近江不忍の「今日の一句」による 作品
二〇一六(2016)年
白い帝
『お好み燒 味幸』をクリツクするとホオムペエジの表紙に戻ります。
挿繪(カツト)や寫眞(フオト)もクリツクすると廓大(かくだい)出來ます。
この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
これは自作(オリジナル)の
『Motion1(Another version)』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
映像は和歌山懸にある、
『熊野』
へ出かけた時のものです。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、
ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひません。
ご自由にどうぞ。
八月七日
名ばかりの朝の景色や秋立ちぬ 不忍
なばかりの あさのけしきや あきたちぬ
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
いくら暦の上では立秋だといつても、昨日の今日ではとてもではないが氣持を入替へる事など出來よう筈もない。
第一、氣候は思ひつ切り夏の儘(まま)なのであるから、頭と體感との一致を見る事など不可能である。
立秋は二十四節氣の第十三で舊暦(きうれき)の六月後半から七月前半の「七月節」と言はれ、季節の區分を晝夜(ちうや)の長短を基準にすれば夏至と秋分の中間で、この日から立冬の前日までが秋となり、『暦便覧』では、
「初めて秋の氣立つがゆゑなれば也」
との説明がある。
また、立秋は一日だけではなく、『處暑(しよしよ)』の前日までの約十五日間を指す。
歳時記に、
「秋立つ・秋來(きた)る・秋に入る・今朝の秋・今日の秋」
などが季語として採用されてゐ、この日以降は殘暑となる。
一年で一番暑い頃であるが故に、不圖(ふと)、朝夕の風音などに秋の氣配を感じたりし易いのかも知れない。
因みに、この日になつても梅雨が明けない場合は「梅雨明けなし」となり、夏の甲子園と言はれる「全國高等學校野球選手權大會」も立秋頃に開幕を迎へる。
八月八日
せめていざ見つけた秋は白き風 不忍
せめていざ みつけたあ きは しろ きかぜ
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
初案は「せめていざ秋を見つけん雲白き」であつた。
次に「せめていざ見つけた秋や白き風」と中句に切字の「や」を置いたが、強過ぎる語調に躊躇(ためら)ひを覺(おぼ)えて避けてしまつた。
切字の問題は必ず一書を以(もつ)て述べなければならないので、ここでは簡單に如何斯(どうか)う言へないのでそこに譲る事にするが、下五句の「雲」を「風」に變へたのには、藤原敏行(ふぢはらのとしゆき・(生年不詳-907)に準じて秋を感じたかつたからに外ならない。
「白」は五行説に定められた秋の色を指し、詩人の北原白秋(1885-1942)はこれに由來してゐる。
また、古代中國の秋を司る神を『白帝』と言つて、今囘の句集となる題名の、
「近江不忍の「今日の一句」による作品 二〇一六年『白い帝』」
もこれに縁(よ)つてゐる。
八月九日
幸に似て殘暑の果てはさめた夢 不忍
さ ちににて ざんしよのはては さ めたゆめ
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪ ♪ ♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
暦の上では立秋とはいへ、暑さからいふと今が一番と云つても良い程の氣候であり、少しばかりの龝(あき)を見つけるのも難しいぐらゐである。
人はないものを強請(ねだ)る傾向があつて、それを「上昇志向」として尊(たつと)んだりするものであるが、逆に見れば淺ましいとも言へまいか。
それは「幸せ」とふものにも似て、人は現状よりも一歩上である事を幸せと感じて仕舞ふものである。
それがそれを手に入れられない原因ともなつてゐて、現状にいつも不滿を抱かざるを得ない存在としてこの世を彷徨(さまよ)つてしまふ。
それが人間なのかも知れず、幸福と言ふものの正體(しやうたい)なのかも知れない。
下五句の「さめた」は、中句へは「殘暑」が「冷めた」であり、下句の「夢」に對しては「覺めた」で、平假名である所以(ゆゑん)ともなつてゐるのである。
八月十日
雲ひとつそのひぐらしや枝の先 不忍
