1、映畫『アマデウス』による五つの變奏曲と遁走曲
(Five variations and fugues by the movie “Amadeus”)
一、主 題
映畫(えいぐわ)『アマデウス』が劇場で封切られた時、筆者は早速(さつそく)映畫館へ出掛けて、二囘半を約七時間かけて鑑賞した。
それは一九八五年二月7日の十二時から午後十九時までの事だつた。
その一年後に電視臺(テレビ)でも放映され、當然(たうぜん)、ビデオにも録畫しておいた。
その後ビデオはDVDに變(かは)り、勿論、「完全版」ともども購入したのはいふまでもない。
『アマデウス』とは、
「神に愛された者」
といふ意味であるらしいのだが、それはいふまでもなく、ヴオルフガング・アマデウス・モオツアルト(墺太利(オウストリア)・1756-1791)といふ、
「神童」
と言はれた音樂家の事である。
小册子(パンフレツト)によると、
「あなたが聞いた噂は眞實だ」
といふ事になつてゐるが、これは日本の配給會社が考へたものか、それとも製作者側の案によるものかは不明であるが、いづれにしても、この觸(ふ)れ込みは好奇心を煽(あふ)る爲だけに役立つてゐるに過ぎない。
映畫そのものは、そのやうな標語(スロオガン)がなくとも立派に成立してゐるし、寧(むし)ろ、その證明(しようめい)がどのようなものであるかと期待して觀ると、當てが外れる程である。
詰り、どのやうにその「噂」が「眞實」であつたのか、一向に理解出來ないばかりか、却つて鑑賞の妨(さまた)げになるぐらゐである。
俳優は類型的な性格の人物像をそれぞれが演じてゐて、それ程の深みを感じなかつた。
モオツアルトは、いつの時代の若者もさうであるやうに傍若無人な姿に描かれてゐるし、その他の人物も、日本の何處かの社長と社員のやうであつた。
サリエリ(伊太利(イタリア)・1750-1825)にしてからが、性格描寫以上の人物像は出てゐなかつたやうに思はれた。
神父とサリエリの會話は、一人の人物の精神構造上の中で自問自答してゐるやうであつた。
尤も、それはモオツアルトさへ含まれてゐる。
サリエリとモオツアルトは、今まで築いてきた大人の文化と若者文化によつて引起された戯畫化(カリカチユア)であつた。
ここで監督のミロス・フオアマンといふ人物に觸(ふ)れるが、この人は、
『フオロオ・ミイ』
といふ素晴しい映畫を制作してゐるが、有名なところでは、
『カツコウの巣の上で』
といふ映畫で脚光を浴びてゐる。
殘念ながら筆者はこれをきつちり觀てゐないので、この映畫との比較や批評は出來ないが、小册子を信じれば精神病院が舞臺(ぶたい)で、權力者である看護婦長の壓力(あつりよく)に抵抗するが、最後は虚しく廢人にされてしまふとの事であるらしく、その通りであるとすれば、所有(あらゆる)ものに對する自由を目指す理想を掲げながら、一方ではそれほど現實は甘くはないとする現實主義者でもあると言へるだらう。
そのいづれかは映畫を見ない限り、判斷を避けたいと思ふが、但し、『アマデウス』を觀るに於いては、その兩方を兼備へた人であるらしい。
人間は一つの主義主張だけで存在する生物ではないらしく、大抵の人が斯(か)くの通りであるが、ただどちらかに片寄つてゐるものである。
その意味では、フオアマン氏は平等中立であるやうに思はれた。
また、それは原作者であり脚本も兼ねたピイタア・シエフアアについても同じく言へる事で、彼はプウシキン(露西亜(ロシア)・1799-1837)の、
『モオツアルトとサリエリ』
を、より一層深みのある内容まで掘下げたと言へるだらう。
プウシキンの『モオツアルトとサリエリ』では、俗人と天才との葛藤しか描けてゐないので、所謂(いはゆる)モオツアルト讃歌の感を否めなくなつてゐて、その毒殺といふ際物的な部分に頼つて耳目を集めてゐるに過ぎなかつたが、ピイタア・シエフアアの『アマデウス』では、宗教における神との問題を大きな主題として扱つてゐる。
それが大變(たいへん)興味深く思はれた。
ここに到つて、
『アマデウス』
は明(あきら)かにモオツアルト讃歌ではなく、寧(むし)ろ、モオツアルトは題材に過ぎなかつた事を知らされる。
その證據(しようこ)に、モオツアルトの音樂はそれほど多く使用されてゐず、飽(あ)くまでも情景や心情の表現音樂の扱ひとしてしか流れてはゐないのである。
しかし、モオツアルトの求めた音樂がそこにあつたとすれば、製作者たちの意圖したものは將(まさ)にモオツアルトをして、してやつたりといふあの最終畫面(ラストシイン)の高笑ひが聞えて來さうな程である。