら)が水面に澤山集まつて浮いてゐ、また流れてゐる樣を筏(いかだ)に見立てて『花筏』といふのであるが、別に花の散りかかる筏に對してもさういふ事があり、更に『花筏』といふ名の植物も存在するとの事である。
言はずと知れた、「筏」とは木材や竹を竝べて蔓(つる)や縄(なは)などで結んで、水上に浮べて簡易な交通機関としたり、木材を流送する手段として行はれ、漢字では「桴」とも表記する。
變はつた所では鎧(よろひ)の籠手(こて)の手首から臂(ひじ)の間に竝べた金物や、小鰻(こうなぎ)を竹串に刺して蒲焼にしたものとか、葱を串に刺したものをも「筏」といふ。
この幻想的な風景は切ない氣分にさせるが、それは櫻との最後の別れであると同時に、その『花筏』の流れて行く先に黄泉やあの世へと續いてゐるやうな思ひに驅られ、せめて極樂であれとの願ひさへ想像させて仕舞ふからに違ひない。
少なくとも、間もなく春を終へて夏に向つてはゐるのだらうが……。
四月十日
風さやと光も落すや花の午後 不忍
かぜさやと ひかりもおとすや はなのごご
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初案は「花風(はなかぜ)に光も落す晝(ひる)下がり」であつた。
櫻前線からも大坂の花の見頃も造幣局で、ほぼ終りを迎へてゐるのではないかと思はれる。
けれども夜中の報道で、明日の北陸方面では雪が降るかも知れないといふ。
縱に細長い日本列島では、まだこれから櫻の時期を控へてゐる。
出來れば追ひかけて最北端まで櫻を愛でたいものであるが、それを許された或いは可能な人が、どれほどゐるのであらうかと想像して見る。
今年の四月四日の「清明」の時に、
清明や風は光を透き通す 不忍
といふ句を提示したが、「光」は時間の経過をも意味し、愛因斯坦(アインシユタイン)は空間と時間を『時空』と表現した。
西洋ではそれに類した言葉がなかつたからだといふが、東洋に於いては『宇宙』といふ素晴しい言葉がある。
曰く、
「往古來今謂之宙、四方上下謂之宇」
と『淮南子(ゑなんじ)』の「齊俗訓」にあり、
『宇』とは天地四方の無限の空間を意味し、『宙』とは「過去・現在・未來」の及ぶ無限の時間を表現してゐ、その初出も『荘子』の「斉物論篇」にあつて、道家思想の『宇宙』には、「時間」と「空間」の概念が内包されてゐたのである。
などと櫻を愛でるといふ情緒的な問題に、無味乾燥ともいへる哲學的な命題を述べて興を殺ぐ野暮な事をして仕舞つたが、どちらも瞑想的な境地を見出し得るといふ一點において共通する事でお許しを願つておかう。
四月十一日
まだ雪が花にまじるや北の空 不忍
まだゆきが はなにまじるや きたのそら
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昨日も述べたが、今日は北陸地方で雪が降つたさうである。
春になり櫻が咲く季節となつたのに、それが雪と一緒に散る樣子はこの世のものとは思はれない夢幻的な風景であらかと想像する。
現地に行つた譯ではないから肌で感じてゐはしないが、報道番組で垣間見ただけでも心騷ぐ思ひがする。
といふ譯で、今囘の句は想像による「空想の句」である。
四月十二日
待ちわびてはや噴水のも花に添ふ 不忍
まちわびて はやふんすいの はなにそふ
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『噴水』は夏の季語である。
それがここ二、三日の寒さのぶり返しで散り殘つてゐる服部緑地の櫻が、噴水から眺められる。
夏が用意して待ち構へてゐるのを氣にしながら、春はなほ愁ひをたたへて邊(あた)りに暮れ泥(なず)んでゐる。
四月十三日
像を結ぶ春の虚空に雨の降る 不忍
ざうを むすぶ はるのこくうに あめのふる
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沖縄はsquall(スコオル)のやうな大雨であつた。
大坂も午後からぼちぼちと雨が降りだした。
空を見上げると白い水滴が自分を目がけて虚空から落ちて來る。
今日は高島易斷の『九星本暦』によれば、京都嵯峨虚空藏菩薩十三詣りであつた。
