この音樂を聞きながら作品を鑑賞して下さい。
これは自作(オリジナル)の
『絃樂器(strings)』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひです。
ない方が良いといふ讀者はご自由にどうぞ。
三、發句らしさ
發句は、年寄りが餘生(よせい)を樂しむ爲に創作するものだ、と思はれてゐるらしい。偶(たま)に若者が句作に親しんでゐると、若年寄りと言はれて、度外視されがちである。
作者がこれを書くのは、それらに反感を持つてゐるからではない。
さうして、それらがさうではないといふ事を知つてもらふ爲の論證を書くのでもない。
結局は、そのやうな事を書くやうになつてしまふ氣もするのだが……。
作者がこれを書く氣になつたのは、勿論、何かの機會があれば書いてみたい事ではあつたのだが、それが丁度、最近箕面(みのお)へ行つた時、連れの女性に發句を詠んでもらふ事にしたのが切つ掛けである。
彼女は二十歳で、私にさう言はれて非常に困惑してゐた。今まで、そのやうな世界に觸れた事がなかつたからである。
さういつた人が發句を詠まうと思ふと、何か捕へ處(どころ)がなく、一體(いつたい)、どう詠めばいいのか分かりにくからうと思ふ。
例へば、さういふ人は先づ十七文字よりも、季語といふ制約に途方に暮れてしまふ。
そこで私は「秋」といふ季語を與(あた)へ、自らも幾つかの句を詠んで、見本を示した。
夕暮の目にせまりくる秋の瀧 不忍
ゆふぐれの めにせまりくる あきのたき
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
せせらぎの音を背にしつ秋のくれ 同
せせらぎの おとをせにしつ あきのくれ
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
然し、これらの句を示し、更に「夕暮の」の句に、附合(つけあひ)でも良いからと言つて、附合の樂しさなどを語つて聞かせたが、それでも出來ず、
夕暮の目にせまりくる秋の瀧
とぎれし音にけふは去りつつ
ゆふぐれの めにせまりくる あきのたき
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
とぎれしおとに けふはさりつつ
C♪♪♪♪♪♪†┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃
と下手な附合までして見せたが、彼女の方は一向に出來なかつた。
どうやら、今度は私の方が困る番である。
發句といふものは、どうにも難しいものであるらしい。が、これでは私の方も寝覺めが惡いので、それでは季語を考へずに、唯、十七文字の短詩を創るやうに言つて見た。
すると、上句は浮かばないけれど、と言つて、
水にさざめく紅葉かな 幸
みづにさざめく もみぢかな
Cγ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
と詠んだ。
作者は早速、
暮れかけて水にさざめく紅葉かな
くれかけて みづにさざめく もみぢかな
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
と上句を添えた。
さうすると、彼女はすらすらと次の句が出來た。
晩秋の道のほとりに白い花 幸
ばんしふの みちのほとりに しろいはな
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
どうやら、始めは發句を創るより、短詩の段階に留めて置き、次に十七文字で纏めさせ、最後に季語を加へて整へさせる、といふ方法が一番良いやうである。
かうなれば占めたもので、後は如何に發句らしく整へさせるかである。
そこで、作者は「晩秋の」といふ下句を、「白き花」とした。
晩秋の道のほとりに白き花
ばんしふの みちのほとりに しろきはな
C♪♪♪♪†ζ┃γ♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
これで、句全體がひきしまつた感じになる。
その外にも、「花白し」と詠む事も考へたが、彼女の原作に逆らはずに、この場合は發句らしさといふものを、どうすれば一番自然に詠めるか、といふ事を知つてもらはうとして、敢へてそれは言はない事にした。
彼女は、續けて三作目を詠んで、
別れ道どちらに行つても秋の道 幸
わかれみち どちらへいつても あきのみち
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪♪♪┃♪♪♪♪†ζ┃
と詠んだが、流石(さすが)に氣がついて、
別れ道どちらへ行くも秋の道 幸
わかれみち どちらへいくも あきのみち
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
と詠み直した。
私は更にそれを、
別れ道どちらへ行くも秋の暮
わかれみち どちらへいくも あきのくれ
C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃
と推敲したが、僅か数時間で、彼女は立派に發句人工の一員に、なり得たのである。
これで定義すれば、發句らしさとは口語で詠むよりも、文語の方が、調べを整へ易いといふ事になる。
のみならず、十七文字といふ短い言葉の中で、喋るやうに書くと、「字足らず」や「字餘り」といふ事にもなり兼ねない。
それは初心者の人は避ける可きで、出來るだけ文語や古語を遣ひ覺え、語彙(ボキヤブラリイ)を豊富にして欲しいものである。
第一、「どちらへ行つても」と「どちらへ行くも」との、この「も」といふ一文字に、一體(いつたい)どれ程の重みが加はつて來、微妙な調子(ニユアンス)の違ひが現れて、どちらに生命を與(あた)へるかは、一目瞭然であらう。
それらを習得(マスタア)してからこそ、口語發句や、より新しい發句の發展が、可能になつて來るのである。
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