く も ひとつ そのひぐ らしや えだの さき
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃
いつもの事であるが、晝(ひる)過ぎぐらゐから今日はどのやうな一句を詠まうかとぼんやりと考へてゐる。
さうして、困つた時は散歩へと出かけるのだが、それでもうまく句が作れるといふ譯のものではないし、句作にばかり拘泥(かかづ)り合つてもゐられないので、その内に他の事へ興味の矛先が移つてしまつて、夜遲くになつて妻と交替に店に出てから、さてどうしたものかと創作に取掛るのである。
幸ひ、今日は十柱戯(ボウリング)へ行く日なので、妻と一緒に自轉車を走らせた時に、途中の公園の木々から聞えてくる蟬の聲が、それまでのものと違つてゐるのに氣がついた。
明らかに歳時記では秋の季語となつてゐる、茅蜩(ひぐらし)の鳴き聲である。
空に浮く雲のやうに自由氣儘(きまま)に、その日暮しで生きて行けたらと思ふが、果して下界から眺めてゐて思ふ程に雲が自由であるかどうかなんて解りはしない。
けれども、人間界の柵(しがらみ)などには無頓著な存在として、そこに確かにあるやうには思はれる。
茅蜩が頼みとする木々の枝の先に、ひとすぢの雲がゆつくりと流れて行く。
八月十一日
山の日や見上ぐるばかりで縁ぞなき 不忍
やまのひや みあ ぐる ばかり えんぞなき
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪†ζ┃
日本の國民の祝日の一つとなつた『山の日』は、二〇一六年一月一日に施行の改正祝日法で新設されたもので、出來たてのホヤホヤの極めて新らしい祝日である。
「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する」
といふ事を趣旨とし、これで祝日がないのは六月だけとなつてゐる。
日本は山國である。
四十七の都道府懸の内、海のない懸はあつても山のない懸はない。
因みに、
「栃木・群馬・埼玉・山梨・長野・岐阜・滋賀・奈良」
以上が海に面してゐない八懸である。
この海も山も昔から筆者には縁がなく、戸外(アウトドア)派といふよりも、どちらかといふと屋内(インドア)派で、學校(がくこう)の行事ですら病氣であつたり親族の不幸であつたりと、缺席になつて出かけられなかつた。
子供が幼い時にも矢張同じ事で、家族で數囘は水泳場(プウル)へ行つたが、有無や山へ出かけたといふ記憶がない。
僅かに、今年になつて妻と潮干狩に行つたぐらゐであらうか。
さう考へれば、山よりも海の方がまだ行つてゐるのかも知れないのだらうが、子供達には殘念な夏休みになつてゐたのだらうと、今更ながら申し譯なく思つてゐる。
いづれにしてもここ數日の句は苦し紛れのものばかりで、こんな事では果して「一日一句」を續けて行く意義はあるのだらうか、と疑問に思つてしまふ。
單に繼續の爲の記録を作るのが目的でない以上、駄作を連ねるのもどうかと思ふ。
ここらが潮時なのかも知れない。
良い句が出來た時に發表すればいい譯のものなのだから……。
八月十二日
茹だる陽をさらりと撫でる風や秋 不忍
う だる ひを さ ら り と なでる かぜや あき
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
この上五句の「陽を」は「陽に」するかどうかを惱んだが、そのままとした。
いふまでもなく、撫でたのは露出してゐる顏や二の腕などの皮膚なのであるが、殘暑そのものを涼しげな秋の風がさらりと鎭めるかのやうに吹いたとも表現したかつたのである。
その驚きを傳へる爲に下五句を、
「秋の風」
とはしたくなかつた。
八月十三日
見えもせぬ色なき風に目を閉ぢて 不忍
みえ もせぬ いろな きかぜに めを とぢて
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪ †┃♪♪♪♪ †ζ┃
初案は「問はれても色なき風の沁み渡る」と主題が曖昧で、次に「今を問へば色なき風に目を閉ぢて」と變ずるも最終案となつた。
中句の『色なき風』とは秋風の事を指し、『古今和歌集』の紀友則(845?-907)の歌からと言はれ、別に、
「金風・素風・色なき風・爽籟さうらい)・秋の風」
といふ表現がある。
ただ下五句が發句(ほつく)ではなく、「て止まり」の『第三句の體(てい)』となつてしまつてゐて、多少の違和感を禁じ得ない。
八月十四日
先觸れの窓に走るや稻光 不忍
さ きぶれの ま どには しるや いなびかり
