この音樂を聞きながら作品を鑑賞して下さい。
これは自作(オリジナル)の
『合唱(cembalo)』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひです。
ない方が良いといふ讀者はご自由にどうぞ。
二、發句する
發句を分かり易く人に教へる、といふのは笑止である。
例へば、芭蕉の句、
古池や蛙飛び込む水の音
ふるいけや かはづとびこむ みづのおと
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
この句をどう味はふかと問ふ事は出來ても、創作する事は簡單ではないし、又、その句を味はふにしても、動機(モチーフ)や主題(テーマ)が理解出來たからと言つて濟むものではない。
これらを理解する爲には、所有(あらゆる)人生の郷愁を知り、感受性を高める事こそ肝要である。
とすれば、俳諧師の弟子になるよりも、人生を師とする方が有意義である。
俳人の弟子になつて得られる事は、俳人の如何に不精かを知るのみである。
季語や發句の決まり等は獨(どく)自で學(まな)ぶ事こそが重要で、又、それは發句のみか、所有獨創性を、最も必要とする藝術總(すべ)て に就(つ)いて言へる事である。
所有(あらゆる)藝術の師は人生と自然である。
小説の形態を始めて作り出した者は、人間に教はつものではなく、取不敢(とりあえず)ものを表記した事によつて手に入れられたのであり、それを手本として發展して行つたのではなからうか。
それと同じやうに、今日の「俳句」も、始めは俳諧の連歌の發句から派生し、明治の頃に「俳句」と稱されるやうになり、元は誰かに教はつたから出來たものではなく、始めて繪(ゑ)を描いた者や、始めて音樂を作曲した者も、又、誰にも教はりはしなかつた。
それらは總(すべ)て美しい自然と、それを享受する感受性の觸れ合ひから、生み出されたものである。唯、古人の殘した作品よりも優れた作品を創作しようと思ふには、更に優れた教養を身につけ、古人を凌駕する爲に、古人の作品を知る事であり、それは今日の俳人に就いても、同じく言へる事である。
發句を教はる爲に、一人の俳諧師を師にする事は、金がかかるばかりである。
又、師を持たない人が芭蕉の句を知らずして、
『古池や』
云々(うんぬん)の句と全く同じ句を創つたとしても、その才能を褒(ほ)めこそすれ、それはそれだけの事で、問題はその後の作品にこそ、その人の眞價(しんか)があると言へるだらう。
季語にしても、新しいものが次第に増えつつある。自分でそれを創造する氣持こそが大切である。
それには季語の總てを知り盡くし、又、ある程度の古人の句を知るといふ教養が必要なのであるが、そればかりに夢中になると、頭ばかりの學者にもなり兼ねない。
それを避けるには、結局、何も知らずとも、どしどし創作する事であらう。
さうたやすく、古人と同じものは出來ないし、人生を師とすれば、人生觀の違ひから、自づと自己の句に光りが射すのである。
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三、發句らしさ 發句雑記より