近江不忍の「今日の一句」による 作品
二〇一六(2016)年
炎 夏
五月五日
そよぐ風光りし空に夏立つや 不忍
そよ ぐかぜ ひか り しそ らに なつたつや
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初案は「風も光りて夏立ちぬ」と上句を缺(か)いてゐ、次に「さやさやと」と上句を置いて「さやさやと風も光るや夏立ちぬ」と詠んで後に、「そよぐ風光りし空や夏立ちぬ」と變へてから最終案となつた。
切字の「かな」は多くは下句に附いて、上句には附かない。
逆に「や」といふ切字は上句や中句には附くが、下句に附く事は稀であるやうに思はれる。
この句でその端緒を開かうといふ意気込みがあつた譯ではないが、ただ、上句の「風」と中句の「光」で「風光」といふ熟語を感じさせやうといふ企(くはだ)ては祕かにあつた。
今日は天候にも惠まれ、氣持の良い夏の初めとなつた。
五月六日
通り雨も命の糧や青時雨 不忍
と ほ り あめも いのち のかてや あを しぐれ
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『青時雨』とは「青葉時雨」とも言ひ、本來は冬の初頭に降る時雨に「青」を冠して夏の季語としたもので、雨とは關係なく青葉の木立の葉に溜まつた雨水が水滴となつて落ちる現象を指す場合が多いけれども、別に青葉の頃に急に降り出した雨の事をもいふ。
立夏になつて直ぐに雨になるなんて、きつと鬱陶しいと思ふ人の方が多いのではないだらうか。
雨が好きな筆者にとつては氣にもならず、それどころか雨の聲を聞きながら、傘を差して表通りを往き來する人を店の中から倦(う)まず眺めてゐるが、今日の雨は降つたり止んだりと氣紛れである。
五月七日
曇り空になほ華やげる杜鵑花かな 不忍
く も り ぞらに なほはなやげる さつ きかな
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初案は「曇り空に華やぎ殘すや杜鵑花(さつき)かな」であつたが、「や」と「かな」の切字が二つになるので、「曇り空に華やぎ殘すや杜鵑花(とけんくわ)の」か、「曇り空に華やぎ殘す皐月(さつき)かな」とするも、最終案はかうなつた。
サツキは『杜鵑花』とか「皐月・五月」とも表記するが、正保二年(1645)に刊行されて「毛吹草」には「杜鵑花・皐月躑躅・五月躑躅」と書いて「さつきつつじ」として所出してゐる。
「皐月・五月」は五月に咲くからの謂(い)いであり、『杜鵑花』は「杜鵑(ほととぎす)」の鳴く頃の花だといふ事で、さう呼ばれてゐるのだといふ。
昨日の雨を受けて、雨は降らなかつたが晝(ひる)過ぎまで曇つてゐたものの、次第に天候は持直して陽が射し、夏らしい陽氣となつた。
五月八日
若き妣に捧ぐや白き麝香瞿麥 不忍
わかき ははに ささ ぐや しろき カアネ エシヨン
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五月の第二日曜日は母への勞(いたは)りと感謝を祝ふ『母の日』で、これは日本や亞米利加(アメリカ)、濠太剌利(オウストラリア)などの多くはさうであるが、世界的には樣々で、調べただけでも五月第一日曜日であつたり、五月最後の日曜日であつたり、
「二月第二日曜日・三月三日・三月八日・三月二十一日(春分)・四月七日・五月八日・五月十日・五月十五日・五月二十六日・五月三十日・八月十二日・八月十五日・十月第三日曜日・十一月十六日・十一月最終日曜日・十二月二十二日」
と日附であつたり、曜日であつたりと異なつてゐたりする。
日本では一九一三年に青山學院の女性宣教師達の働きかけで、『母の日』が定著(ていちやく)して行く切掛けをつくり、昭和六年(1931)には皇后の誕生日の三月六日(地久節)を『母の日』としたものの普及せず、その後昭和十二年(1937)の五月八日に開催されたりと紆餘曲折を經たが、その後、昭和二十四年(1949)頃から亜米利加に倣つて、現在の五月第二日曜日に行はれるやうになつたといふ。
その元になつたのは、基督(キリスト)暦の四旬節(レント)期間の第四日曜日(復活祭の三週間前)に祝はれる移動祝日の「マザリングサンデイ」で、十七世紀に奉公中の子供が教會で母親と面會する行事として始まつたとされる。
母の日にはカアネエシヨンを贈る習慣があるが、これは南北戰爭中にアン・ジヤアビスが、敵味方問はずに負傷兵の衛生状態を改善しようと女性を結束させて「母の仕事の日」と稱する活動をした。
それを受けて一八七〇年の亜米利加の南北戰爭終結直後に、女性參政權運動家ハウが夫や子供を戰場に送るのを絶對拒否しようと「母の日宣言」をし、ジヤアビスの死後二年を經た一九〇七年五月十二日に、その娘のアンナが亡き母親を偲んで、教會の記念會で白いカアネエシヨンを贈つたのが始まりと言はれてゐる。
また、白いカアネエシヨンは亡くなつた母へ贈るもので、普通は赤い色を母へ手渡すといふ。
因みに、『妣(はは)』は亡母の事で生前には「母」といふが、それに對して生前の「父」が亡くなるのを「考(かう)」といふ。
母は筆者が三歳の時に亡くなつてゐる。
五月九日
切取つた異空間なるか雨の薔薇 不忍
き り とつた い く う かんな るか あめのばら
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初案は「日常を切取つてゐる雨の薔薇」であつたが、これでは何にもならないので「日常をそこだけ外す雨の薔薇」と改めるも、更に「世の中の世捨人なるかな雨の薔薇」と詠んでから最終案となつた。
三月の末から奉仕(ボランテイア)で毎月二囘、將棋を指しに行つてゐる。
以前の發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』は、三月で人の集まりが惡いからと終了してしまつたので、仕切り直しといふところである。
發句教室はまた何處かで始めたいと思つてゐるが、要望が少ないので無理かも知れない。
世間での日常生活をしつかり押へながらも、個としての空間を維持して違和感なく暮して行けたらと心がけてゐる。
五月十日
殊更に語るも可笑し愛鳥日 不忍
こ と さ らに かたる も をかし あいて うび
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五月十日から一週間は『愛鳥週間(バアド・ウイイク)』である。
別に「愛鳥日」とも「鳥の日」とも言はれ、鳥類保護の運動の催しが行はれるが、その濫觴(らんしやう)は昭和二十二年(1947)に、國土の復興と山野の緑化運動を目的として始まり、當初(たうしよ)は四月十日だつたのが、三年後の昭和二十五年(1950)には現行の五月十日となつた。
人は忘れ易いものらしく、記念日を設けなければ納得といふか、安心が出來ないものらしい。
その最たるものが『結婚記念日』ではなからうか。
まるでその日がなければ、愛は繼續でもしないかのやうの祝はうとする。
だから惡いといふ譯のものではないが、愛を傳へるのに日常を以(もつ)てする思ひがあつてこその「記念日」ではないかと、要らざる愚痴をこぼしてしまふ。
五月十一日
笑ひから滴り變る山を見ん 不忍
わ らひから したた り かはる やま をみん
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初案は「笑ひから滴り變る眸には山」と、下句に「眸(め)=瞳」に映つた山を意識させるといふ凝(こ)つた表現をしたのだが、結局はごたごたしてゐると思つて改めた。
「山」にも四季の表情があつて、春は「山笑ふ」で、夏は「山滴(したた)る」となり、「山裝(よそほ)ふ」が秋ならば、「山眠る」が冬となる。
ここ二、三日は天候がすぐれなかつたので、文字通り小雨が降る中で山は「滴つて」ゐた。
この句、理に勝過ぎた嫌ひがあり、筆者にはかういふ傾向が強く、戒めとしなければならないとは考へてゐるのだが、この性癖は中々改められさうもない。
五月十二日
砂の中にあたるや初夏の潮干狩 不忍
すなの なかに あたるやしよ かの しほひがり
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初案は「砂の中に貝あり初夏の潮干狩」であつた。
また、「砂の中にあたりし初夏の淺蜊(あさり)かな」とも詠み替へたが、「言果(いひおほ)せて何かある」と芭蕉も言つたやうに、匂はせてそれと知らせるといふ事で、深みのある表現も可能である事を辨(わきま)へる可きではなからうかと思ひ、改める事とした。
中句に「初夏」としたのは、下句の「潮干狩」が春の季語だからで、それは「淺蜊(春)」の場合でも條件は同じである。
緑輝く山を背負いながら、淺瀬に足を浸(つ)けて温かな砂と海水と、氣持の良い潮風を受けて、各地から集まつた人に混じつて妻と一緒に貝を漁る。
この日、定休日を利用して兵庫懸の新舞子に潮干狩をし、その後は御津の料理旅館「櫓」で一泊する。
妻のそんな計畫(けいくわく)に乘つて、運轉手よろしく朝の八時前に車を走らせた。
明日は妻の實家(じつか)の美作へ、義母の見舞ひを兼ねて歸省する豫定である。
五月十三日
糶市や水に煌く陽を浴びて 不忍
せり いちや みづに きら めく ひを あびて
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昨日は新舞子で潮干狩をした後に料理旅館「櫓」を宿とし、翌朝六時過ぎに散歩がてら石見漁港の糶市(せりいち)を見學した。
若い時分に三年程、海苔問屋で勤めてゐた時に、海苔の糶に連れて行つて貰つた事はあつたが、魚の糶は初めての經驗だつたので、この歳になつても新鮮な氣分を味はへた。
朝食を濟ませてから部屋へ戻り、電視臺(テレビ)を見てゐる内にいつの間にかうとうとと眠つてしまつた。
うつかり布團に入るといふ怠け心が駄目だつたのだらう。
三十分程で目を覺ましてからひと風呂浴びたら九時半を過ぎてゐたので、頃も良しと宿を後にして「道の驛」で野菜とか新鮮な魚を購入した。
後は一路、妻の實家(じつか)の美作へと向ふだけである。
雲を置いて緑の山の輝けり 不忍
く も を おいて み どり のやま の かがやけり
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初案は「夏の雲置いて輝く山緑」であつたが、「緑」が夏の季語なので「夏の雲」の「夏」は不要であるから推敲した。
「緑」は「新緑」とか「緑さす」といふも同じで、初夏の「若葉」の「緑」もさしてゐる。
また別に「萬緑(ばんりよく)」といふ表現があるが、これは王安石(1021-1086)の、
「萬緑叢中紅一點、動人春色不須多」
が出典であると言はれてゐるものの、一説に別の作者のものだとも言はれ、「一點紅」は石榴を指すと言ひ、中村草田男(1901-1983)の句によつて季語として定著(ていちやく)したものだから、季語としては新しいものである。
ところで、美作の妻の實家(じつか)の直ぐ側まで來た時、
「あツ!」
と、運轉中に突然叫んでしまつた。
みゆきちやんが驚いて、どうしたのかと尋ねる。
不意に半袖の襯衣(シヤツ)を忘れてゐる事に氣がついたのだと筆者が答へると、同じやうに妻も聲を上げた。
結局、義姉の用意してくれてゐた晝食(ちうしよく)を戴き、退院したばかりの義母への挨拶もそこそこにしてその場を辭(じ)し、二時には御津へと車を走らせる破目に陷(おちい)つた。
シヤツだけならば送つてもらふといふ手もあつたのだが、携帶電話も胸の口袋(ポケツト)に入れた儘だつたので、取りに歸るより仕方がなかつた。
お蔭で夕方の五時までに店へ戻る筈だつたのが、著(つ)いた時には七時を廻つて仕舞ひ、すつかり暮れなずんでゐた。
五月十四日
滾るやうに内から出でし汗の玉 不忍
たぎ る やうに うち からいでし あせ のたま
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今日は何もせずにゐても汗ばむ程の陽氣であつた。
それにも況して、營業してゐる店はお好み燒屋である。
晝(ひる)間は土曜日だけあつて店は滿席であり、御負けに各洋卓(テエブル)の鐵板の火をつけてゐるものだから暑さも一入(ひとしほ)で、それぞれの御客樣の額には汗が光つてゐた。
けれども、まだ店は節電で冷房は作動してゐず、團扇(うちは)を一人づつ渡して我慢を強ひてゐる状態である。
もつと希望に滿ちたものが身體(からだ)の内から溢れてくれれば嬉しいのだが、まあ汗だつて健康の指標(バロメエタア)だと思へば、嫌がる程の事もなからうかと考へる事にしよう。
五月十五日
水風呂や疲れを溶かす夏忘れ 不忍
みづぶろや つかれを とかす なつわすれ
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初案は「水風呂や疲れをとかす家を得て」であつたが、上句の「水風呂」に夏の季語である「行水」と同じ意味には扱つてもらへず、已む無く下句に「納涼」として認められてゐる、
「朝涼み・夕涼み・門涼み・庭涼み・橋涼み・川涼み・舟涼み・涼み舟・涼み臺(だい)・縁涼み・磯涼み・宵涼み・夜涼み・涼み茶屋」
の外にも、
「清水むすぶ・いづみ・夏を忘る・夏の外なる・夏をよそに・夏しらぬ・夏なき・氷室」
といふ表現があるので、珍しからうろと思つてそこから採用しようと考へた。
今日は町内會の行事(イベント)で、神崎川の遊歩道を散策するといふ「スポオツハイク」の催しがあつたので、例によつて撮影班として随行した。
午前十時頃から高川小學校を出發して、神崎川の海岸べりにある遊歩道を二粁(キロ)の中間點と、四粁(キロ)の最終地點との行路(コオス)の二つが用意されてゐて、體力や體調(たいてう)に應じて選擇出來るやうになつてゐる。
晝(ひる)前には小學校に歸つて、全員が各班で調理をした料理を食べ歩いてゐた。
「咖喱(カレイ)・燒肉・おでん・燒鳥・手羽先・玉蜀黍」
等々が振舞はれ、無論、麥酒(ビイル)は言ふに及ばず、お茶や果汁飲料(ジユウス)などのソフトドリンクも拔かりなく常備されてゐる。
日燒けする程の天候に惠まれ、午後一時も過ぎる頃には無事に終了した。
餘りの暑さに、そのまま自宅で水風呂に入つて汗を流した。
五月十六日
先觸れか南から來る梅雨の入り 不忍
さ きぶれか みな みから く る つゆのいり
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先の初案後に「先觸れか南から來た梅雨の入り」と詠んでみたが、報道(ニユウス)によれば沖縄と奄美大島が梅雨入り宣言はしたものの、大坂はまだ入梅ではない事に氣がついて、「來る」と「來た」との差ではあつたがその儘とした。
夕方五時頃に階下の店に下りると、これでもかといふ程の篠突く雨が降つてゐて、それが十一時までも續いたのである。
本州での梅雨入りも間近となつた。
五月十七日
青空は昨日の雨の日和かな 不忍
あを ぞらは き のふの あめの ひ よ りかな
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天竺川の土手を散歩しながら、氣持の良い青空を眺めてゐたが、この空の青さは昨日にあれほど激しく降つた雨の所爲(せゐ)に違ひないと思つた。
發句(ほつく)には、通常の文章とは違つた獨自の省略法があるやうに思はれる。
それはこの句においてもさうで、
「この青空は昨日に雨が降つた所爲で、こんなに良い日和になつたのだ」
といふ表現が、「所爲で」といふ事を省略して、いきなり「日和かな」と結んでゐ、後はよろしくご理解下さいと讀者に放り投げてゐるのである。
かう云つた事は頻繁に生じるのであつて、決して珍しい事ではないのである。
にしても、暑さを押へる清々しい風に身を任せながら、穩やかな逍遥の時間を過ごす事が出來た。
関連記事
十八、『遊行柳』の句に就いて 『發句雑記』より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4637715&id=63792047
下記の發句の映像と同じ場所で撮影したものです。
五月十八日
分れ道に風に搖れてや姫女苑 不忍
わかれ みちに かぜにゆれてや ひめぢよをん
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『姫女菀(ひめじよをん)』はキク科ムカシヨモギ屬の植物で、初夏に高さが五十~百糎(センチメエトル)になり、道端でよく見かける雜草ではあるものの、可憐な白い花を咲かせる一年草である。
