作品を讀む時、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
これは自作(オリジナル)の
『(JAZZ風に)』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひです。
ない方が良いといふ讀者は、ご自由にどうぞ。
正字禮讃(せいじらいさん)
最近、新聞を讀んだり街を歩いて熟(つくづく)思ふ事は、現代人は何かを喪失してしまつてゐるのではないか、と氣遣はれる事である。
一體、これは何故だらうかと思つてみるに、日本語が現代假名遣に變(かは)つた敗戰後からだといふ氣がしてならない。
日本の國の亂(みだ)れを、假名遣の所爲(せゐ)にするのもどうかと思ふが、薄つぺらな日本語を若者が使用してゐるのを聞くと、空しくなつて來る。
さうして、若い人の文章に觸れて、その語彙(ボキヤブラリイ)に驚いてしまふ。
筆者の文章は出來得る限り、(電腦(コンピユウタア)の許す範囲)の正字と歴史的假名遣であるが、どうしてさうなのかといふと、利用價値から言つても歴史的な表記法の方が、優れた日本語であると信じるからである。
何かにも書いたが、日本語は他の國の文字のやうに表音文字だけではなく、表意文字との併用で、數少ない表記法を驅使する言語なのである。
だが、今の日本語は、特に文字の表記は可成の變化をしてゐる。
簡略化され過ぎてゐる嫌ひがある。
例へば、歴史の「歴」といふ文字は、學校の先生ですら「厂」といふ符號を黒板に書いたりしてゐた。
働くといふ文字も、「亻(人偏)」に「力」といふ略字をする事があるし、會社の「會」も今では「会」になつてゐる。
體(からだ)も「体」となつてゐるが、骨に肉が豐かに附いて「體」となるのである。
「亻(人偏)」に「本」では意味が解らなくなつてしまふ。
けれども、筆者はこれらの風潮に反撥しようとしてゐるのではない。他の人が現代假名遣を使用してゐても、別に何とも思はなければ、どうかしようとする氣もない。
然し、現代假名遣が歴史的假名遣になつて欲しい、と思つてゐなくもない譯ぢやあない(?)。
良い文章は最後まで殘ると信じたい。
世界に誇る『萬葉集』や『源氏物語』にしても、せめて日本人だけは原文の儘で味はひたいではないか。
尤も、筆者もまだ讀んだ事はないのだが……。
仏蘭西(フランス)などでは、日本などとは違つて自國の言葉をもつと大事に扱つてゐて、それは仏蘭西一國に限つた事ではない。
「聞く」といふ字がある。
これは「聽く」と書いた場合と餘程違つてくる。
この「聞く」と書いた場合は、何もせずとも聞えてくるのである。「門」の中の「耳」に自然に入つてくる事を意味してゐる。
「聽く」と書くと本人の意思が入つて、聽かうとして「聽く」事になる。「正直」な「心」で、「耳」を相手の意見に任せるといふ意味になる。
「訊」或は「尋」と書いて、「きく」と讀ませる事があるが、これは相手の意見をこちらから「きく」のである。
どれにも屬さない或は屬する場合は、「きく」と平假名で書けば良いといふ具合に、日本語は表記する時に選べるのである。
又、「あふ」といふ字が幾つかある。
自然に人が集まる場合は「會ふ」で好い。
戀人とあふ時は「逢ふ」と書いた方が浪漫的である。「逢」といふ字は、思ひがけない出逢ひといふ意味も含まれてゐる。
「遭ふ」と書けば、何ものかにさう仕向けられたといふ意味を持つ。
「合ふ」と書けば、友人とか氣の合つた者同士が集まるといふ意味になる。
斯(か)くの如く、日本語は素晴しいのである。
また、「慾」といふ漢字がある。
今では「欲」と表記するが、一目で解るやうに、「欲」と「慾」との違ひは「心」があるかないかである。
敗戰後、日本人に心がなくなり、情を解さぬ者の如何に多くなつた事か。
この儘で行くと、日本語の良さを解る者が尠くなるのも、意外と早いかも知れない。
言葉は、ただ簡單になれば良いのではない。
「欲」といふものに「心」がなくなれば、徒(いたづら)に醜く動物的になる。
「食慾」にしても然(しか)り。
「金錢慾」にしても然り。
「性慾」にしても然り。
「食欲」と書き、腹は滿ちても魂(たましひ)に飢ゑ、
「金錢欲」と表記して經濟的動物(エコノミイ・アニマル)と揶揄(やゆ)され、
「性欲」と記して風俗は亂(みだ)れ、ポルノ時代と言はれて愛に飢ゑて彷徨(さまよ)つてゐる。
現代人の空しくなる理由は、案外こんな處(ところ)にあるのでは……。