佛教の信仰對象(たいしやう)である『虚空藏菩薩(こくうざうぼさつ)』は、梵名を「アアカアシヤ・ガルバ」または「ガガナ・ガンジヤ」と言ひ、「明けの明星」を象徴とする菩薩の一尊で、宏大な宇宙のやうな無限の智慧(ちゑ)と慈悲を持ち、「虚空藏求聞持法」は記憶力が増す修法であると言はれてゐ、これを祈念して空海(774-835)が室戸岬の洞窟に籠もつて修したという傳説は有名である。
また『虚空藏菩薩』は、丑年生れの人の「一代守り本尊」であるのだといふ。
『十三詣(じふさんまゐ)り』は舊暦(きうれき)の三月十三日前後に、男女とも數へ年十三歳でおこなふ祝ひで、新暦だと三月十三日から五月十三日に子供の幸福と開運を祈り、智慧貰ひに參詣するのだといふ。
無宗教の筆者はまだ訪れた事はなく、恐らくこの日を選んでそこへ行く機會は死ぬまでないだらうと思はれる。
四月十四日
雨の後に陽を受く牡丹櫻かな 不忍
あめの あとに ひをうくぼたん ざくらかな
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今年最後の「造幣局の通り拔」へ妻と一緒に出かけた。
昨日の激しい雨で心配したが、充分に見應へのある滿開の櫻たちが觀客を迎へてゐた。
毎年、櫻の品種の中で今年の花が發表されてゐるのだが、今年は『牡丹』ださうである。
のんびりと散策をしながら、陽を浴びた樣々な櫻に見守られて、明るい氣分を身體(からだ)に注ぎ込まれるのを感じた。
造幣局を出ると電話があり、月曜日に出してゐた車の車檢が終つて、店の駐車場に置いておくとの事だつた。
仕上りが金曜日になると言はれてゐたのが、一日早く仕上つたのだといふ。
實(じつ)は、妻の實家の美作の義母が日曜日に緊急入院をしてゐて、氣にはなつてゐたのだが出かけるのを諦めてゐた。
けれども、車があるのならばといふ事で急遽、津山の病院へ行く事にした。
義母の症状は不整脈からくる肥大型心筋症で、一時は「AED」で處置をしなければならなかつた程であつたが、「ICD」の埋め込み手術をして事なきを得たといふ。
雨後の櫻に安堵したと思つたら、病院へ見舞ひに行く事にならうとは……。
夕方四時に出かけて、夜の十時に大坂へ歸つてくるといふ強行軍であつた。
四月十五日
一陣の風を鎭めて花水木 不忍
いちじんの かぜをしづ めて はなみづき
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別名「亞米利加山法師(アメリカヤマボフシ)」とも言はれ、その名の通りアメリカ原産で日本の山法師に似てゐる事からさう呼ばれてゐ、また、「水木」の仲間で花が目立つので『花水木』とも呼ばれてゐる。
この花が日本に入つて來たのは、一九一二(明治四十五)年に當時(たうじ)の東京市長のた尾崎行雄(1858-1954)が、「染井吉野」の櫻の苗木を華盛頓(ワシントン)市に寄贈した返禮として、一九一五(大正四)年に贈られたのだといふ。
休み明けに店へ向ふ途中に、陽を浴びた花水木を見かけたが、氣品のある彳(たたず)まひが眩しかつた。
四月十六日
悲しみも春に包むや喜劇王 不忍
かなしみも はるにつつむや きげきわう
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初案は「悲しみも苦も」と浮んだが、これではと改める事にした。
一八八九年のこの日に、映畫(えいぐわ)作家で監督も作曲も熟(こな)した喜劇俳優の 査理査爾斯卓別麟(チヤアルズ・チヤツプリン・1889-1977)が英吉利(イギリス)で生まれた。
彼は「口髭・だぶだぶの洋袴(ズボン)・どた靴・洋杖(ステツキ)・山高帽」といふ獨特の恰好(スタイル)人氣を博し、社會を風刺する作風で一世を風靡した。
その一方で、諾貝爾(ノオベル)賞作家の川端康成(1899-1972)が一九七二年に自殺した日でもある。
人は生れ、しかる後に死すのであるといふ事を思はずにはゐられない。
春愁の中で朝を待ちながら……。
招魂を祀りて愁ふ康成忌 不忍
せうこんを まつりてうれふ やすなりき
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四月十七日
燕低う屋根を掠めて追ふ光 不忍
つばめ ひくう やねをかすめて おふひかり
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『燕』は春の季語で、雁が鳴き聲を殘しながら北へ歸る頃に日本に渡つて來、