形は向日葵の雛型のやうで周りの花弁がとても細く、別に「犬娵菜(いぬよめな)」ともいふと辭書にある。
北亞米利加(アメリカ)原産で、歐羅巴(エウロツパ)や日本を含む亞細亞(アジア)に移入分布し、日本には一八六五年頃に導入され、明治時代には雜草となつてゐるものの、在來種の植物の生育に影響を與(あた)へる可能性が多いところから、七變化(ランタナ)と共に要注意外來生物に指定され、日本の侵略的外來種最惡(ワアスト)百にも選定されてゐるといふ。
今日から「ROUND1」の十柱戯(ボウリング)教室へ、妻と一緒に通ふ事になつた。
それが六囘の講習で二千圓(ゑん)とお得で、特典も歴史から基礎知識や健康の効果まで説明(レクチヤア)を受けられるのである。
更に、靴も無料な上に飲料奉仕(ドリンクサアビス)もあつて、午後二時から五時近くまでボウリング漬けであつた。
その道すがらに疏水があつて、市民のい憩ひの場として遊歩道が設けられてある。
分岐點に咲く花を見つけると、何だかほつとすると同時に、試されてゐるやうな氣になるのは筆者だけだらうか。
五月十九日
水打つてそれでも日蔭で風を待つ 不忍
みづう つて それで もひかげで かぜをまつ
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初案は「水打つてそれでも日蔭で夕涼み」であつたが、上句の「水打つて」が「打水」といふ夏の季語を意味するが、嚴密には「打水」と「水打つ」は同等とは呼べないものの、それでも「日蔭」も夏の季語であるから下句の「夕涼み」と季重なりとなるので思案の結果、かうなつた。
今日は午後から「箕面109シネマ」へ『殿、利息でござる!』を見てきた。
一週間ぶりに自宅へ歸つて緩(ゆつ)くり過ごしたが、鉢植ゑに水をやるついでに玄関前にも打水をして涼を味はふ。
五月二十日
小滿に足らぬは蚕の桑の音 不忍
せ うま んに たら ぬはかひこの く はのおと
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初案は「小滿に足らぬものあり桑の音」であつたが、意味不明なので改めた。
舊暦(きうれき)では四月内にある二十四節氣の第八の『小滿(せうまん)』は、この日から次の節氣の芒種前日までを言ひ、『暦便覧』に、
「萬万物盈滿(ばんぶつえいまん)すれば草木枝葉繁る」
と記されてゐ、萬物が成長して一定の大きさに達する頃を指す。
「盈滿の咎(とがめ)」
といつて、後漢書に曰く、物事が滿足りてゐる時は却つて災(わざは)ひが生じ易いから、榮華に驕り高ぶるなとの戒めをいふ。
昔は、といつても岡山の美作で農家に生れた妻に言はせれば、子供の頃には蚕棚があつて、蚕が桑を食べる音に圍まれて育つたといふのである。
五千年の歴史を持つと言はれる養蚕(やうさん)は、その繭からとれる絹の獨特な光澤に、多くの人から珍重されて來た。
けれども、近頃では蚕を扱ふ農家はめつきり減つて、さういふ光景にはお目にかかれなくなつて仕舞つた。
五月二十一日
樹々の聲かそれとも風の夏社 不忍
き ぎの こゑか それと も かぜの なつやしろ
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初案は「木の聲かそれとも風か鎭守かな」で、次に「木々の聲かそれとも風か鎭守かな」と「木」を複數形にし、それでも季語がないので最終案となつた。
この句の中句の「風の」の「の」に四分音符(†)を與(あた)へてゐるが、これは「聲か」を祕(ひそ)かに省略したもので、
「樹々の聲かそれとも風の聲か」
と問うて後(のち)に、
「人氣(ひとけ)もない夏の神社の景色である事よ」
と下五句へ續いてゐるのである。
ここにも省略の文學と言はれる、發句(ほつく)獨自の表現の世界が廣がつてゐるのである。
晝(ひる)過ぎに長島神社の鳥居の前を通ると、鬱蒼と繁つた幾本もの楠が風に葉を騷(ざわ)めかせてゐて、これは木々の聲か、それとも覆はれた葉が搖れる聲か、將又(はたまた)風の聲といふ可きかと、意味もない問答を自身に課してゐたのであつた。
五月二十二日
街燈を外れた露地に夏の霜 不忍
がい と うを はずれたろぢに なつの しも
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高島易斷の『九星本暦』によれば、今日は「望」とある。
「望」とは滿月の事であるが、外に出ると涼しげで綺麗な月が觀賞出來た。
夏の月には、
「月涼し・夏の霜」
といふ表現があるが、日中の暑さから解き放たれた感があるものの、一方で短夜の明け易く儚げな趣(おもむき)もある。
また、夏の夜に大地が月の光りで白々と霜を置いたやうに見える事を『夏の霜』といふが、出典は中唐の詩人白樂天こと白居易(772-846)の、
「月照平沙夏夜霜 月は平沙へいさを照らす 夏の夜の霜」
によつてゐる。
夜でさへ文明社會によつて、闇も明るく晒されてしまつたかのやうだが、それでも時として露地の隅などに文明の利器でも手に負へないやうな闇がふつと廣がつてゐる事がある。
『夏の霜』といふ季語には、短夜の夏の夜ゆゑに霜の如きすぐに消えて仕舞ふ哀れさと、人生も殘り少なくなつた老いの空しさを感じさせはしまいか。
五月二十三日
降りた鳩の聲も茹だるや日の盛 不忍
お りた は との こゑ も う だ るや ひの さかり
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直ぐ近くの介護施設に將棋を指しに行く事になつて、早くも七囘目となつた。
ただ一對一の指し合ひよりも、數人が集まつた發句(ほつく)教室の方がやり甲斐があるのだが、何もしないよりかは増しだらうと出掛けてゐる。
日中の一時半から三時までの約束だから、一時には店を出るやうにしてゐるのだが、今日の暑さは一入(ひとしほ)であつた。
北海道は連日三十度を超え、東京や大坂も同じく三十度を超える眞夏日で、自分の影さへ土瀝青(アスフアルト)の地面に溶け込みさうであつた。
途中で立止まつて、思はず空を見上げて汗を拭ひ、恨み言のひとつも言つてみたくならうといふものである。
對戰中に出されたお茶が冷たくて、その心遣(こころづかひ)が美味しかつた。
上記の映像と音楽は二〇一一年のものです
五月二十四日
夏萩の言はれて氣づく倹しさよ 不忍
なつはぎの いは れてきづく つま し さよ
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『夏萩』は「宮城野萩」とも言はれてゐるが、夏に咲く萩の全般を指し、
「南天萩・四葉萩・猫萩・野萩・めどはぎ・犬萩・藪萩」
などを言ひ、
「さみだれ萩・萩の繁(しげり)」ともいふ。
萩は元々秋の七草のひとつであり、「艸」に「秋」といふ會意による國字からも解るやうに秋の季節の花である。
落葉低木で年々太くなつて伸びる譯ではなく、先端はやや枝垂れて根本から毎年新芽が出、
「芽子・生芽(ハギ)・鹿鳴草(しかなきぐさ)・庭見草・鹿妻草・初見草」
とも言はれてゐる萩自體は、萬葉(まんえふ)の時代から日本人には親しまれた花で、控へ目で可憐ではあるが筆者はそれほど魅力を感じない。
變つた處では、中國の南西を原産地とする「部雲南萩(ウンナンハギ)」といふのがあつて、樹高は一~二米(メエトル)もあるので、よく知つてゐる落葉低木の萩とは思はれないが、それよりは見た目に華やかさが感ぜられる。
昨日の「Facebook」を見てゐたら、東光院で夏萩が見頃だとあつたので出かけて來た。
『萩の寺』として有名なこの寺へは以前にも出向いたことがあり、小ぢんまりとした寺の佇まひは好感が持てた。
暑さから逃れるやうに日蔭を選んで、小一時間ほども夏萩を眺めてゐた。
五月二十五日
望み通りに倒し切れない十柱戲 不忍
のぞみ どお り に たふし きれない ボウ リ ング
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今日は「ROUND1」の十柱戯(ボウリング)教室の二囘目で、雨模様だつたので妻と一緒に車で出掛けた。
長女が次女と越南(ベトナム)へ旅行に行つてゐるので、晝(ひる)の營業は休業する事にした。
今囘は午後二時から四時過ぎまでで濟んだが、前囘よりも參加者と打解けて和氣藹々とボウリングが出來たやうに思はれた。
このやうな球技にも人生が投影されでもしたかのやうに、中々思ひ通りには行かないものである。
因みに、球技を意味する場合は「ボウリング」と表記し、掘削を意味する場合と區別する爲に「ボオリング」と表記する事が多いのではないかと思はれる。
追記)
誰も氣がつかないやうだが、といふよりも筆者さへもうつかりしてゐて、店が終へて二階の階段を登りながら、突然、
「あツ」
と、初案の句に季語がない事に思ひ至つたのである。
そこで、
望み通りに倒し切れぬ夏十柱戲 不忍
のぞみ どおり に たふし きれぬ なつ
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ボウ リ ング
♪♪♪♪†ζ┃
と改める事とする。
夏は室内の方が冷房が効いてゐて過ごし易いが、それでもボウリングをしてゐると汗で手拭ひが必要となるほどである。
ところで、六〇年に垂(なんな)んとする發句との關はりがあるといふのに、どうしてそんな間の拔けた志儀に相成つて仕舞つたのかと言へば、二十六日の木曜日の午後二時から大腸癌内視鏡検診があつたので、氣がそちらへ向いて行つてしまつたからといふのがあつたやに思はれる。
うつかり八兵衛とでも改名しなければなるまい、と自身を戒めること頻りである。
五月二十六日
檢診の腸沁みて白雨かな 不忍
けんし んの はら わたし みて はく う かな
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市民豐中病院で、午後二時から大腸癌内視鏡檢診があつた。
去年の十二月からの予約であつたから殆ど忘れかけた頃に、錠劑や腸管洗滌劑を苦行のやうにして飮んで出かけた。
幼い頃に何日も飯が口に出來なかつた事を思へば、一、二食なくてもなんといふ事もない筈だが、習慣とは恐ろしいもので、二時に病院に著(つ)いて三時から手術臺で四十五分の内視鏡の檢査と、二つの細胞の切除を受けてからは、急に空腹感に襲はれた。
食事制限があつたので、麺麭と紅茶を輕く口にしながら車を走らせた。
夕方の五時過ぎに自宅へ歸つて來たら、ぽつりポツリと雨が降つて來た。
次第に激しくなつて、夕立といふのも憚られる程の降りとなつた。
『白雨』とは、
「夕立・俄雨」
の事であるが、その中でも特に、
「雲が薄明るい感じのする俄雨」
といふ意味合ひがあるやうだが、筆者は路面に叩きつけられた雨の激しさで跳ね返る樣が白く見えるからではないかと考へてゐる。
雨は日が暮れてからも降り續き、周圍をほの白く浮き立たせてゐた。
五月二十七日
俯いて貌を傾げん永良部百合 不忍
う つむいて かほをか しげん えらぶゆり
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『永良部百合』はその名の通り日本の南西諸島を原産とするが、一般に「テツポウユリ」と言はれ、辭書(じしよ)で調べても「テツポウユリ」はあるが『永良部百合』はなかつた。
百合は歐羅巴(エウロツパ)では聖母馬利亞(マリア)の象徴(シンボル)として古くから愛されて來たと言ふが、明治期に施福多(シイボルト・1796-1866)によつて歐米に廣まつて球根が日本から輸出されたといふ。
毎年この季節になると、『永良部百合』が沿道や花壇や庭先、玄關口の鉢植ゑなどに咲き亂(みだ)れる。
この地區では結構この花の栽培が盛んなやうで、咲いてゐる姿を見ると、俯いた憂ひを帶びた乙女が首を傾げながら俯いてゐるやうに見え、その氣品のある樣が邊(あた)りに清淨な空氣を漂はせる。
五月二十八日
降つて止む杖にする傘走り梅雨 不忍
ふつてやむ つゑにする かさ はし りつゆ
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今日は雨が一日中降つたり止んだりして、それも細かい雨がさうだつたから傘を差すほどでもなく、杖代りにする以外は手に餘つて、うつかり店などに立寄つたりすれば、下手をすると忘れてしまひ兼ねない。
『走り梅雨』とは、梅雨入りする前の露を思はせるやうな愚圖(ぐづ)ついた氣候を言ふが、關西はまだ梅雨入り宣言をされてゐない。
けれども、それももう間もなくで傘を手放せなくなるであらう。
五月二十九日
紫陽花や色をつけたり降る雨に 不忍
あぢ さゐや いろ をつけた り ふる あめに
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初案は「降る雨に色をつけたり紫陽花よ」であつたが、次に「雨に色をつけてくりやるか紫陽花よ」と變化(へんくわ)するも、倒置させて最終案となつた。
今日も先週に引續いて、十三にある映畫館の『第七藝術劇場』へ出かけた。
「マンガをはみだした男・赤塚不二夫」
といふ冨永昌敬監督の映畫(えいぐわ)を觀る爲であつた。
先週は、犬童一利監督の「つむぐもの」と、サミユエル・フラア監督の「ベエトオヴエン通りの死んだ鳩(1972)」との二作品を觀たが、本當(ほんたう)は今回觀ようとした映畫が目的で出かけたのであつたが、開催日を一週間も間違へてしまつた筆者の勘違ひによるものであつた。
知り合ひが赤塚不二夫の支持者(フアン)だつたので、觀に行かないかと誘つた側としては責任を感じて、不取敢(とりあへず) 「ベエトオヴエン通りの死んだ鳩(1972)」でも觀ようかと入場卷(チケツト)を購入してから、携帶電話でこの經緯(いきさつ)を謝罪しながら彼に告げた。
すると、それならば「つむぐもの」方が觀たかつたといふので、それならばと二作品も觀る羽目になつて仕舞つたのが先週での事であつた。
その前に、今年の四月九日に第七藝術劇場で、
『Behind “THE COVE”(ビハインド・ザ・コオヴ)』
を觀た事が、この映畫館へ通う切掛けとなつたのであるが、一般の處で上映される作品とは一線を劃した、反骨精神の現れででもあるやに思はれたので、應援(おうゑん)する意味も含めて會員となつたのである。
けれども、有體(ありてい)に言へば、今囘までの作品を觀る限りにおいては、失禮(しつれい)ながら玉石混交であるやうな感想を持つた。
透明で色のない雨が周圍(しうゐ)の色によつて變化するやうに、映畫だつて鑑賞する人によつてその評價は樣々であらう。
問題は、筆者がついて行けるかどうかだけなのかも知れない。
關聯記事
二〇一六年四月九日に第七藝術劇場で『Behind “THE COVE”(ビハインド・ザ・コオヴ)』を觀て
http://www.miyukix.biz/?page_id=6296
五月三十日
生れ來て攫むは虚空老いの夏 不忍
う ま れきて つかむは こくう おいのなつ
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初案は「生れ來て虚空を攫む老いの夏」であつたが、「攫(つか)」んだものは「虚空」だけであつたといふ感を傳へたかつたので、中句を倒置する事にした。
これまで筆者の年齡に實感をした事はなかつた。
それは肉體の衰へや、それと精神との乖離をも含めて、以前との違ひを見出す事は出來ず、更に「若い者にはまだまだ」といふ感覺さへも持つ事はなかつた。
けれども、一九四九年生れで六十七歳といふ現實と向き合ひ、その來し方を振返れば、果して何を成して來たのかと忸怩(ぢくぢ)たる思ひである。
晝食(ちうしよく)後に、ぽつねんと店の二階で坐して、そんな事を考へて仕舞つた。
五月三十一日
瓊花の紫ばかり浮きし庭 不忍
たま ばなの むら さき ばかり う き しには
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初案は「紫を庭に浮かせし瓊花よ」で、それから「瓊花の紫ばかり浮く垣根」と詠んで見てから最終案となつた。
『瓊花』とは紫陽花(あぢさゐ)の事で、別に、
「あづさゐ・片白草(かたしろぐさ)・四葩(よひら)の花・七變化・八仙花・刺繍花」
ともいふと辭書にあつたが、「片白草」については「半夏生」の別称であるとの説もあつた。
