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孤城的な、餘りに孤城的な(An Kozyou, too Kozyou -like)  孤城忍太郞(こじやうにんたらう・Kozyou Ninntarou)

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 作品を讀む時、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。

 これは自作(オリジナル)の

  『Motion1(Mirror) &( ) 曲 高秋 美樹彦』

  といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。

  映像は伊丹にある、

  『柿衞文庫』

  へ出かけた時のものです。

  雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひです。

 ない方が良いといふ讀者はご自由にどうぞ。

 

 

 

 

孤城的な、餘りに孤城的な

(An Kozyou, too Kozyou -like)

 

孤城忍太郞 KOZYOU NINNTARAU

 

 これから獨斷(どくだん)と偏見による見解で、孤城こと筆者が藝術(げいじゆつ)の鑑賞法を解析して見たいと思ふ。

 抑々(そもそも)、鑑賞するにせよ創作するにせよ、これらの行爲(かうゐ)を滿たす爲(ため)には二つの立場がある事を讀者(どくしや)に提示したい。

 その一つは、鑑賞する場合に、

 『純粹(じゆんすい)鑑賞』

 創作する場合の、

 『純粹動機』

 といふものがあり、それは感情なり好みに支配されてゐるものの、その部分は少なく或は表面に出難(でにく)く制禦(コントロオル・control)されてをり、例へば、

 「何故、健康な人間の心臓の鼓動の音は秩序正しいのかは意味論的には捉へ難(がた)いものの、そこに一種の統一感なりを見出す事が出來る」

 といふ形式論とも呼べる立場の事である。

 

 もう一つは、

 『標題鑑賞・感情鑑賞』

 といふもので、主(おも)に感情に訴へるのが目的であるから、形式はあつても良いが別に問ふ必要のない、意味論的に解釈して見られる立場の事であるが、實際(じつさい)の藝術はこれほど見事に分類された作品が多く存在する譯はないから、極めて一方に近かつたりその反對に近かつたりとかして、微妙な均衡(バランス・balance)を保ちながら、この二つを具備(ぐび)して鑑賞者の前に存在してゐると言へるだらう。

 だが、いづれにしてもこれらのものは、經驗(けいけん)や認識による理論といふ濾過装置(フイルタア・filter)を通して見る事が出來るといふ共通項を持つてゐると思はれる。

 

 であるから、

 『音樂・繪畫(くわいぐわ)・文學』

 これらの理解の仕方は、心理的な經路(けいろ)が異なつてゐるだけで、藝術といふ目的意識は同じものであり、その心理的經路の差がそのまま表現手段の違ひとなつて現れてゐるに過ぎない、と筆者は考へてゐるのである。

 

 その理由の幾つかを述べるならば、音樂は時間軸の空間に旋律といふ未知の部分を秘めつつも、全體は鑑賞者に樂しい(明るい)とか、悲しい(暗い)といふ雰圍氣を表現するだけで、その後は鑑賞者自身の環境に應(おう)じて、例へば、

 「身近な人が亡くなつた」

 とかの現實が引金になつて、その時に偶然流れてゐた悲しい音樂を聞いたとか、或は今まで聞いた音樂の中から抽出された暗い音樂が心象(イメエヂ・image)された時に、その鑑賞者は感動にうち震へると思はれるのだが、その意味では、この鑑賞法は映畫の効果音的な捉へ方でしかないものの、それも一つの聞き方で、これを芸術鑑賞としては無意味だといふ人があれば暴論といふものであらう。

 

 一體(いつたい)、音樂には

 『標題(描寫)音楽』

 と、

 『純音楽』

 とがあるが、

 『標題(描寫)音樂』は、先に述べたやうな感情的な引金を豫(あらかじ)め設定しておく事が多く、解り易いものは小川とか鳥の聲(こゑ)を描寫(べうしや)したりしてゐるが、これが少し高級になるとその氣分だけを表現するといふ形になり、貝多芬(ベエトオベン・Beethoven)の「田園交響曲第六番」がそれに當るだらう。

 『純音樂』は色々な形式、例へば「ソナタ形式(Sonata)」のやうなものの中に組入れて、音樂は二義的な描寫といふ表現を採(と)らず、音そのものを純粹に構築する事が可能になる。

 

 しかし、これは始めに述べたやうに、

 『標題(描寫)音樂』

 と雖(いへど)も形式を無視する事は出來ないし、また、

 『純音樂』

 にしても形式だけではなく、旋律の美しさといふ感情的なものに左右されるもので、これらのものが折衷(せつちゆう)してゐるのは諒解(りやうかい)出來るものと思はれる。

 だが、どちらかといふと『純音樂』を聞く爲には訓練が必要で、形式といふものを知らなければならないし、それが體驗(たいけん)によつて蓄積された感情よりも理知的である分、困難らしく見えるのも事實であらう。

 

 それに比べて『繪畫』は線的空間で、安定性といふものを基本にして、限られた空間にどのやうに均衡(バランス)良く、丸や三角といふ圖形(づけい)を纏(まと)めるかが問題で、詰り、その事で心理的安定感を得られ、また、それを逆手に取つて不安定感を増すといふ技術も考へられるが、それは安定感といふ前提があつてこそのものである事は言ふまでもないだらうし、更に、「暗い」とか「明るい」といふ色彩感があり、それを構圖(こうづ)といふものの中に追加されるので、均衡(バランス)感覺は俄然要求されるが、それは畫家(ぐわか)に限らず鑑賞者にも求められるものであるから、さういふ鑑賞法こそが繪畫に於ける『純粹鑑賞』と言へ、『音樂』と全く別の次元にあるやうに見えるものの、しかし、それとは別に意味論的な主題に通じる『題名』といふものがあつたり、繪畫の全容は未知の部分は極めて少なく、既知(きち)の状態で鑑賞者の前に提出されてゐるのは『音樂』と同じである。

