この作品を讀む時に、この音樂を聞きながら鑑賞して下さい。
これは自作(オリジナル)の
『Motion1(Mirror) &(Substance) 曲 高秋 美樹彦』
といふ曲で、YAMAHAの「QY100」で作りました。
映像は伊丹にある、
『柿衞文庫』
へ出かけた時のものです。
雰圍氣を味はつて戴ければ幸ひですが、ない方が良いといふ讀者は聞かなくても構ひませんので、ご自由にどうぞ。
音樂の鑑賞法について
音樂には三つの要素があると筆者は思つてゐる。
けれども、ここでいふ要素とは、
『旋律(メロデイ)・律動(リズム)・和聲(ハアモニイ)』
の事ではなく、鑑賞する方法としての態度の事である。
さうして、そこには次のやうに三つに分類が可能であるやうに思はれる。
一つには音樂を風景などの視覺的効果の補助として聽く事で、そこには映畫(えいぐわ)や歌詞のついた音樂である歌曲や歌劇に到るまであつて、更にこれには目を瞑(つぶ)つてその曲に合ふ風景や思ひ出の美化作用を促したりする想像による鑑賞も含まれ、映畫音樂を聽くと直ちにその映像が思ひ浮んだり、幼い時に友人と遊んで歸る時の夕燒を見ながら歌つた曲が、その音樂と一緒に忽然と腦裡に蘇つたりする。
かういつた、音樂を副次的なものとして鑑賞する方法が考へられる。
二つ目は肉體の運動を助ける爲の音樂で、そこには舞曲や行進曲またバレエから盆踊りに到るまでの樣々な舞踊の音樂が存在するが、その目的は音樂を聽くといふよりもそれによつて身體(しんたい)を動かすのを第一義としてゐる。
縱(よ)しんば、新年に維納圓舞曲(ウイインナ・ワルツ)を電視臺(テレビ)で見たり、劇場でバレエの音樂を坐席で鑑賞したりしてもそれが圓舞曲を聞きながら踊つてゐる姿を思ひ浮べてゐたり、音樂に合せたバレリイナの美しい踊りに重點(ぢゆうてん)がおかれるならば、それはこの二つ目の鑑賞法であると云つても過言ではない。
さうして最後の音樂は『純音樂』として鑑賞する姿勢の事で、ここでは歌詞や舞臺劇や映畫などの物語(ドラマ)を盛上げるのを目的とした伴奏の爲にあるのではなく、形式を理解した上でそれを解析しながら音と向き合つて聽く方法であるやうに思つてゐる。
これは例へば、仏蘭西(フランス)語を理解せずにその耳に訴へる響きが美しいとか、その獨特の流れるやうな音が心地よいとか言ふのではなく、その言語を習得して話の内容に傾注するといふ事と同一ではないかと考へられまいか。
筆者には、雨を呆然(ぼんやり)と聞いて物思ひに耽るといふ風に音樂を聽く事は出來ない。
さういふ風に聞かない事がないとは必ずしも言ひ切れず、時に身内に不幸な事件があつたりしたならば、音樂を聞きながら氣が殺がれて心配事の方へ心が搖れる事もあるだらうが、さうなつてしまへばもう鑑賞してゐると言へるやうなものではない譯で、さうではなく音樂を鑑賞するといふならば、要は面白いかさうでないかの問題でしかないやうに思はれる。
その面白いかどうかを判断する材料として形式があるやうに思はれ、もう少し言へば形式がないといふ事は、出來上がつた料理を眺めながら腹を滿たさず目による滿足だけを求めるやうなもので、音樂は知的滿足を得るに如くはないのではないかと思つてゐる。
勿論、これら三つの鑑賞法は『孤城的な餘りに孤城的な』で述べられたやうに、それぞれが獨立して個々の中にあるのではなく、身體(からだ)を搖らしたり、物語の中に入つて遊んだり、或いは思ひ出に浸つ たりしながら、この三つのものが微妙に絡みあつて音樂を聽いてゐるのはいふまでもないだらう。
音樂を無心に聽くといふ人がゐるが、無心とはどういふ状態を指すのだらうか。
辭書(じしよ)によれば。
一「心のない事・何も考へない事・思慮や分別がない事」
二「情趣を解さない事」
三「物をねだる事」
四「邪念のない事」
五「動植物や無生物のやうに人間以外の心を持たないものの事」
六「連歌で機智や滑稽を旨としたもの」
七「佛教用語で妄念を離れた状態」
とある。
この内の「二、三、四、六」は容易に省いても構はないだらう。
また睡眠時には己の意志で心を制禦(コントロオル)出來ないので、この状態は同じく「一、五」についても言へるのではないだらうか。
そこで「七」についてなのだが、これも音樂の感傷には矢張關係があるとは考へ難(にく)い。
純粹鑑賞といふ意味での無心といふならば、雨を雨として聽き、風を風として聽いて自然と一體(いつたい)となる事であらうか。
しかし、雨を雨として認識するといふ意識の元では無心とは言へないだらう。
無心になるといふ事は極めて困難な事で、特に筆者のやうな凡俗の輩には氣の遠くなるやうな話である。
第一にそれは本當に無心なのかと問うて見たくなる。
神に見返りを求めずに祈り、被災者に匿名で募金をする事を無心になどといふが、それらの行爲(かうゐ)は外に對してはさうかも知れないが、内なるものへは無心であるとは言へないやうに思ふ。
かくて人が鑑賞するといふ事は、意識された個人が音樂といふ對象物によつて與(あた)へられた情報を形式を手懸りに解析し、知的滿足を得る事であると筆者は定義する次第である。
二〇一三年十一月六日午後七時十八分
妻の誕生日に店にて記す
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