但し、七十二候の一つのそれではなく、ドクダミ科の多年草で水邊に咲く花の方の事であるいふまでもない。
『紫陽花』は落葉低木の一種で、原種は日本に自生する額紫陽花であるといふが、そこから變化(へんくわ)した、花序が球形ですべて装飾花となつて「手毬咲き」と呼ばれるやうになり、それが歐羅巴(エウロツパ)で品種改良されて西洋紫陽花 と呼ばれるやうになつたと言はれる。
紫陽花の語源は判然(はつきり)とせず、『萬葉集(まんえふしふ)』に「味狹藍・安治佐爲」、『和名類聚抄』に「阿豆佐爲」の字が宛てられてゐるとあり、藍色が集まつた「集眞藍(あづさい)」が訛つたものといふ説もあるとの事である。
古くは日本から中國へ傳はつてから歐羅巴へと持込まれたと言ひ、また阿蘭陀(オランダ)人と僞つて出島に滯在した、博物學者でもあり醫師でもあつた獨逸(ドイツ)人の施福多(シイボルト・1796-1866)が、歸還してからもう一人の植物學者と共著で『日本植物誌』を著したとの事である、
因みに、紫陽花は有毒植物である爲に利用の際には取扱ひには注意が肝要との事である。
六月一日
衣服干して空輝かす夏の風 不忍
いふ く ほ して そら かがやかす なつのかぜ
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初案は「日當りの布團干して空は輝やけり」であつたが、「布團干」が冬の季語であるばかりでなく、「輝く」感じが出ないので改めた。
物干しに洗濯物を太陽の光を吸込まうと空一杯に廣げる。
視界を遮つた空間を、夏の風が衣服をはためかせて青い空の輝きを見せてくれる。
その時、洗濯物も一緒に輝きを與へられたかのやうに空と一體(いつたい)となる。
六月二日
すつぽりと夏雲の中に姫路城 不忍
すつぽり と なつぐ もの なかに ひめ じじやう
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木曜日の定休日を利用して、姫路城へ行つて來た。
幸ひにも天候に惠まれ、そればかりか風も涼しさを運んでくれて、時間の關係で大手門までで城内には入場せず、天守閣から市街を眺める事は出來なかつたが、納得の行く城巡りであつた。
今日はもう一句あつて、それは姫路城の側の好古園で詠んだもので、曰く、
鯉跳ねて夏響かする好古園 不忍
こ ひはねて なつひびかする か う こゑん
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この句の初案は「鯉跳ねて音を傳へる波紋かな」で、次に「鯉跳ねて音の波あり好古園」と詠んで見たが、いづれも季語がないで最終案となつた。
ここへは改修以前に姫路城へ訪ねた時にも見學したので、感動は薄まつたかも知れないが、記憶の再確認といふ意味では知識も深まつたと思つてゐて、全體として氣持の良い旅行であつた。
六月三日
樂の音と陽射しを浴びて風薫る 不忍
がく のねと ひざし を あびて かぜかをる
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初案は「樂の音に月を落として風薫る」であつたが、「月」が秋の季語であるのと夜の雰圍氣(ふんゐき)が強くなるので、「樂の音に陽射し落として風薫る」と改めてから最終案となつた。
『風薫る』とは「薫風」の訓讀みから派生したと言はれ、當初(たうしよ)は和歌において春の風が花の香りを運んで來る事を指したが、俳諧では風薫る五月といふ心象(イメエヂ)から、青葉若葉を吹拔ける爽やかな初夏の風を意味するやうに變化(へんくわ)した。
また、里村紹巴(さとむらぜうは・1525-1602)の著(あらは)した連歌論書の『連歌至寶抄(しほうせう)』に、
「昔、琴を彈き候らへば風薫りたる」
とあり、別の一書に、
「六月に吹く涼風」
ともあるので、これらは舊暦(きうれき)であるから初夏ばかりとも言へないやうに思はれる。
といふのも、今年は新暦の六月五日の日曜日が舊暦(きうれき)の五月朔日(ついたち)となるからである。
店の休みが明けて、晝(ひる)前に自宅から店へ出向かうと、陽射しは眞夏の明るさを體現(たいげん)してゐながら、風は涼を誘つて肌に觸れ、秋の季語である「爽やか」さを身にまとはせんとするかのやうで、汗ばむ氣配さへ見せなかつた。
六月四日
晴間あるに三顧の禮か迎へ梅雨 不忍
はれま あるに さ んこ のれいか むかへつゆ
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五月二十七日に、梅雨入り前にそれを思はせるやうな氣候の「走り梅雨」の句を詠んでゐる。
『迎へ梅雨』とは「前梅雨・早梅雨」とも呼ばれ、梅雨を出迎へるやうに降る雨の謂(い)ひあるが、そのまま梅雨に傾(なだ)れ込んで仕舞ふ場合もあつたりする。
世間では雨は多くの人から好まれてはゐないやうで、況(ま)してそのじめじめとした陰氣な状態が何日も續けば、確かに人氣がないのも諒解出來ようといふものである。
けれども、雨好きの筆者にとつては梅雨の長雨であらうとも雨は雨であるから、それを厭(いと)はう筈もない。
諸葛亮孔明(181-234)を三顧の禮で迎へた劉備玄徳(161-223)のやうな心持で梅雨を待つ心境である。
因みに、辭書(じしよ)によれば「むかへづゆ」と發音が濁るのだが、筆者は斷固として「むかへつゆ」と清音で表記したい。
六月五日
時を得て手にする旅の芒種かな 不忍
と き をえて てにす るたびの ば うしゆかな
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『芒種(ばうしゆ)』とは二十四節氣の第九で次の「夏至」までを言ひ、『暦便覧』に、
「芒(のぎ)ある穀類、稼種する時なり」
と記されてゐて、植物の種を蒔く頃といふ意味である。
現在の種蒔きはこれよりも早く、妻の實家(じつか)の美作では田植さへ終(を)へたといふ。
種を蒔き、稔りを収穫するにも時期を逸してはならず、旅にも似た人の一生でも若き時分の學門の仕込みを得て後、それが成果となつて實(みの)りを齎(もたら)すのではないかと考へられる。
勿論『芒種』が毎年あるやうに、人として生きてある限り、勉學といふ種蒔きをする日々の精進を怠らないのが心得といふものでなからうか。
六月六日
福祉施設を訪ねて
癒し癒され梅雨の曇りに指す將棋 不忍
いや し いやさ れ つゆのく も り に
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さすしやうぎ
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福祉施設での發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』は、生徒數が定員割れしたので終了して仕舞つたが、今度は別の施設で將棋の相手を募集してゐたので出かけてゐる。
それも第一、第二月曜日の月二囘の對戰(たいせん)で、時間は一時間半強といつた處である。
『將棋(しやうぎ)』は西洋將棋(チエス)と同じうして印度(インド)が起源と考えられ、二人で行ふ盤上遊戲(ボオドゲエム)であり、當然(たうぜん)ながらこの場合は本將棋の事を指し、他との違ひは「持駒」の利用が獨自の特徴とされる。
今日は五囘目で一敗三勝の結果となつた。
いつも出かけて相手を癒してゐる心算(つもり)であつたが、よく考へれば年齡も十歳ぐらゐしか變らず、何の事はない、癒されてゐるのは筆者の方であつたと氣づかされる始末である。
六月七日
夏の夜に雨も上がつて庚申會 不忍
なつの よの あめ もあ がつて か う しんゑ
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『庚申會(かうしんゑ)』とは、干支(えと)の組合せの五十七番目の「庚申(かうしん・かのえさる)」の日に行はれる信仰で、別に「庚申講」若しくは「庚申待」とも呼ばれる。
干支(かんし・えと)は、
「甲(かふ・きのえ)・乙(おつ・きのと)・丙(へい・ひのえ)・丁(てい・ひのと)・戊(ぼ・つちのえ)・己(き・つちのと)・庚(かう・かのえ)・辛(しん・かのと)・壬(じん・みづのえ)・癸(き・みづのと)」
の十干を五行の、
「木(き)・火(ひ)・土(つち)・金(か)・水(づ)」
に當嵌(あては)めて、それに陰陽を表す「兄(え)・弟(と)」と、
「子(ね・し)・丑(うし・ちう)・寅(とら・いん)・卯(う・ばう)・辰(たつ・しん)・巳(み・し)・午(うま・ご)・未(ひつじ・び)・申(さる・しん)・酉(とり・いう)・戌(いぬ・じゆつ)・亥(い・がい)」
の十二支の六十通りの組合せが出來、これがそれぞれの生れの干支が一巡して還暦となる。
この日は夜に眠らず碁・詩歌・管絃に興じたり、仕舞ひには酒などの享樂的なものへと變貌(へんばう)を遂(と)げ行つたものと思はれる。
また、庚申の日は帝釋天の縁日であるが、庚申信仰では青面金剛と呼ばれる神體を本尊とし、「申(さる)」から猿田彦神とも結びついてゐるとも言はれる。
更に男女同衾をせず、無論婚姻を禁じて、この日結ばれて出來た子供は盗人になると恐れられたりする禁忌(きんき)因習もあるといふ。
この夜に眠らずに過ごすと言ふのは、筆者はもう何十年とそれを實踐(じつせん)してゐて、店が休みの時でも體調(たいてう)を考慮して深夜は起きてゐるので、謂(い)はば毎日が『庚申』のやうなものである。
六月八日
願掛けの如くに挑む十柱戯 不忍
がんかけの ごと くに いどむ ぼ う り んぐ
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初案は「願掛けの如く挑むや十柱戯」であつたが、中句の「や」といふ切字が重過ぎて停滯感を與(あた)へて仕舞ひ、投げた球がピンに届く距離が空きすぎるやに思はれるので改めた。
『十柱戯』が「ボウリング」の事であるとはすでに述べたが、この球技の歴史は古く、紀元前五千年頃の埃及(エヂプト)の墓から木で出來たボオルとピンが發掘されたと言ひ、すでにその頃からボウリングに似たものがあつたと推察される。
恐らく、ボウリングの起源は惡魔に見立てたピンを倒して災ひを避け、しかもそれを澤山倒す事が出來れば出來るほど災ひから逃れられるといふ宗教儀式ではなかつたかと考へられたやうである。
であるから、ピンを倒す數や竝べ方は時代や場所によつて實(じつ)に樣々で、それが中世になつてピン數を九本に統一して、しかも菱形に竝べたのが原型になつて「九柱戯(ナインボオル)」と呼ばれたと言ふ。
毎週水曜日の午後の十四時から二時間半のコオスで、六週分の6囘の「健康ボウリング教室」へ通つて、早や四囘目となつた。
「遊戯(ゲエム)代・」貸靴代・教材費・傷害保険料」
これらが込みで、なんと二千圓(ゑん)といふ安さである。
これまで縁のなかつた遊戯であつたが、すつかり嵌つてしまつた。
あと二囘でこのコオスは終了するが、靴も購入して續けて見ようかといふ氣になつてゐる。
六月九日
せせらぎや山を背にして花菖蒲 不忍
せせ らぎや やま をせにして はなしやうぶ
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店が休みなので妻の兄が入院した津山病院へ見舞ひに行つた。
これは一週間以上も前に決めていた事であつたから、普段は朝の五時まで店をするのだが、今日は三時で閉店して中國縱貫へむかつた。
朝の四時までに高速道路に乘ると割引があるからさうしたのであるが、寢てゐないので加西のサアビスエリアで九時まで睡眠を取つた。
目が覺めると雨が降つてゐた。
雨脚は激しくて、出かける前に豫定してゐた播州山崎花菖蒲園へ行くのは諦めようかと妻がいふのを、これはこれで風情があるからと立寄る事にした。
六陌(ヘクタアル)ある園内には、約千種百萬本の花菖蒲の他に菖蒲(あやめ)七十種二十萬本が觀賞出來るとの事である。
『花菖蒲(はなしやうぶ)』は日本で「ノハナシヤウブ」から獨自に改良された花で、アヤメ科アヤメ屬の多年草であるが、
系統を大別すると、
「江戸系・伊勢系・肥後系・長井系」
が知られ、戰國時代か江戸時代始めまでに栽培されたとされてゐる。
黒雲雨空も晴間を見せん花菖蒲 不忍
く ろ く もも はれま をみせん はなしやうぶ
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今日は舊暦(きうれき)の五月五日で昔ならば子供の日であつたのだが、この日の菖蒲湯に使はれる菖蒲はショウブ科(古くはサトイモ科)に分類される別種の植物である。
傘を片手に雨の中を一時間ばかり散策したが、次第に空が明るくなつて止む氣配を見せた。
けれども傘を手放すほどにはならず、十二時までには美作の義姉と義母の待つ實家(じつか)へ行くとの約束があつたので、ワイパアを動かしながら高速道路へ飛び乘つた。
降る雨が畝間を浸す夏畑 不忍
ふる あめが う ねまをひたす なつばたけ
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晝(ひる)前に田舎に著(つ)いても雨はまだかすかに降つてゐたが、傘などは邪魔になるぐらゐのか細いものであつた。
駐車場の横の畑には、それまで降つた雨の勢ひの證(あかし)ででもあるかのやうに、畝間(うねま)に沿つて長細い水溜りがあつた。
荷物を下ろす内に、到頭(たうとう)雨は薄暗い空を殘したまま止んでしまつた。
待ち望む藥は止んで仰ぐ空 不忍
ま ちのぞむ くす りはやんで あふ ぐそら
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『藥降る』といふ夏の季語がある。
陰暦五月五日を「藥日」といふが、その正午頃に降る雨を「神水」と言ひ、その雨水で醫藥を製すると効き目があると傳へられ、また翌年は五穀豊穣であるともされた。
晝食(ちうしよく)を終(を)へて、午後一時過ぎに津山の市民病院へ向ふ可く、妻の實家を後にした。
病室の手前の談話室に義兄がゐて、勝央町に住んでゐる義妹と一緒に笑顏で筆者達を迎へてくれた。
術後の經過(けいくわ)報告などを聞きながら、お約束の食事の味氣無さの歎きを受止めつつも、對處(たいしよ)のしようもないので頷くしかなかつた。
病院から歸ると父親の見舞ひに甥が長崎から歸つて來て、歡談をしながら夕食を濟ませて、そのまま夜になるまで近況を語りあつた。
田舎では珍しく夜の十時になつても話は彈(はづ)んだが、流石に明日の事も考へて歸り支度を始めた。
滿天の星を眺めながら、収穫した野菜をもらつて車に積込んでゐると、田植も濟んだ田圃の横の川から、幾つもの光るものが飛交つてゐるのが目についた。
空の星の如くに見ゆる螢かな 不忍
そら の ほしの ご と く にみゆる ほた るかな
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螢である。
それも生半可な數ではなく、邊(あた)り一面に飛交つてゐる。
これほどの螢は、ここ近年お目にかかつた事はなかつた。
流星と見紛ふ闇の螢かな 不忍
り う せいと みま がふやみの ほた るかな
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よく考へると、これまでは夕食前に歸路についたので、螢と出逢つた事がなかつたと氣がついた。
雨の後だからか、文字通り洗はれるやうな氣持で、暫し幻想的な情景の住人となつた。
この二句は似たやうな句境となつて仕舞つたが、筆者はいづれとも決め兼ねたので併記する事にして、その判斷を讀み手に委ねる事にした。
六月十日
時の日や生きた證は皺ばかり 不忍
と き のひや い きた あかし は し わばかり
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初案は「時を刻み生きた證(あかし)は皺ばかり」であつた。
毎年六月十日は日本の記念日の一つの『時の記念日』で、時間を嚴守して歐米竝みの生活の改善と合理化を日本國民に圖(はか)らうと一九二〇(大正九)年に制定された。
但し、記念日ではあるが祝日とはなつてゐない。
その濫觴(らんしやう)は六七一年の『日本書紀』に、
「置漏尅於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏尅。此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也」