「乙鳥(つばめ)・乙鳥(おつどり)・玄鳥(つばめ)・つばくら・つばくらめ・つばくろ・飛燕・濡燕・川燕・黒燕・群燕(むらつばめ)・諸燕・夕燕・燕来る・初燕」
と表現も多彩である。
戰前の歌謠曲に作詞が西条八十(1892-1970)、作曲が古賀政男(1904-1978)で松平晃(1911-1961)が歌つた「サアカスの唄(昭和八年)」といふのがあつた。
その歌ひ始めに、
「旅のつばくら」
といふ歌詞があつて、その後に發表された、清水みのる(1903-1979)作詞、倉若晴生(1912-1982)作曲で小林千代子(1910-1976)が歌つた、
「旅のつばくろ(昭和十四年)」
といふ歌と混同されたのか、「サアカスの唄」の歌詞も間違つて「旅のつばくろ」と歌はれるやうになつたやうである。
渡り鳥と同じやうな生活をしてゐる曲藝團(サアカス)の悲哀と、その中にかすかに殘る希望とを歌つた樂曲であるが、所詮、人の一生とは果敢無いもので浮草のやうな暮しでしかないのではなからうか。
四月十八日
春風や南面せよとて孔子の忌 不忍
はるかぜや なんめんせよとて こうしのき
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初案は「かにかくに南面せよとて孔子の忌」であつたが、「かにかくに」が最初に浮んだものの意味不明で、それに續く下句を支へ切れないので改めた。
世界の四聖として、
「耶蘇基督(イエスキリスト)・蘇格拉底(ソクラテス)・釋迦・孔子」
と言はれてゐるが、その一人である孔子はBC479年に七十一歳で亡くなつてゐる。
彼と蘇格拉底は釋迦や耶蘇とは違つて宗教家ではなく、哲學者及び思想家といふ方が無難であらうが、その違ひはその本人を崇拝以上の神格化に祭り上げ、信仰の對象(たいしやう)とするかどうかの差であるやうに思はれる。
けれども、私見を述べれば耶蘇は別にして釋迦こと瞿曇悉達多(ゴオタマ・マシツダルタ)も、信仰されるべき佛教の開祖といふよりかは哲學者であると考へてゐる。
季語としては春の孔子祭といふものがあり、
「おきまつり・釋菜・釋奠(せきてん)」
二月と八月に行はれたと歳時記にある。
一説に、老子に師事して教へを受けたとも言ふが、その教へは理想を周初への復古とし、仁道政治を掲げて弟子達によつて教團を形成して、その語録は『論語』に纏められてゐる。
慣用句としては、
「孔子も時に遭はず」
とか、
「釋迦に提婆(だいば)有り、孔子に盗跖(たうせき)有り」
と引合ひに出されたりしてゐる。
因みに、孔子は巨漢で身長が二百十六糎(センチ)もあつたといひ、『荘子(外物篇)』に曰く、
「容貌は上半身長く、下半身短く、背中曲がり、耳は後ろの方についてゐた」
といふ。
「君子は南面す」
といふが、それに程遠い筆者としては、ただ春風を受ける而己(のみ)。
四月十九日
これといふ事なきを得て春の風 不忍
これといふ ことなきをえて はるのかぜ
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今日は高島易斷の『九星本暦』に何の記載もなく、世界通信網(インタアネツト)で「今日は何の日~毎日が記念日」を調べても、
「地圖の日(最初の一歩の日)・飼育の日・養育費の日・乘馬許可の日」
といふ何とも句に詠み難(にく)い題材があるばかりで、お手上げの状態となつた。
かういふ時は、素直に春の季節感を詠むに如(し)くはない。
といふ事で、上(かみ)に擧(あ)げた句となつた。
いつも何かあるといふ日ばかりではなく、寧(むし)ろ平々凡々の日こそが大切に感じられる可きであらう。
四月二十日
伸び代をまだ見込めるや晴穀雨 不忍
のびしろを まだみこめるや はれ こくう
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初案は「伸び代をまだ見込めるや穀雨かな」で、「や」と「かな」の切字がふたつもあるといふ禁則だつたので改めた。
本當(ほんたう)は、
のびしろを まだみこめるや はれこくう
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といふ音型であつたのだが、下五句の「穀雨」が雨とあるのに晴てゐるといふ現實との懸隔(ギヤツプ)の面白さに、「晴穀雨」と置いてみたものの、「晴」と「穀雨」の間にひト呼吸の隙があればと、四分休符 (ζ)を入れる事となつた次第である。