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
初案は「音もなく窓に走るや稻光」であつたが、後に續く雨などを豫測させる爲にも最終案とせざるを得なかつた。
實際(じつさい)、直後に何事かと思ふ程の激しい音と雨が窓を震はし、夕立といふには一時間以上も續く長いものであつた。
『稻光』は雲と地表との間に起る放電現象で、
「稻の殿・稻妻・稻の妻・稻の夫(つま)・稻つるみ・いなつるび・いなたま」
などともいふ秋の季題であり、「神鳴り(雷)」の靈的な力によつて穗を稔らせるといふ信仰にも似た思ひとも結びついたものである。
但し、歳時記の秋の季語としてではなく、春先に雷が多いと豊作だといふものであつた。
お蔭で、その後は一氣に涼風が路地に滿ちてゐた。
八月十五日
明方の草場に見つけた蟲の聲 不忍
あけが たの く さばに みつけた むしのこゑ
C♪♪♪♪ †ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
十五日の月曜日から我が店は、木曜日までの四日間の「盆休み」に入つた。
朝五時にお客様へ報せる爲の貼紙をしに店先に出ると、車道と歩道を區切る草場に早くも蟲の鳴聲が聞かれた。
休みとなれば、行くところは妻の實家(じつか)の美作へ行くのは恆例の事となつてゐる。
朝の九時過ぎに自宅を出て中國自動車道を走つたが、混んでゐたのは最初の三十分だけで、後は流れもスムウズに岡山へ著(つ)く事が出來た。
大雨の豫報(よほう)も出てゐたのだがそれもなく、とはいへ暑さも田舎の田園風景は都會のそれとは一線を劃(くわく)し、過ごし易さは群を拔いてゐる。
それでも大抵は風やその音に季節が變つた事を感じるものだが、殘暑嚴しき中に見つけたのは蟲の姿ではなく聲なのであつた。
けれども、本當(ほんたう)に見つけたのは秋なのである。
八月十六日
龍野路に先を示せや赤とんぼ 不忍
たつのぢに さき を しめせや あか と んぼ
C♪♪♪♪ †ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪ †ζ┃
先達に學ぶといふ事は大切ではあるが、誰かに道を示されなければ何事も一歩も先へ進められないといふのでは困りものである。
困つた時には何かに縋りつきたくなるものであるが、それは失敗した時の言ひ譯が欲しいだけの事で、詰まる所、自信のなさの裏返しなのではなからうか。
氣持は解らないではないが、どんな時でも筆者は、占ひや驗(げん)を擔(かつ)ぐ氣にはならない。
註)「γは八分休符・†は四分音符・ζは四分休符 」の代用。
∫
參考資料
「精選版 日本国語大辞典(小学館)・広辞苑(岩波書店)」
角川大俳句歳時記
「ウキペデイア・EX-wordから引用」
關聯記
Ⅰ.發句(ほつく)拍子(リズム)論 A Hokku poetry rhythm theory
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/02/blog-post.html
一日一句の發句集『朱い夏(Zhu summer)』二〇一一年度(mixiのつぶやきとTwitterに發表)
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_05_01_archive.html
Hokku poetry “Zhu has summer” 發句集「夏朱く」
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012/08/hokku-poetry-zhu-has-summer.html
Hokku poetry ” White autumn 發句集「白い秋」
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_08_01_archive.html
Hokku Anthology “springtime of life” 發句集『春青く』
http://ahuminosinobazu.blogspot.jp/2012_06_01_archive.html
二〇一四年版の發句 冬の部
二〇一四年版の發句 秋の部
2015年 夏の句
http://www.miyukix.biz/?page_id=2784
2015年 春の句
http://www.miyukix.biz/?p=1603
近江不忍の「今日の一句」による 作品 二〇一六(2016)年 炎夏
http://www.miyukix.biz/?page_id=7076