とあり、天智天皇(てんじてんわう・626-671)が新しき臺(だい)に設置した漏尅(漏刻)が、始めて候時(こうじ)を打ち、鐘鼓(しようこ)を動して時を報せたのが始まりとされてゐる。
「(漏刻)」とは水時計の事である。
六月十一日
黄雀風凡夫なるまま死を待てり 不忍
くわうじや くふう ぼんぷ なるまま し をまてり
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初案は「黄雀風われ變(へん)じずして凡夫なり」と、聊(いささ)か弱気な發言の表現であると感じたので改めた。
『黄雀風(くわうじやくふう)』とは聞き慣れぬ言葉であるやに思はれるが、陰暦五月に吹く東南の風で、中國にこの濕氣(しつけ)を含んだ蒸し暑い風の吹くと、
「海魚變じて黄雀となる」
といふ俗説があり、「黄雀」とは雀の事である。
陰暦五月は梅雨の時期に當り、これを五月雨といつたが、太陽暦だと五月は梅雨にならなくて五月雨と呼べず、六月になつて梅雨時となり水無月と言はねばならない不都合が生じて仕舞つてゐる。
平凡に暮すのは理想と言へるかも知れないが、
「仙人、通力失せて忽ち」
と比較される『凡夫』と言はれるのは抵抗を感じて仕舞ふ。
けれども、宮澤賢治(1896-1933)の詩にもある、
「デクノボー(木偶の坊)」
と同等であると思へば納得出來なくもない。
現金なものである。
六月十二日
五月闇雨音白き土蹈まず 不忍
さつ きやみ あまお と しろき つちふまず
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『五月闇』とは梅雨時の頃の鬱蒼とした暗さを言ひ、連歌でも夜分を言はず晝眞(ひるま)の雲に覆はれた暗さをいふが、
一方で、暗い處から、「くら」にかかる枕詞(まくらことば)でもある。
また、五月雨の降る頃の月のない闇夜の事をも言ふが、それは芭蕉十哲の一人である森川許六(1656-1715)に、
「五月闇蓑に火のつく鵜舟かな」
といふのがあり、「鵜飼」が漁法としては觀光(くわんくわう)の一環とされる色合が強くなつて久しいが、篝火の中での漁獲するのであるから、この時期にはすでに夜であつた事が窺はれる。
但し、許六の句は「五月闇」と「鵜舟」の二つが季重なりとなつてゐる。
晝(ひる)過ぎから雨が降り出し、それが幾度も降つたり止んだりを繰り返して夜間にまで及んだ。
深夜の十二時に妻と交替して店を引繼ぐのだが、二階に上がる妻が階段の電氣を點(つ)けないので、入口からの燈(あか)りで暗闇に登つて行く土蹈まずが白く浮び上つた。
六月十三日
短夜の果ては輝く日の光 不忍
みじ かよの はて はかがや く ひの ひかり
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『短夜』とは夏の夜が短く明易(あけやす)い事を言ひ、
「短夜(たんや)・明易(あけやす)し・明けやす・明早(あけはや)し・明急ぐ」
とも言つて、春分の日から夜が晝(ひる)より短くなり、夏至で最も夜が短くなる。
「明急ぐ」が「死に急ぐ」といふ聯想を惹起させ、筆者は、
短夜や何とも命の痛みあり 不忍
といふ句を呼んでゐるが、また芭蕉に、
蛸壺やはかなき夢を夏の月 芭蕉
といふ句があつて、夏の夜の短さを蛸壺で夢見てゐながら、明ければ漁師に捕獲される蛸の命の儚さを言ひ得て妙である。
蛸と言へば明石で、明石の浦と言へば龝(あき)の寂しさを詠むのが旨とされてゐるところを、夏の夜の短さと蛸の諧謔性とが俳諧の眞骨頂となつてゐるやうに思はれる。
關聯記事
十五、空想の句の視點に就いて 『發句雑記』より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4637715&id=63350638
六月十四日
田の水も風に揺れてや早苗とり 不忍
たのみづも かぜにゆれてや さ なえとり
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妻の實家(じつか)の美作では一箇月も前に田植が終つてゐると言ふのに、こちらでは漸く田圃に苗が竝び終(を)へたところである。
『早苗(さなへ)』とは、苗代(なはしろ)から田へ植ゑかへる頃の稻の苗の事であるが、田舎ではおよそ三十×五十糎(センチ)の長方形の木枠を苗床にしてゐる。
今は機械化が進んで、あつといふ間に田植が終つてしまひ、田植歌も原動機(エンヂン)音に變つて情緒がないこと夥しい。
六月十五日
樂しいと思へるわが夏の十柱戯 不忍
たの しいと お もへ るわが なつの ぼ う り んぐ
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初案は「樂しいと思へる自分見つけん十柱戯」で、次にごたごたしてゐるので「樂しいと思へる自分がゐる十柱戯」と改めたが、季語の不足を補ふ爲に最終案となつた。
毎週水曜日に『健康ボウリング教室』へ通ふやうになつて五囘目となつた。
全六囘で終了だから殘すところあと一囘である。
次の最終日には、專用の靴を購入しようと考へてゐるが、このまま引續いて十五週目まで「ラウンド1」の倶樂部へ參加する事にした。
一週三ゲエムで千六百五十圓(ゑん)で、「ゲエム料金&管理費(千二百五十圓)+運営費(四百圓)」といふ内譯は許される範圍だと思へたからである。
これまでボウリングで遊んだのは十囘にも滿たない筆者であつたが、まさかこの歳になつて、續けて見ようなどとは思つてもみなかつた。
驚くこと頻りである。
六月十六日
あじさゐの雨にとかされ水溜り 不忍
あぢ さゐの あめに とかさ れ みづたまり
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初案は「あじさゐを雨にとかして水溜り」であつたが、これだと主語が作者か「雨」かそれとも「水溜り」なのかが不明で、あぢさゐの爲にならない、否(いな)、引立てんと改めた。
激しい雨が一日中降つてゐた。
公園の紫陽花も生き活きと咲いてゐたが、地面に水溜りが出來てゐて、そこにまるで雨に溶けて流れ込みでもしたやうに紫陽花が映つてゐた。
六月十七日
待ちわびる黄金も今は植田かな 不忍
まち わびる こがねも いま は う ゑたかな
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『植田』とは聞き慣れない熟語であるが、田植が終つたばかりの苗がまだ水面にやつと出てゐる状態の田圃を言ひ、初案は下五句に「早苗かな」とか「青田かな」と置いたが、「早苗」は苗代から田に植ゑ替へる時の言葉であり、「青田」は苗が伸びて田が青々としてゐる樣をいふので、これ以外に言ひ變への利かない表現であるやうに思はれる。
植ゑ殘された早苗
人は目的を設定してそれに向つて行動を起し、その爲に必要な知識や運動能力を高めて、心象鍛錬(イメエヂトレエニング)に勵(はげ)む。
四千二百五十七本といふ通算最多安打記録を達成した、イチロー鈴木一朗(1973-)こと「イチロー」でさへ屹度(きつと)さうしたに違ひないと確信してゐる。
ただ、この事についてひとつだけ言ひたいのだが、彼を日本人の誇りだと言ふ表現にはついて行けない。
彼はそんなものを背負つて野球などしてはゐない、と筆者には思はれてならない。
尤も、發句(ほつく)の出來不出來とは全く無關係の事ではあるのだが……。
合鴨農法なのか鴨がゐる
關聯記事
私流(わたくしりう)の野球の愉しみ方
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六月十八日
咲いてなほ立去られたる擬寶珠よ 不忍
さいて なほ たち さ られたる ぎば う しよ
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初案は「行く人に厭(いと)はれてなほ咲く擬寶珠(ぎぼじ)」であつたが流石に「厭はれ」るとは言ひ過ぎで、それほどに氣にもされてはゐない認識しかない存在と思はれ、「咲いてなほ立止まられぬ花擬寶珠」と詠むが、それでも納得出來ずに「咲いてなほ立去られたる花擬寶珠」と詠むものの最終案を捻り出す事となつた。
『擬寶珠』とは「ぎぼじ」とも「ぎばうし」とも言はれ、別に、
「擬寶珠の花・花擬寶珠・玉簪花(たまぎばうし)・高麗擬寶珠」
ともいふと辭書にあり、ユリ科の多年草で日本が原産地で、葉の形や蕾の形が橋の欄干にある擬寶珠に似てゐる事からの謂(い)ひである。
ただ、「ぎぼじ」といふ禍々しい濁音に美的感覚(エステテイツシユ)なものを認められないので、せめて下五句に「ぎばうし」に終助詞で詠嘆の意味のある「よ」を添へてみた次第である。
考へてみれば、誰もが英雄(ヒイロオ)になれる譯のものではなく、大抵は名も遺せずに歴史の淵に沈んでしまふ存在でしかないのである。
擬寶珠(ぎぼうし)を愛する所以(ゆゑん)である。
尤も、生きる目的が歴史に名を殘す事ではないと解つてみれば、どうといふ事もないといふ冷笑的(シニカル)な視線の自身がゐたりするのだが……。
六月十九日
兔や角と人に言はれてや櫻桃忌 不忍
とや かくと ひとに いはれ てや あう たうき
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初案は「兔や角と人に言はれん櫻桃忌」とすつきりとしたものであつた。
けれども、感情のごたごたした機微には「字餘り」でなければ傳へ切れない、と考へた結果が最終案となつた。
『櫻桃忌(あうたうき)』とは太宰治(1909-1948)の命日を言ひ、無頼派ともいはれた彼の最後に相應(ふさは)しく、この日は入水自殺した遺體(ゐたい)が發見された日で、奇しくも誕生日でもあつた事から彼を偲ぶ日となつたといふ。
年表を見てみると、女性關係では可成な酷い事もあつたやうだが、この日が『父の日』といふのも皮肉な巡り合せだと言へまいか。
父親としての對應(たいおう)には、筆者の育つた環境も影響してか、我が子とは雖(いへど)も愛情表現が上手く傳へ切れないので、太宰治に比しても大差はないが、のみならず、女性關係の方も彼ほどではないとはいへ、自慢出來たものではなかつた。
とは言へ、誰かに兔や角言はれるのは不愉快な事であらうかと思はれるが、況(ま)して還暦も過ぎて六十歳も後半にならうかといふ歳になつてまで、人の噂話の端に上つたり、言動や行動に對(たい)してかれこれ言はれるのは堪(たま)つたものではない。
飜(ひるがへ)つて、筆者自身が誰ぞに對してさういふ態度をとつてゐないかといふと、中々に惱ましいものがある。
存外に自分の嫌な事を周圍(しうゐ)に攻撃する事で防衛本能としてゐるのかも知れない事を思へば、自戒とするに如(し)くはない。
六月二十日
そぞろ行けば卯の花腐し裏長屋 不忍
そぞろ ゆけば う のはな くたし う ら ながや
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初案は「そぞろ行けば卯の花腐し京の街」と下五句が空想の句となつてゐた。
空想の句には二つの意味があつて、一つは文字通り想像した句であるが、いま一つは見えないものに思ひを致して表現する句の事であるが、この句は行きもしない「京都の街」を散策した氣分を詠んだ最初の方の空想の意味である。
けれども、これは餘りに酷いと考へて現實へと戻つてと詠む事とした。
『卯の花腐し』とは梅雨の雨で卯の花が朽ちてしまふといふ意味であるが、「卯の花」は陰暦四月の異稱(いしよう)であるから、初夏の句と思はれてゐるやうであるものの、五月雨に卯の花も散らされて仕舞ひ、文字通り「卯の花降(くだ)し」となつて、雨に似合ふ紫陽花にとつてかはられるのである。
從つて、和歌においては陰暦の五月に配される事が多いやうで、寛文四(1664)年の『三湖抄』に、
「四月の卯の花を、五月の雨にくたす心なり」
とある處からでも諒解(りやうかい)せられるのではなからうか。
とはいへ、こんにち多くの作家は初夏の句として扱つてゐるやうである。
心にまで黴(かび)が蔓延(はびこ)りさうな梅雨の長雨が續くのだらうか。
六月二十一日
季を問はぬ花よ紅黄花夏至る 不忍
き をと はぬ はなよ ら んたな なついたる
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初案は「季を問はぬ花よらんたな夏至盛り」であつたが、「夏至盛り」といふのが気に入らないので改めた。
『夏至(なついた)る』とは聞き慣れない言葉で、これは筆者の造語であり、いふまでもなく「夏至」の事であるが、納得されるかどうかは甚だ心許ない。
けれども、かういふ表現があつても良からうと考へてゐる。
『紅黄花』とは「七變化」とも表記し、「ランタナ」と讀むのだが、この花は中南米が原産で、開花時期がユキノシタ科の紫陽花と重なつて葉の形も似てゐるものの、クマツヅラ科の常緑小低木であるランタナとは全くの別種で全體(ぜんたい)的に小さく花の色は鮮やかである。
果實(くわじつ)は鳥が食べ種子を散布するのだが、黒い液果は有毒と言はれるものの、種子を噛み碎く可能性の強い哺乳類に比べ、鳥類には無毒と言はれてゐ、世界の侵略的外來種の最惡(ワアスト)百に選定されてゐる。
花はそれほどに愛らしいのに、歳時記にはいづれの季語にも屬してゐない。
といふのも、春から晩秋までといふ長い期間まで觀賞を許してくれるこの花に、季語で拘束するのは野暮といふものかも知れない。
その意味では、ランタナは自由な花なのであらうか。
因みに、「紅黄花」は兔も角「七變化」は、讀みが「あぢさゐ」と「ランタナ」との混同が生じる爲に、いづれかに統一するかすれば問題は解決されるものと思はれる。
六月二十二日
幕末の志士も興ぜし日や十柱戯 不忍
ばく まつの し しも きよう ぜ しひや ぼう り んぐ
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時は一八六一年、幕末の文久元年六月二十二日に長崎市の大浦居留地に日本初のボウリング場が開設された。
陰暦では五月十五日になるが、これを記念して日本ボウリング場協会は毎年この日を、
『ボウリングの日』
と制定し、その日限定で割引奉仕(サアビス)を行ふボウリング場もあるといふ。
奇(く)しくも「ROUND1」でボウリング教室へ通ひ始めて、今日が六囘目の最終日で、何の因果か偶然にもその日と同日となつた。
これから毎週水曜日に遊戯(ゲエム)に興じようとて、靴も購入したら、奇特な事にマイボオルを贈物(プレゼント)してくれると言ふ。
これで益々深みに嵌(はま)る事となつた。
處(ところ)で、當時(たうじ)が長崎に居留してゐた英国人の貿易商と交流のあつた坂本龍馬(1835-1867)が、日本人初のボウリングプレイヤアであるかも知れないといはれたりしてゐる。
我田引水は否めないであらう。
年寄りの冷水と言はれやうとも、身體(からだ)の動く限りは續けられればと思つてゐる。
最後に言へば、『ボウリングの日』は歳時記には記載されてゐないが、筆者としては頓著(とんちやく)する事無く夏の季として配して見た。
六月二十三日
言の葉を封じん沖縄慰靈の日 不忍
こ との はを ふう じ んおき なわ ゐれいのひ
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日は變つてしまつたが、昨日は『沖縄慰靈の日』であつた。
それは沖縄県が制定してゐる記念日で、一九四五年四月一日に亞米利加(アメリカ)軍の沖縄本島上陸で、本格的な戰鬪が開始された沖縄戰は、第三十二軍司令官の中將をはじめとする司令部が自決し、その組織的な戰鬪が終結した事に因んで、琉球政府及び沖縄懸が定めた記念日であるが、復歸前は住民の祝祭日に關(くわん)する立法に基づいた公休日とされ、一九七二年の本土復歸後は日本の法律が適用となり、『慰靈の日』は休日とはしての法的根據(こんきよ)を失ひ、一九九一年に沖縄懸の自治體が休日条例で休日と定めたので、再び正式な休日となつて、地方限定の公休日である爲に、振替休日なく、國の機關以外の役所や學校(がくかう)等は休みになるのだといふ。
その日が六月二十三日なのである。
この日には絲滿市摩文仁の平和祈念公園で、
「人類普遍の願ひである恆久の平和を希求する」
それと共に戰沒者の霊を慰める爲に、毎年沖縄全戰歿者追悼式が行なはれる。