二十四節氣の第六に當(あた)る『穀雨』は、『清明』が終つた舊暦(きうれき)では三月にあるが、新暦では四月二十日頃となり、田畑の準備が整つて、それに合せるやうに降る春の雨が穀物の成長を助ける事からさう言ひ、この日から『立夏』前日までをさう呼んで、
「春雨降りて百穀を生化すればなり」
と『暦便覧』には記されてゐる。
『穀雨』の終る頃、則ち『立夏』直前には『八十八夜』がある。
この雨は穀物の成長を助けるかも知れないが、俳聖松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)の齡(よはひ)を遙かに越えた筆者自身には、この先に待受けるものの何があるといふのだらうか。
何も歎いてゐるといふ譯ではないが、よくぞこれまでといふ感慨に耽つてしまふ。
生憎、今日は雨が降らずに明日の午後からだとの豫報である。
四月二十一日
赤と白の雨に竝ぶや花水木 不忍
あかと しろの あめにならぶや はなみづき
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木曜日の定休日に、津山の病院に入院してゐる妻の義母の見舞ひに出かけた。
朝の十時過ぎに大坂を出て、折から降りだした雨の中を午後の一時頃に津山中央病院に著いた。
病院の駐車場で車を降りると、坂の途中に雨の中で立盡す赤と白の花水木が見えた。
こんな風に色違ひの花水木が竝んで立つてゐるなんて、珍しい事なんだらう。
これは吉兆なのか。
病人が疲れてもいけないし、さりとて直ぐに歸るのも水臭く感ぜられないかと惱ましくおもひながら、結局、面會を一時間程で辭(じ)して歸路についた。
途中、中國道の加西で休憩をしたが、午後四時頃には家に到着(たうちやく)した。
その間、つひに雨は止む事がなかつた。
追記
かう言つた動畫や寫眞の畫像に短歌や發句を添へるのは、俳畫などとは違つて現實的(リアル)過ぎて、却つて想像力の妨げになるのではないかと危惧したりするのだけれども、飽くまでも創作者の思ひとしては許されるのではないかと、甘えながら發表させてもらつてゐる。
四月二十二日
望月の花なき路地も馨しやき 不忍
もちづきの はななきろじも かぐはしや
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初案は「望月や花見えずとも香る闇」と體言止めであつたので、次に「望月や花なき闇も馨しき」と詠んで見たが、「香る」とは判然(はつきり)とせずに、花が見える譯でもないのに匂ひが漂つてゐるかも知れないやうな状態を表現したく、さりとて月があるのに「闇」といふのも可笑しかつたので、最終案として「路地」として推敲した。
今日は「靖國神社春祭」と「多賀大社古例大祭」であると同時に、「望(ばう)」であると高島易斷の九星本暦にあつた。
「望」とは「望月・朢月」とも表記し、「もちづき・ばうげつ」と讀む滿月の異稱で、別に「盈月(えいげつ)」ともいふ。
太陰暦では、滿月の日の晩を「十五夜」とも呼んだ。
深夜、日が變つた夜空を見上げたら、香るやうな美しい月があつた。
春の月は「朧月」といふが、清らかに冴えた月も良いものである。
四月二十三日
惠みとや濕らすほどの春の雨 不忍
めぐみとや しめらすほどの はるのあめ
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初案は「濕る地の傘も要らずや春の雨」であつた。
いづれとも判定がつけられずに併記しようかとも思つたのだが、推敲した方の句を採用した。
いふまでもなく『春の雨』は、春の季節に降る雨の總稱(そうしよう)であるが、芭蕉の頃には「春雨」と區別してゐて、正月から二月初めに降る雨を『春の雨』と呼び、二月末からは「春雨」として用ゐられるとの事である。
『春の雨』は別に「暖雨(だんう)」とも稱するが、それに對して「春雨」は「膏雨(かうう)」といひ、「膏」とは「潤(うるほ)す」といふ意味で、農作物を育てる雨といふ「甘雨・慈雨」と同義語になるのだが、それに從へば今日の雨は「春雨」といふ事になる。
木曜日には大雨が降つて、激しい震度が幾度も續く災に見舞はれる九州では迷惑な雨だつた。
人や地域と場合によつては必ずしも惠みの雨とはならず、呪はしい災害の雨となつたりする。
