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四、口語で(In colloquial) 『發句雜記』より 近江不忍(あふみのしのばず・Oumino Sinobazu)

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 この音樂を聞きながら作品を鑑賞して下さい。

 これは自作(オリジナル)の,

 

 『Motion1(和樂器・Japanese instrum)』

 

 といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。

 雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひです。

 ない方が良いといふ讀者はご自由にどうぞ。

 

  

     四、口語で 『發句雜記』より

  

 口語での發句を屡々(しばしば)見受けるが、口語での發句は先に述べた通り、可成(かなり)の冒険である。

 然し、それはそれで良い處(ところ)もある。

 唯、無理に口語で詠む必要もなければ、文語で詠む必要もない。

 

   一茶忌や誰ぞがいふた生活苦

 

 いつさきや  だれぞがいふた せいかつく

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 といふ句がある。

 これなどは口語や文語といふよりも、寧(むし)ろ方言的であり、一種の可笑(をか)し味が出てゐるし、それだけに留まらず、人の生きる、といふ事の辛(つら)さを言ひ得て妙である。

 

 

 恥を言へば、これは筆者の句である。

 自畫自賛(じぐわじさん)では目も當てられないが、要するに自然が一番である。

 無理はいけない。

 

 

 發句は何氣無く作つた方が自然で良い。

 文語がすつと出て來る時は、それはそれでその句の「調べ」となつてゐるのである。

 けれども、どちらが整ひ易いかといふ問題は自ずと殘る。

 それは以前に述べた通りである。

 

 『三、發句らしさ 『發句雑記』より

 http://www.miyukix.biz/?page_id=7607

 

 

 

 但し、可笑しな間違ひの句を、時々見かける。

それは可成の人に多く、文語と口語を一句中に一緒に使つて、平然と、

 

 「發句でござい」

 

 と構へてゐるといふ事である。

 これは人の句を引用するのは憚(はばか)るので、自作を例題とする。

 

   霞にて生きたい夢や春の人 不忍

 

 かすみにて  いきたいゆめや はるのひと

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 これなどは、

 

 「生きたい」

 

 が口語で、

 

 「夢や」

 

 が文語である。

 幾らなんでも、これでは似非(えせ)俳諧師の謗(そし)りを免(まぬか)れまい。

 

 

 何故かうなるかといふと、

 

 「夢や」

 

 を口語にしようとすれば、「調べ」が崩れるといふ事を自ずと理解出來るからに外ならない。

 とすれば、

 

 「生きたい」

 

 を文語にする以外にない。

 

   霞にて生きたし夢や春の人

 

 かすみにて  いきたしゆめや はるのひと

C♪♪♪♪†ζ┃♪♪♪♪♪♪†┃♪♪♪♪†ζ┃

 

 これですつきりした。

 

 

 これらの間違ひが多いのは、何も意識して斬新なものを作らうとする姿勢からではない。

 簡單にいへば智識の不足で、文語を知らないのが原因である。

 若し、知つてゐてさう詠んだとすれば鈍感なので、かういふ人は相手にするのも莫迦(ばか)らしい。

 

 

 發句のやうな短詩形の文學は、感受性の有無が特に問はれる形式で、その無頓着ぶりでは好い句の出來る筈もない。

 僅か十七文字の中に生命を吹込む作業である。

 濃(こま)やかな氣遣ひこそ、句に生命を宿らせるのである。

 

 

 口語で書かれた發句がなにも新しいのではない。

 芭蕉は俗語を正し、當時の口語を使用してゐるのである。

 その芭蕉でさへ調べは忘れてはゐない。

 その氣遣ひをこそ、偉業といふのである。

 

 

 

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五、調べ(SIRABE) 『發句雜記』より

http://www.miyukix.biz/?page_id=7931

 

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