當然(たうぜん)の事に歳時記には記載されてゐないが、筆者はそれに從ふ心算(つもり)はない。
六月二十四日
黒南風の暮れると見せて午後の雨 不忍
く ろは えの く れる とみせて ご ごのあめ
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『黒南風(くろはえ)』とは、梅雨の頃のどんよりと曇つた日に吹く南風の事をいふのであるが、正確には梅雨入りの頃といふ限定されたものであるともいふ。
元々「南風(はえ)」は西日本を中心にした漁師達に使はれてきた言葉だと言はれ、穩やかで船乘りに喜ばれる風として、真南から吹く風の事を「正南風(まはえ)」、南西の風を「南風西(はえにし)」と言ひ、さうかと思ふと梅雨始めの強い南風を『黒南風』、梅雨期間中の強い南風を「荒南風(あらはえ)、梅雨明けの場合には「白南風」と呼ぶといふとあり、白や黒は雲の色からの命名と考へられる。
歳時記には、『黒南風』を仲夏(六月六日~七月六日)の時期とし、「白南風」は晩夏(七月七日~八月七日)に配されてゐるといふ。
休日は自宅でのんびりと過ごし、休日明けは大抵、晝(ひる)前まで眠つてゐる。
十一時を過ぎた頃に目を覺(さ)まして地下の寢室から居間へ行くと、窓の外に見える空は暗くどんよりとした雲に覆(おほ)はれて、雨がいつ降り出しても可笑(をか)しくないやうな憂鬱な色合を示してゐて、夕方かと思はせるやうな錯覺(さくかく)に陷(おちい)つた。
見えてゐるものから總(すべ)てを判斷するのは考へものであるには違ひないが、だからといつて直ぐにそれに對應(たいおう)出來るといふ譯のものでもない。
注意深く觀察をする癖を身につけておかねばならない所以(ゆゑん)であらう。
けれども、日中でありながら夕暮のやうなこんな倦怠感(アンニユイ)な氣分を誘ふ天候が、筆者は嫌ひではない。
雨は、時に激しく降るかと思ふと急に止んだりし、また降り出すといふ事を一日中繰返してゐる。
六月二十五日
降り止んで黒雲のなか梅雨の月 不忍
ふり やんで く ろ く も のなか つゆのつき
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初案は「黒雲を殘して雨後の夏の月」で、次に「殘された黒雲の中雨後の月」と變化してから最終案となつた。
昨日の激しい雨から多少はおさまつたとはいへ、降つたり止んだりの一日であつた。
氣がつくと深夜になつて雨はすつかり上がつてゐたが、雨を孕んだ黒い雲に隱れるやうにして月がほの見えた。
晝間(ひるま)でも夜であらうとも、雲に覆はれた空に月が見えなかつたとしても、それが月の出の時であるならば、雲の上にはその存在はしつかりと認められるのである。
六月二十六日
ゆふぐれを闇から救ふ白雨かな 不忍
ゆふ ぐれを やみからす くふ は く う かな
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これについては幾度も述べたが、『白雨(はくう)』とは別に、
「驟雨・村雨・白雨(しらさめ)・夕立・俄雨」
といふ事でも解るやうに、夕暮になつて急に激しく降り出す雨の事である。
地面を叩きつけるやうな雨が、夏の夕暮れ時の景色を白く染めて行き、雨が上がるころには蒸し暑かつた空氣も涼しさに覆はれる。
そんな爽やかさを呼込むものを『白雨』と表現する感覺には感心させられてしまふ。
それがこのところ梅雨のお蔭で頻繁にお目にかかれて、とても気に入つてゐる。
氣に入らないのは、『白雨』が夕立の事をいふのだから、この上句の「ゆふぐれを」は不要で、『白雨』と重複(ちようふく)するのだといふ事であるが、かと云つて「黄昏」と置くのも違ふやうな氣がする。
であるから、ここは宿題といふ事で不取敢(とりあへず)この儘(まま)とするが、この宿題は永遠に忘れ去られる可能性の方が強いやうに思はれる。
ところで、この「ゆふぐれを」は「夕暮」を擬人化した謂(い)ひであるが、勿論、救はれたのは筆者自身であつたのはいふまでもない。
ただ、言ひ忘れたが「俄雨」だけは夕立には限らない、と斷わつておかねばならない。
六月二十七日
まるで天がこらへ切れずに梅雨青し 不忍
ま るで そらが こらへ きれずに つゆあをし
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初案は「まるで天がこらへ切れぬやうに梅雨青し」であつたが、中句の最後の助詞の「に」を「か」とするか「や」とするかとも考へたが、結局は最終案となつた。
『青梅雨』といふ季語があり、これは梅雨の異稱(いしよう)でもある。
この言葉は、この時期にそれまで陽の光を浴びた青々とした木々が、降り續く雨に緑を濃くするやうに洗はれる樣子を指したものである。
ただ、木々に溜まつた雨がその下を通過する時に滴り落ちる場合にも、この言葉を使用するのも有りのやうに考へてゐる。
第一、浪漫的(ロマンチツク)ではないか。
雨は、今日も旅人のやうに遙か彼方から降つてゐる。
六月二十八日
夜に獨り店にもの憂さ梅雨が呼ぶ 不忍
よ るに ひ とり みせに もの う さ つゆ がよぶ
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初案は「人氣なき店に物憂さ雨が呼び」と、無季であつた。
斷つておくが、「ひとけ」で「にんき」ではない。
尤も、變人の筆者がゐるお好み燒の店に「にんき」がある、と大見得を切る氣はない。
梅雨の時期に限らず、雨の日は客商賣にとつては厄日といふのは、何處も似たやうなものではないだらうか。
けれども雨の好きな筆者にとつては、多くの人が敬遠するこの雨による憂鬱ささへも、愛玩するやうにその時間を堪能して仕舞ふ。
降つたり止んだりの梅雨が、今日も大氣に廣がつてゐる。
六月二十九日
生きるとは汗の玉の汗する十柱戯 不忍
いき るとは たま のあせする ぼ う り んぐ
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初案は「生きるとは取敢へず夏の汗の玉」と「夏」と「汗」の季重なりであつたので改めた。
運動不足解消の爲に、毎週水曜日に十柱戯(ボウリング)へ行く習慣(しふくわん)を自らに課してゐるが、人の一生が種の保存の爲だけであれば、七十年といふ生存期間は不要であらう。
命を引繼(バトンタツチ)するだけであるならば、生殖反應(はんおう)の最も充實してゐる二十代で生を終(を)へても、何ら問題はないやうに思はれる。
生きるとは何なのかと、筆者には分不相應に大上段に振りかぶつてしまふが、生きるとは自意識によるよらないに拘らず、反應するといふ事であると結論づけて仕舞ふ。
また無反應の反應といふ意識して反應に應じない場合も有得て、思索する愉しみも與(あた)へられて倦(う)むことはない。
而(しかう)して、その後に存(ながら)へた命を愉しむ爲には遊びに興ずる外はないと諒解し、趣味に身を委ねる事を誰に氣兼ねのしようがあるといふのだらうか、ち開き直つて仕舞ふのである。
六月三十日
曇天に雨を戀ふるか蛙鳴く 不忍
どんて んに あめ をこ ふる か かはづなく
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初案は「曇り空に雨を戀ふるか蛙鳴く」と、上句が六音の字餘りであるばかりでなく大和言葉であつたが、發句(ほつく)らしさを出したかつたので俳言(はいごん)を用ゐる事にした。
俳言とは、和歌や正式な連歌に使はれない俗語や漢語の事である。
第一、「曇り空」といふよりも「曇天」と言つた方が重く壓(お)し込められた大地を心象(イメエヂ)し易からうといふものである。
休日の朝五時に店を閉めて、晝前(ひるまへ)まで店の二囘で休憩をしてから自宅へ歸つた。
歸り道、この地域にはまだまだ田圃や畑が殘つてゐて、嬉しい事に蛙の鳴き聲に遭遇した。
ぽつぽつとした雨が降つたかと思ふと急に止んだりして、後には灰色の重苦しい曇り空だけが、まるで大河のやうにどんよりと淀んでゐた。
七月一日
草を忌み蛸を喰らふや半夏生 不忍
く さ をいみ たこ を く らふや はんげしやう
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半夏生(はんげしやう)は七十二候の一つで、半夏ともいはれるサトイモ科の多年草である「烏柄杓(からすびしやく)」といふ惡阻(つはり)の妙藥が生える頃であるからとか、また、半夏生の別稱ともいひ「片白草(かたしろぐさ)」といふ草の葉が、その名の通り半分白くなつて化粧してゐるやうになる頃だからとも言はれてゐる。
この頃に降る雨を「半夏雨(はんげあめ)・半夏水(はんげみづ)」と言つて、大雨になる事が多く、この日は天から毒氣が降るので井戸に蓋をしてそれを防いだり、この日に採つた野菜を食べるのは禁じられてゐるのだといふ。
習慣(しふくわん)として、この日は蛸を食べたり、鯖を振舞ふ地方や讃岐では饂飩(うどん)を食べたりするといふ。
これらの食べ物を選んだのには、こじつけと思はれるものもあるかも知れないとは言へ、それなりの尤もな理由があるのだらう。
兔角(とかく)、人は驗(げん)を擔(かつ)いで無事たらんと願ふ性(さが)があるやうである。
と、澄ました顏をしてゐるものの、ちやつかりと筆者も舌鼓を打つたりしてゐるのであるが……。
七月二日
心騒ぐ山が産出すか雲の峰 不忍
こ こ ろ さ わぐ やま がう み だすか く ものみね
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『雲の峰』とは入道雲を聳え立つ山に見立てた表現で、別に、
「積亂雲(せきらんうん)・雷雲・鐵鈷雲(かなとこぐも)・峰雲」
な どといふが、各地でも、
「坂東太郎・信濃太郎・石見(いはみ)太郎・安達太郎」
と、それぞれその土地の愛稱で呼ばれてゐる。
特に京都では、
「丹波太郎・山城次郎・比叡三郎」
と揃ひ蹈みをする。
天竺側の堤防から上流を眺めると、遠くの箕面連山から入道雲が立昇つてゐた。
毎月第一土曜日はカラオケ・ライヴハウスの「トミー」で、個人のライヴが開催されるのを撮影に出かけてゐる。
といつても、一時間だけのライブであるが、午後二時から三時までの拘束を強ひられる事に變りはない。
それが苦痛といふのではなく、珈琲やお菓子の差入れを頬張りながら愉しんでお附合ひをしてゐる。
このところ、第一第三の月曜日には將棋の相手・町内會の様々な撮影・更に朗讀を依頼されたりして、身邊(しんぺん)騷がしい事この上ないが、人樣から相手にされてゐるだけでも有難いと感謝してゐる。
ただ、その間は店をみゆきちやんに任せつ切りであるのは、申し譯がないと殊勝にも心で手を合せてゐる。
ホンマかいな。
七月三日
人知れず夏を濕らす夜の雨 不忍
ひと しれず なつ をし めらす よ るのあめ
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どうにかなるのではないかと思はれる程の日中の暑さであつた。
それが夜中になつて、恐らくは誰も氣がついてはゐないのではないかと思はれるやうな雨が、こつそりと降つた。
地面を濡らしたやうな痕跡も殘さず、涼を呼ぶ事もない儘(まま)に祕かに立去つて行つた。
この後、若しかしたら本降りとなつて梅雨である事を自覺するのかも知れないが、それまではどうにもならない暑さと向合(むきあは)ねばならないのである。
七月四日
車椅子の人に癒される夏本將棋 不忍
く る ま いすの ひと に いや される なつ
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ほんしやうぎ
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『將棋』は將棋盤に配置した駒を挾んだ二人が相對して、交互に動かして勝負を競ふ室内遊戯のひとつで、
「象棋・象戯」
とも表記される。
發祥は印度で起つたといはれ、日本には遣唐使や入唐僧などによつて中國から傳來(でんらい)したといふいふが、
「大將棋・中將棋・小將棋」
があつて、現在の『將棋』は「小將棋」に「中將棋」の飛車角を加へたものから發達したといひ、西洋將棋(チエス)との違ひは相手から奪つた駒を、自軍の持駒として利用が可能な事を特徴としてゐる。
「とよなか地域ささえ愛(原文の儘)」
といふ奉仕(ボランテイア)活動に登録してゐる関係で、毎月第一、第二月曜日の午後から介護施設へ將棋の相手を二時間弱ほど指しに行つてゐる。
一年ほど續けた發句(ほつく)教室『鳰(にほ)の會(くわい)』が終了したので、新たに聲をかけられたのが本將棋の對戰相手であつた。
また、別の地區の施設で朗讀の要請もあつたのだが、一度予行演習に出かけた結果は沙汰待ちとなつてゐる。
これらの活動は、實(じつ)は筆者自身が癒されてゐるのではないかと思ふほど、とても貴重な時間であるやうに感ぜられるのである。
七月五日
けふこそは茶を啜るなり榮西忌 不忍
けふこ そは ちやをすする なり やう さいき
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『榮西(1141-1215)』は一般に「えいさい」と呼ばれてゐるがそれは通名で、「やうさい(Yousai)」が正しいとの事である。
言ふまでもなく臨濟宗の開祖にして、貴族階級や僧侶などの限られた人々だけの飲物だつたお茶を、日本で初めての茶の専門書である「喫茶養生記」で、お茶の効能を説き、健康飲料として知らしめた人物で「茶祖」として有名である。
けれども、この句は何にでも言へると言ふ卑怯この上ない出來で、「振る振れる」といふ觀點(くわんてん)からは、苦情が出ても文句は言へない。
關聯記事
二十二、「行春を近江の人と惜しみける」の句に於ける『振る・振れる』の問題 『發句雜記』より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4637715&id=74626489
七月六日
柵の呪縛の夏か十柱戯 不忍
し がらみの じゆばく のなつか ぼ う り んぐ
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『十柱戯(ボウリング)』に毎週水曜日に行くやうになつて、日に日に上手くならなければならない筈なのに、ますます點數(てんすう)が落ちて來てゐる。
恐らく身體(からだ)で覺え込まうとせずに、頭で考へて仕舞つてゐるので、心と肉體とがバラバラになつてゐるに違ひない。
元は健康面から初めようとしたボウリングであつたが、投げてみると嵌(はま)つてしまつて、續けませんかとボウリング場の人から勸誘されると斷り切れずに繼續する事になつた。
ひとつには二千五百圓(ゑん)で毎週六囘ものお得な遊戯(ゲエム)料金の魅力に負けて、このまま止めてしまふのは申し譯ないといふ氣持と、勿論、この愉しみを斷切(たちき)るには忍びないといふ、もうひとつの思ひとが相俟(あひま)つての事ではあつたのだが、取不敢(とりあへず)今年の十一月までは毎週出かけようかと考へてはゐる。
紀元前五千年頃の古代埃及(エヂプト)の墓から木で出來たボウルとピンが發掘されたといふ程の歴史を持つボウリングは、元來(ぐわんらい)、惡魔に見立てたピンを倒(たふ)す事で、それから逃れる爲の宗教儀式であつた節が窺へる。
『柵(しがらみ)』とは水流を塞(せ)き止める爲に杭を打ち竝べて、それに柴や竹などを絡みつけたものの事で、轉じて、柵(さく)または塞き止めるものとか、まとひついて束縛するものといふ意味が生じた。
人は見返りを意識したり、また恩を受けたりしたやうな時には、その相手から頼まれ事をされると斷りづらいものである。
さういつたものからの解放といふ意味でも、ピンを倒すといふ行爲(かうゐ)には精神衛生上も好都合(かうつがふ)であるといへるだらう。
尤も、そこそこの點數が得られなければ、却つて落込んで氣分が滅入つてしまふかも知れないが……。
ところで、毎年六月二十二日は『ボウリングの日』だといふ事だが、殘念なことに歳時記には採用されてゐないので、この際に夏の季語として扱つてはどうかと提案したい。
七月七日
届かぬと知りつつ願ふ星祭 不忍
と ど かぬと し り つつねがふ ほ しま つり
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『星祭』とはいふまでもなく「七夕」の事である。