手前勝手な人間中心主義だと言はれるかも知れないが、それによつて親(ちか)しい人が不幸に見舞はれたりすると考へただけで、その氣持も宜(むべ)なるかなといふものであらう。
夜の七時半から町會の寄合ひがあつて出かけたのだが、傘も要らない程の粉糠雨(こぬかあめ)であつた。
けれども、こんな雨でも震災で歸る家のない九州の人々にとつては、不安な思ひで空を見てゐるのだらう。
四月二十四日
はらはらと枝離れたり春の末 不忍
はらはらと えだはなれたり はるのすゑ
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初案は「花も枝を離れて」といふ言葉と「晩春」といふ心象(イメエヂ)が浮び上がつて、まだ形を成さなかつた。
「晩春」を詠むと、散つてしまつたとは言へ「花」は回避しなければ季重なりになるので、さうとは言はずに匂はすだけで留めておく事とした。
櫻の花も散り、他の木々と同じうして緑の葉をまとつてゐるのを目にする。
あと十日もすれば立夏となる。
四月二十五日
追ひかけた春の青さや光る海 不忍
おひかけた はるのあをさや ひかるうみ
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あれほど瑞々(みづみづ)しい若さに滿ち溢れてゐた肉體(にくたい)は、歳月を經(へ)て光も日々、蔭に覆はれるやうに力なく衰へて行く。
どれだけ追ひかけようとも光には追ひつけず、青春は晩年へと過ぎて行き、時間が殘酷なものである事を思ひ知らされて仕舞ふ。
けれども、辿りついた叡智(えいち)の海には、經驗(けいけん)と智識の輝きが蓄積されて自身の中に息づいてゐる筈である。
せめてそれを據所(よりどころ)として、次世代の指針となれるやうな使命感を持ちながら、殘された時間を過したいものである。
因みに、春は「青春」だが、「朱夏・白秋・玄冬」で四季は表現される。
四月二十六日
誰ぞかにされたき春の天赦の日 不忍
だれぞかに されたきはるの てんしやのひ
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どうやら人といふものは誰か他のものから、それも自信よりも上位の物から褒められたり、愚かな自分を許して貰ひたいものらしい。
そんな事をしたからと言つて、本當(ほんたう)にさうなるかは問題ではなく、心持を輕くしたいといふのが本心かも知れず、ひよつとすれば運良くさうなれればといふ打算も働くのかも知れない。
『天赦日(てんしやにち)』は暦註のひとつで、暦には「天しや」と表記され、百神が天に昇つて萬物の罪を赦(ゆる)す日とされてゐ、
「萬(よろづ)よし」
といふ萬事に障りなき大吉日であると言ひ、季節と日の干支で決まつて、立春から立夏の前日までの「戊寅の日」と、立夏から立秋の前日までの「甲午の日」、立秋から立冬の前日までの「戊申の日」と、立冬から立春の前日までの「甲子の日」といふやうに年に五、六囘あるのだといふ。
この日は何をするにも躊躇せずに事に當(あた)れ、更に『一粒萬倍日』などの吉日と重ならうものなら、寶籤(たからくじ)の購入だつて吉となるといふが、全員に當る譯の物でもない事で、所詮はその程度の氣休めでしかない事を露呈して仕舞つてゐる。
四月二十七日
雨風も春に守られ土手を往く 不忍
あめかぜも はるにまもられ どてをゆく
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初案は「雨風も春なればこそ漫(そぞ)ろ往く」であつたが、これが冬だつたらば、かうは行かないだらうといふ事が傳へ切れないと思はれたので改めた。
今日は日中の間は雨が降つてゐた。
日暮れになつて雨は上がつたものの、今度は暖簾が落ちるどころか、護美箱(ごみばこ)を吹飛ばしさうな程の強い風が吹いて來た。
夕暮とは言へ、春の景色は閑散とした冬の枯木の眺めとは違つて、土手の周りには樣々な草花が見られ、川からの風さへも温もりを感じさせてくれる。
生きものの季節と言へるだらう。
天は春を生み、春は我々を守つてゐるかのやうである。
四月二十八日
雨の重さや一足ごとに春の外 不忍
あめの おもさ や ひとあしごとに はるのそと
C♪♪♪ ♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「春の雨一足ごとに」とまでしか思ひ浮ばなかつた。