 

 ところが、文學の『小説』や『詩』と言ふものは、文章といふもので成立してゐるので理知的空間といふ事が言へ、「暗い」とか「明るい」といふ言葉自體が心象(イメエヂ)の世界である爲、「話言葉」のやうに既知(きち)の状態は望み得ず、僅かに普遍性といふ共通項を手掛かりにするしかないので、文章家或は偉大な藝術家とは、未知の世界の映像を鑑賞者の頭の中に浮び上らせる人の事であり、詰りは説明しかないのである。

 

 もつと解り易くいふならば、「話言葉」の既知とは日記や手紙であり、日記は自身を語り手として自身に聞かせるのであり、手紙は書き手と讀み手の二人の世界の共通部分で語り合ふ、といふ場の設定が出來上つてゐるものの事で、假令(たとへ)言葉足らずで解らない事があつたとしても、

 「ほら、あの時の……」

 と少しの説明で諒解し合へる立場同士の、敢(あへ)て主語の要(い)らない世界である。

 

 それに對して、「小説」や「詩」のやうな文章は全く未知の鑑賞者に提出されるものであるから、情報をしつかり與(あた)へるといふ技術や形式が大切で、例へば、「話言葉」は童話ならば「が」といふ言葉の既知世界で、

 「むかしむかし、あるところにおぢいさんと、おばあさんがゐました」

 といふやうに、

 「おぢいさん・おばあさん」

 といふ普通名詞を既に知つてゐるといふ意味の、

 「が(既知)」

 で受けて説明するが、鑑賞者が大人になつた「小説」では、

 「恭介は」

 といきなり固有名詞で始める事が出來、それは鑑賞者が「恭介」は主人公であり、彼に就いての履歴は次第に明らかになる事を、安心して作者の伎倆に任せてゐられる事が條件となつてゐるからで、それだけ「詩」や「小説」は、作者も鑑賞者も智識の貯蔵量を要求されるものである事が理解出來るだらう。

 

 これは尊敬する、

 『大野晋(1919-2008)博士の「は(未知)」と「が(既知)」』

 の考察を拝借して述べてゐるのだが、このやうに藝術としての主題は表現手段こそ違へ、人間の認識し得る普遍性といふ方程式で解析出來るものだと考へられる。

 

 けれども、それでは作家と鑑賞者の差とは何かといふと、詩人の紫氏の言葉を借りれば

 「料理人」

 と、

 「客」

 といふ事になるのだが、孤城的な餘りに孤城的な發想でいふならば、

 「訴へる人」

 と、

 「訴へられる人」

 と言ふ事になる。

 

 これがどういふ事かといふと、例へば、腹痛の人がゐたとして、それを作家が腹痛の人の代理として表現しようとすると、その本人を連れて來るのが一番の早道であるのだが、それは腹痛を「訴へ」た事には違ひないが、文章で書かれた譯ではないので作家としての表現にはならない。

 藝術的表現とは、他のもの(音樂・小説・繪畫等)の種類(ジヤンル)を利用して寫し換える行爲を意味するのであるから、その表現されたもので同じような腹痛を起させたり、それが不思議だと手品を見せて驚かせたりする、気合術のやうな錯覺をさせる爲に作品があるのではない。

 

 鑑賞者が腹痛の人の事を書かれた作品を讀んだり見たり聞いたりした時、これは實際の腹痛ではないと理解し、それは一體どういふ事なのかと主題を考へさせ得るものを、藝術表現がなされたと言へる事になると思はれ、これを紫氏風に言ふならば、「料理人」が畑の人參を拔いて來て何の手も下(くだ)さず、即ち、庖丁も通さずに「客」の卓子(テエブル)の上に置いて料理だといふに等しく、その人參は作物としては人間の手を經(へ)たものには違ひないものの、料理としては如何なる加工もされてゐないので、食物(しよくもつ)としては成立してゐても、斷じて料理とは呼べないといふ事が言へるのではあるまいか。

 

 そこで當然の歸結(きけつ)として、藝術的表現は腹痛の人ほど寫實(しやじつ)的には書く事が出來ないので、畢竟(ひつきやう)「何々のやう」であるといふ、

 「やう」

 の表現が優れてゐるか、さうでないかを論ずるに過ぎないだらう。

 

 もう少し修辭學(レトリツク・rhetoric)を樂しませてもらへば、一見無秩序とも思はれる自然を、意味あるものとして技によつて捉へる事の出來る人間と、秩序を理解せず、或は理解する必要のない環境の中だけで存在してゐる虎(虎の事を熟知してゐる譯ではないが)とでは、宇宙といふもの一つを考へるだけでも大きく見方が違つてゐて、秩序あるものを見ても、それを感得若しくは發見する能力に不足があれば、如何なる普遍性も捉へる事が適はぬのは道理であらう。

 このやうな言葉は使ひたくはないのだが、ここが人間と他の動物との境界だと言へる、と筆者には思はれる。

 

 これらの意味に於いて、繪畫は嘗(かつ)てあるものをあるが儘に寫(うつ)せばそれで事足りて、寫實に近づく爲の技術論だけが先行する形になつたのだが、近代になつて寫眞機の發明にともなつて、それだけでは済まなくなつたのが繪畫の現代の混迷か、將又(はたまた)、進歩が見られる要因となつてゐると思はれるのだが、その結果がいづれにあるかは、未來の人間の判斷に任せるしかないのかも知れないだらう。

 

 

 

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