五節句の一つである「七夕」は「たなばた・しちせき」とも讀み、別に「棚機」とも書いて「たなばた」讀むが、前漢の頃に采女が七月七日に七針に糸を通すといふ『乞巧奠(きかうでん)』の風習と相俟(あひま)つて、織姫と牽牛が會合する夜といはれるやうになつた。
一説に、織女は天帝の子として機(はた)を動かす勞役(らうえき)につき、雲錦の天衣を織る忙しさに容貌を整はる暇もなく、獨り淋しく暮すのを憐れんで河西の牽牛郎に嫁す事を許すが、結婚してからはあまりの幸せに機織りを止めてしまつたので、天帝が怒つて河東に歸るやうに命じ、一年一度だけ逢ふことを許されたのだといふが、また、この中國の行事であつた「七夕」は日本へは奈良時代に傳はり、日本の棚機津女(たなばたつめ)の傳説と合さつて生まれたともいはれてゐる。
この日、短冊に願ひ事を書いて葉竹に飾ることが習慣となつてゐるが、これは江戸時代に夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹によるものといはれてゐて、日本獨自の風習であるといふ。
短冊の五色は五行説の、
「緑・紅・黄・白・黒」
に因んでゐるが、書かれる願ひ事は「乞巧奠」が技藝の上達を祈る祭である爲に、基本的にはそれらに關した事にする可きなのであらうが、多くは個人の幸福に纏はるものや「世界平和」などといふものまで書かれたりしてゐるやうである。
因みに「七夕」の日である七月七日は、本來は舊暦(きうれき)であるから季語としては秋の部になる。
七月八日
來ぬ人をましてや雨の夏の夜 不忍
こぬひ とを ま してやあめの なつの よる
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初案の後に「人戀しましてや雨の夏の夜」と詠んで見たが、「人戀し」とは言ひ過ぎであるやうに思はれ、松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)の、
「言ひ果(おほ)せて何か有る」
といふ言葉に引掛かつて、初案の儘とした。
ただ、この句の場合は「人戀し」でも問題はないやうに思はれたが、さうなると「戀の句」といふ傾向が強調され過ぎないかと氣にかかる。
無論、初案の場合でもさういふ氣分はほの見えるが、もう少し曖昧さがふんはりと漂つてゐるのではないかと感ぜられるのであるが……。
「遣らずの雨」
といふ言葉があるが、歸さない爲に足止めをする雨とは逆に、足を向けさせない、
「通はせずの雨」
といふものがあるのかも知れない。
晝(ひる)過ぎから降り出した雨は、深夜になつても止む樣子がなく、誰もゐなくなつた店の中にまで雨の音を滿たしてゐるかのやうである。
七月九日
鬼燈の音くぐもつて遠き日や 不忍
ほほづきの おと く ぐ も つて と ほき ひや
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
初案は「遠き日のくぐもる音の鬼燈よ」であつた。
『鬼燈(ほほづき)』は「酸漿」とも表記し、「ぬかづき」ともいふナス科ホホヅキ屬の多年草である。
といつても辭書(じしよ)で調べた事を書いてゐるだけなのだが、東南アジアを原産地として六月から七月頃に淡い黄色の花を咲かせ、この開花時期に合せて各地で「ほほづき市」が催される。
特に七月初旬に開催される東京淺草寺の市は江戸時代から續く有名なものである。
『鬼燈』は食用や藥用としても知られてゐるものの、ナス科系の植物の特徴として例に漏れず、全草に微量のアルカロイドが含まれてゐて腹痛が起きる事があり、特に地下莖及び根は酸漿根(さんしやうこん)といはれ、その部分には子宮の緊縮作用があるヒストニンが含まれており、妊婦が服用すると流産の恐れがあるので禁物であるといふ。
中でも、青ほおずきは解熱劑や婦人の胎熱に特効があると言はれ、山東京伝の『蜘蛛の糸巻』によれば、愛宕権現の霊夢を見た使用人が、青ほほづきの實(み)を愛宕の神前で鵜呑みにすると疳の蟲を封じるとのお告げがあり、
「御夢想の蟲藥」
として効能も灼(あらたか)と稱されて、青ほおずきの市が境内に立つようになつたとあるが、それがいつしか愛宕より淺草の方が盛大になつたのだといふ。
變つたところでは、萼(がく)に包まれた鬼燈の果實を死者の霊を導く提灯に見立てて、枝つきで精靈棚に飾るお盆の日本の佛教習俗のひとつとしても知られてゐる。
筆者が子供の時分には果實(くわじつ)を口に含んで音を鳴らす遊びに使はれてゐたが、近頃はあまり聞かなくなつた。
句作に困つた時に、歳時記がはりに筆者が愛用してゐる高島易斷『九星本暦』によれば、淺草のほほづき市だとあつたので、思はず子供の頃を思ひだして一句をものにした。
さういへば、中學生の頃に『虹と鬼燈』といふ作品を作詞作曲した事を思ひだしたが、いづれ發表出來る機會があればさうしたいと考へてゐる。
その昔、口に含んで鳴らした『鬼燈』の音は、口から體内へ響くと同時に、空にまで届きさうな悲しげな色を滲ませさうに思はれたものである。
序(つい)でにいへば『鬼燈』は秋の季語である。
まだ夏なのに……。
七月十日
添へものと分を辨へる辣薤かな 不忍
そへも のと ぶをわき まへる らつきよかな
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪ ♪ ♪ †ζ┃
實(み)がない事を繰返す比喩として、
「辣薤・韮・韭(らつきよう)の皮を剥(む)く」
といはれて、餘り良い意味では使はれない辣薤であるが、「辣韮・辣韭」とも或いは「薤」と書くだけでも「らつきよう」と讀む。
中國原産のユリ科の多年生作物である「辣薤」は、秋に花莖を出してその先に紫の花を咲かせ、冬を越してから夏になると地下に臭氣のある紡錘系の鱗莖をつける。
別に「おほにら」とか「さとにら」ともいはれて食用にされるが、主に漬物にされる以外は用途がなささうである。
主食である米に對(たい)する副食である御數(おかず)といふよりも、更に添へものといふ扱ひであるが、時になくてはならない存在としてその實力を發揮する。
特に咖喱(カレイ)には缺(か)かせず、福神漬と雙璧を成してゐるといつても過言ではない。
齒車のひとつである事を潔しとしない世を拗(す)ねた筆者に比べて、自身の分を辨(わきま)へた在り方には清々しささへ感じられ、個性を失はない舌觸(したざは)りには味(あぢ)はひ深いものがある。
けれども、よく考へてもつと大きな視點からすれば、分を辨へさせるといふ傲岸不遜な分類に振分けさせられるといふ理不儘に、何故從はなければならないのかといふ不満も一方にはあつたりする。
熟々(つくづく)、厄介な性格である事よと、歎息せざるを得ない。
七月十一日
この夏を逢へぬ人あり濁世とや 不忍
こ のなつを あへぬひと あ り ぢよく せとや
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃ ♪ ♪♪♪ †ζ┃
初案は「この夏に逢へぬ人あり浮世かな」であつた。
上句の助詞の「に」を「を」に變へたのは、
「この夏を最後に」
といふ豫想(よさう)を與(あた)へたかつたからであるが、發句的省略法も極まつたやうな感があるので、成功してゐるかどうかは自信が持てない。
『濁世(ぢよくせ)』とは字義通り濁り穢れた世の事で、「末世(まつせ)」と同じ意味の佛教用語である。
「末世」とは季世(きせい)とも言ひ、別に「澆季(げうき)」とも言つて道徳が衰へ人情の浮薄となつた時代の事で、「澆」が輕薄(けいはく)、「季」は末(すゑ)の意味である
長らく會ふ事が適はなかつた友人の訃報を、これも暫く振りの然(さ)る知人から聞かされた。
「所詮は」
といふ諦めにも似た溜息で、身體(からだ)の力が拔けて行く思ひであつた。
七月十二日
雨も風も届かぬしづけさ木下闇 不忍
あめ も かぜも と どかぬ しづけ さ こ し たやみ
C♪♪♪ ♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃
初案は「風さへも吹かぬしづけさ木下闇」であつた。
これだけでも充分に雨の場合も想定が可能であらうと考へたが、
「言ひ果(おほ)せて何かある」
といふ松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)の言葉の逆で、今度は最低限の與(あた)へられる情報は傳(つた)へ切れてゐず、
「言ひ果さねば何もなし」
といふ不首尾な結果を生ずる事となつてしまひ兼ねない。
『木下闇』とは、枝葉が鬱蒼と繁つた樹下の暗がりの事で、晝(ひる)でも暗く涼しく、特に夏の強い日差しに比べると闇のやうに感ぜられ、
「 木の下闇・下闇(したやみ)・青葉闇(あをばやみ)・木(こ)の晩(くれ)・小暮(こぐれ)」
などとも言つて、實(じつ)に彩(いろどり)のある表現がある。
この言葉は和歌では萬葉(まんえふ)の頃から見られ、俳諧では慶安四年(1651)の『俳諧御傘』が所出といふから、言葉としての歴史は長いといへるだらう。
ただ、眞暗といふ状態を表はすといふよりも、陽射しの眩しい處から急に枝葉の繁る木立に入つた際の暗さといふ印象が強いのではないかと思はれる。
風といつても夏の場合は熱風で、それが遮られてひんやりとした『木下闇』は、まるで救はれたやうな氣分で汗を拭つたりするが、筆者は雨の降つてゐる時でも濡れることから守つてくれるものと考へて、「六音・八音・五音」といふ十九文字の字餘りの句を詠んで見た。
七月十三日
せみの聲病める都會の雨の空 不忍
せみのこゑ やめる とくわいの あめのそら
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪ ♪ ♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「せみの聲病める都會の街路樹に」であつたが、下五句の「街路樹に」が語り過ぎで、「せみ」に「樹」が氣に入らずに改めた。
最近の事ではあるが、「せみ」は簡略體の漢字を使用するのが嫌で平假名(ひらがな)にした。
かういつた事は、「つかむ」を「把む・攫む」にしたり、「すなはち」を「則ち」にしたりと枚擧(まいきよ)に遑(いとま)がなく、どうしても漢字でなければ誤解を生じ易いと思はれる以外は、最惡は平假名で表記する事にしてゐる。
毎週水曜日は十柱戯(ボウリング)へ出かける日で、生憎の雨空であつたから車を自宅にとりに行く途中、今年になつて初めて「せみ」の聲を聞いた。
妻に言ふと、もう隨分と前から鳴いてゐるといふのであるが、別段家に閉籠つてゐた譯でもないのに、間が惡くけふが「初せみ」となつたのである。
重苦しい雨の空に壓潰(おしつぶ)されさうな都會の空間を、地を這ふやうにせみの聲が響いてゐる。
七月十四日
幾年もビルに住まひしやせみの聲 不忍
いく と せも びるにすま ひしや せみのこゑ
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪ ♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃
昨日に續いて「せみ」の句である。
この句は中句の「ビルの」が三音であるから、八分休符(γ)から八分音符(♪)が三つの二拍となり、「住ま」が八分音符(♪)二つの一拍と、「ひしや」を「三連符(♪♪♪)=†(四分音符の代用)」として扱つた一拍とで四拍子として解決されている。
けれども、
いく と せも びるに すま ひしや せみのこゑ
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪ ♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪†ζ┃
と「ビルに」を三連符の一拍とし、「住まひし」を八分音符の四つの二拍を宛(あて)がひ、最後に『切字』の「や」の効果を考へて四分音符の一拍とで、四拍子とするもう一つの解決法があり、而(しか)もこの方が句意に副(そ)ふのではないかと思はれる。
「せみ」の語源は漢字の音からとか、鳴き聲によるものだとの説があるさうである。
その生涯の殆どを卵から幼蟲(えうちゆう)として地中で過ごし、その期間も三年から十七年と幅があり、成蟲といふ不完全變態を經(へ)て地上で一箇月の生を全(まつた)うするのである。
夏の朝になると一齊に木々から聞かれるせみの鳴き聲も、出拔けに出現したのではなくて、そこの住人として何年の前からそこで生活をしてゐたのである。
兆しは、見えない處にこそあるのであらう。
七月十五日
日覆ひに茘枝のカアテン南窓 不忍
ひおほひに れいしのかあてん みなみまど
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪ ♪ ♪ †┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「夏の陽射しや緑が覆ふ南窓」で、「夏」と「緑」で季重なりとなつてゐるので、次に「陽射し強く緑が覆ふ南窓」と詠んでから最終案となつた。
毎年夏になると店の南側の出窓に、日除けの爲に茘枝(れいし)を植ゑて緑の窓帷(カアテン)を作つてゐる。
茘枝(れいし)とはゴオヤの事で、別に、
「苦瓜・蔓茘枝(つるれいし)」
とも言ひ、歳時記では秋の季語として採用されてゐるが、夏の季語である「日覆ひ」が優先されるので問題は生じないものの、季が違ふとはいへ季重なりである事に變りはない。
作者の力不足でこれ以上に詠み込めないのは殘念ではあるが、將來は兔も角、ここはこれを以(もつ)て一句としたい。
七月十六日
藪入も夏の休みも褒美なく 不忍
やぶい りも なつのやすみも ほ うびなく
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「藪入の後の褒美もいづこやら」で、次に「藪入も夏の休みの褒美あれ」と詠んでから最終案となつた。
『藪入(やぶいり)』とは、その昔に商家などに住込みで奉公してゐた丁稚や女中などの奉公人が實家(じつか)へと歸る事が許された休日で、一月十六日と七月十六日がその日に當つてゐて、普通は一月の事を言ひ、七月は「後(のち)の藪入」と言ひ分けてゐた。
江戸時代の都市の商家から廣まつたといはれているが、當初(たうしよ)は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が實家へと帰る日だつたのが轉じたものとの事である。
それに對して大奥の女性達が實家に歸る事は「宿下がり」といふが、いづれにしても年に二度の愉しみな休日であつただらうと想像される。
會社勤めであつたならば、盆休みといふ形で休日(きうじつ)が宛(あて)がはれるが、生憎水商賣人ともなればそれも適はない。
子供の頃は休みの多い夏休みが一番嬉かつた。
現在十八日が「海の日」といふ休日となつたゐるが、これが子供の時にあつたとしたら、夏休み以外であれば一日休日が増えたのにと、損をしたやうな忌々しい思ひをしたに違ひない。
七月十七日
報道の祇園囃子や時を超え 不忍
ほ うだ うの ぎをんばや しや と き をこえ
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「報道の映像からも祇園かな」で、「時を超えし祇園囃子や報道す」と變遷を經て最終案となつた。
『祇園祭』は三大祭のひとつに數ヘられ、それも「葵祭」と「時代祭」とを合せた京都三大祭以外にも、日本三大祭(天神祭・神田祭)とか、日本三大曳山祭(高山祭・秩父夜祭)などと、日本を代表する祭りで、その歴史は貞観年間の九世紀にまで遡(さかのぼ)れると言ふ。
その行事も一箇月にも及ぶ長さを持つ祭りで、八坂神社が主催する「花傘巡行」と、山鉾町が主催する「山鉾巡行」とに大別されるが、千年もの歳月に堪へただけあつて京都の夏の風物詩として溶け込んでゐる。
『祇園祭』といふ名稱は、神佛習合の時代に八坂神社が比叡山に屬して「祇園社」と呼ばれてゐた事に由來し、その祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神である事から祇園神とも呼ばれ、祭の名も「祇園御靈會(ぎをんごりやうゑ)」となつたといひ、後に神佛分離令により神社名が八坂神社となつた折に、佛教色を排除して「祇園御靈會」から「祇園祭」へと變更(へんかう)されたが、とはいへ名稱そのものは佛教由來を殘したままとなつてゐる。