句意としては春も終り、夏が間近に迫つてゐるといふ事が傳へられればと思案してゐたのだが、うまく纏められなかつた。
そこでひと思ひに上句を中句と同じ七音になつてしまふが、「雨の重さや」と置いて見た。
字餘りは「あめの」と「おもさ」を三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))にする事で二拍となり、「や」の四分音符(†)とζ(四分休符)との二拍で四分の四拍子の一小節となるので、發句の拍子(リズム)としての問題は解決される事になる。
灰色の重苦しい冬を終へて春となり、やがてその春も背後に迫る夏に取つて代られる。
傘の柄に傳はる重さは春のものか、それとも半分は夏の重さも加はつてゐるのであらうか。
四月二十九日
假の世やこれが最後の春の陰 不忍
かりのよや これがさいごの はるのかげ
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
この句は初案は「假の世やこれが最後か春の陰」で、中句の「か」が切字となり、上句の「や」と合せると二つになつて仕舞ふから、直ぐに禁則を改めた上記とし、更に「春陰もこれが最後か常なき世」と推敲してみたものの、硬い感じがしたのでこれは捨てた。
『春陰』とは春の曇りがちな天候をいふが、實(じつ)は明るいと思はれてゐる春は曇り空が多く、「春愁」といふ物憂い氣配もよくそれを表してゐて、また「花曇」のやうな櫻の時期だけに限らず、春の全般に言はれる季語である。
ただ、『春陰』と「春の陰」とが同じ表現であるのかといふのは惱ましい所ではあるが、筆者の許容範圍として扱つてみたが、非難は甘んじて受ける心算(つもり)である。
昨日の雨の影響からか、雨を孕んだ曇り空から時折、思ひ出したやうに小雨が降つたりした。
無常な現世を稱して儚いこの世を『假の世』といふが、そこの住人として曇り空を眺めながら、これが今年の春の終りの『春陰』となるのだらうかと考へて仕舞つた。
四月三十日
荷風忌や斜めに見たる浮世草 不忍
かふうきや ななめにみたる うきよぐさ
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初案は「荷風忌や斜めに見たる世の姿」と凡庸なものであつたが、下五句を「浮世草」とする事で、一氣に際立つたやうに思つてゐる。
勿論、「浮世草」とは「浮世」と「浮草」を合せた筆者の造語で、この「浮世」と言はれる遣り切れない世間といふ荒波の中を、「浮草」のやうに漂つてゐる我が身を慮(おもんぱか)つての謂(い)ひである。
永井荷風(1879-1959)は小説や随筆の他に、漢詩や俳句も殘してゐるが、江戸情緒に心酔してゐたならば、せめて「發句(ほつく)」として貰ひたかつた。
反骨精神に溢れてゐたといふが、一九五二年に受賞した文化勲章は評價を下げたのではないかと筆者は思つてゐる。
五月一日
見えもせぬこの世の幸や貝櫓 不忍
みえもせぬ このよのさちや かひやぐら
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初案は「手に取れぬこの世の幸や蜃氣楼」であつた。
答へが出て仕舞つたが『貝櫓(かひやぐら)』とは「蜃楼」とも表記するが、よく知られてゐる「蜃氣楼」の事で、漢語よりも大和言葉の方が柔らかい事と、氣を衒ふといふ惡戯(いたづら)心も手傳つての句となつた。
「蜃氣楼」とは
「蜃楼(しんろう)・海市(かいし)・山市(さんし)・蜃市(しんし)・かひやぐら」
ともいふが、大氣の密度が異なる時に光が屈折して、物體が浮上がつて見えたり、逆さまに見える現象の事で、「蜃」といふ海に棲む大蛤が吐いた氣によつて空中に楼閣が現れると考へられた所からでも解るやうに、海上に見られる現象の時に言はれ、砂漠などの陸地で發生した場合は、
「喜見城(きけんじやう)・乾闥婆城(けんだつばじやう)・空中楼閣・きつねだね」
とか、
「陽炎・逃げ水」
といふ可きではないかと考へてゐるが、「蜃氣楼」で濟ましたからと言つて、間違つてゐると強辯(きやうべん)するきは毛頭ないし、筆者も遠慮なく使ふ心算(つもり)である。
初案の「手に取れぬ」上句を「見えもせぬ」としたには譯があつて、見えてゐる「蜃氣楼」でさへ手には攫(つか)めないのに、見えもしない幸せをどうして手にする事が出來ようか、といふ意識が働いたからに外ならない。