報道番組を何氣なく見聞きしてゐると、件(くだん)の樣子が映像で流れてゐた。
行きもせぬ祇園祭や音に聞け 不忍
いき もせぬ ぎ をんまつ り や おと にきけ
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃
七月十八日
海の日や譯知り顏で日も暮れぬ 不忍
う みのひや わけ し りがほで ひも く れぬ
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
海の日は平成七年(1995)に七月の第三月曜日と制定され、平成八年(1996)から施行された日本の國民の祝日の一つで、唯一日本だけが海を休日として制定してゐるのだといふ。
その趣旨は、
「海の恩恵に感謝するとともに、海洋國日本の繁榮を願ふ」
といふのだが、海のない懸もあるので、任意で、
「山の日・川の日」
として條例で定めてゐる県もあるのださうである。
元々は『海の記念日』といひ、明治天皇が東北地方に巡幸して横濱港に歸著したことに因んで制定されたものである。
休日の多くは我が國の性格上、天皇に絡んだものが殆どであるといつても過言ではない。
休日そのものに文句がある譯ではないが、さりとて有難がる程の事もなく、氣がつけばその日をやり過ごしてゐるといふのが實感である。
七月十九日
せみの聲雲に上りて白晝夢 不忍
せみのこゑ く もにの ぼり て は く ちうむ
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
去年の春先にヒヨンな事から知り合ひに空樂音(カラオケ)喫茶を紹介されて、月一囘に催される個人の舞臺發表會(ステエヂシヨウ)の撮影を依頼される事になつたのだが、このところ諸事繁雜な出來事が増えて仕舞ひ、一箇月以上も前に撮影した映像が漸く完成したので、喜び勇んで庄内の繁華街まで届けに出かけた。
表に出ると午後の陽射しは容赦なく筆者の頭上に降りかかつて來て、往來の少ない日蔭を選んで歩くものの、汗に追ひ打ちをかけられるは、眩暈(めまひ)がしさうになるはで、やつとの思ひで以來先の喫茶店に辿り著(つ)いた。
店の冷房(クウラア)も間に合はないぐらゐに汗が噴出し、不取敢(とりあへず)水を一杯所望した。
珍しく男性客ばかりの店内で、その内の一人が歌ひ始めたから、直ぐに歸るのも憚られると思ひ、歌ひ終(を)へるのを待つてその場を辭(じ)した。
歩き疲れて天竺川の堤防横の住吉神社で歩を止めたら、この夏を歌ひ切るかのやうに鳴くせみの聲が響いてゐて、木々の間を縫つて天に吸ひ込まれて行くのを、獨りで涼に身を任せながら暫く眺めてゐた。
七月二十日
音止んで風は死にたり白き晝 不忍
おと やんで かぜはし にた り しろ きひる
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃
けふは「土用(どよう)の入」で、「土用」とは暦の雜節で五行に由來し、本來は一年の四つの期間である四立(立夏・立秋・立冬・立春)の直前の約十八日間づつあるのだが、「土用」といへば一般に立秋直前の夏を指す事が多い。
五行では「春に木氣・夏に火氣・秋に金氣・冬に水氣」が割當られて、殘つた「土氣」を季節の變り目に當てて「土旺用事」と呼び、その最初の日を「土用(どよう)の入」と呼んで、最後の日は節分となる。
その期間の丑の日には鰻を食べる習慣があるが、これは平賀源内(1728-1779)の發案であるといふ。
『風死す』とは夏の盛りに風が止んで耐へ難い暑さとなる状態を言ひ、海岸地方で見られる「朝凪・夕凪」とか、先の「土用の凪」などがそれに類するものであるが、單純に無風状態の息苦しい程の暑い現象を言つたものと解釋(かいしやく)して問題はないだらう。
七月二十一日
雲を映す湖さへも夏の空 不忍
く もを うつす みづ うみ さへも なつの そら
C♪♪♪ ♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
初案は「夏の空を湖の底に夏を見る」で、
そこから、
夏の空は湖の底に搖らめけり
とか、
みづうみに夏を映して底いづこ
とか、
空の世界が湖に棲む夏の雲
へと變化(へんくわ)し、更に、
空の世界が湖にあり夏いづこ
と詠んでから最終案となつたが、未練がましくていづれも捨て難いこと夥しい。
發句(ほつく)は「取合せ」だと、かの松尾芭蕉(まつおばせう・1644-1694)も言つたと弟子の文書に記され、尤もな事だと筆者も思つて納得してゐる。
けれども、それにもうひとつを加へるとすれば、
『言廻し』
である、といふ事を擧げておかうと思ふ。
これは短詩形に限らず、長歌のみならず散文に於いてさへ効果を發揮するものだと考へてゐる。
勿論、逍遙(ヘリパトス)學派の祖である亞理斯多列氏(アリストテレス前・384-322)の、
「修辭學(レトリツク)」
または「美辭學」とも言はれるものがすでに存在してゐるので、今更新たに説を立てるまでもないのであるが、要諦である事には變りがなく、心得として身につけて、なほ磨かなければならないものと思つてゐる。
定休日のけふは朝五時に閉店してから一時間ほど寢て、早朝の十柱戯(ボウリング)に出かけた。
晝(ひる)を過ぎてから映畫(えいぐわ)を觀に言つたのだが、途中の服部緑地で輕く散歩をしたら、湖ではないがかなり大きな池があり、そこは嘗(かつ)ては小舟(ボオト)池として市民に愛されてゐたが、今では蓮池として有名で、そこに雲が氣持よく泳いでいるかのやうに浮んでゐた。
關聯記事
十九、『取合せ』に就いて 『發句雑記』より
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=4637715&id=65234091
七月二十二日
一切が地に居坐りぬ大暑かな 不忍
いつさいが ちにゐすわ りぬ たいしよ かな
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪ ♪ ♪ †ζ┃
初案は上五句が定まらず、「そこここに地に居坐りぬ大暑かな」とか「何もかもが地に居坐りぬ大暑かな」と搖らいでゐたものの、字餘りの「何もかもが」を退けて最終案とし、中句も「三音四音」ではなく、「ぬ」に四分音符(†)の安定感を與(あた)へる可く「四音三音」の音型を採用した。則ち、
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
ではなく、
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
としたのである。
七月七日の七夕の日が「小暑(せうしよ)」であつたが、けふは二十四節氣の第十二に當る『大暑(たいしよ)』である。
これは期間としての意味を持ち、次の節氣は「立秋」となる。
『暦便覧』によれば、
「暑氣いたりつまりたる所以(ゆゑん)なればなり」
と記されてゐ、快晴が續いて氣温が上がり、夏の土用が大暑の數日前から始まつて、「小暑」と『大暑』の間に暑中見舞ひを送つたりし、これは冬の時期の「大寒」と「小寒」と同じうするものである。
暑さは搖るぎもなく大地を覆つてゐる。
七月二十三日
釣つた鮎や動かぬ山を越えて獲る 不忍
つつた あゆや う ご かぬやまを こえて とる
C♪♪♪ ♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「鮎釣つて動かぬ山を越えて獲る」であつたが、上句を「六音」の字餘りにしてさらに動きを與(あた)へて見た。
釣りに行つて來たからと到來物で『鮎』を戴いた。
「香魚・年魚・銀口魚・渓鰮・細鱗魚・國栖魚・鰷魚」
とも漢字で表記する『鮎』は、季語としては夏であるが、
「春=若鮎・秋=落鮎・冬=氷魚(ひうを)」
と四季折々の使ひ分けがある。
といふ事で、今囘の作品は「想像の句」といふ事になる。
七月二十四日
存在は指先ばかり鮎釣りの 不忍
そんざ いは ゆびさ きばかり あゆつ りの
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
昨日に引續き鮎釣りの句であるが、初案は「釣り人の指先ばかり鮎の宿」と意圖(いと)とした句意が傳へられず、次に「存在は手の先ばかり鮎を釣る」から「存在を手の先にして鮎信(あゆあた)る」と變へるも納得出來ず、「一切は手の先が我鮎を釣る」と詠み、「存在を指先にして鮎を釣る」から果ては「釣る我は手の先となる囮(をとり)鮎」と詠み散らすも妙案も浮ばず、考へあぐねた末(すゑ)に「平句の體(てい)」が最終案の仕儀となつた。
山と清流とに圍まれた中での川釣りの醍醐味は、自然と一體(いつたい)となつて其處(そこ)にあるといふ事ではなからうか。
川も山も風も光も、釣絲を垂れて自(みづか)らの存在を指先一點(てん)に集中させ、坐禪で悟入に至るが如く自然の中に我を消し去る。
そんな風景を夢想しながら詠んでみたのだが、果して……。
七月二十五日
降り止まぬ木洩日にゐてせみ時雨 不忍
ふり やまぬ こ も れびにゐて せみし ぐれ
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
初案は「降り止まぬ木洩日にゐるせみ時雨」とか、「降り止まぬ木洩日の中のせみ時雨」と思案するも最終案となつた。
朝の五時に店を閉めて、二階に上がつて眠くなるまで雜事をしてゐた。
その内にうつらうつらとして寢床にもぐり込んで一時間半ほどしたら目が覺めた。
時計を見ると八時過ぎであつた。
近くの神社に散歩したら鬱蒼(うつさう)と覆ひ繁る木々の木洩日の中で、一齊(いつせい)にせみの聲(こゑ)を浴びせられた。
今日は一日中、雨だといふ豫報(よほう)であつたが、一向に降る氣配を見せない儘に終(を)へてしまつた。
この句は二重構造になつてゐて、『振り止ま』なかつたのは陽射しと『せみ』の聲で、本來『降』るべき雨は遂(つひ)に降らなかつた。
七月二十六日
別れた人を偲ぶがごとくもどり梅雨 不忍
わかれた ひとを し のぶが ごとく もど りつゆ
C♪♪♪♪ ♪♪♪ ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪ †ζ┃
この句、上句が七音もあるが、「人を」を「三連符(♪♪♪=†(四分音符の代用))の一拍とする事で解決出來てゐるので問題はない。
「返り梅雨」ともいはれる『もどり梅雨』は、字義通りに梅雨が明けた後に再び梅雨のやうな状態に戻る事をいふ。
梅雨は「つゆ」とも「ばいう」とも讀んで「黴雨」とも表記するが、北海道と小笠原諸島を除く日本から朝鮮半島南部、及び中國の南部から長江流域にかけての沿海部、更に臺灣など東アジアの廣範圍に見られる氣象現象で、毎年五月から七月にかけて雨の多い期間の事を指す。
梅雨の時期の始まりを「梅雨入り」若しくは「入梅(にふばい)」と言ひ、梅雨が終わる事を「梅雨明け」や「出梅(しゆつばい)」といふが、この時期は舊暦(きうれき)の五月である事から「五月雨(さみだれ)」とも、麥(むぎ)の實(みの)る頃である事に由来して「麥雨(ばくう)」などとも稱した。
梅雨入り前に似たやうな梅雨本番の前觸れのやうに雨が降り續く状態を、「走り梅雨・梅雨の走り・迎へ梅雨」とも「卯の花腐し(うのはなくたし)」とも呼び、梅雨の半ばに天氣が恢復(かいふく)する期間の事を「梅雨の中休み」といふ。
この外に「梅雨寒(つゆざむ)・梅雨冷(つゆびえ)」とか、「梅雨晴れ・梅雨の晴れ間」、「荒梅雨・暴れ梅雨」や「送り梅雨」といふかと思ふと、この期間に雨が殆ど降らない事を「空梅雨」などと言ふ。
のみならず、弱い雨が長く續くのを陰性の梅雨と云つて「女梅雨」、短期間に大量に降つてすつと晴れるのを陽性の梅雨と云つて「男梅雨」と表現する事がある。
また、三月から四月にかけて連續(れんぞく)した降雨を「菜種梅雨」といひ、花を催す雨という意味で「催花雨(さいかう)」とも呼ばれ、八月後半から十月頃にかけての長雨の時期を「秋霖(しうりん)」とも「すすき梅雨」などとも呼び、十一月から十二月にかけての連續した降雨を「さざんか梅雨」といふのださうで、梅雨とひと口に言つても樣々な表現がある事に驚かされて、日本語の多彩な表現力に驚かされて仕舞ふ。
今年は梅雨前線が押上げられずに消失してしまつたとの事で、それが突然に出現したかのやうに雨が降り出した感があつたが、この雨を「もどり梅雨」と呼ぶ事が正解であるかどうかは不明である。
であるから、下五句の「もどり梅雨」の最後の「ゆ」といふ發音は持上げるやうにして、表記としては「もどり梅雨?」と疑問符(クエスチヨンマアク)をつけたいぐらゐのものであつた。
けれども、發句としての表現としては許され事も、また事實であるやに思はれる。
久し振りに降つた大氣を冷たく押へ込んだこの雨に、「涙雨」とでもいふやうな雰圍氣(ふんゐき)に浸されたかのやうな氣分を味はつた。
七月二十七日
人の來ぬ長椅子ぽつんと夏の庭 不忍
ひと のこぬ べ んちぽつんと なつのには
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『夏の庭』とは、手入れの行き屆いた夏期の涼しげな庭園の事を言ひ、別に「夏の園」とも言ひ變へる事が出來、樹木が繁つた「緑蔭」に設置された長椅子(ベンチ)で、池から渡つて來る風や流れる水の音に耳を貸して、しばし夏の暑さを忘れる氣分を與(あた)へる季語であるやうに思はれる。
けれども、また日中のあまりの暑さに人氣(ひとけ)もない、シインとした寂しげな情景であつたりもしないだらうか。
能天氣な亞米利加(アメリカ)映畫(えいぐわ)とは違ひ、陰鬱な仏蘭西(フランス)の映畫とも異なつて、何處までも明るい太陽に照らされてゐながら、それ故にやり切れないやうな虚しさに滿ちてゐる伊太利亞(イタリア)の映畫のやうな、そんな雰圍氣(ふんゐき)を筆者は『夏の庭』に感じて仕舞ふのである。
七月二十八日
都會から田舎へ行けば喜雨となり 不忍
と くわいから ゐなかへいけば き う と なり
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多くの人は餘り雨を好んではゐないやうであるが、筆者は雨を好もしく思つてゐる。
都會では嫌はれる傾向にある雨も、場所が變はればまた違つた樣相を呈したりする。
この下五句は「なる」ではなく「なり」でなければならない。
『喜雨』とは夏の季語で、別に「慈雨(じう)」とも「雨喜び」とも言つて、土用の頃の日照り續きの後に降る雨の事である。
農作物に害を及ぼす旱(ひでり)の状態に降る惠みの雨の事であるが、
杜甫(712-770)の「春夜喜雨」といふ漢詩に、
「好雨知時節」
とあるが、
「良い雨といふのは降る時を知つてゐるものである」
といふ意味で、將(まさ)に『喜雨』がそれに當るだらう。
ただ、發句の夏の季とは異なつて春になつてはゐるが……。
妻の義兄夫婦が關東の方へ旅行に出かけるといふので、高齡の義母を一人にしておけないから、休日の朝五時の閉店を三時と早めに切上げて、美作へと車を走らせた。
本當(ほんたう)は大坂へ來ればと誘つたのだが、體調(たいてう)が思はしくないといふので、車椅子や孫たちと映畫・カラオケと樣々な催しを用意してゐたけれども、妻と二人で出かける事となつたのである。
明方に大坂を出發する時にポツポツと雨が降り出して、途中は降つたり止んだりしてゐたが、美作に著(つ)いても似たやうな状態であつた。
ところが、午後になつて田を喜ばすかのやうに、いきなり激しい雨が降り出した。
天に向ひ口に含むか喜雨の味 不忍
てんに むかひ くちに ふく むか きう の あぢ
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初案は「天に向ひ口に含むは喜雨の味(あぢ)」と、中句の最後の助詞は「か」ではなく「は」であつた。
雨に向かつて子供染みた眞似をするのも、田舎なればこその行爲(かうゐ)であらうか。
七月二十九日
水槽の世界に榮えあれ目高 不忍
すいさ うの せかいにさ かえ あれ めだか
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妻の實家(じつか)の美作へ行つたら、義母が農協へ現金を下しに行くといふので江見まで出かける事となつた。
農作業の器具や衣服、その他諸々の雜貨や種などが販賣されてゐるのをひト通り見ながら、それでも中々終りさうもない受附の義母の元へと戻ると、對應臺(カウンタア)の隅に水槽があつて、放出された酸素の泡の中で數匹の目高が涼しげに泳いでゐるのに氣がついた。
最近は田舎の川でも見かける事が少なくなつてゐるといふが、原因としては農藥の使用や護岸工事などで小川の減少、それと繁殖力の強い外來種による影響とも相俟(あひま)つて、現在では絶滅危惧種として指定され仕舞つてゐるといふのである。
『目高(めだか)』はダツ目メダカ科(アドリアニクチス科)に屬する淡水魚で、目が大きく頭部の上端から飛び出してゐる事からその名前があるが、江戸時代に来日した施福多(シイボルト・1796-1866)によつて世界に報告されたといふ。
觀賞魚としても古くから日本人に親しまれて來たが、絶滅からの保護といふ意識から、種を殘さうと各地で放流する運動が起つたらしいが、遺傳的な配慮をせずに放流す可きでない他の地域の特徴の種や、品種改良を施された飼育品種などを安易に放流した爲に、九州に分布する筈の種が關東に棲息して仕舞つたりと、生態系そのものが崩れるといふ影響さへあるといふ。
人類といふ大きな種で見れば存續は可能であらうが、民族としての特異性を殘してそれぞれが共存出來るやうに、世界はそれを目指して力を合せる可きなのではなからうか。
ちつぽけな水槽に棲む『目高』を見ながら、そんな取留めもない事を考へたりした。
七月三十日
丑の日の熱氣ぬたくる土用かな 不忍
う し のひの ねつきぬた く る どよ う かな
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初案は「丑の日の暑さのたくる土用かな」と中句の「ぬたくる」が「のたくる」であつたが、「ぬたくる」の方が如何にも纏はりつく感じがしたのでそれを採用した。
また、正確にいへば土用は四季の毎季にそれぞれに一囘づつあるので、單に「丑の日」だけではいづれの季節かは不明であり、「土用の丑」となつて初めて夏の季語として認定される事になるのであるが、中句の「熱氣」を「暑さ」とするとこれもまた夏の季語となるので、季重なりとなるので改める事となつたのである。
夏の土用には「丑の日」が年に二囘ある場合があつて、それを、
「一の丑・二の丑」
といひ、二〇一六年の今年には一囘だけだが、二〇一七年と二〇一八年には二度あり、二〇一九年には一囘となつて再び二〇二〇年には二囘と、變則的な暦の雜節であると言へよう。
何でも夏場に鰻を食べるといふ習慣は、萬葉集(まんえふしふ)にも詠まれてゐるほど古いものだといふが、土用の「丑の日」に食べるやうになつたのは、江戸も後期になつてからで、平賀源内(1728-1779)説や蜀山人こと大田南畝(1749-1823)説があつたりする。
木曜日から金曜日にかけて、美作に住む妻の義母の話し相手になつた褒美でもあるかのやうに、義妹から鰻を食べるやうにと宅配便が屆いた。
有難く食して、夏の暑さを凌がせて頂く事とした。
七月三十一日
謳歌する刹那の我が世せみの聲 不忍
おう かする せつ なのわがよ せみのこゑ
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朝五時に店を閉めて、二階で寢返りを打ちながら何とか眠りに就いたかと思つたが、一時間半もすると手水(トイレ)に行きたくなつて目が覺めてしまつた。
窓の外からは、セミの鳴き聲がその存在を報せてゐた。
もう八月になるのだと思ひながら、恐らく窓の外の駐車場の木々から聞えてくるのであらうセミの聲に、暫(しば)し耳を預けるに任せてゐた。
時間の基本單位としては、
「年・月・週間・日・時間・分・秒」
といふ風に考へられるが、
『刹那』
とは、佛教の時間の最小單位を表す概念で、別に「念」とも言はれてゐ、これによく似た言葉に「一瞬」といふのがあるが、これは「瞬間」と同じで讀んで字の如く瞬きをする間といふ意味である。
けれども『刹那』は、一説に指をひと彈きする間には「六十五刹那」もあると言われてゐるぐらゐであるから、瞬きといふ段階(レベル)の比ではないやうに思はれる。
『阿毘達磨倶舎論(5世紀頃成立)』によれば、
「牟呼栗多(むこりつた)・臘縛(らふばく)・怛刹那(たせつな)・刹那」
と、いふさうである。
尤も、さう言はれてもピンと來ないこと夥しいのであるが……。
人間の意識は一刹那の間に生成消滅則ち刹那消滅を繰返す心の相続運動であると捉へる佛教思想からすれば、人は生きている間にもその心は生死を繰返してゐる事になる。
調べてみると、現代の化學で計測する事の出來る單位は「アト秒」といふのが最小で、計測することのできる最小の時間は、
「0.0000000000000001秒」
といふ、これもまた譯の解らないやうな單位である。
一方で、これとは逆に、
「劫(こふ)」
といふ極めて長い時間の單位もあつて、梵語(サンスクリツト)語のカルパの音寫文字「劫波(劫簸)」を省略したものであり、一つの世界(宇宙)が誕生し消滅するまでの期間と言はれ、それは梵天(プラフマア)の一日に等しいとも言はれてゐる。
さう考へれば、人間個人が存在し得る時間といふものは、せみに比べれば長いのかも知れないが、實(まこと)に極小のものでしかないやうに思はれて仕舞ふ。
八月一日
八朔の謂れ遠退くすまし汁 不忍
はつさ くの いはれと ほの く すまし じる
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『八朔(はつさく)』とは八月朔日(一日・ついたち)の略で、本來は舊暦(きうれき)の八月一日の事なのであるが、高島易斷の『九星本暦』でも新暦の日をこの日としてゐる。
けれども、歳時記の季語としては秋の扱ひとなつてゐて、舊暦(きうれき)との差は一箇月もの開きがあつて實(まこと)に具合がよろしくない。
といふのも、この頃に早稻(わせ)の穗が實(みの)るので、農民の間で初穗を世話になつた人に贈る風習が古くからあり、これを「田の實の節句」と言つたが、これを「頼み」にかけて武家や公家の間でも、常日頃頼み合つてゐる人に感謝する意味を兼ねて贈物をする習慣が生れたのだといふ。
地域によつては「八朔祭」が開催されて神輿や山車(だし)が出たりするといふが、子孫繁榮や五穀豊穣を願つたり、藝事の師匠宅へ挨拶にでかけたり、「長男・長女」の誕生を祝つたりと樣々で、一説に徳川家康(1542-1616)が初めて江戸城に入城した日を正月に次ぐ祝日として採用したとも言はれてゐるが、いづれにしても日附も新暦舊暦が入雑じつたりしてゐるやうである。
因みに果實(くわじつ)の「ハツサク」は、八月一日頃に食べられるやうになるところからこの名がついたと言はれてゐる。
立秋が八月七日であるから夏も殘すところ一週間といふ事になるが、これらの日本の各種の行事も地方の過疎化と都會の新規參入して來る引越し轉入組とで、次第に失はれたり商店街の販促の一環として樣變りしてゐるやに見受けられる。
發句(ほつく)を捻る身の筆者としては、さうであるからこそ調べたりしながら一句をものにしようとするが、率先して行事の發展に寄與(きよ)するといふ事もなく、澄ました顏しながら食事をするばかりである。
八月二日
まことこそ人の道なれ鬼貫忌 不忍
ま こ と こそ ひと のみち なれ おにつらき
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初案の後に「まことこそ道として歩め鬼貫忌」とも詠んでみたが、このやうに蹶起(けつき)文のやうに鼓舞するが如き句姿、所謂(いはゆる)「手弱女ぶり」に對する「益荒男ぶり」といふ和歌の有樣(ありやう)を發句(ほつく)に持込む事には首肯(しゆこう)し難く、筆者としては好みとしないので、潔く捨てるに如(し)くはない。
別に「槿花翁忌(きんくわをうき)」ともいふ『鬼貫忌(おにつらき)』は、いふまでもなく上島鬼貫(1661-1738)が亡くなった日である。
松尾芭蕉(1644-1694)とほぼ同時期に活躍した俳諧師で、
「まことの外に俳諧なし」
と述べ、これをのべたのは芭蕉よりも先だつたとか、いや鬼貫よりも芭蕉の方が早やかつたなどといふ議論などもあつたりするが、
「東の芭蕉・西の鬼貫」
と稱されたといふのも納得されるやうな氣がする。
ただ、元々芭蕉は伊賀の生れだから、明石家さんまを關東のお笑ひ藝人と言へないのと同じやうに彼も關西の人だと言へ、もつと言へば、關東の人は江戸幕府が開かれて、移住した人が三代その地に留まつて後に三代目から江戸つ子として認定されるのだらうから、その殆どが餘所者(よそもの)であつたといつても過言ではあるまい。
尤も、だからといつて關西人の方が優れてゐるとかといふ話とは全く無關係で、口角泡を飛ばすほどの事でもないだらう。
兵庫懸の伊丹の酒造家の出身である鬼貫は、早くから松江重頼の門に入り、軈(やが)て西山宗因に師事したと言ひ、蕉門の廣瀬惟然(1648-1711)や八十村路通(1649-1738)などとも親交があり、彼らを通じて芭蕉とも親交を持つようになつたといふ。
現在、伊丹には「柿衛文庫」といふ鬼貫を稱へた記念館があり、そこには鬼貫は固(もと)より彼等の遺作も展示されてゐる。
因みに、『鬼貫忌』は舊暦(きうれき)の八月二日であるから、正確には一箇月ほどの開きがある事になり、季語としても龝(あき)となつてゐる。
八月三日
雲のある空に透かして飮む汽水 不忍
く も のある そら にすかして のむ らむね
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初案は上記の通りであつたが、上五句を「雲の住む」とか「雲のゐる」とかに置換へてみたが氣に入らず、結局はその儘とした。
『汽水』とは「ラムネ」の中國語表記で、元は檸檬水を意味する英語の「檸檬汽水(レモネエド・lemonade)が轉訛したもので、炭酸水に檸檬や酸橙(ライム)の香料及び砂糖などを加へた清涼飮料水の事であり、賽達(サイダア)は林檎酒を意味する佛蘭西(フランス)語の「Cidre(シイドル)」からであるが、日本では炭酸水に枸橼(クエン)酸や香料と砂糖などを加へえたもので、また曹達(ソオダ)水は炭酸瓦斯を含む水の事で、炭酸水全般を意味してゐてラムネもサイダアもソオダ水の一種であると言へるだらう。
けれども、琉璃球(ビイだま)の入つた容器のものを「ラムネ」といひ、それの入つてゐないものを「サイダア」として區別してゐるのが現状ではなからうか。
午後から恆例(こうれい)の十柱戯(ボウリング)へ出かけて來た。
汗をかいた後に飮む清涼飮料はまた格別な趣(おもむき)があつて、暑さの嚴しい太陽の下でも爽やかな氣分にさせてくれる。
因みにラムネもサイダアもソオダ水も、これらはみんな夏の季語である。
八月四日
惜しみつつ生の限りを殘り蟬 不忍
を しみつつ せい のかぎ り を のこ りぜみ
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この下五句の「殘り蟬」は筆者の造語である。
また「蟬」といふ漢字は環境依存文字だから、場合によつては文字化けをしてしまふが、略字の「蝉」を使ふぐらゐならば平假名で「せみ」と表記した方が増しだと考へてゐるので、それよりは良いだらうと敢(あへ)て用ゐる事にした。
木曜日は店の定休日なので、無料巻を貰つてゐたから早朝の十柱戯(ボウリング)に出かけた。
朝の五時に店を閉めてから二階で短い睡眠を攝り、十時に目的地に著(つ)くやうに自轉車を走らせた。
歩道の街路樹や途中の公園の幾つかを通る都度、それぞれの木々の下には生を眞當(まつたう)した蟬の骸(むくろ)が、ある時は蹈潰(ふみづぶ)され、またある時は隅に蹴飛ばされてゐたりして、目にしない事はない程にその死樣(しにざま)を晒してゐた。
けれども、死樣なんて生樣(いきざま)さへ納得出來るならば、高が知れたものではなからうか。
尤も、得心の出來る生き方といふのは中々に難しいものではあるが……。
八月五日
遠雷や夕べには吹く風と雨 不忍
ゑんら いや ゆふべにはふく かぜ と あめ
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夕方、個人用電腦 (パソコン)を弄(いぢ)つてゐると嫌な音が幽(かす)かに聞えた。
眞逆(まさか)と思ひながら窓の日覆ひ(ブラインド)を開けて見ると、「一天俄かにかき曇る」といふに相應(ふさは)しく、風が吹いたかと思ふと大粒の雨が激しく降つて來て、と同時に落雷の音が轟いた。
『雷』は歳時記では「春雷」を春の季語とし、「遠雷」は夏の季語となり、龝(あき)は「稻妻」、「寒雷」が冬の季語となるが、
「神鳴・いかづち・はたた神・鳴神・雷(らい)・遠雷・落雷・雷火・雷鳴・雷聲(らいせい)・雷響・雷霆・輕雷・日雷(ひかみなり)・雷雨」
と、夏の『雷』だけでもこれほど多樣な表現がある事に驚いて仕舞ふ。
その傳(でん)でいけば、もうあと二日もすれば「稻妻」といふ表現に變へなければならなくなつて仕舞ふ。
因みに、春は季を前面に出してゐて、夏が『雷』といふ音を心象(イメエヂ)し、秋は『稲妻』といふ視覺に訴へた表現となり、冬は「冬雷」ではなく『寒雷』といふ皮膚感覺からの捉へ方となつてゐる。
八月六日
次々と剥がれ落ちるやうに夏は逝く 不忍
つぎつぎと はがれ おち る や うに なつはゆく
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初案は「次から次へと剥がれ落ちるやうに夏は逝く」と、上句が八音の字餘りであつたが、中句の九音の字餘りと下句の五音とで二十二音の文字數となつてしまひ、これでは幾ら何でも破調(はてう)に過ぎるだらうと考へて改めた。
勿論、不條理なこの世の有樣(ありやう)には多少の破調があつた方が釣合ふのだらうが、あれもこれもと欲深くするのも節操がなからうと思つた次第である。
若い時分には頭に過(よぎ)る事はあつても、それは本の一瞬の事であつて、身近な事として深く考へる事などはなく、直ぐにもつと具體的なものに目移りしてしまふものである。
それが年を重ねる毎に、しみじみと生きてゐる者としての哀れみが身に迫つて來るやうになる。
それは身近な人が亡くなつてしまひ、來年に來るだらう夏にはもう逢ふ事が叶はない幾人かの知人が、今年もまた櫛の齒が缺(か)けて行くやうに自分の周圍(しうゐ)から消えて行つてしまふのを知らされたりするからである。
實(げ)に、生きてゐるといふ事の果敢無さを思ひ知らされる一瞬であるのだが、だからこそ生を享受して愉しまうとする所以(ゆゑん)である。
――今年の夏は終つて仕舞つた。
註)「γは八分休符・†は四分音符・ζは四分休符 」の代用。
∫
參考資料
「精選版 日本国語大辞典(小学館)・広辞苑(岩波書店)」
角川大俳句歳時記
「ウキペデイア・EX-wordから引用」
關聯記
Ⅰ.發句(ほつく)拍子(リズム)論 A Hokku poetry rhythm theory
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
一日一句の發句集『朱い夏(Zhu summer)』二〇一一年度(mixiのつぶやきとTwitterに發表)
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_05_01_archive.html
Hokku poetry “Zhu has summer” 發句集「夏朱く」
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/08/hokku-poetry-zhu-has-summer.html
Hokku poetry ” White autumn 發句集「白い秋」
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_08_01_archive.html
Hokku Anthology “springtime of life” 發句集『春青く』
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_06_01_archive.html
二〇一四年版の發句 冬の部
二〇一四年版の發句 秋の部
2015年 夏の句
http://www.miyukix.biz/?page_id=2784
2015年 春の句
http://www.miyukix.biz/?p=1603
近江不忍の「今日の一句」による 作品 二〇一六(2016)年 炎夏