相も變らず理窟つぽい事であるが、この性癖は今更變へられさうもないやうである。
因みに、「つかむ」といふ漢字を「手偏」に「國」と使用したかつたが、正字は環境依存文字で文字化けをする可能性があつたりし、さりとて「掴」といふ簡略化された俗字なんぞをで表記するのも業腹なので、「把」か「攫」といふ文字を選擇するやうにしてゐる。
今日は夕方になつて天候は崩れたが、それまでは汗ばむ程の陽氣で、何處かに蜃氣楼が出現しても可笑しくはないやうに思はれた。
五月二日
鳴く鳥の聲さへ光りて見える夏 不忍
なくとりの こゑさへひかりて みえるなつ
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初案は「鳴く鳥の聲も光りて夏近し」であつたが「見える夏」と改め、「も」を「さへ」と字餘りにする事で春の終りを強調したかつた。
下五句の「見える夏」は季語としては夏でしかないやうに思はれるが、筆者としては春の季語である「夏近し」を心象(イメエヂ)して詠んだものである。
であるから「見えた」と過去形にせずに、せめて「見える」とする事でそれを示さうとしたのであるが、それと同時にこの句の背後に山や木蔭が見えたとすれば、その目的は達せられたものと考へてゐる。
五月三日
雨垂れや春も終りの暮の空
あまだれや はるもをはりの くれのそら
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今日は黄金週間(ゴオルデンウイイク)も終盤で憲法記念日の日である。
本來ならそこら邊(あた)りを句に詠む所だが、政治的な話題になりさうだから、今囘は回避する事にした。
暮方になつて雨模様の空から雨が降り出した。
あと一日を殘して春も終らうとしてゐる。
嚴密には『今日の一句』は一日遲れで發表してゐるので、明日からは夏となる。
五月四日
行く春や幾つちぎれん雲の果 不忍
ゆくはるや いくつちぎれん くものはて
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今年の春もつひに暮れ果てんとす。
成す可き事の餘りに多くして己が生涯は短く、感極まつて鳥の空行くを見守り、時に花に涙の如き雨を眺めん。
名さへ殘せず我が身滅(ほろ)べど、山河草木は後に續かん。
文才のなきが故に、唐代の詩人杜甫(712-770)による『春望』を借りて心情を吐露せば、春の別れにひと時を過ごさん。
註)「γは八分休符・†は四分音符・ζは四分休符 」の代用。
∫
參考資料
「精選版 日本国語大辞典(小学館)・広辞苑(岩波書店)」
「ウキペデイア・EX-wordから引用」
關聯記
Ⅰ.發句(ほつく)拍子(リズム)論 A Hokku poetry rhythm theory
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
一日一句の發句集『朱い夏(Zhu summer)』二〇一一年度(mixiのつぶやきとTwitterに發表)
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_05_01_archive.html
Hokku poetry “Zhu has summer” 發句集「夏朱く」
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/08/hokku-poetry-zhu-has-summer.html
Hokku poetry ” White autumn 發句集「白い秋」
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_08_01_archive.html
Hokku Anthology “springtime of life” 發句集『春青く』
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_06_01_archive.html
二〇一四年版の發句 冬の部
二〇一四年版の發句 秋の部
2015年 夏の句
http://www.miyukix.biz/?page_id=2784
2015年 春の句
http://www.miyukix.biz/?p=1603